思いつきの話
崎谷
棺桶
……ここはどこだろうか。
ガタガタと揺れる視界の中、僕は窓の外を見た。右側には鬱蒼と木が茂る急勾配な山が広がって、左側には崖があり遙か向こうには水平線が見える。
山と海に囲まれた世界。
目を覚ますと、僕は見知らぬ土地にいた。
なんて、言うと少し仰々しいか。
単純にバスの中で寝過ごしただけだった。
「まぁ、これはこれでいいのかな」
楽観的なことを言ってみるが、内心は悲観的そのものだった。
バスの前部にある料金表示を確認する。僕は初乗りだったはずなので、現在の値段は一〇八〇円。正直あり得なかった。
そう、あり得ない。僕の残金は一二〇〇円(小銭のみ)だったからだ。
「……つぎで降りなきゃな」
当り前のことを口にして、僕は溜息を吐いた。
やはり慣れないバスになど乗らなければよかった。バスが発する断続的な振動と、辺りから遮断された静寂と、外の寒気から守られた暖かさが、自然と僕を眠りへと誘った。
これだからバスは嫌いだし、好きなんだ。
バスが次の停車駅に着く。
僕は席を立って、なけなしの所持金から乗車賃を払った。軽くなった財布に思いを馳せ、僕はバスを降りた。
「うん。ここは本当に何処だろうな」
後ろでバスが発車して風をおこした。
着ていたコートがばさばさと鬱陶しく翻る。それを押さえながら僕はどうしたもんかなと呟いた。
バスの停車駅の名前を見るが、意味はない。僕には土地感はないし、それほど地理に聡いわけではなかったからだ。日本全国の県庁所在地だって一つも知らない僕に、こんな寂れて誰からも忘れ去られてしまったようなバス停の駅名を見たって、なんの意味もない。
ここで呆けていても始まらないので、僕はバスで来た道を遡ることにする。
思った以上に急な坂を這い上るように歩く。どうも峠を登っているようで、大きくカーブした道路が先にも後にも続いていた。普段運動なんてからっきしの僕としては、随分キツい。なんだって、僕は山登りをしているのだろうか。本当だったら、今頃実家についていたはずだ。
実家の周りは建物がひしめき合う住宅街にあった。近くには大きなショッピングモールがあり、都会とまでは言えないまでも、僕が住む地域は街と言っても過言でないと思っていた。
思っていたのに。なんだ、すこしバスで寝過ごしただけで、こんなにも未開的な世界に辿りつくのか。その事実に多少驚き感心もしたけれど、でも、みんな僕と同じなんじゃないかと思った。
みんな、自分の住む街を知っているのだろうか。
ふと、アメリカの学者だかが発表した研究成果に似たような記述があったことを思い出した。
《人間は自分達の街を局所的にしか知らない》
ある街の住民から性別や年齢などを考慮せずランダムで選び出して、普段の行動範囲をGPSで取得して一ヶ月分記録していく。その結果、どの住民も必ずそれぞれ一定の道しか普段使用していなかった。つまり、どのような人間であっても、習慣性という行動を限定させる楔に打ち付けられて、自分の街の一定区間しか使用していなかったわけだ。
まさしくこれは、僕にも言えることだった。
まあ、人間なんてものはそんなものだろう。常識という楔に妨げられて何も新しいことができないのが、普通の人間である証だ。
普通の人間。
通常の人。
それは酷くつまらないと思うほど、僕は子供でもない。子供でもないけれど、それでも心の奥底の片隅では望んでしまう。
通常ではない人。
常軌を逸した人間に、なれないだろうかと。
「まあ、冗談だけどね」
そんなことを考えている時点で、ただの矮小な人間なんだ。常軌を逸するなんて、できるはずもない。
三十分くらい歩くと、今度は下り坂になった。徒歩の場合は下り坂のほうがつかれるので、少しうんざりする。うんざりついでに立ち止まって辺りを見回してみると、ずっと先のほうに小さな橋が架かっているのが見えた。欄干が異常に高く、長さと高さがミスマッチしている石橋。遠目からだから分かりにくいが、橋は揺れているように感じた。
その橋が妙に気になったので、僕は橋に向けて歩き出した。
あんな橋、バスで通ったっけ。
寝ている間に通り過ぎたことも考えられたが、そうではないようだった。
橋はひどく小さかった。いや、小さいのではなく細い。多分人がすれ違って歩くくらいの幅しかないだろう。その細さは何とも頼りなく、石で作られているというのに風で揺れているんじゃないかと思ったくらいだ。
いくら細くったって、見て分かるくらいに風で揺れるわけがないよな。そう思ったけれど、橋に近づくに連れて、その揺れがはっきりと認識できるようになった。
ぐらぐらと、
ゆらゆらと、
どんどんと、
断続的に揺れていた。
一体、なんで橋が揺れているんだ。
そう疑問が先立ち、僕は橋に駆け寄った。
橋の岸に立つ。
「……なんだ、これ?」
思わず僕は呟いた。
橋の中央部分を凝視する。
棺桶が置かれていた。
「棺桶? なんでこんなところに?」
不自然に、橋の真ん中にぽつんと置かれた棺桶。
不自然と言うよりも、不気味。
不気味と言うよりも、不吉。
不吉であり、異常である。
「…………」
なんでこんなところに棺桶があるのか、そもそもこれは棺桶なのか、さっきまで揺れていたのはなんだったのか、まさか棺桶が揺らしていたわけでもないよな、とか自然と沸いてくる疑問を放棄して、僕はゆっくりと棺桶に近づいていった。
異常に魅せられていった。
棺桶の前に立ち、見おろす。なんの変哲もない棺桶だった。長方形の箱で、蓋には故人の顔を出すための小さな窓が一つ。色が真っ黒ということの他には大して異常ということもない。
……黒? そんな棺桶があり得るのか? この形から見て、日本式の棺桶だと言うことは想像がつく。昔、祖父の葬式でみたものと形が一緒だったからだ。でも、それは奇麗で清潔な白色だったと記憶している。
僕には日本の伝統などの知識はなかったので分からない。色なんてもしかしたらどうでもいいのかもしれない。いいのかもしれないけれど、それでも釈然とはしない。死者に対して黒を表すのは、違和感を感じざるを得ない。
黒い棺桶。
不気味な象徴。
それは西洋のお話に出てくる棺桶を思わせる。
「まあ、なんだっていいか」
なんだっていい。
どう転んだところで、すでにこれは異常なんだから。
僕の手は無意識に棺桶に伸びていた。触れる。無機質な外観からは違い、表面はざらざらとしていた。黒という色のせいで分からなかったが、これは従来どおり木でできているようだった。
触っていると何故か落ち着いていった。
途端、棺桶が振動する。ガタガタと蓋が音をたて、僕は思わず手を離した。直後、今のは勘違いだったと錯覚するくらいに、なんでもなく音がやんだ。
中に、何か入っているのか? いや、中に何か入っているのは間違いない。重要なのは、ここで僕がどう行動するかということだ。
蓋を開けて中を確かめる?
見なかったことにしてここを立ち去る?
客観的に判断すれば、ここは立ち去るべきだろう。中に何が入っているか分からない。だが想像することはできる。人間かもしれないし、動物かもしれない。もし自分に危害を加えるものであったならどうする。蓋を開けたことを後悔するのではないか。
そう考えると恐怖を感じてきた。恐怖は想像力から生まれるというのは本当で、僕のような人間でもそれは当てはまるのだ。
でも、
僕は、
蓋を開けたい。
客観的とか恐怖とか、そんなものは主観の好奇心には勝てないんだ。
だって、僕は普通の人間だから。
ただの、人間だから、禁断の実だって食べるし、パンドラの箱だって開けてしまう。
昔から、人間なんてそんなもんなんだ。
「……冗談だけど」
そう呟いたけど、
僕は棺桶の蓋に手を置いた。
そして、投げ飛ばすように、蓋を開けた。
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