第13話 別れの夜最期の夜

「ごめんなさい。私の見込みが甘かったせいね。デメトリオスさんもリアムもあんなことになるなんて……」


「それをいうなら俺の責任でもある。あそこで立ち上がれさえすれば、この事態は避けられた」


「お二人とも、そんなことを気にしても仕方有りません。今は身体を休めてリアムさんを追うんです」


 今この場にリアムの姿は無い。彼の中の魔精霊ダイモーンは再び動き出し、いつ表出してもおかしくはない状況だった。


 二人を庇い深手を負ったデメトリオスと、リュカオンとの戦いで限界まで戦ったヘリオスでは魔精霊を抑えることができぬだろうと、リアムはそのまま森へと去った。町に帰るなりデメトリオスは急遽仕立てられた馬車でメガラの街に搬送された。

 牽く者のいなくなった皇帝戦車は村人達が回収することになるだろう。

ようやく出会えたフィオナとリアムは再び離ればなれになってしまった。


『なぁに気にすることではござらぬ。すぐに追いつくでござるよ』


 と、デメトリオスは気楽に告げてくれたがそれが今のフィオナには辛かった。


「あの時、フィオナが人狼族リュカオンの不死の秘密に気付かなければ負けていたかもしれん。全員生き残っただけでも俺達の勝利だと思わなければな」


 休んだことで少し精神力が回復したメディアが、イリオスの特産品である気付け草をかみ砕きながらヘリオスの傷を癒やす祈りを続けている。


「それでも…………もっと上手なやり方があったのでは無いかと思うわ」


「たしかにリアムのことで君がそう考えることは仕方が無い。だがあの絶対絶命の状況を抜け出せたのはフィオナのお陰だ。一日でも早くリアムに追いつくために今は身体を休めて欲しい」


 起き上がることもやっとの傷のはずなのに、それでもフィオナ達を気に掛けているのは、ヘリオスが勇者だからではない。


 今まで見てきてわかったが、本質的にヘリオス・ジェイソンは底抜けの善人だ。

 彼は誰ものために戦うだろうし、逆に誰もが彼への助力を惜しまない。

その気質こそが人間ヘレネスの守護者としての何よりの資質だろう。


「わかったわ。お言葉に甘えて今はやすませてもらうわね」


 そうなれば気持ちを切り替えるのも楽だった。

泥のように眠り続けたフィオナが目覚めたのは二日後。


 その頃にはヘリオスも起き上がれるようになっていて、リアムから遅れること三日でフィオナ達は村を出立した。


 リュカオンが最初に拠点としていた廃砦までの道のりは四日。

途中の道では至る所に毒の沼ができており、いよいよリアムに残された時間が無いことが理解できた。


*********************


 そして四日後。

 せせらぎの音が響く少し開けた場所にその廃砦はあり、石造りの建造物は蔦で覆われてところどころ朽ちている。それでも、猟師や木樵が避難小屋として使っているのか、まだ人が住めるほどには整備されており、その壁面にもたれかかるようにして休むリアムの姿を見つけるのに時間は掛からなかった。


「リアム! 追いついたわ!」


 フィオナの姿を認め、力なく頭を上げると辛そうにこちらを見るリアム。


「フィオナ……。僕に……近づくな」


 リアムは己の意識が少しずつ混濁してきていることを自覚している。

持って今日一日。もしかしたら、もう今が限界なのかも知れない。


「先生、ゾエさんの血で何とかなりませんか?」


「わからない。でも、それしか方法は無さそうね」


 投げられた小瓶を受け取ったリアムは一気にそれを飲み干す。

彩眼族イーリスの血が効果を発揮し、混濁した意識はスッと元に戻る。


「大丈夫?」


「ああ、少し落ち着いた。ヘリオス様、最期にフィオナに逢わせてくれてありがとうございます」


「待て、早まるな。俺が何とかする。だからもう少しだけがんばってくれ」


「ありがとう……ございます」


 一時的に意識を取り戻したとはいえ、見る限りもう首元まで浸食は進んでいる。まずは彼と話す方法を考えなければならない。


――数時間後――


「まさかこんな手段があるとは。メディアさんもすごいな」


「やっぱり着眼点が鋭いのね。こんな方法で魔精霊の力を中和できないかなんて、普通は考えないわよ」


「そうだよな。道理でフィオナのお気に入りになるはずだ」


「そうよ。私の自慢の生徒ですもの。リアム、もしかして、あの手紙のこととか話したの?」


「うん。僕にもしものことがあった時のためにさ。できることはしたかった」


「もしもなんて……させないわ」


 彩眼族イーリス血の力によって、一時的にだが正気を取り戻したリアム。こうしてフィオナと話をするために驚きの手段が講じられていた。


 話は少し遡る。


『お風呂? どういうこと、メディア?』


『今のままでリアムさんに近寄るのは危険です。でも、リアムさんが紋章の力を使い、わたしが水の浄化を祈念すれば、可能ですよね?』


『それなら魔精霊の腐食の風は防げるでしょうけど、貴方の気力が続かないんじゃ?』


『そこは大丈夫なはずです。先生の世界辞典を使って儀式正法を設置すれば、しばらくは持ちます』


『一度使っただけなのにそこまでわかるものなのね。ヘリオスはそれで問題ないの?』


『もしも魔精霊の意識が表出するなら紋章は維持できないはずだからな。フィオナが逃げる時間くらいは稼げるだろう。それに……』


『それに?』


『それに男だったら命をかける戦いの前には、好きな娘と過ごしたいものだろ?』


 何をいっているのかと言い返そうと思ったが、ヘリオスの表情は真剣そのもの。おそらくデメトリオスにでも教えられたのだろう。


フィオナとリアムは唖然としていたが、メディアだけはクスクスと笑っていた。


『わかったわ。リアムの身体のことも気になるし、私もできるかぎり彼の側にいたい。それが可能かどうか調べてみるわ』


 そして今に至る。


 大地に穴を穿ち、そこに川から水を引き込む。

 二人の故郷の雪割り谷には及ばないが露天風呂らしき物ができあがり、周囲に簡易結界石を配置することで魔精霊の力が外に漏れないようにした。


 リアムはその後紋章を解放し、万が一力が暴走してもいいように湯船に浄化の力を注ぎ続けている。メディアは世界辞典を使い、水の浄化を祈念していた。

 湯を湧かすのにかなりの熱量が必要な気がしたが、意外にもそれはヘリオスが何とかしてくれた。

 彼は魔法がとても苦手で、長い時間詠唱して湯をわかすくらいの魔法しか使えないという。

 

 とっぷりと日が暮れて、結界石の放つ淡い黄色の光が水面を照らす。

ヘリオスとメディアは少しでも身体を休めるために今は砦跡で休んでいた。


 時々、二人の浸かる湯船が青い輝きを放つのは、やはり暗緑色に変色したリアムから猛毒の風が染み出してきているからだろう。


「でも、こうやって二人でお風呂に入るなんて何年ぶりかしら?」


「四年ぶりくらいじゃないかな。最後の時とは全然違う」


「何が?」


「何がって、色々だよ。その……それとか」


「ああ、これ……」


 途端に沈黙する二人。

視線の先には大きく育ったフィオナの双丘がある。


 さすがに凝視するのは恥ずかしいのかリアムがフッと目を逸らす。


「リアムだって、背が伸びたし、たくましくなったじゃない」


 記憶の中のリアムはこんなに筋肉質でもなかったし、背も高くなかった。

もはや全身を覆いつつある痣を除けばもう立派な大人の身体だ。


 駄目だとはわかっていても、フィオナはその身体に触れてしまう。

今までは痣でしかなかった暗緑色の塊は入れ墨のように身体に拡がっている。

 この文様が身体を覆った時、魔精霊ダイモーンはこの世界に現れる。

フィオナは危険も顧みず何度もその文様を手でこする。


 頭では無理だと理解できていても、何度も何度もこすり続ける。


「もういい。フィオナ。僕に触れるのは本当に危険なんだ」


 まだ浸食されていない左手でそっと優しくフィオナの手を離す。

柔らかくか細いフィオナの手、白くて滑らかなその手がリアムは好きだった。


 離さなければならないと思いつつも、その手をしばらく眺めている。


「私、もうこのままリアムと一緒にいちゃ駄目なのかな?」


 思い詰めたような声。

よく見るとフィオナは泣いていた。


 フィオナ・グレンは諦めない。

明晰な頭脳で必ず解答を導き出す彼女は、後悔も逡巡もしない。


そのはずだった……。


「フィオナ……」


「だって、この時間が終わったら、もう二度と貴方に逢えないかもしれないじゃない」


 政争に巻き込まれて両親を亡くし、祖父も亡くしたフィオナ。

唯一の肉親の叔父も彼女とは血のつながりは無い。


 そんな彼女から、運命は最愛の婚約者すら奪い取ろうとしている。

ライアン家の両親が居るとはいえ、フィオナはずっと孤独に耐えてきた。

 

 今の今まで泣き出したり弱音を吐かなかったことの方が奇跡なのだ。


「フィオナ……君にお願いがある」


 リアムもこの三年間、孤独と絶望と戦ってきた。

それでも師であるデメトリオスやテオドリック、面倒を見てくれたミダスやゾエは側にいてくれた。

 浸食による絶望の中でヘリオスの――勇者の手で討たれることで家名とフィオナの未来を守ろうとも考えていた。そんな彼の元に、わずかな手がかりからフィオナはたどり着いた。


 剣も魔法も使えない。紋章があるとはいえ戦う力など皆無の彼女がここに来た。


 そこまでしてきたフィオナの想いをリアムは心の底から愛おしいと思う。

だから全てを諦めるということは絶対にあってはならない。


「フィオナ。僕は必ず君と一緒に雪割り谷に帰る。だから、僕を助けてくれ!」


「リアム?」


「ただで魔精霊ダイモーンなんかにこの身体をくれてやるもんか。僕も最期まで諦めない。でも悔しいけど僕の力だけじゃこいつには勝てないんだ」


 覚悟を決めてフィオナを抱き寄せる。

この鼓動を、この柔らかさを、この温もりを絶対に忘れない。


 彼女の涙を止める。それは彼女を信じて共に戦うことだと改めて決意する。


「うん。絶対に私達で貴方を取り戻すわ。そうしないとお義父さんやお義母さん。それにデメトリオスさんにもデルフォイの皆にも合わせる顔がないもの」


 リアムの決意を知り、フィオナもいつもの調子を取り戻す。

リアムが信じてくれるのなら、フィオナはその信頼に応えるしかない。

目を閉じてリアムの身体をきつく抱きしめる。


「そうだ。僕の妻になる君はどんなときでも絶対に諦めたりしない人だ」


「奇遇ね。私の旦那様になる人も世界で一番諦めの悪い人だわ」


 顔を見合わせて二人は笑う。


 その後はリアムのいない間の雪割り谷のことや、フィオナのいた帝都のこと。

リアムのデルフォイでの生活のことなど楽しい話ばかりだった。


「それじゃあ、頼むよ。フィオナ」


「うん。リアムも負けないで!」


 湯船から出て着替えが終わると、もう一度二人は抱き合い挨拶を交わす。

この夜が最期の絶望の夜になる。次に来るのは絶対に希望の夜にしてみせるのだ。


「メディ。少しでも休んでいた方がいいのではないか?」


「ありがとうございます。でもお二人のことが気になるので、わたしはもう少し起きてます」


 フィオナとリアムが即席露天風呂で話し合っている間、ヘリオスとメディアは廃砦で休んでいた。

どうやらリュカオンが使う以前にも頻繁に使われていたらしく、窓の鎧戸も錆び付いてはおらずベッドやタンスも朽ちては居なかった。


「そうか。メディは恐くはないか?」


「それはもちろん恐いですよ。だけどそこはヘリオス様が絶対に護ってくださります」


「ハハハ。ずいぶんと買いかぶられたものだ」


 メディアは全幅の信頼をヘリオスに寄せている。その感情は尊敬というよりも崇拝に近いものだ。


「ヘリオス様は、恐いとか思わないんですか?」


「俺か? 死ぬことは正直恐くない。そういう風に育てられているからな。それよりも俺は負けることの方が遙かに恐かった」


「あの皇帝選抜戦のことですか?」


「そうだ。俺は産まれてから10年以上も修行に明け暮れていた。コリントス候を継ぐため最高の師と環境でずっと育ってきた」


 誓約の勇者は人類の守護者である。父である勇者フィボスと剣神の誉れも高いスパルタ伯レオニダスから授けられた剣技は並の剣士が数十年かけて到達する境地だった。


 その彼が一度は皇帝になる能力無しと放逐された廃太子アルケイデスに破れたのだ。


「しかもあの時、陛下は本来の得物である鎗では無くて剣を使っていたからな。万を超える市民の前で敗北すると悟ったときの恐怖。あれより他に恐い物はない」


 今にして思えば、フィボスは自分が皇帝戦に名乗りを上げずヘリオスを戦わせたのは、その敗北の恐怖を教えるためだったのでは無いかと思う。


「そうだったんですね。わたしだったら逃げ出していると思います」


「俺だってそうさ。陛下の強さは尋常ではない。世間では互角などと言われているが、それこそ父上や我が師の実力でなんとか止められるかという怪物だ」


 勝てないと悟ったとき、降伏しようかとも思ったが意地でも立ち続けたことで、世間からはそのような評価を得たのだという。


「その時に陛下に教えられたのさ。負けても生き延びれば敗北では無い。次に勝機が有るなら退くことも勇気のうちだと」


 皇帝は廃嫡されるほど才能が無く修業時代は何度も負け続けたという。

それでも今のマケドニア王、フィリッポス十四世に師事して鎗の達人になった。


 そんな皇帝に敗北することで、ヘリオスはそれまでより一層強くなった。

グリプスを生け捕りにした時、デルフォイでデメトリオスとテオドリックと戦った時、そしてリュカオンと戦った時、ヘリオスはいずれの時もその称号に相応しい戦いぶりを見せた。


「でも、そのお話を聞くとますますわたしなんかが紋章官で良かったのかとおもいます」


 本来はヘリオスは出会うことの無い雲の上の存在だ。

そんな彼の紋章官に自分なんかが選ばれていいのかと、メディアは常々疑問に思っている。


 メディアの生家であるラプシス家は、不手際が元で爵位を剥奪された家。

紋章院長も何人も排出した名家であったが、爵位を失った以上はただの一般人。


 男子の継承者のいないラプシス家が少しでも栄達するには、優秀で有ると思われた娘のメディアが、紋章官として少しでも高い地位を持つ貴族と婚姻するのが現実的で、修道院か魔法学院かどちらかに進むのが近道だった。

 修道院の方が人間族の血が濃いメディアには向いていたが、禁欲と摂生を旨とする修道院よりは魔法学院の方がいいだろうとそちらに進学した。


 人間族の血の濃さ故、魔法の適正は無かったが何とか魔法使いとして最低限の能力を身につけた。


「君だから良かったと思う。あのリュカオンに勝利できたのもメディが一人で三人分の働きをしてくれたおかげだ」


 そんな出自への負い目からか、メディアは自己評価がとても低い。

本当はそんなことはないのだとヘリオスが告げなければ誰が告げるのか?


「ヘリオス様も先生もわたしのことを褒めてくれます。少しは自信をもっていいのでしょうか?」


「それは当然のことである。これからも変わらず私を支えて欲しい」


 そして彼女が信じてくれることは、ヘリオスの勇気を奮い立たせる理由にもなる。


「も~、ヘリオス様。今、また私っていいました!」


 やはりこの男もどこかで無理をしているのだ。本当に真剣な話をするときは決して偽れない不器用さ。


 それこそがメディアが忠誠を捧げるヘリオス・ジェイソンという男だ。


「もう少ししたらフィオナ先生を迎えに行きましょう。ヘリオス様、今回も必ず勝ってくださいね」


「ああ、それは勇者の名に誓って!!」


 夜は更けていく。

来たるべき世界の敵との戦いは刻一刻と迫ってきていた。

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