一夜怖話

荻雅康一

甘い誘惑

 朝、耳に触れる不快な感覚に目を覚ます。

 寝ぼけた頭のまま蚊を潰す要領で叩いた。

 ベチャっと何つぶれる音と手に何か付く。ハッとなり、目を開けて手を見た。

 虫の体液がこびり付いていた。


「うわッ!」


 飛び起きて近くにおいていたタオルで拭う。ゴキブリだった。叫びそうになる、が、それよりも恐ろしいことに気づく。服の中を移動する存在に。


「――――ッ!」


 絶叫する。そして、破り捨てる勢いで服を脱ぎ捨て、床へたたきつける。何匹もいた。声にもならない叫びをあげ、全裸のまま部屋を飛び出し階段を駆け下りる。


 すぐさま、浴室へ飛び込みシャワーを出した。水が出たが、気にしている余裕はなかった。全身を隈無く流す。ボディーソープを容器が壊れるのではないかと思うほどに叩き付けるような勢いで出して身体を洗う。続いて、シャンプーも同様に出して髪を洗う。何でもいいから洗いたかった。ぶる、と身体が冷え始めた頃に声がした。


「リョウ、どうしたの?」


 叫び声を聞いて起きたのだろう。母さんが浴室の外から声をかけて来た。説明しようと声を出そうとしたが、掠れてしまい上手く出ない。


「ゴキブリが……」

「え、なんて?」

「ゴ、ゴキブリが身体を這いずり回ったんだよっ!」


 自分でも驚くぐらい大声となった。冷静にいられなかった。寝起きの衝撃的な事態に怯えていたのかも知れない。外で息を呑む音が聞こえた。けれど、俺自身は吐き出したことで、少しだけ冷静になれた気がした。


 シャワーで全身を流し、鏡で今の状態を確認した。深呼吸をした。当初より冷静さは取り戻した。それでもうるさいぐらいの早鐘を心臓は打っていた。

 何が起きた。どうしてあんなにゴキブリが群がっていたのかわからない。昨日の夜、何をした。アイスは食べたがリビングで食べて部屋には持って上がってはいない。何だ。何が原因だ。分からない。検討がつかない。


「リョウ、大丈夫?」

「……うん、だいぶ落ち着いた。今出るよ」

「そう、じゃあ母さん、キッチンにいるからなんかあったら呼んでね」

「……うん」


 母さんの気遣いに素直に感謝した。

 風呂を出ようとして、足元を確認した。違和感を覚えた。よく見る。足に何か白い液が纏わりついていた。まだゴキブリの体液が付いていたのかと思わず声を上げそうになった。

 が、何とか口の中で押しとどめた。母さんに心配させたくはない。


「なんだこれ……」


 手で触れる。水で浴びたのに人肌に生暖かった。僅かに年生を持ち、砂糖水のようにベトベトした。怖くなったので、シャワーで洗い流した。浴室を出て、母さんが用意していたのだろう取りやすいように置かれたバスタオルで体を拭いた。

 そして、腰に巻いてリビングの方へ向かった。


「あら、リョウ。だいじょ……どうしたのそれ?」

「え? おいなんだよ」

 唐突に母さんがペタペタと顔を触った。何かを確かめるように俺の顔を撫でる。


「怪我、じゃないの……ね」

「怪我なんてしてねえよ。やめろって」

「ごめんなさい。寝てた痕よね。なんか擦ったみたいな痕ついてたから」

「……」


 母さんに触られたところを撫でる。確かに擦ったような痕のような肌触りだった。さっき鏡見た時にこんな痕あったか?

 朝からおかしなこと続きで痕ぐらいでは驚くこともなかった。

 母さんは俺の様子に少し安心したようだ。


「びっくりしたわよ、朝から大声出してお風呂に入っちゃうんだもの」

「うん、ごめん。気が動転してて、悪夢にうなされたたんだ」

「そう、無事ならいいわ。お父さん呼んできて、まだ寝てるわ。リョウはせっかく早く起きたんだから、夏休みの宿題やっちゃいなさい」

「へいへい、じゃ呼んでくるよ」


 階段を登ろうとしてふと、母さんの方を向いた。母さんは手をじっと見たあと、その手を軽く舐めているところだった。


「あら、甘い……」

「え?」

「いやね、リョウの顔触ったところになんか飴みたいなの付いてたから舐めたの。そしたら甘くて」

「そ、そうなんだ」


 首を傾げながら言う母さんに戸惑いながら返事をして、階段を登った。まず、自分の部屋に向かった。ゴキブリはもういなかった。夢だったのか。でもあの感触は。

 とりあえず、着替えを済まして母さんらの部屋に着く。扉を開け、ベッドへ向かう。父さんがコチラに気づいて目を開ける。


「ん、……リョウか。朝から叫んでどうしたんだ?」

「いや、ちょっとリアルな夢を見て驚いたんだよ」

「夢? そうか。ところでお前、なんかジャムかはちみつかでもこぼしたか?」

「いや、こぼしてないけど」

「……そうか、いや何、妙に甘くていい匂いがしたもんだから。何かしたんじゃないかと思って」

「甘い匂い? ッ! なんだよ、何すんだよ?!」


 父さんが近づいた俺の手を取って舐めた。驚いて後ろに倒れ尻餅をつく。父さんは至って真顔で唸るように眉間に皺を寄せた。ベッドに座りながら父さんは言った。


「……甘い。リョウ、ちょっとこっちこい」

「は? 意味わかんねーよ」

「いいから」


 目が据わっていた。ベッドの上からこちらを見る目に恐怖を感じた。俺は部屋を飛び出るように出て、階段を駆け下りた。そして下から上へと上がってきそうになっていた母さんに言った。


「母さん、父さんがおかしいよ! なんかいきなり俺の指舐め……て……、母さん……?」

「そう、リョウこっち来て」

 母さんの様子が明らかにおかしかった。眼の色が父さんと同じだ。先ほどまで普通だったのに……。すうっとこちらに手を伸ばして俺の手を取ると当然のように指を舐めた。全身が震えた。あったのは、恐怖だった。

 オカシイ。普通じゃない。逃げなきゃいけない。

 母さんの手を振り払って、廊下につながる扉を開け玄関へ。

 靴を突っかけ、鍵を開けようとした。

 しかし、後ろからものすごい力で羽交い締めにされ、後ろに倒された。母さんだった。


「ひッ! 母さん、俺だよ! しっかりしてよ! 何してんだよ!」

「リョウ、ちょっとだけだから、ちょっとでいいから」


 必死の叫びにうわ言のように耳元で母さんがつぶやく。そして、我慢しきれないように俺の耳を舐めた。じゅるりと何かを舐めとる音がした。悲鳴を上げた。

 いくら大人の力でも所詮は女の力。高校生の俺を押さえつけるなんて出来ない。大きく首を仰け反り、母さんの顔へぶつけた。

 必死にもがき羽交い締めから抜け出す。母さんに馬乗りになって手を抑えた。母さんは鼻血を出していた。でも気にした様子はなかった。


「どうしたってんだよ! 何なんだよ!」

「いいのよ、大丈夫よ、お願い。少しだけでいいから、ね? リョウ、母さんのいうこと聞いて」

「意味分かんねーよ!」


 懇願するように俺の顔を見る。その顔にはいつもの面影はなかった。

 上から階段駆け下りる音がした。父さんだ。恐怖で手が震える。大人二人で向かってきたら、勝てない。


「くっ!」

「――待って! リョウ! 待って!」


 母さんの静止を振り切り、鍵を開けて外へ飛び出した。


「――待て、リョウ!!」


 父さんの声だった。振り返り、二人を見た。恐怖に見えた。

 前を向いて、力を込めて道路蹴った。父さんが、靴も履いてないだろう俺の名前を呼びながらこっちに向かって来るのを背中に感じる。曇天の空を仰ぎ見て、向かう進路を定め駆けた。走った。

 すぐの角を右に走った。ドタドタと足音が追ってくる。涙が出そうだ。何でこんなに走ってるのかもわからない。どうしてこうなったんだ。


「うわ!」

「きゃっ!」


 角から出てきた女性にぶつかる。弾かれるように道路に転ける。肝を冷やす。背後の足音が近づく。転けた女性がこちらを睨んだ。


「なにするの! ……甘い匂い」

「あんたもかよ! くっそ!!」

「――リョウ!!」


 素早く立ち上がり、女性を見る。女性は睨んでこちらを糾弾したが、突然顔色を変え、うっとりとした目になり、こちらに手を伸ばしてきた。怯えで後ずさった。追う父さんが叫んだ。


「あら、これ……」

「やめろ! なめるな!」

「――甘い」


 すっと伸ばしてきた手を止め、女性は腕の辺りに付いてた白い粉状の何かに気づいた。そして、それを指で取り、俺の静止を聞かず舐め、母さんらと同じような反応を見せた。唾を飲み込んだ。父さんが来る。

 走った。必死になって走った。思い浮かぶ限り、追われないように横道裏道を使って、走って逃げた。

 何なんだよ! 何なんだ畜生! 朝のゴキブリ、母さん父さんの異変。あの女の人も! 意味がわからない。何が起きたのかすらわからない。どうして、一体、どうなってんだ。




「はぁ。はぁ……」


 町外れの墓地に潜り込み、墓石の陰に隠れた。一体自分の身に何が起きたのか。走りながらもずっと思い巡らせたが、まったく想像がつかなかった。


『――甘い』


 そうだ。母さんと父さんは俺の体を舐めておかしくなったんだ。それ以外に両親の豹変のきっかけはないはずだ。それしかない。

 ……俺の身体が、甘い?


「甘いって、まさか。けど、それでゴキブリも……な、のか?」


 手を見つめた。心臓がバクバクと鼓動している。自分で舐めてみて見る……か。不安が過ぎり、辺りを確かめる。大丈夫。まだ誰も来てない。気づいてない。大丈夫。

 ペロっと中指を舐めた。


 ――甘い。


 次の瞬間には、指全体を舐めていた。止まらなかった。甘い。甘い。とても甘い。

 自分の中に溢れ出る衝動が収まらなかった。それどころか舐めれば舐めるその衝動は強まった。舐めたい。もっと舐めたい。そして気づいたことがある。指が舐める度に溶けていた。飴を舐めれば小さくなるように、指を舐めると縮んでいった。不思議と痛みはなかった。だから止めれなかった。止まらなかった。甘い。


「見つけた」


 母さんだった。父さんもいる。二人は飛びかかるようにして俺をその場で倒して俺を舐めた。邪魔な服は二人が破いた。全身を隈無く舐める。母さんも父さんも。舐めたい。ああ、舐めていたい。

 遅れて女性がやって来る。俺に飛びつき、舐めた。その後をぞろぞろ、と足音が聞こえた。


「甘い、甘い、甘い……」


 気が付くと、片目が無くなった。全身が舐められていた。手が肘ほどになっても今まで抱いていた恐怖は感じなくなった。自分で腕を舐めながら思いはひとつだった。

 ただ、ただ、――舐めたい。

 甘い。もっと、もっと――。

 意識が遠くなる。


 ――ああ、甘い。

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