人体模型1/3

「ちょ、ちょっと! そんなに急がないでよっ」

「うん? そんなに速かった?」

 僕は足を止めて、振り向いて言った。見ると八重樫さんが数メートル離れたところから、スカートをはためかせ急ぎ足でこちらに向かってきていた。

 どうも、八重樫さんの言ったことは正しかったらしい。いや、僕が速かったのか、八重樫さんが遅かったのかは分からないけど。

「というか、名刀(なち)、あんた何であれを素通りできるのよっ」

「あれって、……さっきのろくろ首?」

「そうよっ」

 八重樫さんは僕の目の前で、両拳を胸の前で握りながら、語尾を荒げて言った。急に立ち止まったからなのか、絹糸のように細かな金髪がさらさらと肩から胸へと撫で降りた。いつもなら光を反射して眩しいくらいの金髪は、輝きを失っている。

 それもそのはず、僕らは今、薄暗がりのお化け屋敷にいるのだ。

「あれに驚きもせず歩いていけるとか、あんた、感覚がおかしいんじゃない?」

「その指摘には頷くけど……そんなに驚くものかな? だってどう見ても作りものだったよね」

「そういう問題じゃないっ!」

 じゃあ、どういう問題なのと、僕が首を傾げて言うと、八重樫さんは信じられないものを見るかのように、目を丸くして固まった。二の句を継げないのか、小さな口が半開きになったままだ。暗がりであまりよく見えないけど、唇の色がいつもよりも薄い気がする。顔色もいつも以上に白く見えた。

 そのまま八重樫さんを見ているのもよかったのだけど、それはそれで酷な気がしたので、僕は感想を述べることにした。

「まあ、驚くものではなかったけど、面白くはあったよ。天井からいきなり人の頭が降ってきて顔に当たったんだもの。見たらすっごい面白い顔をしていたよ、あのろくろ首」

 僕は多分、笑っていただろう。

 その言葉を聞いて、八重樫さんは数回瞳を瞬いた。

 数瞬後、唇を小さく震わせて、

「……やっぱ、あんたおかしいわよ」

 と諦観たっぷりの悲壮な口調で八重樫さんは言った。

 その突っ込みには捻りも勢いも足りていない。いつもならもっと、過剰なまでな勢いがあるのに、どうしたというのだろうか。それだけ今の状況が、八重樫さんにとってつらいものなのだろうか。

 疑問にするまでもなく、そうなのだろうけど。

 どうも、八重樫さんはこういった催しは苦手のようだった。

 それは、つまり、普通なのだろう。

 僕とは違って。

「もういいから、先に進むわよ」

「あ、うん」

 僕は元行く方向へ振り返って歩き出した。八重樫さんも僕に離れないように付いてきているようで、斜め後ろから小さな足音が聞こえてきた。


 それから僕らは進んでいき、いくつかの出し物にあった。そのたびに八重樫さんは大げさに(と言ったらものすごく失礼だけど)反応した。悲鳴をあげないまでも、のど元までは出かかっていたようで、何度も声を引きつらせた。それはまだいいほうで、ときおり驚きのあまり僕を突き飛ばしたり僕を殴り飛ばしたり、はたまた僕を投げ飛ばしたりしてくれた。そうそう、八重樫さんは柔道だか合気道だか、そういった武道を心得ているのだった。それを僕は今日、身をもって認識する。

 と言うか。

 痛いよ、八重樫さん。

 いつものドツキがどれほど手をゆるめていたのかと、逆に感心するくらいに全ての攻撃が痛かった。まあ、恐怖で力加減を制御できていないからだろうけど。

 僕らは階段を下りていた。上の階と下の階の間にある踊場で、不意に八重樫さんの足音が止まった。僕が振り向いて見ると、八重樫さんが、

「……まだ終わらないの、この地獄」

「うーん、まだ半分くらいじゃない?」

「まだ、半分……」

 八重樫さんが深く溜息を吐く。

 精神的な疲れからだろう。

 僕も溜息を吐きたくはあった。

 肉体的な疲れからだった。

 八重樫さんと違って、僕にしてみればこうも驚けないと、お化け屋敷なんてただ歩くだけの苦行でしかなかった。かれこれ一時間くらいは歩いているだろうか。なんでこんなに長いお化け屋敷なのだろうか。僕としては昔の小さな遊園地にあるような、ちゃちなお化け屋敷のほうがよかったのに。

 今回ここに来たのは偶然でもなく必然でもなく、ただの義務だった。卒業旅行の一環で思い出作りとして遊園地に来たんだ。その遊園地にあった、有名なお化け屋敷がここだった。

 このお化け屋敷は昔学校だった建物を利用してつくられているらしい。昔病院だった建物をお化け屋敷にしたところがあったのは知っているけれど、まさか学校だった建物をお化け屋敷にするところがあるとは思わなかった。

 でも、理には適っていると思う。

 病院というのは、死者だったり都市伝説だったりのオカルトじみた物事から、連想しやすい。それゆえにお化け屋敷にしやすかった。つまり、雰囲気作りだ。

 学校というのも、病院と同じだ。七不思議だったり怪奇現象だったりの怪談じみた物事から、連想しやす過ぎる。それゆえにお化け屋敷にしやすいだろう。つまり、都合が良いんだ。

 誰が考えたのか誰が承認したのか分からないけど、学校を利用してお化け屋敷にするというのは面白い企画だと思う。誰しも小学生の頃には、怪談話だったり噂話だったりに必ず縁があるものだから。病院よりも、よっぽど分かりやすいだろう。

 とはいえ、この建物は広すぎる。それに、なんで二人一組でしか入れないのだろうか。前者に対しては理由はないとして、後者に対しては理由はあるだろう。

 簡単に言えば、雰囲気作りだ。

「……行きましょ……」

 八重樫さんがうんざりした様子でそう呟いた。

 僕は頷いて、階段を降り始めた。

 階段を降りきったところで、辺りを見渡した。階段から見て左側には防火壁が降りていて、そちら側には行けないようになっている。ところどころでそうやって道を遮って、迷わないようにしてあるようだ。小さな親切ではある。

 じゃあ、と僕は右側に進んでいった。後ろから八重樫さんが付いてくる。

 廊下はさっきまでよりも、一段と暗くなっていた。遠くで非常灯が弱々しく灯っているだけで、他に光源が見あたらなかった。僕は夜目が利く方なので、それ自体はあまり気にしなかったけど、八重樫さんはどうだろうかと気になった。

 気になったので八重樫さんへ振り向こうと思ったとき、ふと、右腕を引っ張られる感覚がした。

 八重樫さんだった。

 八重樫さんが俯きながら、片手で僕の右腕の袖を摘んでいた。思っていたよりも、八重樫さんの手は小さい。小さな手は、細かく震えていた。それは恐怖からくるものなのか、力の入れすぎからくるものなのか、それともどちらでもないのか僕には分からなかった。

 僕が歩き出すと、八重樫さんが僕に引かれるように歩き出した。

 成程。八重樫さんは僕と違って鳥目だったようだ。この暗さでは辺りが見渡せないのだろう。だったら、僕が引っ張ってあげないといけないな。

 僕はそんなことを考えながら、八重樫さんを引いて進んでいった。

 先程の非常灯の辺りまで着いた。非常灯にはよく見ると文字が書いてあった。

 『この先危険』。

 そんなこと言われても……。

 客の誰かの悪戯なのか、それともこれも出し物の一種なのか分からないけど、なんの意味もない言葉だった。途中で戻れるなら、僕はもう戻っているって。

 僕はあくびをしながら、その先へ進んでいった。

 その間も、八重樫さんは無言だった。

「…………」

 これはこれですこしやりにくい。いつも僕らは馬鹿話をしあっていたんだ。八重樫さんといて、こんな風に沈黙が流れることなんて滅多になかった。滅多にというか、一度もなかった気がする。

 慣れない状況に、胸がざわついてくる。

 胸がざわついて、頭がふらついてくる。

 どうしたというのだろう、僕は。

 初めての感覚に、不安になった。

 でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

 僕らは無言のまま、歩き続けた。しばらくしてまた、防火壁で進む先が遮られていて、横に教室があった。ドアが開いている。中に入れということらしい。

 僕が教室に入ろうと躊躇なく進もうとすると、八重樫さんに引っ張られた。引っ張られたというより、八重樫さんはその場を動こうとしなかっただけだ。僕が「八重樫さん?」と声をかけると、八重樫さんは何も言わずにゆっくりと歩き出した。

 教室に入った。

 僕らは入り口辺りで立ち止まって部屋の中を確認した。ここはどうも保健室のようだ。入り口の向かい側、部屋の右隅には小さなデスクと椅子があり、そこから手の届く範囲に高さの違う棚がいくつか置いてあった。部屋の左隅には天井からカーテンがひかれ、部屋の四分の一くらいが四角く隠されている。恐らくその奥にはベッドが置いてあるのだろう。

 形式的に過ぎる気がするけど、こんなところで変に外しても意味はないので、これは主催者側の配慮なのだろう。

 配慮。

 連想しやすいように、配慮した配置。

 雰囲気作りだ。

 特に何かがおそってくる気配もないので、僕は部屋の奥へと進んでいった。八重樫さんも僕の袖を掴んで付いてくる。僕は用心のつもりで(ここで急に驚かされたら、間違いなく八重樫さんに投げられる)ゆっくりと歩きながら、もう一度辺りを見渡してみた。

 入ってきたドアとは違うドアが同じ壁の反対側にあった。多分、ここを通ればいいのだろう。コの字に移動して、先程の防火壁を避ける形になるわけだ。……よく考えると、防火壁にしては位置が中途半端な気もするけど、それはお化け屋敷のために改造したものなのだろう。

 出口のドアのすぐ横には、よくある薬物に対する警告のポスターが貼られていた。その隣には、人体の解剖図のポスターが貼られている。その下にはおあつらえ向きとでも言わんばかりに、人体模型が立っていた。

 人体模型だ。

 正確に言えば、人体解剖模型。

 なんだか、人が偽装しているんじゃないかと思うくらい、不自然に背が高い気がする。

 ……うっわあ、動き出しそうだなあ、こいつ。

 さて、どうしたものか。このまま何も対処せず、人体模型が動き出したら八重樫さんは驚いてしまうだろう。そしてらやっぱり僕は投げられることだろう。もしかしたら、掴んでいる僕の右腕に対して関節技でもかけてくるかもしれない。

 僕としてはそっちのほうが、恐ろしかった。

「……八重樫さん?」

 僕は深慮の結果、八重樫さんに事前に知らせておくことにした。

 でも、

「…………」

 八重樫さんは、僕の言葉に答えずに、俯いてじっと地面を見つめるばかりだった。

 まあ、見ていないのなら、このまま素通りしてしまえばいいだろう。要は動き出すところを目撃しなければいいんだ。見ていない間に動き出したとしても、八重樫さんに近づけさせなければいいんだ。そうすれば驚くタイミングを逸するだろう。

 分からないけど。

 僕は立ち止まった足を再び動かし始めた。

 一歩、二歩、三歩、……六歩。

 ここで僕らと人体模型は、ほぼ一直線に並んだ。

 僕は睨むように人体模型に視線を移した。一瞬、ピクリと人体模型が反応した気がする。気のせいかもしれないくらいのもので、ただの違和感としか感じ取れなかったけど、多分動いた。

「…………」

 数秒睨み続けたけど、その間は人体模型は身動き一つしなかった。

 うん、じゃあお言葉というかお態度に甘えて、このまま素通りさせてもらおうか。

 僕は出口に向かって歩き出す。あと一歩で出口のドアに着くところで、後ろから引っ張られた。一回、二回、三回と引っ張られる。

 八重樫さんだ。

「どうし――」

 どうしたの、と言いたかったのだけど、振り向いた八重樫さんの姿を見て、僕は最後まで言うことはできなかった。

 八重樫さんが顔を上げて、震える指先である方向を指していた。

 人体模型の方向だ。

「八重――」

 そこまで口にしたところで、右側から

 ペタ

 という何かが張り付くような音がした。

 見る。

 右側を見る。

 人体模型がこちらを向いていた。

 そして唐突に、走り出してきた。

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