無意味

 僕は早瀬川仁奈と直接話したことはなかった。

 とは言うものの、一度だけ話す機会はあった。小学三年生の時、クラスで飼っていたハムスターの籠を掃除するように、僕らは任命された。それはハムスターの籠があった場所から席が近いというだけの理不尽な理由からだった。仕方ないと僕は思って、放課後に籠を掃除しようとして隣を見たら、早瀬川はいなかった。早瀬川は早退したのだった。

 そんなこんなあって、僕らは話したことが一度もなかった。小学一年生から現在の中学三年生まで、奇跡的に僕らは同じクラスであったというのに、また奇跡的に言葉を交わしたことがなかった。

 別に僕が早瀬川を避けていたわけではなく、早瀬川が僕から逃げていたわけでもない。

 単に、早瀬川が学校にあまり来なかったからだ。

 早瀬川は病弱な子だった。小学生の時から休みがちで、学校に来たとしてもよく保健室に行って早退をしてしまうので、教室でみることはすくなかった。僕の記憶するところ、早瀬川は教室にいる時はいつも一人で静かに本を読んでいた。決まって茶色の布のカバーをしていたので、なんの本かは分からなかったけど、ときおり大きさが違ったので、もしかしたらいろいろな本を読んでいたのかもしれない。

 いつも、一人で、窓際の席で、姿勢を正しながら早瀬川は本を読んでいた。

 その姿は自然と『深窓の令嬢』を思わせた。

 そんな早瀬川のことを、僕のクラスメイトは『病院の令嬢』と揶揄するように、ふざけて呼んでいたのを覚えている。今思えば、最悪な行為だし、劣悪な呼び名だけど、そのころは小学生であり、その自覚は微塵も持っていなかった。

 それに、

 『病院の令嬢』はともかくとして、

 僕の早瀬川から受ける印象としては、『深窓の令嬢』以外の何ものでもなかった。

 僕の印象から早瀬川の姿を思い浮かべる。早瀬川はとても薄い、希薄と言ってもまだ足りないくらいに透明な存在だった。墨汁を垂れ流したような、真っ黒な長髪。触っただけでも砕けてしまうような華奢な体躯。何ごとにも一切反応しない態度。全てが僕には『深窓の令嬢』を思わせた。

 そんな早瀬川が今年の丁度五月に入ったところで、長期入院をした。これは後から先生に聞いた話だが、以前から無理をして学校に来ていたらしい。その無理がたたって、進級してから体調を崩しだしたようだった。僕としてはなんで無理してまで学校になんか来るのか分からなかったし、早瀬川がどういった病気なのか分からなかったし、その病気がどれ程重いものなのか分からなかったけど、不思議と早瀬川のことが気になった。

 気になっただけで、何もしなかった。

 気にしたところで、意味はなかった。

 僕とは関係がなかったからだ。

 今更ながら、僕が早瀬川と接点をこれ以上持つことはできそうもなかった。これだけ長い間一緒の教室で過ごしているのに、話したこともない僕らだ。どうやっても接近することはできないだろう。

 僕にとっての早瀬川は、そのくらいの存在でしかなかった。


 ……さてと、そろそろ現実逃避をやめようか。

 僕は小さく頭を振るって、さっきまで考えていたことを振り払った。

 僕は教室にいた。教室で自分の席に着いて、ぼうっと考え事をしていた。

 今はテスト中。

 僕は目の前の机に広げられた問題用紙と解答用紙を見比べた。差は歴然としていた。問題用紙が文字で埋め尽くされているのに、解答用紙は空白で埋め尽くされていた。

「……ふう」

 僕は知らず溜息を吐いた。

 既に僕が答えられる問題の解答は書き、暇をもてあましていた。

 暇つぶしに隣の席を見た。

 早瀬川の席だった。

 早瀬川は今から半月ほど前に退院して、通常通り学校に復帰していた。この二週間あまりは休むこともなく、毎日学校に来ていた。その様子は入院前とまったく変わっておらず、以前と同じように薄い透明な存在だった。

 今日もテストを通常通り受けていた。

 でも、

 今はその席には誰もいなかった。

「…………」

 早瀬川は気分が優れないという理由で、テスト中に席を立ち、そのまま保健室に行ってしまった。テストはそのまま保健室で受けるようで、早瀬川は問題用紙と筆箱を持って教室を出て行ってしまった。それに先生が付き添っていった。

「――――」

 がやがやと、教室が静かに騒がしい。先生が教室からいなくなり、そのためか多少なりと声が聞こえてきた。どこから聞こえ誰が喋っているのかは分からないけれど、どうもテストの解答を話し合っているようだった。

 まあ、そんなことは僕にはどうでもいい。それを止めるような正義感もなければ義務感もなかった。

 それよりだ――

 早瀬川の机には一枚の白紙が乗っていた。それがさっきから気になって仕方がない。もしかしてこれは裏返っていて白紙に見えるだけで、解答用紙じゃないだろうか。自分のそれと見比べても、大きさは同じだった。

 だとしたら問題だ。だって、早瀬川は今、保健室でテストを受けているのだから。これがもし解答用紙だとしたら、早瀬川はどうするというのだろうか。

 僕はどうすればいいのだろうか。

 僕がそうやって逡巡していると、がらっと大きな音をたてて教室のドアが開いた。先生が入ってきた。さっきまでの話し声はやみ、教室には先生の足音だけが響き渡った。

 先生はそのまま教壇の席に着き、僕らを見渡すように眺めて沈黙していた。てっきり僕は先生がこちらまで来て、早瀬川の解答用紙を持っていくのかと思っていたけど、違ったようだ。多分、解答用紙がないことに早瀬川が気が付く前に先生は離れてしまったのだろう。

「…………暇だし、いっか」

 僕は呟いて、すぐさま立ち上がり、

「先生っ」

「ん、夏木、どうした?」

「お腹が痛いので、ちょっとトイレ行ってきますっ」

「……そう言うわりには元気だな、お前」

 あ、しまった、意味もなく声を張り上げてしまっていた。

 とはいえ、ここでいきなり元気なく言うのは少々怪しすぎる。

 僕は構わず、変わらず声を張り上げて、

「出さないように力を入れているからですよ、先生っ」

 そこかしこから嘲笑に近い笑い声が聞こえてきた。

 笑いたければ笑うがいいさ。

 僕はそんなことは気にしない。

「そ、そうか……でも夏木、原則として一度席を立つとテストは続けられないんだぞ? それでもいいのか?」

「大丈夫ですっ」

「……なら、行ってもよし」

「はいっ」

 僕は後ろ手で早瀬川の机にある紙を掴んで、隠すように学ランの裏に押し込んだ。すこし折れてしまっただろうか、と思ったけど別にそこまで気にしなくてもいいだろう。たかが解答用紙だ。書くことができれば折れていても問題ない。

 僕は急ぎ足で、教室を出た。


 なんでこんなことをしたのか。

 僕にも理由は分からなかった。

 唯一分かっていることは、テストの解答が終わってしまい僕が暇だったということだけだ。

 なんて嘘だけど。

 いや、嘘じゃないけど、理由は分かっていた。この機会に早瀬川に接触してみたくなったのだ。こういった機会がなければ、恐らく僕は卒業まで早瀬川と接点を持つことがなかっただろう。そう考えると少し、ほんの少しだけだけど勿体ない気がした。だから、僕は暇つぶしもかねて、こうして早瀬川に解答用紙を持って行ったわけだ。

 僕はこの時点ではなにも気が付いていなかった。

 自分の過ちを。

 自分が後悔することを。

 なにも気が付いていなかったんだ。

 今になって思う。

 なんで早瀬川と接点を持とうなんて考えたのだろうかと。

 なんで早瀬川の席から持ってきた紙を解答用紙と確認しなかったのかと。

 これが後悔。

 そして、僕の過ちだった。

 僕はなにも知らずに、保健室へと足を進めた。

 迷うこともなく足を進めた。

 保健室に着く。

 ドアを開けた。




 中には、誰もいなかった。

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