オランダ苺
照留セレン
オランダ苺
花束を抱えてお姉さまの病室に伺うと、丁度先生がお見えでした。
「お加減はどうですか」
先生はカルテに何か書きつけながらおっしゃいました。
「今日は何だか調子がいいの」
お姉さまは微笑んで、身体を半分起こされました。南向きの窓から射し込む陽の光が、ゆるく編んだ髪を照らします。
「そうだわ、先生。苺がひとつ赤くなったの。おひとついかが?」
「……遠慮しておくよ」
「そうよね」
お姉さまは可笑しそうに笑いました。
「人から生えた苺なんて、気持ち悪いもの」
お姉さまの左手首、丁度脈の打つ位置からは、苺の苗が生き生きと育っていました。派手すぎる腕輪のような葉陰に、小さな実がいくつか揺れています。そのうちのひとつが、瑞々しく鮮烈な赤色に熟れていました。お姉さまの血を吸っているのでしょうか、生気を吸っているのでしょうか――定かではありませんが、そうは思えないほど邪気のない朗らかな赤でした。
お姉さまは苺をぷつんと摘み取り、しばし眺めると、屑入れに放ってしまわれました。私は思わず息を飲みました。苺は白いプラスチックの底にぶつかり、ぺしゃと情けない音を立てました。ビニール袋の膜の上には果汁が流れ、甘酸っぱい匂いがいたします。お姉さまの血も甘酸っぱいのでしょうか。
「窓を開けて頂戴」
お姉さまは静かにおっしゃいました。苺の葉がかさかさと揺れました。
「起きてらしてよかったわ」
先生がお帰りになったので、私はベッドの傍らの椅子に座りました。
昨年の冬、苺が生え始めて以来、お姉さまは眠っていることが多いのです。私はお姉さまが起きていらっしゃる日を見計らってお見舞いに伺います。「はずれ」の日に当たることも多く、その度私はいたたまれない気持ちで、お花だけ活けて帰ったものでした。
「今日もお花を持ってきました」
私は持ってきたお花を花瓶に活けました。今日のお花は庭に咲いたフリージアです。上向きの黄色い花からはほのかに香りが漂っていました。お姉さまは目を細めて笑いました。
「綺麗ね。いつも有難う」
「いいんです、好きにやってる事だもの」
「学校はどうなの?」
「みんな元気よ」
私は嘘をつきました。
実のところ、みんな――要するにその他大勢のことなど、私はろくに見ていませんでした。毎日会って、お食事をして、お話をしてはいても、その他大勢は決して特別にはなり得ません。
お姉さまが学校にいらっしゃらなくなって数ヶ月もすると、見舞いに来る人は随分少なくなっていました。私はそれを心の奥で嬉しく思ったものです。他の子の来訪に邪魔されることなく、お姉さまとお話する休日の昼下がりが、私は何より好きでした。
お姉さまは私の特別で、私はお姉さまの特別。
「羨ましいわ」
お姉さまは目を伏せて懐かしそうにおっしゃいました。長い睫毛が影を落とします。有象無象の「みんな」を想っていらっしゃるのでしょうか。ここに私が来ているのに。
「私がずっとお側におります。ここにずっと。お姉さまに寂しい思いをさせることなんてしないわ」
思わず声に力が篭もりました。
「それは駄目よ」
お姉さまは微笑んだまま静かにおっしゃいます。
「あなたはきちんとお勉強をして、お友達とお話して、私にそれを聞かせて。いつも一緒にはいられないけど、こうして時々お話を聞かせてくれるのが、私は嬉しいの。だから」
どうして離れたままで良いなんて思えるでしょう。週に一度と言わず、毎日、いえ、朝も夜もずっと近くにいたいのに。
「ああ、そんな顔しないで」
お優しいお姉さま。大好きなお姉さま。
ほどなくお姉さまは眠りにつきました。次にお話出来るのは来週でしょうか、いえ、もっと先かもしれません。立ち去るのが名残惜しくて、私はしばらく病室にとどまっていました。
お姉さまの手首から苺が蔓を伸ばし、私の手首に子株を根付かせる様を夢想しました。
細い蔓で繋がったまま。
栄養を送られ生かされながら。
この部屋でずっと眠るのです。
お姉さまはお優しいから、悲しい顔をなさるかもしれません。
しかし私は、私には、それが最も幸福な情景に思えました。
残念ですがそろそろ帰る時間です。
私は立ち上がり、お姉さまの左に回り、手首に実るまだ青い苺をひとつ摘み取りました。ぶつりと音がして葉が揺れましたが、お姉さまは静かに眠っていらっしゃいました。私はそれを、ヘタも取らずに口に含み、噛み潰しました。酷く酸っぱい味がしまして、ざらざらとした感触が喉に残りました。
オランダ苺 照留セレン @selen_ter
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