覗き窓

「ん、……」


 肌寒さを感じ、目を覚ました。目を開けると、電灯に目を眩む。点けっぱなしのままで寝てしまったようだ。

 汗がねっとりと染みたシャツが肌につく。冷たかった。クーラーの音が響く。クーラーの風で汗が冷えたのだろう。

 床で寝てたためか身体の節々が痛くなっていた。起き上がり、部屋を見回す。

 いつ寝たのか記憶を遡って見ても検討がつかない。

 ベッドの上に転がっていた置き時計を見る。二十三時三十七分だった。微妙な時間に目が覚めたものだ。


 携帯電話を探す。

 ない。さっと見回した感じでは、見当たらなかった。ベッドに移動し、眺めてから座布団にしていたクッションなどを除けて床を探す。見つからない。探し物をするとなぜか探している物は見つからない現象を何と言うのだろう。

 親に出したものはすぐに戻しなさいと言われていたことを思い出す。しかし、今は親に尋ねることもできない。

 大学一年生。晴れて一人暮らしを手に入れ、学生生活を謳歌している。住んでいるアパートは大学からは少し遠いが、自転車で十分程度で何よりその家賃の安さに惹かれた。相場の半額だったのだ。

 しかし、その代わり零時を回っての外出は絶対にしないという誓約をした。何のためなのか聞いたが、お化けが出るからとはぐらかされた。どんなのが出るってんだよ。

 まぁそれでも、安いのには変わりないのだとここを選んだ。


『衣刈荘に住んでんの? あそこ出るらしいじゃん、大丈夫なのか?』


 ふと、昼間友人から教えられたことを思い出す。仮面の男が出るらしい。夜中にやってきて、インターホンを鳴らす。そしてそれに合わせて外へ出ると、殺されちゃうそうだ。

 面白い話だなとその時は思った。

 心霊体験なんてしたこともないし、そういった機会にも恵まれないだろうと考えていたからだ。しかし、春から夏にかけて住んでいても一度も起きなかったことを思って、アンニュイな気分になる。

 怪談話なんてそんなものだろう。


 しかし、携帯電話はどこへ行ったのか。

 狭い一間だというのに見つからないなんて。そうだ、キッチンの方かもしれない。キッチンのある廊下へ移動する。引き戸を開け、左手側にコンロとシンクがある。小さくて碌にまな板も置けない。そこには携帯電話はなかった。


「――あ」


 思い出した。脱衣所のかごの中に置いたのだった。振り返るとそこにはトイレのドアがあり、その横に脱衣所と洗濯機が置いてある小さい洗面所がある。脱衣かごを探ると、すぐに見つかった。急いで携帯電話を開いて見る。電源が切れていた。その場で電源をつける。この期間が妙にいじらしかった。

 電源がつくと間もなく、『充電してください』との表示とともに警告音が鳴った。慌てて部屋に戻り、充電器を探す。

 と、その時だった。


 ピンポーン。


 ハッとなり、脱衣所からドアを見た。


『夜中にさ、ピンポーンって鳴るんだよ。突然。そしてさ、覗き窓を覗くと――』


 忍び足になりながら玄関へ向かう。そっと覗き窓を覗く。


『――仮面の男が立っているんだよ』


 いや、立ってはいなかった。誰もいないアパートの廊下と一階のため、その前の駐車場が見えるだけだった。はは、と拍子抜けし、何かの聞き間違いと思って部屋に戻る。

 充電器を探して、携帯電話に繋ぐ。幸いこちらはすぐ見つかる。

 気になって、時計を見た。ちょうど零時二分になるところだった。

 まさかな、と呟きながら汗ばんばシャツを脱ぐ。タンスから着替えを出してそれを着ようとした時だった。


 ピンポーン。


 笑ってしまった。タイミングの良さとそれに驚いてしまった自分に対してだ。イタズラかもしれない。昼間に話した友人がわざわざやってきているかもしれない。そう思い、玄関へ向かう。

 そっと覗き窓を見る。

 息を呑んだ。ドアに当ててた手が震える。言い様がない恐怖だった。

 先ほど誰もいなかったドア向こうに何かが立っていた。人。この真夏にタキシードの様な真っ黒な服を着た男。姿勢よく起立しているようだが、顔が見えなかった。魚眼に歪んだ世界なのに顔の部分が見えなかった。それが恐ろしかった。なぜだ。誰だ。何だこれ。


「なんだってんだ……」


 視界の端から黒猫が、起立する影の方から逃げるようにアパートの駐車場を駆けて行くのを見た。

 目を離し、部屋へ反転してベッドに籠もった。コンポを付けて音楽をかけた。

 インターホンの音は聞かなかった。




 次の日、恐る恐る覗き窓を見たが、変わった様子はなかった。

 ほっと息をついてドアを開けた。いつもと変わらない廊下。一段下がって駐車場。空を見上げると夏の日差しに目を眩む。蝉のざわめきが胸を落ち着かせた。

 息を吸って、夏の暑さを感じながら大学へ向かった。


「――それで、お前ビビってて寝ちゃったの」

「うるせぇ、あれは怖えよ……。話を聞いたあとだったしな」

「わはは、そんなよくある怪談でビビり過ぎだっての。坂井って奴もよくそんな話仕入れてくるなぁ、先輩に明日聞いてみるか」


 大学の食堂でざるうどんを啜すすりながら、友人の大樹たいきに昨日の夜の出来事を話していた。大学の食堂は時間帯が早く、閑散としており、ぽつぽつと幾つかのグループが何か話しながら思い思いの食事をしていた。

 大樹は俺の話に終始、笑いながら聞いてた。話す側としてはもう少し怖がってくれてもいいのだが。けれど、そうして大樹が笑ってくれたことが気を楽にしてくれていた。

 大樹はカツ丼を駆け込むと言い放つ。


「よし、今日は俺がお前の家の前で見張ってやるよ」


 自信に満ちてこちらの話を話半分しか信じていないようだったが、そう言ってもらったことは勇気を持つことができた。持つべきものは友だ。


「いや、いいよ。てか、怪談じゃなく、ただの変質者だったら大樹が危ないだろ?」

「アホか。変質者やったらそれこそどうとでも対処できるって」

「そんな自信たっぷり言われてもなあ……」


 ニヤリと笑う大樹に少し不安に思った。昨日の夜、影を見ただけで頭の奥から警鐘が鳴り響き、全身が強張った。蛇に睨まれた蛙というのはああいったことを言うのだろう。その本体を見るとなったらどれだけの恐怖と怯えに震えなければならないのだろうか。泣きだしても責めるつもりが起きないほどだった。あの起立した影はそれほどだった。


「いや、ダメだ。対処できるとしても万が一を考えて、外からは絶対にダメだ。家の中からなら付き合ってくれ。てか、俺はもう一度アイツが来たら耐えられそうにない……」

「……。ふん、ビビり過ぎだっての。まぁいいや。わかった、今日はお前ん家に泊まるよ。家の中からお前を甲斐甲斐しくお世話してやろう」

「俺はノーマルだからな」

「いやだ、連れないわ」

「やめい、気持ち悪い」

「わははは」


 その場で笑いあい、一旦解散した。

 下着ぐらいなら貸してやるよと言ったが、親に言っとかなきゃうるさいからと実家通いの憂いを見せた。勉強もしようという話になっていたので、ノートなども取りに行くという。仕方ないかと思い、帰っていく大樹を見送ってあのアパートへ帰った。




 ピンポーン。


 夕方、それは鳴り響く。冷やりとみぞおち辺りに重石が乗る。けれど、外から聞こえた声に安心する。


「おーい、俺だ。開けてくれー」

「わかった……」


 声を出しながらも一度、覗き窓を確認する。大丈夫だ、大樹だった。何やらリュックを背負って、彼はドアの前に突っ立ていた。

 施錠を外し、ドアを開けた。しっかりと大樹だった。


「遅くなった、夕飯食った?」

「いや、これから。なんか買ってきたのか? インスタント系しかないぞ」


 自炊は苦手なのだ。


「おう、バーガー買ってきた。いい匂いだろ? やらねえぞ」

「いらねえよ。焼きそばの湯をもう入れてるしな」

「そうかい、じゃあお邪魔します」

「はい、どうぞ」


 玄関から廊下を抜け、部屋に入った。机の上の置き時計のデジタル数字は六時三八分を示していた。

 クーラーに涼みながら遅れた理由と前期テストの情報を交換し合った。もうすぐ、テストである。初めての大学でのテストだが、楽勝楽勝と考えながらも頭の隅で不安を覚えているものだった。

 テレビを見ながら笑ったり、ゲームをしたりと普通に楽しんで時を過ごした。


「で、いつ来るんだっけ?」

「ん? いや、よくわからんけど、昨日は零時、夜の十二時ぐらいに初めのインターホンが鳴ったな」

「十二時か、あともう少しやな」


 時計を見る。十一時五十五分だった。あと、五分。大樹と顔を見合わせ頷いた。大樹は、ニヤリと笑いすすっと部屋を出て行き廊下の方へと向かって行った。

 俺は少し不安だった。目を瞑るとあの影の男を思い出した。

 大樹を一人にしとくわけも行かず追いかける。大樹はドアの前で覗き窓を見ているようだった。十二時になり、インターホンが鳴る時を確認するつもりだろう。

 口が乾く。冷房の効いていない廊下の熱気に当てられ、汗が滲む。ただの五分が、とても長い。大樹の後ろで静かに待った。

 部屋と廊下の扉は何かあった時のため全開だ。靴下の履いていない足に冷やりと膜が包むような空気が触れる。クーラーの冷気だろう。ちらりと部屋の方を見た。床に転がったペットボトルがゆらりと揺れた。寒気がした。


「……おい」


 大樹のどこか怒気を孕んだ口調に振り返る。見ると、こちらを見て眉間にシワが寄っており、不機嫌そうだった。何が起きた?

 反応に困った。そもそも大樹の起こった姿を見るのは初めてだ。半開きの口を閉じながら押し黙った。それに痺れを切らした様に大樹がこちらを睨みながら言った。


「こないじゃねーか」

「なに、そんなに怒ってんだよ……。何か見えたのか?」

「見えねーから、苛立ってんだろうが」

「……い、や、でも」

「でももヘチマもねーよ。どうすんだよ」


 何だ。何だ、何が起きてる。どうして、大樹がこんなに怒ってるんだ。意味が分からない。大樹は外をずっと見てただけじゃないか。それだけでどうして。何だ。俺が部屋に振り返っている間に何が起きた。


「おい、答えろよ」

「……ちょっと、待てよ。意味がわからないんだ。……なんで、大樹は、そんなに、」

「あ? ごちゃごちゃうっせいよ。お前が不安で困るし何かあったら怖いから来てやったんだろうが、それなのになんだよ、これ」

「はぁ? おい、それは違うだろ。大樹が先に見張ってやるとか言い出したんだろ。なんで俺が頼んだみたいになってんだよ?」


 しまったと思った。突拍子のないことを言われ、思わず大樹の調子と同じように言い返してしまった。

 大樹は、ますます不機嫌そうになり、こっちの話が意味がわからないといった様子だ。 何だってんだ。どうして、こんなにいきなり、オカシイだろ。


「へ、いい歳こいてビビりまくってたのは誰だよ。ハッ、まぁいいか。もう俺は帰るよ。邪魔したな」

「な、なに言ってんだよ、いきなり。そっちが先に変なコト言い出したクセに。いいよ、帰れよ。まだ終電間に合うだろ」


 言ってしまったあとに後悔するのでは、遅すぎた。大樹の挑発にまんまと乗せられる形に大樹を家に帰すことになってしまった。

 影が眼の奥で起立していた。

 大樹は俺に肩をぶつけて、部屋に戻る。足取りは怒りを抑えているようであった。まさか殴り合いはしたくない。それだけは。

 呆然と立ち尽くしていると、大樹がリュックを背負って戻ってきた。目が合う。大樹の怒気に囚われた。言葉を紡ぎたくとも舌がうまいこと動かなかった。


「……、ぃゃ、まっ……」

「…………」


 そんな俺を無視するようにすれ違い、玄関で靴を履いた。そして鍵を開けて外へと出て行った。俺はただ見送るだけで精一杯となり、言葉ひとつ出せなかった。僅かに浮き上がった右手が空くうを掴んだ。一連の出来事に動揺し、何もできなかった俺の前でドアが閉まった。




 散らかった部屋に座り込む。テーブルの上の置き時計を見る。

 零時十三分だった。

 一日だけなのだろうか。今日は、もう来ないのだろうか。もう終わりなのだろうか。どうしてあんなに怒ったんだろう。何か見たのだろうか。分からない。分からないことばかりだった。疑問は湧き水の様に出てくる。

 転がったペットボトルを拾い上げ、テーブルの上に置く。どうすればいい。

 そうか、電話をしよう。もう一度、大樹と話をしよう。

 思い立っただが吉日。床に転がった携帯電話を拾い上げて、電話帳を開く。そして、大樹へと電話をかけた。

 出なかった。当たり前か。仕方ないと思い、携帯をベッドに放り投げようとした時だった。

 電話が鳴った。大樹からだった。

 急いで応答する。


「もしもし、大樹か?」

『……、出てくれたか! 助かった。今さ、お前の家に向かってたんだ、助けてくれ……』

「え、どうしたってんだ?」


 先ほどの怒っていた大樹の声色ではなかった。安心と驚きとで動揺してしまった。しかし、次の大樹の言葉に二の句が継げなかった。


『――居たんだよ。お前の言ってた男がさ。俺が出て行って、駅へ向かう途中に。タキシードぽい格好した奴がさ……』

「は、え、本当か……。今大樹はどこにいるんだ……」

『俺は初め気づかなかったんだけどさ、通りが暗いから。でもさ、街灯の下へ入った奴を見てビビったよ。悪かった、俺が間違ってた。アイツはやばい。――でさ、気づかないふりをしてすれ違おうと思うことも出来なくて、そのままお前ん家に引き返してるんだ。それで、もう少しで着くからさ、そしたら入れてくれよ。――って、なんだよ、ふざ、……け』

「おい! 大樹! どうしたんだ! 返事しろ! おい!」


 電話が唐突に切れた。何が起きた。何だよ。意味分かんねーよ。どうして、今日は遅いんだ。何だ。大樹はどうした。大丈夫なのか。とっさに外へ出ようとする衝動に駆られた。

 廊下に進み、玄関で鍵に手を当てた。そこで躊躇してしまった。昨日の影が脳裏によぎったのだ。ダメだ。外へは出られない。だけど、大樹が。何だよ。ふざけるなよ。


「――くっそ!」


 ドンっとドアを叩く。怯えて外へ出られない自分の不甲斐なさと遅れてやってきた奴ヽへの怒りを思ってだ。

 その時だった。


 ピンポーン。


 驚いて、跳ねる様にドアから離れ尻餅をつく。ドアを見つめた。あいつがやってきた。大樹はどうした。何をした。どうなったんだ。怯えと不安と焦燥が胸を焦がす。早まる呼吸に蝉の様にうるさくなる鼓動。


 ピンポーン。


 二度目のインターホンが鳴った。唾を飲み込み、意を決して覗き窓に目を近づける。慎重に震える手でドアを触り、外を見た。

 誰もいなかった。


「そんな……」


 こんな時までもったいぶるのか。ふざけやがって。そうか、武器を持ってくれば倒せるんじゃないか。大樹の言い分だと人間かもしれない。人間なら殴れば倒れる。何とか出来る。

 すっとドアから離れ、忍び足でキッチンに向かう。その間、チラチラと何度もドアを確認した。奴が入ってこないかと。早くキッチンで包丁を取ろう。武器さえあれば、どうにか出来る。


「よし。これで……」


 キッチンから包丁を取り出した。電灯に包丁の刃が煌めいた。それがとても頼もしいように思えた。急いでしかし、慎重に音を立てないように玄関に向かった。


 ピンポーン。


 また鳴った。まだあの男はいる。絶対に大樹のことを見つけてやる。ドアに近づき、覗き窓を見た。

 誰もいない。影も見えなかった。何かオカシイ。そう思い、注意深く魚眼に切り取られた世界を見る。そこで気づいた。

 大樹だった。

 にやけた。意図が分かったからだ。あいつは小芝居を打ったのだ。怒ったところから電話に至るまで。何だ。張り詰めていたものが全て流されるような感覚を覚えた。

 ドアの傍に張り付いて大樹が何か棒のようなものでインターホンを押していたのだった。本人は隠れているつもりだろうが、リュックが見えていた。確かに、駅の方へ向かい時間を稼いでから、また戻って電話の小芝居をして今に至るのだろう。その努力の跡のリュックが見えているという残念で滑稽な姿に笑ってしまった。


「ふざけるやがって……、どんだけ心配かけ、」


 そうして、ボヤきながらドアの鍵を開けようとした時、意識の端に何かが引っかかった。

 それが安堵し、緩んだ意識を一瞬で引き締めた。

 何だあれ。忘れられないものだった。覗き窓の世界を注視する。おい、今日は来ないんじゃなかったのか。遅れて来るのはヒーローじゃないのか。おい、おい。何で。嘘だろ。


「逃げろっ!! 大樹!!」


 叫んだ。覗き窓から世界を見ながら叫んだ。大樹の背後にタキシードを着た男が起立をしていた。僅かに礼をするように腰を曲げ、大樹を見ているようだった。リュックを見下ろしていた。

 大樹は気づいていない。俺の声が聞こえたのか分からない。だけど、叫ぶしか出来ない。包丁を握った手は震え、足も経つので精一杯だった。

 何やってんだ、俺。動けよ、いま出なきゃ、大樹が。


「逃げろ! 後ろにヤツヽ ヽが来ヽ ヽてるヽ ヽんだよッ!! 大樹! 頼むから」


 覗き窓にこれでもかと顔を貼り付けたままもう一度叫んだ。大樹は気づいた。リュックが揺れて、後ろを振り向く素振りを見せた。そして、何か叫ぶ声が聞こえた気がした。

 ドアの外からドサリと何か重たいものが落ちた音が僅かに聞こえた。


「大樹――――ッ!」


 ピンポーン。


「ひっ!」


 全身が恐怖に震えた。歯を食い縛り、包丁を持った手は強く強く握りしめた。

 大樹はどうした。どうなった。見てたんだぞ。何が起きたのか分からなかった。どうしても。切り取られた世界は変化が起きなかった。大樹のリュックが消えた以外には。

 覗き窓を見ていないとおかしくなりそうだった。

 そして、瞬きを一回した。ただ、それだけの時間で、男はドアの正面に居た。影はなかった。その代わりに嫌悪と恐怖を感じる不気味な仮面を付けていた。仮面が笑っている気がした。


 ピンポーン。


 見ていられない。おかしくなってもドアの前の男を見ていられなかった。恐怖だった。

 警察……。そうだ、警察に来てもらおう。大丈夫実体はあるじゃないか。アイツも人間だ。そうだ。

 ポケットの携帯電話を取り出して指を震わしながら、電話をかけた。

 繋がらなかった。発信をいくら押しても雑音ひとつ携帯電話はしてくれなかった。


「なんで……。なんでだよ。なんで繋がら、……圏外。なんで、なんでありえないだろ。さっき繋がってたろ……。ふざけ……くそッ」


 ピンポーン。


「うるさい! 黙れ! いま出てやる、待ってやがれ! 大樹をどこにやった!」


 ドアに叫び返した。そして、大きく蹴りつける。反応はもちろんない。ドアを開けるつもりだった。ドアを開けて、持ってる包丁で刺してやる。絶対に刺してやる。舐めるなよ。汗が頬を滑った。

 ドアの鍵に手を伸ばし、開けた。ドアノブを握りしめ、反対の手で包丁を構える。ドアの前にアイツはいる。なら、このままいきなり開けたら直撃するはずだ。そして、その隙に刺してやる。早鐘の鼓動が耳につく。

 息を吐いて、吸った。


「やアッ――――!!」


 ドアは勢い良く開いた。しかし、何にも引っかからず、飛び出した俺はドア前の廊下に転がり出た。開いたドアが閉まろうとして体に当たる。誰も居なかった。あの男も大樹も。ただ、大樹のリュックがドアの傍に落ちていた。


「は、はは、なんだこれ……」


 リュックを拾おうとドアを離れる。突如、勢い良く閉まるドアに肩をビクつかせる。思わず後ろを振り向く。そして、床に向けていた視線をゆっくりと上げた。



 ――――あ。

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一夜怖話 荻雅康一 @ogi_ko1

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