第14話 魔精霊

ヒュゴオオォ!!


 夜明けから少し経った頃。リアムのいる場所から猛烈な腐食の風がわき上がった。

こちらの休息時間を確保するために彼は夜明けまで戦ってくれていたのだろう。


「来るぞ!」


 吹き付ける世界を引き裂くような風の音。あまりの魔力の濃さに景色が歪む。


 ユラリと砦の影から姿を現したのは昨日までと変わらぬリアム。

だがしかし、その背には20ペーキュス(約10m)の暗緑色の針金で編まれたような巨人の姿が現れていた。

 

 巨人はリアムの背中一面に広がった文様が血管のように伸びて彼に取り付くようにその巨体を形成しているように見える。


 フィオナはすでに世界辞典を開き敵の情報を読み取ろうとしていた。 

 

魔精霊ダイモーンは変化の神が生み出した最悪の災厄。

風の魔精霊は、その名の通り風に特化した七つもの力の言葉を操り大いに帝国を苦しめた。

その姿は核となる人間と、それを包み込むように展開される精霊体。

各魔精霊の力を用いて人間の身体が戦うこともあれば、精霊体が実体化して世界を歪めることもある。

1000年前の戦いではたった二体で、無敵を誇ったケンタウロス騎兵団を半壊させたという】


「つまり、あれが伝承通りの姿というわけか!」


「世界辞典にはそう書いてあるけれど、まだ出現したばかりだから不用意に仕掛けてはだめよ」


(今助けるわ。リアム!!)


 ヘリオスにはそう言いながらも、フィオナが世界辞典マグナ・コスモスを握る手にも力がこもる。

傍らにはメディアの姿。

 この辞典を魔道書として機能させるにはメディアの力が必要で、辞典として使うにはフィオナの力が必要なのだ。必然的に二人は並び立つことになる。


「こんな時になんですけど……わたし、フィオナ先生の教え子で本当に良かったと思います」


 ヘリオスと同じく自分には何の価値も無いと信じていたメディアを頼りにしてくれるフィオナ。

自分はその期待に応えられる存在になれただろうかとメディアは思う。


「私もよ。貴方がいたから頑張れた。貴方がいたからここまでこれた。貴方は私の最初で最高の生徒よ」


 フィオナの緊張が少し緩む。その時メディアに見せた笑顔はリアムに向ける笑顔と同じとても嬉しそうな表情で、フィオナが自分を信じてくれている気持ちが痛いほど伝わってくる。


【500年前の大戦ではアイアースと名乗りデルフォイに強襲を仕掛けてきた。

皇女カサンドラを力尽くで奪おうとしたが単身で魔精霊と渡り合う誓約の勇者を得た人間族ヘレネスの初代ジェイソンによって討伐された。大戦後にカサンドラ皇女は勇者ヒューペリオ・ジェイソンの妻となり、デルフォイ王家、またはコリントス候家の始祖となった】


 続いて読み取られたのは500年前の出現の記録。その時は明確な人格を持ち戦いを挑んできた。


「先生。あれはリアムさんなんですか? それとも……」


 更にリアムの周囲の空間が歪む。

これは間違いなく魔法。しかも強大な魔法が来る前兆だ。 


『風よ【告げる】。

【流れよ】世界を巡れ早馬の如く。

 【重ねて告げる】渦を巻け叫びを上げよ

 【生ぜよ】腐食の霧。

 【沸き立て】全てを飲み混む狼煙となれ!

 【混交せよ】毒刃と化せ。

 命ずる。【引き裂け】我が意のままに世界を!!!』


 魔精霊がリアムの声で呪文を詠唱する声が響き渡る。


【告げる】で始まる魔精霊の魔法はその存在自体が巨大な力の源であることを示している。


 普通の魔法使いは最初の言葉で【生ぜよ】と告げ、世界に介入する力を生み出すが、力そのものである魔精霊はその力を無尽蔵に引き出すことが可能。

 

 それは彼らが元々は根源精霊アルケーであった証であり、世界に満ちる全ての風と繋がっている証明でもある。


 しかも最も魔法に長けた種族と言われる吸血鬼バシレウスをも上回る七つの言葉は文字通り桁違いの威力を発揮する。


「二人とも砦までさがれッ!!!」


 背中の巨人が手を広げると、全方位から腐食の風が巻き上がり武器の姿を取る。

目の前の視界全てが暗緑色の刃で埋まり、それらがけたたましい音を立てて降り注ぐ。


「メディア。下がりながら人魚族ネレイデスの守護をお願い。地上に落ちたらあの武器は辺り一面の生き物を殺し尽くす魔風に変わるわ」


「風の魔法はいけないのですね。ヘリオス様は?」


「このまま引けばどの道、毒霧で全滅だ。斬り込むしかないだろう。俺一人なら戦える」


 その間にもリアムの頭上には、魔風の嵐が形成されていく。

下がりながらメディアは【人魚族ネレイデスの守護】を唱える。


 この魔法は対象の周囲を包み込む水の渦を産み出す魔法で中にいるものは水中でも呼吸ができる。風の魔法は風の魔精霊相手には全て無効であり、短時間であれ、この空間でも生きる最良の手段。


 ヒュゴォォォォォッと、野分のような音を立て魔精霊の放った毒刃が地面に炸裂する。

今の今まで普通の景色だった場所が一瞬にして腐食し、毒の霧が巻き上がる。


 その死の嵐の中をヘリオスは駆け抜ける。

 

 腐食した地面はぬかるみとなるため、人馬族ケンタウロス歩法を修めた者で無くては自由に動くことはできない。


 ここにデメトリオスがいてくれたらどれだけ心強かったかとも思うが、それは叶わぬ願い。


「お前は……誰だ!!!!」


 次々と着弾しヘリオスを捉える楔と化した風の武器が降り注ぐ中、紙一重で走り抜けて問う!。


 リアムのものではなく目の前の巨人の目がヘリオスをにらみ付ける。

 つまり今はリアムの肉体を魔精霊が操っている段階だということ。

 完全に肉体を支配下に置いているわけではない。


「リアム。お前もそこで戦っているのか?」


「オォォォォォ」


 魔精霊はその問いには答えず、小さく呻くと矢をつがえる構えを取る。


『風よ【告げる】。

我が手に【集え】

 牙となり空を【裂け】!

 爪と化し大地を【穿て】

 命ずる。風の矢よ我が敵を【射よ】!』


 風が収束し弓と矢が手の中に産まれ、そのまま解き放つ。


シュゴォォォォ!!!!


 リュカオンの突撃のような速さで飛来する空気の矢をヘリオスは叩き落とそうとする。

このまま後ろに流せば背後にいる二人には為す術もないだろう。


しかし命中する直前、矢はいくつにも分裂して四方八方からヘリオスを貫く!


「ぐっ。うわぁぁぁっ!!」


 その魔法は強固なはずのヘリオスの障壁を易々と貫き、身体のあちこちから血が吹き上がる。

しかもその一本、一本の矢が毒を持つのだ。

 辛うじて深手は負わなかったが、それでも動きを鈍らせるには十分。

そんな彼の目の前に、リアムの身体と巨人の身体に四本の風の槍を携えて敵が迫る。


 咄嗟に地面に転がりながら攻撃を避けるが相手の鎗は、正確にヘリオスのいた場所を貫いていた。


「完全に支配しているわけではないといえ、リアムの持つ技能は全て使えるのか……」


 世界を壊す魔法に人間の技。リュカオン以上につけいる隙は無いように見える。


「先生、このままではヘリオス様が!」


「近寄ることもできないなんてね。こんなものどう戦えっていうのよ……」


 前に出ようにも後ろに下がろうにも周囲を埋め尽くす風をどうにかする必要がある。


 ヘリオスにすらいとも容易く攻撃を当ててくる化け物相手にどう戦えばいいのか?


 この腐食の嵐をどうにかしない限りは対処のしようが無い。


「『浄化の雨』なら何とかなるかもしれないけど、さすがにメディアでも無理よね?」


「あの儀式を行うには数十人の術者が必要です。この本を使っても魔法なら四つの言葉まで、正法は二、三人分の術までが限界ですね」


「近づくことは?」


「一人分の道ならなんとかできます。だけど、ヘリオス様でさえあんな苦戦する相手に、わたしたちが何かできるでしょうか?」


 メディアの言うように、目の前のヘリオスに到達することすら難しく、しかも二人では足手まといにしかならない。人狼族リュカオンならば己の名誉のために非戦闘員を狙わないが、魔精霊にはそんな規範意識なんてものも無い。


さらに遠話で支援しようにも、相手は風を操る魔精霊。風を使う魔法は無効化されてしまう。


「先生の紋章なら、あるいはあの風を弾き返せるかもしれません。ですが……」


「ですが?」


「ただ速いだけの攻撃なら、ヘリオス様には通じません。あの魔精霊ダイモーン、普段の速度は人狼族リュカオンよりも全然遅いのですけど、瞬間的に攻撃を風で加速しているんだと思います」

 

 恐らく先ほどの矢が命中したのも、ヘリオスが精神を集中するタイミングを風による加速でずらしたものだろう。一番近くで彼を見ていたメディアだからこそわかる。


 あんなにも簡単にヘリオスへ攻撃を当てることなど不可能だ。


「約束……したのに!!」


 リュカオンの攻撃を受けた時も今もそうだ。

戦う力を持たないフィオナでは、こういう時に何もできない。


 見ていることが嫌だったから、置いて行かれるのは嫌だったから、せめて知識だけでも誰にも負けないようにと努力を重ねてきたつもりだった。


 それなのに魔精霊ダイモーンという世界の敵の前では、一歩前に踏み出すことすらできない。


 その思いは、相対するヘリオスにとっても同じだ。 


「俺の力はこの程度だったのか?」


 背後からかすかに聞こえたフィオナの声。


 責任感の強い彼女のことだ。この状況をどうにかできないことを思い悩んでいるに違いない。

とはいえ、この状況ではヘリオスでさえも有効な手立てが有るわけでは無い。


 間合いをずらして正確無比な突きを繰り出し、こちらが追いすがれば風に乗って一気に距離を取り、射かけてくる。


 これが普段のリアムの技であれば、ヘリオスにとってはいなすことも制圧することもたやすい。

それが風の力で人の限界を超えた加速を産み、壊れた身体は即座に魔精霊の身体が再生する。


 見切ることも予測することも不可能な攻撃は、障壁を発動させるわずかな隙も与えてはくれなかった。


「それでも俺は勇者だ!」


 初代ヒューペリオ侯は何の武術の心得も無いただの文官だった。


 そんな男がただ一人世界を護るために迫り来る魔精霊ダイモーン魔人アトラスの軍団の前に立ちはだかり、ついには勝利した。


 その行為を讃えて、人は彼を勇敢なる者――――勇者と呼んだ。


 ヘリオスはその名を継ぐ者である。諦めることはありえない。


「いかに速くとも、受けることを考えねばかわしつづけることはできる」


 そのまま剣が届く距離まで近づくと、自分の身体を覆う水の膜がシュゥシュゥと音を立て腐食するのがわかる。


 本当にちかづくことすら危険なのだ。


 無言で繰り出される風の鎗をかいくぐり、魔精霊のみをリアムから切り離すべく斬りかかる。


「ヘ……レ……ネ……ス…………」


 巨人の身体に刃が届いた瞬間、リアムの口から彼とは違う声が聞こえる。

 ヘリオスが目にした左手の紋章は薄くなっており、リアムの意識が消えかかっているのだと悟る。


「すまないが、このまま押し斬らせてもらう」


「ヘレネーーーース!!!」


 今度は力強い声。

 四本の鎗が同時に出現し、四方からヘリオスの身体を貫く。


「グガッ。グゥゥッ!!」


 声にならない叫び。


『風よ【告げる】。

 我が手に【集え】

 牙となり空を【裂け】!

 爪と化し我が敵を【穿て】

 命ずる。風の矢よ【爆ぜよ】!』


 巨人の身体が弓を構え、矢を撃ち下ろす。


ヘリオスの身体はそのまま貫かれ、体内に入り込んだ風はそのまま高速で回転し小さな竜巻となる。


「ヘリオス!」


 フィオナの叫びが響く。

ヘリオスの体内に生じた竜巻は、彼の身体を粉々に引き裂いた!!!!。


 カラン……カラン。


と、鎧の落ちる音がむなしく響く。


 ヘリオス・ジェイソンは断末魔の叫びすら残さず、跡形も無く消えた。


 その場に立っていた魔精霊の巨人の身体がリアムに吸い込まれるように消える。

周囲の破壊を確かめると、厳かに口を開いた。


「さぁ、世界を滅ぼしに行こうか……」


「メディア!!! ヘリオスが!!! リアムが!!!」


 目の前で起きたできごとに、フィオナも取り乱さざるおえない。

肩を揺すられたメディアは、主の死という状況の中でも、なぜか落ち着いているようにみえた。


「フィオナ先生、落ち着いてください。前にヘリオス様はお話になりましたよね。勇者は死なないのではなく『死ねない』と」


 フィオナの肩を抱き、メディアは死んだ主の鎧を見つめる。


「先生。これが……これから起こることが誓約の勇者の真実です」


 唇を噛みしめ虚空を見つめるメディア。彼女だけはこれから起きることを知らされていた。

あの時、リュカオンとの戦いの時に最後まで残ろうとしたことも、それでもその日を一日でも先延ばしにしようと必死に頑張ってきたからだ。


 それだけにこれは彼女にとっても何よりも悔しい敗北なのだ。


『【告げる】……』


 その言葉はヘリオスの声。

この場から消え失せた彼の声が、あってはならない言葉を紡ぐ。


『光よ【告げる】

【生ぜよ】我。我は光と共に歩む者。

我が右手は【剣】全てを断つ者。

我が左手は【鎧】あらゆる刃を阻む者。

我が両足は【車輪】誰よりも疾く過ぐる者。

命ずる。顕現せよ【光】の身体!!』


「覚えて……いるぞ。やはりお前かぁ! イアソン?」


 普段のリアムからは考えられないような下卑た笑顔で魔精霊は笑う。

絡みつくようなねっとりとした声音は明らかにリアムの物では無い。


「あいにく俺はご先祖様では無いがね」


 光が収束し、鎧の中に再びヘリオスの肉体が再生する。

その背にはリアムと同じく、魔精霊ダイモーンの証である文様が刻まれていた。


「フィオナ先生。あれが誓約の勇者。神との誓約によって根源精霊アルケーと融合を果たした人間族ヘレネスの守護者です」


「あれが本物の勇者。あんなものが、あれが勇者ですって」


 そう。精霊と融合した人間。世界から無尽蔵の力を吸い上げて破壊を行う存在。

 神々しさと同じだけの禍々しさを身にまとう者。それこそが人間族の切り札だったのだ。


「受け取れ。俺を殺した礼だ」


 言い終わった時には、既に事を終えていた。

ヘリオスが剣を拾い上げた直後に魔精霊ダイモーンの腕が転がり落ち、血しぶきが舞う。


「もっとも、俺達にとってはそんなもの傷のうちにも入らぬがな」


 剣についた血を払い、もう一度剣を構える。 


「そうだ。我らにとっては世界の全てが肉体。世界が有る限り死ぬことは無い」


 溢れる血に暗緑色の風が巻き付き、ビュルリと腕の形を取る。


「勇者よ、こちらも倍返しさせてもらとしよう」


「できれば人の力で勝ちたかったが……」


 少し悲しそうに剣を振り上げる。


「逃れることはできぬぞ。我が風の檻からはなぁ」


 先ほどヘリオスを仕留めた風による偏差攻撃。

 

 一度殺された時よりも遙かに速度と密度を増していたが、ヘリオスは光をまとう左腕でそれをなぎ払い、右手を無造作に振り下ろす。


「やはり貴様ら相手では無理だったか」


 剣先に生じた光は周囲に集まる風を全て焼き尽くし、幾重にも伸びる光の刃が敵を切り刻む。 


「おのれ! おのれ!」


 圧倒的な優位を覆された焦りからか、手当たり次第に世界を腐食させようとするが、光の刃は容赦なくその空間を焼き払っていく。


「あんなでたらめな力、ヘリオスは本当に大丈夫なの?」


「いいえ。もちろんそんなことはありません。あれは勇者の命を燃やして敵を討つ技です。ヘリオス様もできる限り頼らぬようにと……」


 昨日、時間をかけて湯を沸かすくらいだと自嘲気味にいっていた彼の言葉を思い出す。

勇者の力に由来する光の魔法は桁違いの熱量を産み出すのだろう。


 だが、あのヘリオスの口ぶりからはとてもそれを誇っているようには見えなかった。

彼は世界を焼き尽くす魔法なんて好きでは無かったのだと思う。


 下手でも苦手でもメディアから破壊で無い魔法を学んでいたのは、人を助けたいという彼の本心だろう。

そして今も、世界とそしてフィオナとリアムを救うために自分の命を燃やして戦っている。


 誰かのために何かを捨てても構わないという覚悟。

それが勇者の力の源なのだろうと思う。


 魔精霊の意識が出てきたとはいえ、まだ左手にはリアムの紋章がある。

つまり彼の魂はまだ消滅していない。


それならば愛する彼を救い出すことは他の誰に任せられようか?


「たしかに私は何もできないかもしれないわ。でもね……何かを考えることくらいはできるのよ!」


「先生はどうなさるつもりなんです? あの二人の戦いに近づくなんてそんなことをしたら死んでしまいます!」


「メディア、それでも彼を迎えに行くのは私の役目よ。私にしかできないわ」

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