故郷の土

六章 故郷の土

 田下駄を履いて踏み出すと足下が微かに揺れた。水を多分に含んだ土の上で踏ん張るのは難しく、歩こうと思えばある程度の慣れが要りそうだった。

「何かわかるのですか」

 しばらくの間ぬかるみの上に立ち尽くしていたのを怪訝に思ったのだろう、控え目に呼びかける声があって、辰次郎は泥田から出てから返事をした。

「私がいた頃と変わりはないと思いましてね」

 自分を案内してくれた農民は首を傾げたが、辰次郎は頓着せずに田下駄を脱ぐ。思い出したようにそれの泥を拭いて取りまとめる農民を大げさに思う一方で、実業教師というのはずいぶん強い威光を持っているのだなと思った。

 今日一日は自分が関わることになる田の様子を見るだけで終わり、暗くなる前に初が待つ家に戻ることができた。主がいなくなったと見える藁葺きの民家だが、報酬の一つとして準備されたものである。生まれ故郷とはいえ、約二十年ぶりに帰ってきた土地で家を探す苦労を省くことができたのはありがたかった。

「おかえりなさいませ」

 出迎えに現れたのは初一人である。正毅が自分たちの手を離れてからかなり経つが未だに慣れないのが少しおかしい。

 その気持ちが表れたのか、笑っていることを初に言われてしまった。

 自分の心情を素直に言うと、心配は要らないでしょうと彼女も笑った。

「新村さんに任せているのですから」

 廃藩置県の後は一度しか会っていない男のことを思うと懐かしさの一方で十年以上の間ろくに礼もできていないことが済まなくなる。東京へ旅立ってしまった息子を託された時、彼は何も言わずに引き受けてくれた。そのおかげで正毅は、寝食の苦労を知らずに進路を邁進することができたのだ。

 彼が選んだのが軍人の道であったのは、斗南藩で受けた教育のためであったろうか。いつまでも東北にいるのではなく、いずれ東京へ出ていって学びを深めていかなくてはならないと言って聞かせたことはあるが、軍人になることを強いたことはない。正毅は自分で海軍兵学寮に入ることを選び、見事合格した。二十六歳の今はまだ日本にいるが、いずれは遠洋航海に出ることになっているという。卒業席順は六番目という優秀さで、期待も大きいようだ。

「佑が抜刀隊に志願したと聞いた時はどうなることかと思ったが」

「死ななくて良かったですね。そうでなかったら、正毅も東京に出るのが難しくなっていました」

 廃藩置県の後警察官として東京で生きる道を選んだ佑は、六年後に起こった西南戦争に抜刀隊の一員として参戦した。西郷隆盛をはじめとする維新の英傑と呼ばれた男たちの下に集まった士族たちの反乱は、征韓論下野の直後から相次いでいた不平士族の反乱の集大成のように大規模なものとなり、最新の兵器と練度の高い兵士を準備したはずの新政府も一時は敗北を覚悟したほど、薩軍の勢いはすさまじかったという。

 特に激戦だったのは田原坂で、銃を以てしても刀の扱いに熟練した侍たちの勢いに呑まれて、新政府軍は屍の山を築いたという。戦局が転換したのは佑が所属した抜刀隊投入後である。元々警察官であった彼らは志願して参戦し、刀によって血路を開き、谷干城らが立てこもる熊本城への道をつなげた。

 特に活躍したのは旧会津藩出身の警察官で、彼らは戊辰の役で敗れた恨みを晴らすかのように奮戦したという。戦場の様子を伝える新聞にも、彼らが戊辰の復讐と叫びながら薩軍の侍たちを斬り捨てる様が描かれていた。その声の一つは、佑のものであっただろうか。ある程度踏ん切りはついたと思っていたが、抜刀隊に志願したのは奥底に復讐心が残っていたせいではなかったか。

 生還した佑に、辰次郎は東京での学びを臨む正毅を託そうとした。彼も裕福に暮らせているわけではないから断られることを覚悟していたが、

「俺たちは礎になったのだ。今もそれは変わらない」

 そう言って快く引き受けてくれた。斗南藩での暮らしは、佑の中に変化を刻んでいたのだろう。正毅からの手紙にも、学びを助けてくれる佑への感謝を伝える文が毎回含まれていた。

 正毅が東京へ出たように、戊辰の役で辛酸をなめさせられた旧会津藩の復活は遠く下北半島で始まっている。兄の寅之介は青森師範学校の講師となったし、長兵衛も青森県庁で農政事業に関わりを深くしている。警察官として出世の道を歩んでいるという佑もそうだ。そして自分も、かつて故郷があった福島県の要請を受けて出向くまでになった。

「あなたはどうでしたか」

 遠くの息子より傍にいる夫の方が気になるのか、初の表情には真剣味があった。

「今日は仕事場になる田を見ただけだ」

「何か変わりはありましたか」

「おそらく何もない」

 深い学びをした自信はあるものの、今日案内してくれた農民の経験にはかなわないだろう。今の自分には表面的なものしか見えていない。

「しかし実業教師というのは、なかなかの肩書きらしい。何の実績もないのに、やたら謙っていたよ」

「それだけ期待が大きいのでしょう」

 初の言葉は、辰次郎の内に巣くっていた不安を和らげた。広沢にかつて言われたように、伝統的に続いてきた農法を変えることへの反発を覚悟していたが、旧会津藩の土地に生きる人々は思ったより素直かもしれなかった。

 辰次郎が青森県を出たのは明治十八年(一八八五年)のことだ。この二年前に遠く福岡県に、林遠里という男が勧農社という会社を設立している。林は元武士で、御一新の直後も砲術で以て新体制に仕えていた。自分たちのように減封を経験したわけではなく、地位もあったが、それを捨てて農民に転身したという。士族たちの授産を担いながら農業に対する見識を深め、勧農社設立に至ったのだ。

 勧農社では農業技術の普及や改良を目指し、かつそれを発信することを目的としていた。その一環として全国から弟子を集め、教育を施して実業教師の肩書きを与え、各地に派遣した。辰次郎はその募集に応えて福岡県の早良郡入部村重留まで学びに行き、約一年を経て実業教師を名乗ることを許された。

 実業教師とは、端的に言えば勧農社社長林遠里の代わりができると認める証である。林の考えや講演内容などを一字一句暗記し、それを誰に対しても伝えることができると、林遠里本人に認められる必要があった。最終関門は林遠里による口頭試問であった。

 実業教師となった辰次郎が最初に派遣されたのが福島県である。東北出身の者は少なく、未だ御一新前後のわだかまりが残っているのか、進んで行きたがる者は少なかったため、辰次郎に白羽の矢が立ったらしい。辰次郎自身、福島県の、ひいては東北に貢献できる機会だと思って喜んだが、戊辰の役で生まれたわだかまりを思うと不安はある。今日の案内人は素直だったが、これから指導する相手の全てが温和でいてくれるとは限らない。

「戊辰の役の後、全員が斗南藩へ向かったわけではない。何人かは残ってくれた。彼らが会津藩の気風を保ってくれたのなら、仲間として受け入れてくれるだろう」

 辰次郎は期待を口にしたが、根拠も感じている。戊辰の役で敗れた後の経歴が共感の手助けになってくれるはずだ。いくらその土地のためとはいえ、木戸孝允と同じ長州藩出身の者では排する感情が醸成されかねない。勧農社としても、その危惧があって辰次郎をあてがったのだろう。

 それに、福島県に西国出身の士族を受け入れる気風がないわけではない。明治五年(一八七二年)、士族授産のためとして西南地方の士族が桑野村で開墾事業に従事したことがある。その士族たちは定着しなかったが、彼らが伝えた技術はまだ残っているようで、犂のことを知る者もいた。

 明治九年(一八七六年)には、宮城県を隔てた岩手県が犂の扱いを知る者を教師として招いている。ほんの二年前には、隣の山形県で県令の折田平内が予算をつけて馬耕を奨励したほどだ。既に今年、山形県は馬耕伝習所を設けており、東北における馬耕先進地となっている。

 福島県が勧農社に技術指導の要請をしたのは、周囲の動きがあってのことだろう。いずれ東北全体に広まれば、東北も飢餓と縁遠い土地になれるだろうし、未だ貧困に苦しむ士族たちの授産にもなるはずだ。

 内着に着替えてから辰次郎は居間へ向かった。既に夕餉の準備が整っていて、野菜を多く使った献立が目を引く。地元で穫れたものは少ないが、激励のように開牧社から送られた野菜が使われている。蕪や大根など初期から栽培を続けているものに加え、にんじんやかぼちゃなど栽培歴の短いものもある。夏野菜が含まれているのは保存の技術が向上したからだろう。この場に開牧社から送られた野菜があることが、自分の残した技術を証明しているようで、辰次郎は深く感じ入った。

「何であれ、わたしたちは故郷へ帰ってきましたね」

 初は感慨深げだった。男の立場からすれば、生まれ故郷のために働くという名誉に目が行きがちであるが、初は何よりも、あるべきところへ戻ってこられたということが嬉しいようだった。

「縁もゆかりもない土地に骨を埋めるのも覚悟していました」

 そうなってしまった者も数知れないことを思うと、笑い話にはできない。辰次郎も心の奥で覚悟していたことだが、弱い気持ちが死に神に魅入られるような気がした。働くのは気持ちを必死に強く保ちたいがためであったが、農業の教師になる未来までは思い描けなかった。それによって故郷へ帰ってくるなど、戊辰の役に敗れて東京で謹慎生活を送っていた頃は考えもしなかったことだ。

「俺たちは幸運だった。父や長兵衛の両親は結局、あの土地で生涯を終えたからな」

 臨終を迎えたのが弘前にある官舎であったから、田名部の長屋で命を落とした秀一郎よりはましだったかもしれない。食うに困ることもなく、冬の寒さも長屋に比べれば防ぎやすかったのではないか。

「でも、お義父様の望みはまだ叶っていません」

 惣兵衛は斗南藩へ移ってきた時から薩長への恨みを募らせていたし、それは最後まで変わらなかったと兄は言っていた。廃藩置県の後も敗残の記憶を引きずっていたのは不幸だが、もっと早く何らかの成果を残せば、惣兵衛も穏やかに逝けただろうか。

「間に合わなかったのは仕方ない。それより今は、福島県のために働かなくては」

 実業教師の肩書きを得てまで戻ってきたのは、開牧社で学んだことや得た技術を何らかの役に立てたかったからだ。その場が生まれ故郷から与えられた。大きな機会であろうが、期待を裏切れば居着くこともできなくなる。広沢は旅立ちの日に、

「駄目なら戻ってこい。本当はお前にもいてほしいくらいだったからな」

 そう言って送り出してくれた。あまり冗談を言わない人だったから、本心から出た言葉であろうが、開牧社へ出戻りする羽目になるのはあまりに情けない。きっと広沢も扱いに困るだろう。

「明日はどうするのですか」

「県庁を訪ねることになっておる。本格的に教えるまで間があるな」

 実業教師として来たからにはすぐにでも田畑へ出向きたいところだが、どこで教えるのか計画を立てなければならないという。福島県の要請で来た以上、県の指示に従わなければならないのだろう。

 夕餉を追え、辰次郎は先に寝ているように言って、勧農社にいる間に集めておいた書物を開いた。勧農社で教材として使われていた抱持立犂の利点と問題点、使用方法などが書かれたものと、それを活かすための土壌について記された書物である。以前ルセーが見せてくれたもののように、既存の書物に辰次郎自身が絵図を入れている。

 牛馬の力を使って田畑を耕すという発想は、人間の力では深く耕すのに限界があることに根ざしている。幕政時代から深耕への希求はあって、鍬を使ってできるだけ深く耕すことが是とされてきた。しかし人間の力では五寸が限界で、鍬の機能の面から見てもそれ以上の深耕は望めなかった。最新の研究では六寸なければ深耕とは呼べないとし、それを下回っては作物が充分肥料を得られないとしている。

 方法が探されたこともあったが、労力がかかりすぎて能率的ではなかった。限られた人手で行うにはどうしても牛馬の力が必要となった。そうした背景から犂が使われ、抱持立犂が普及したようだ。東北では見なかった農具だが、勧農社にいる間は現地の農民が自在に使いこなしていた。訊くと、筑前の農民たちは犂を使えるのが当然のものとして仕事を仕込まれるらしい。ルセーから教わったプラウの使い方が役に立つと思って辰次郎も使ってみたが、使いこなすには腕力と熟練の牛馬の扱いが必要で、普及しない理由もわかった気がした。

 一年足らずの学びであったが、犂を使った日の夜は何もできなくなるほど疲れ果てたこともある。それほどの日々を過ごして学んだ技術にも自信を持てるようになったし、あとはどれほど自分と犂が受け入れられるかにかかっている。

 辰次郎は犂についてかかれた書物を閉じた。その中から明日伝える内容を抜き出したあとは、犂が活躍する土壌について確認する。

 犂が東北で普及しなかったのは土地が理由でもある。ルセーも言っていたが、東北に多くある湿田では耕すのに大きな力が必要で、排水の設備が必要となる。しかしそのような乾田では、肥料の分解が進んで作物の発育がしやすくなる一方、土壌が硬くなって人力ではかなりの労力を要する。肥料を効率的に分解させて作物の発育をさせるためには乾田化

が必要だが、それを維持するには牛馬耕が不可欠なのだ。

 書物を閉じた辰次郎は、部屋の隅に置いた、勧農社から託された抱持立犂の包みを解いた。実業教師たちはこれを持って指導する県へ出向くことになっており、技術指導の時に見本として使うらしい。他に書物ではわかりにくい、各部の説明をするのにも使えそうだった。

 犂は現在、福岡県で作られるものがほとんどだというが、自分のような実業教師が各地へ犂を持ってでかければ、その土地で職人が生まれて新たな産地ができるかもしれない。それは勧農社としても望むところだろう。自分の足跡が時間をかけて形となっていく。それは次世代の礎となると決めて働いた日々のように思えた。

 辰次郎が目覚めたのは夜も明けきらぬ、最も冷え込みが厳しいと思われる時間であった。

 その時間であっても初は目覚め、朝餉の支度をしている。今までならば何気ないことと過ごしてしまうことだが、今朝はどうしてか感じ入った。

「どうしましたか」

 居間の入り口に立ち尽くす夫を見て言った初は、辰次郎が炉端に座る間に膳を持ってきた。

 当然のことだが、夫婦の分しかない。ようやく安定してきた時に正毅がいないのも巡り合わせの悪さに思えた。

 思いを口にすると、いつまでも一つところにはおれませんよと初は笑った。

「これが望みだったのですから、良かったじゃないですか」

「ああ。だから勝手なのだがな」

 斗南藩の苦しい暮らしの中にあった頃は、名を成すことにばかりとらわれていたような気がする。それが時に対立を生んだが、いざ息子が足がかりを掴んだと思うと、近くにいないことが密かに不満になる。親心と言うには勝手に過ぎる心情に、辰次郎は自嘲の笑みを漏らした。

「しかしあの子は、わたしたちが泣いて頼んでも戻ってはこないでしょう」

「わかっておる。佑もまた返さないだろう」

 中立の立場を置きたかったわけではないが、佑が親子の早まった行動をとどめる役割を果たすような気がする。何であれ、父親と同じ世代の男が近くにいることが、正毅には良いことだと信じたかった。

 膳に載せられたものをたいらげると初が膳を下げる。辰次郎は身だしなみを整えて外へ出る。背広と山高帽という、ついぞ着たことのない洗練された身なりである。今日は県庁へ行くこともあって洋装をすると決めていたが、慣れるには時間がかかりそうだった。

「いってらっしゃいませ」

 初が声をかける。借り暮らしの頃、送り出された時を思い出した。菊右衛門は今でも元気にしているそうだが、彼に恩を返し切れたかどうかわからない。返す方法があるとすれば、東北の利益になるような働きをすることだろう。

 背広の上に外套を羽織って歩くうちに日は昇る。夏はそれなりに気温が上がり、冬ともなれば雪が降る。北国にしては寒暖の差が激しい土地だと、昨日案内してくれた農民は笑った。故郷を追われてから二十年近くが過ぎても、土地の空気感は変わらないことに安心して、その時は辰次郎も笑い返した。その土地の道は冷え込みが厳しいが、夜の闇の向こうに恐怖を抱くこともない。斗南での日々に比べれば、昼も夜もまだ過ごしやすい寒さであった。

 福島県庁の人の入りはまばらだったが、円通寺を間借りしていた斗南藩庁に比べれば立派だと思った。斗南藩庁は藩政と直接関わりのない僧侶たちもいたし、松平容保の子息である容大も出入りしていた。ある意味では政治に相応しくない場所であったと思うのは、政治のために作られた場所ではなかったからだろう。その点福島県庁は、政治のために作られている。

 言われていた通りの部屋を訪ねると、数人の男がそれぞれの机に向かっているところであった。

「勧農社より、実業教師として参りました。倉本辰次郎と申しますが」

 名乗りを上げると一番遠くに座る男が立ち上がった。

「お待ち申し上げておりました」

 そう言いながら歩み寄ってくる男は、人好きのする笑顔で辰次郎を迎え入れた。相撲取りのような巨漢だが不思議な愛嬌があり、苦労人という印象は受けなかったが、

「高橋丈太郎と申します。倉本さんと同じく旧会津藩士で、戊辰の役の後もこの土地におりました」

 紹介を受けた後では男の背景に多くの苦労が見えた。自分たちは斗南藩へ新たな希望を見出して旅立ったが、それも高橋のように残留を承諾した者たちがいてこそのことだ。彼らが敗戦処理を受け持ったおかげで、辺境の土地で苦労したとはいえ新たな事業を興す余裕も得られたのだ。

「そうでしたか。藩政時代は一度も会うことはありませんでしたな」

「ようやく藩政に関われるようになった頃に戊辰の役ですから、仕方のないことでしょう。その後も混乱は続きましたから」

「敗戦後の処理を受け持ってくれたことを感謝いたします」

「いやなに。それを言えばあなた方も、いまや全国へ散った旧会津藩士たちの希望ですよ。広沢小参事の開牧社が、牛馬の天覧を成功させたというではありませんか。たとえ戦に敗れても帝や世間が忘れていないというのは、何より心強い」

 高橋はよく通る声で、次から次へと言葉を連ねていく。元々話し好きなのだろうが、かつての苦労や敗戦後の日々を語らえる相手が現れたのが嬉しいようだった。

 辰次郎は自分自身や勧農社のやり方が受け入れられるか不安だった心が和らいでいくのを感じていた。長兵衛にも似た明るさのある男とは、仕事の上でうまくやっていけそうだった。

 語らいが続きそうであったが、それをとどめたのは高橋自身であった。

「色々話したいこともありますが、まずは仕事のことを話しましょう」

 そう言って奥の応接間に案内される。靴を脱いで正座をすると想像していた辰次郎は、椅子が向かい合う配置に少し驚いた。

「狭苦しいのはご容赦ください。我々も花形とは言えない扱いですのでね」

 一方に腰を下ろしながら笑った高橋に倣った辰次郎は、改めて自分自身の所属と身分を名乗る。福岡の林遠里が創立した勧農社で学び、林のお墨付きを得た実業教師という肩書きを言うと、心強い限りですな、と言った。

「知っての通り、西と比べて東は農業の発展が遅れていると言われています。その遅れを取り戻さなければならないという危機感と、先の戦に対する雪辱戦を挑もうという気概があるのでしょう、山形や岩手で馬耕を採り入れる動きが始まっています」

 辰次郎は広沢が常日頃口にしていた明治の役という言葉を思い出した。戦に敗れた上斗南という過酷な環境へ減封されたことで奮起した心が生んだのだと思っていたが、体制から外れたという悔しさが根底にあるのかもしれない。庄内藩や盛岡藩も親藩であったし、戦勝側に踏みつけられるというのは耐え難い屈辱であったろう。

「広沢小参事、今は社長と呼ぶべきですが、あの方にもその気持ちがありました」

 辰次郎は言い、広沢が開牧社設立に至るまで斗南藩の首脳としてどんな苦労をしてきたのかを語った。開牧社が運営する牧場は、日本初の洋式牧場だという。参考にすべき先例がない中で、ルセーとマキノンという外国人を破格の待遇で雇い入れる英断を下したからこそ明治天皇の御巡幸につなげることができたが、それ以前には斗南藩が存続するために住まいの確保から明日を担う子供たちの教育まで、様々なことに関心を払い、一つずつ成し遂げてきた。時には権大参事山川浩への批判を肩代わりし、暗殺を企てる者には命を賭して説得したほどだ。その果ての廃藩置県は、広沢にとって苦労が水泡に帰すような無力感を覚えたに違いない。

 だからこそ広沢は明治の役に奮起したのだ。敗残の屈辱と報われなかった苦労を、闘争心に昇華して、原野であった木崎の牧にしがみついた。その姿に辰次郎も古武士の姿を見て付き従ってきた。彼が社員に植えつけた熱さは、開牧社を旅立った辰次郎をはじめとする男たちにも受け継がれている。

「貴男にも広沢社長のような気概があるように思います。期待していますよ」

 高橋は辰次郎が信じてきた心を見抜いたように言った。一社員が成長して開牧社に役立つようになったのとは違い、高橋は指導者としての期待を向けている。初めての経験ではあったが、望むところであった。

 辰次郎は耕すべき場所を訊いたが、その前に農民たちを指導してほしいと言われた。福島県の農民たちは、一部に犂を見た者がいるとはいえ、大半がその形すら知らない。どのように動くか想像さえできない状態なのだ。

「一週間後に有志を集めましょう。彼らが犂の扱いに習熟してきたら、次はもっと若い世代を教えていただきたい」

「農家の子供たちでしょうか」

「いいえ、農学校の生徒たちですよ。彼らも北国の未来を下から支える力を手に入れようとしています」

 辰次郎は我知らず笑みを浮かべた。子供にものを教えることに興味はある。それ以上に教育によって道を拓くという古くからの教えを地で行くような働きをすることに、楽しさを予感していた。

「教師の肩書きを持つ方、それも会津藩を知る方を呼んだ大きな理由ですよ。今の農学校に通う生徒たちは、福島で生まれても日新館を知らない。それは致し方ないことですが、せめてその魂をわずかなりとも伝わってほしい。戦に敗れたら全てが蹂躙され無に帰すわけではないことを、是非教えてやってほしいのです」

 農学校に通う生徒たちのことを訊くと、皆二十歳にも満たない少年たちだと言う。軍人への道を歩み始めた正毅よりも若い彼らは、わずかなことで進む道に疑問を持つこともあるだろう。それが中央から外れた場所であれば尚のことだ。

 ほんの三十年ほど前までは中央にいたものの、戊辰の役によって弾き飛ばされ、空席には外様大名の子孫たちが座った。その座を奪い返そうとすれば争いは避けられないが、新たな居場所を作れば平和裏に対等以上の地位を築くことができる。

 戦に敗れても無に帰すことなく生き続けた自分たちが教えられそうなことは案外簡単に見つかりそうだった。

 話し合いが片付く気配を感じた頃、高橋が立ち上がった。

「話はこのくらいにして、どうでしょう、貴男に任せたい土地を見ていただけませんか」

 訊くと昨日地元の農民に案内されたのとは違う場所だという。道中で高橋は、生徒たちの犂の指導を行う場所として準備した土地だと言った。

「説得に骨が折れたでしょう」

 犂がどれほどの効果をもたらすかわからない中で、貴重な耕地を提供するのだ。反対意見の方が多かっただろう。

「それは貴男が知らなくても良い苦労ですよ。そうですな、数日農民たちと話し合いました。犂が有用なもので、これからの若者たちには必要なものだとわからせるのは確かに骨でしたな」

 辰次郎は苦笑しながら、高橋が推しただけの成果は見せなければならないと思った。そうでなければ実業教師の名折れだろう。

 市街地を抜けて歩き続けて、優に三十分はかかっただろう。冬の休耕期間だけに人気がないのは当然だが、周辺に生い茂る雑草は膝下に達するほどだ。農民たちは貸すことを渋ったようだが、元より重要視されていない土地なのだろう。

「ようやく借りられたのがここでしてな」

 辰次郎の見立てに応えるように高橋が言った。

「未だ目先の暮らしを立てるのに苦労しているのが実情ですから」

「いや、気にせずとも。目的は犂を自在に扱える者を育てることです。そのための場所に雑草がはびこっていないなら充分です」

 辰次郎は水のたまった田のほとりにしゃがみ込んだ。暗い空を映す水面に自分の影が映り込む。

「しかし犂の使い方を教える前にやっておくことがありそうです」

「それは如何に」

 辰次郎は暗渠排水のことを言った。高橋もまた泥田に親しんで生きてきたためか、冬は水を落とすなどして、乾きの湿りの使い分けが必要だと言っても要領を得ない様子だった。

「私にはよくわかりませんが、必要なことなのですな」

「作物が強く育つためです。しかしこれを備えた田畑に人間の力では不足です。牛馬が必要になるでしょう」

「なるほど。我々はあなたに教えを受ける立場です。信じています。有志たちにも、その暗渠排水のことを伝えておきます」

「頼みます。犂のことはともかく、暗渠排水は一人や二人の手に余りますから」

 高橋は頷き、仕事の話は締めにしましょうと言った。

「どうでしょう、同郷の者同士、今宵は昔のことを語らっては」

「それも良いですね」

 言いながら辰次郎はちらと空を見た。まだ昼を迎えたばかりでかなり余裕がある。

 高橋と共に県庁へ戻った辰次郎は、指導を行う相手のことを調べるのに半日を使った。年かさの農民たちは会津藩以来の土着の者が多いが、農学校の生徒たちには乳飲み子のうちに斗南藩へ向かい、廃藩置県後に帰ってきた者もいる。他に親が士族であった者もおり、農民出身者だけという構成ではないようだった。

 書庫にこもって書物の頁をめくるのに熱中していると時間を忘れる。一度職員がランプを点けに来たので日暮れには気づいていたが、高橋が呼びに来るまで約束の時間を知らずにいた。

「何か役立つことがわかりましたか」

 既に出かける格好を整えている高橋は、控え目に声をかけた。

「はい。興味深いものです」

 単なる挨拶ではなく本心であったが、時間が惜しく感じたので深く言葉を重ねなかった。

 県庁はかつての城のようなもので、周辺の市街地は城下町のようなものらしい。福島県庁周辺の賑わいは、往時の鶴ヶ城下を思わせるものであった。小料理屋が軒を連ね、その隙間で怪しげな見世物小屋が人を集めている。その内容は大道芸から奇怪で見慣れない物体を見せるだけのものまで様々であった。

 高橋は一つ裏通りへ入ったところにある小料理屋へ案内した。どうやら常連らしく、女将や店員と軽く会釈して席に着いた。

「どうです、穴場でしょう」

 言われて店を見回したが、確かに客の入りは少ない。裏店の割にうらぶれた印象がないのは女将や店員が明るい接客をしてくれるからだろう。表通りにあれば人を集めそうだ。

「ここにあるのがもったいないぐらいです」

 辰次郎は正直な感想を口にした。高橋は人が見逃すことで作り出される静けさを気に入っているのだろうが、店としては思い切って表へ出なければいずれ存続が危うくなるのではないか。

「ここの方が気楽なんですよ。そうでしょう、女将」

 高橋は気安く女将に呼びかけた。物静かな人と見えて、彼女は頷いた後に、

「見ての通りわたしのもう一人だけですから。表に出てもお客さんを捌ききれません」

 もっと人のいる場所へ行けば客を集められるという自信が覗く言葉であったが、その先が続かないという自覚も同時にあるようだった。

「もったいないことです」

「ありがとうございます、お客さん」

 女将に笑いかけられ、辰次郎は心地よい高鳴りを感じた。目鼻立ちの整った横顔をして、手仕事に専念する時の表情が美しく見える。表に出ればやはり評判になりそうだったが、本人が望まないのでは、これ以上勧めるのも無粋であった。

 高橋に促されて辰次郎は熱燗を頼んだ。つまみは鰺や赤貝を焼きほぐしておろしと酒で和えた膾である。お互いに足りない味を補う絶妙の選択に思えた。

「この人は倉本さんという。元会津藩士で、最近まで広沢安任さんの牧場で働いていた人だ。お客さんなんて気安く呼んではいけない人だぞ」

 大げさな言い方に苦笑したが、女将にとっては充分な驚きだったらしい。にこやかだった表情を一変させ、二の句が継げなくなってしまった。

「大げさですよ、お二人とも。旧会津藩士というなら、高橋さんもそうでしょう」

「私は一度藩士であることを辞めています。今は縁があって県庁に勤めていますが、貴男は違う。ずっと藩士でいたことは誇って良いと思います」

 高橋は真面目な表情であった。辛さに耐えるのが精一杯の日々であったが、高橋や女将にしてみれば藩の長い歴史を守り続けてきた忍耐の人に見えるのかもしれない。崇めるような目つきの二人に気遣い、素直に礼を言った。

「わたしはアキと申します。五年前からここで店をやっています」

 女将の親しげな様子が温かく、いずれ一人で来ても良いと思えた。

 酒が進むと、ここ十年のことに話が及ぶ。辰次郎は明治天皇の御巡幸のことを話した後で、その三ヶ月後に東京で起きた事件を話した。

「思案橋事件を覚えておいでですか」

 箸を遣う高橋の手が一瞬止まり、鰺の膾が滑り落ちた。

「永岡小参事のことですか」

「はい。広沢小参事と並ぶお方の事件です」

 田名部を開発して日本を代表するような港町に発展させようという構想を持っていた永岡久茂が、廃藩置県の後に東京で武装蜂起を企てて失敗したという事件は、後に思案橋事件と呼ばれるようになった。

「木戸のことが許せなかったのかもしれません」

 斗南藩へ減封されてから、幾度となく脳裏に浮かんでは消えた男のことを辰次郎は思った。彼こそが会津藩の減封を決定した張本人であるのは紛れもない事実であり、彼への増悪をたぎらせる者は多かった。永岡もその一人であり、木戸への罵詈雑言をよく漏れ聞いていた。

 辰次郎もその気持ちはわかる。後から聞く限り、誰もが会津藩を激しく罰しようと考えていたわけではなく、西郷隆盛が庄内藩へ寛大な措置を取ったように、穏当な手段も用意されていたようだ。それを木戸がはねつけたのは、戊辰の役やその前に会津藩から手ひどく痛めつけられたという個人的な感情に端を発していたという。感情論で過酷さへ追いやられたことには今でも納得できていない。

 後に上司となる広沢は、木戸への復讐心より斗南藩で希望を作ることが大事と見て牧場経営に乗り出した。辰次郎や元武士の名子たちも賛同した。それによって開牧社は発展したが、永岡は木戸に対する敵愾心を鎮められなかったのだろう。

「永岡小参事が新聞紙上で政府批判を繰り返していたのを見たことがあります。あの頃からずっと怒りは激しく燃えていたのでしょう」

「田名部の発展にはどうしても政府からの助成が必要でした。それが得られなかったから、復讐心に翻ってしまったのかもしれません。広沢社長は、止められなかったことを悔いていました」

 思案橋事件は帝の御巡幸が終わって間もない頃だったため、まだ会社や牧場内に成功の余韻が残っていた。それを消し去る沈痛さを辰次郎も覚えている。

「報せを持ってきたのは私です。辛い役目でした」

 その時広沢は天を仰いでしばらく無言でいた。居たたまれなくなったが、下がって良いと言われるまで辰次郎も立ち尽くしていた。

 永岡の逮捕と重なるようにして、九州で士族たちの反乱が相次いだ。その中には永岡が頼みにしていたという前原一誠が主導した萩の乱も含まれる。いずれも失敗したが、西郷隆盛が蜂起した時はその怨嗟に誘われたかのように思えた。度重なる反抗に、戊辰の役の結果が覆されるのではないかと辰次郎は危惧したが、結果は抜刀隊の活躍などもあって明治政府の勝利に終わった。

「私は永岡小参事を非難したくはありません」

 高橋は赤ら顔をしていたが、真面目な声で言った。

「武器を取らなければ政府にわかってもらえないと考える者が出ても仕方ないと思ったことがあります」

 広沢は牧場経営が必ず会津人の復権につながると信じ、明治天皇の御巡幸を導いた。しかしその結果を得るまでに、斗南藩においてあまたの命が失われたのだ。それに報いる手段に政府転覆を選んだとしたら、辰次郎にもわかる話であった。

「私も同じに考えます。放蕩不羇と言われた方の力と、優しさで今も皆をまとめる広沢社長の力は大事でした」

 そう言った後で、しかし、と辰次郎は言葉を継いだ。

「西郷隆盛らの反抗も含め、私は失敗して良かったと思います」

「それは何故」

 高橋は穏やかに訊いた。

「どれか一つでも成功していたら、九州はもっと長く戦場になっていたでしょう。勧農社も設立されたかわかりません。下北半島で学ぶにしても限界がありました」

「そうか、そうですね。成功していたら、倉本さんも来ることはなかった」

「故郷のために働く機会も得られなかったかもしれない」

 ふと口を衝いて出た言葉は、福島県へ帰ってきてからずっと感じていた喜びの正体だった。形は変わっても自分が生まれ育った土地であることに変わりはなく、そこが自分の力を求めているのだ。親孝行にも似た高揚感であった。

「きっとなかなかないことでしょう。我々は貴重なことをしています」

 高橋が言い、自身の気持ちにいっそうの自信が持てた。

「長い付き合いになるでしょう。今後もよろしくおねがいします」

 言葉を重ねた高橋の杯に、辰次郎は言葉の代わりに酒を注いだ。高橋も注ぎ返し、二人は黙って杯をつき合わせ、中身を呷った。

 語らいに夢中になりすぎたのか酒はぬるくなっていたが、心に芽生えた温もりは酒のおかげだけではないと思えた。


 指導開始は明治十九年(一八八六年)の初春を迎えてからであった。辰次郎が福島県に着いたのは十二月であったが、その直後に農民たちは年末と新年を過ごす準備に入った。その妨げをするわけにはいかず、実業教師としての仕事は待たされることになった。

 犂という新たな農具に対する興味か、指導初日は農民とは関わりがないと思われる者も多く見られた。人気の大道芸を見るような気分なのか多くは楽しげな表情をして、周りにはうどんを売る屋台まで集まっている。

 実業教師への真剣な眼差しを向ける者もおり、彼らのためにも遊びではないと怒鳴り散らしたい気もしたが、ここでの注目がやがて犂の希求につながるかもしれないと思えば、気楽さもあながち無意味でもないだろう。使い手が増えるためには、何よりも犂のことを知ってもらわなければならない。

 牛馬を使った農耕も全く行われなかったわけではない。オオグワは犂の一種だし、抱持立犂は知らなくてもオオグワには親しんでいる者が多かった。

 しかし牛馬の操り方については違いがある。勧農社で学んでいる頃はほとんど見なかったが、福島県ではオオグワを使う時には、農具の操作をする者の他に「口取り」をする者を必要とする。その時点で人を余計に使っていると辰次郎には思えたが、九州の農民たちは一人で牛馬を使う仕事を子供の頃から仕込まれている。歳を重ねてから新たに覚えるのは容易ではないと思い、口取りを使わずとも牛馬は動くと言葉で伝えるにとどめた。

 口取りを担当するのは高橋である。その後ろから辰次郎が犂を使う。東北をはじめとする東日本で使われてきたオオグワを見慣れてきた人々に、抱持立犂は未知のものである。前に立つ高橋も興味深げな視線を肩越しに送ってくる。

「始めましょう」

 辰次郎に言われ、口取りの高橋は前を向く。福島県に来てから役畜を操る機会があったという高橋の仕事は慣れて見えた。

 口取りは馬の鼻先に縄で結わえた鼻竿という七尺(約二メートル)ほどの竹竿で馬を先導することを言い、馬耕の場合は抱持立犂を使う者が後ろから追いかけることになる。

「マエ」

 高橋が声を上げた。それによって馬が前へ進む。臆病で敏感な性質の馬はふとしたきっかけで心を乱されるが、そのことを心得たように高橋の声出しは慎重だった。

 馬が前へ進むのに合わせ、辰次郎は犂先を地面に潜り込ませていく。抱持立犂は昨今の農業界で大きな関心を寄せられている深耕を達成できるとして注目されているが、扱いは簡単ではない。

 抱持立犂はその名の通り使い手が抱えるようにして操るが、そうでもしなければまっすぐ進めないほど不安定なのだ。犂先及び床という耕地に接する犂の底面が小さいせいであるが、その分土に深く入り込み、深耕を達成できる。

 抱持立犂は無床犂という種類に属するが、長床犂というものもある。これは床の形状が細長いおかげで無床犂に比べ耕土との接地面が大きくなり、安定感が増す。

 操作が簡単な反面深耕を達成できないため、勧農社では主旨に外れるとして使うことは許されなかった犂である。辰次郎は慣れない犂を、使いにくい種類のものを使わされ、苦労して使えるようになった。それには二年かかった。子供ならともかく、歳を重ねた農民たちが学ぶには時間がかかりすぎている。

「ハイハイ」

 高橋が再び声を上げる。すると馬は足を速めた。勧農社では牛と馬の両方を扱って実習したが、馬の方が足が速く能率的な分神経が細やかで扱いが難しかった。牛は少しのことでは動じないため、役畜に慣れなくても使いやすいが、足の速さで馬にはかなわないので時間がかかる。牛の扱いから教えたいところだが、馬しか準備できなかったのはやむを得ないことであった。

 犂を操りながら、田の周囲に集まった見物人たちを見遣る。屋台で用意されたうどんを食べながら気楽そうな顔で眺めている。大多数の人々にとっては見世物でしかないと思うと悲しくなったが、真剣な眼差しを探すと一つか二つは見つけられた。いずれも若かったが、自分が去った後に彼らが犂や馬耕を引き継いでくれると思えば充分であった。

「ホーホー」

 今度は馬を減速させる声であった。前へ進ませる声に比べて声音は柔らかく、馬に対する優しさがあった。

 歩みを緩めたまま、馬は田の端に近づいた。そこで高橋は、

「ウセ」

 そう声を上げた。馬は右へ寄り、田の端に着くと高橋の鼻竿の動きによって右回りに方向を転換する。大回りになりやすいため、初心者は犂先や床が田の外へはみ出してしまう。学び初めの頃は自分もよくやったと思いながら、田の中へ収めるように操る。

 犂は耕地の中だけを耕した。初めてこれができた時、勧農社の教師から成長を認められたものだが、見物客からは特に声は上がらない。犂が普及すれば、まっすぐに耕すのがいかに難しいか理解され、人々の見る目が変わるだろう。

 しかし希望がないわけではない。馬を操ることの難しさはわかるのだろう、いくつかの真剣な眼差しに変わりはない。

 耕地内での往復を繰り返し、終わりに近づいたところで、

「ドオ」

 と緩やかな発音をして、

「ドオ」

 田の端でひときわ力の入った声を出した。

 馬は足を止めていなないたが、

「ホーラ、ホーラ」

 一転して穏やかな声を聞かせると、馬は鎮まった。高橋が顔を愛撫しているのを横目に見ながら、辰次郎は抱持立犂が耕した道を振り返った。

 犂によって立てられた畝は高さが均一に見える。畝の高さが不均一なら耕耘の深度が一定ではないということだ。深く耕すことの意義は作物の根をできるだけ深く張らせることにあるから、犂の効用を活かせているとは言えない。その点自分の仕事に問題はなさそうだった。

 辰次郎は見物人たちに向き直った。まばらに拍手は上がったものの、どこか義理めいていて心には響かない。斗南藩において生活を開拓し、後に牧場となる木崎の牧を整備した時にも、初めは途方もないことのように思えたが、やがては確かな手応えを生んだ。その力が自分の手に宿り、ここでも発揮できるのだと信じるほかないと思った。

 見物人たちが引き上げた後で高橋と共に後片付けをする。抱持立犂は丁寧に土を拭き取り、一度耕した土地を踏み直して犂を入れる前に近くする。その間に高橋は馬を厩舎に戻していた。

「いや、ご苦労様です」

 涼しい顔で戻ってきた高橋はどこか満ち足りた様子であった。

「人もよくよく集まって、最初にしては成功でした」

 そうでしょうか、という言葉を飲み込んだ。実業教師としては犂への関心が薄いことが目についてしまい、必ずしも成功ではなかったと思う。その一方で犂のことを知ってもらうという目的は達せられた。高橋が言うように、最初としては悪くない結果だっただろう。

「あとはしっかり使えるようになれば良いのですが」

「それは私の領分です。任せていただきましょう」

「頼もしいことです」

 笑い合った二人は、どちらともなく歩き出した。

 明日には実業教師として、地元の農民たちに教えはじめる。その時こそ、初めて故郷に帰ってきた気分になれるような気がした。

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