第4話 不吉の影
「それにしても、随分とリアムから聞いておったのとは印象が違うのだな」
「私のですか?」
リアムのことを知る
夜更けに訪れた彼のために、フィオナは薬草茶の準備をしていた。
本当は暖めた牛乳で抽出するのがよいのだが、旅の途中に贅沢は禁物。
手早く全員分の器を用意して注いでいく。
「これはこれはかたじけない。そうだ、事あるごとにだな。その、なんだ……」
「そこまで言いにくいことなのですか?」
「いや。そういうわけではござらん。リアムの奴はフィオナ殿のことはいつも褒めていたが、胸が……だな。慎ましやかというかなんというか」
「!!!?」
いわれて胸元を押さえるフィオナ。最初に勘違いされたのは胸のせいかと気がつき首根っこを掴まれた猫みたいな目で周囲を見るメディア。
「もーーーーー。何考えてるのあのバカーー。リアムだってチビのくせに私の胸のことなんてどうだっていいじゃない!」
「せ、先生!?」
「だいたいそんなに胸の大きさが気になるなら、今の私を見て腰を抜かせばいいのよ! もう昔の私じゃないってことを嫌ってほど教えてやるわ!」
いつも冷静で思慮深いはずのフィオナが顔を真っ赤にしてブンブン手を振り回していた。
メディアは半年間も彼女の生徒であった時にも、こんな姿は見たことがなかった。
「落ち着かれよ。フィオナ殿。二年もあれば人は変わるものでござる。リアムとて出会った頃はまだ背も小さく力も弱かったが、最近はそこのヘリオス殿と変わらぬくらいに成長しておる」
「え、そんなに背が伸びたんですか?」
憑きものが落ちたように落ち着きを取り戻したフィオナにデメトリオスは何度も肯く。
意外というかなんというかなんともいえない複雑な表情をメディアは浮かべていた。
数ヶ月自分の方が年上だったからと、ことあるごとにお姉さん風を吹かせていた少年がそんなことになっているとは。
嬉しいような寂しいような不思議で複雑な感情がわき上がってくる。
「ちょうど一年半前だ。この森で修行中にあいつと出会ったのはな。騎士認証を受ける前にやることができたとかで、デルフォイとこの森を往来しておった」
デメトリオスの話をまとめると、騎士として武芸の修行をしていた彼がリアムにあったのは一年半前。
ここから少し離れた今は使われていない山小屋で、薬草などを収集しながら生活していたらしい。
デメトリオスと出会ってからは、彼に食料や薬草を供給する代わりに武術を学んでいたという。
「リアムはずっとここにいたわけではないのだな? それに騎士認証も受けるつもりだったと?」
「そうだ。問題が解決すればすぐにでも帝都に行きたがっていた。デルフォイでは有名な商人のミダスのところに出入りしておったようだ」
「『醜きミダス』なら知っているわ。たしかに隠れるならそこが一番適切よね。デルフォイと聞けば心当たりはそこくらいしかないわ」
「フィオナ殿はミダスを知っておるのか?」
「直接はしらないわ。ただ、正直あまりよい話を聞かない人物だし、問い合わせても証拠がなければ、ごまかされるだけでしょうしね」
「あー、わたしも父に聞いたことがあります。帝国騎士の名跡を買ったとか密輸に関与しているとか、芳しくない噂の多い人ですよね?」
ミダスは元々は
外見はとても醜く、触れた物を石に変える呪いを受けているといい、その力の応用でどんな屑石でも宝石に変えてしまうといわれている。
何度も騎士認証を受けようとしたが、騎士に相応しくないとして貴族に列することができずに、終いにはその有り余る財で騎士を買ってしまったのだとか。
そして傭兵崩れの荒くれ者達を騎士団と名乗らせて好き放題に商売をしているという。
「ただ表だって悪事を行ったという話も聞かないからな。人の噂ほど当てにならないものもない」
メディアのいうことをすぐには肯定せずヘリオスはいった。
帝国の敵を断罪する使命を帯びているからこそ、そこは慎重にならねばならない。
それを忘れてしまっては勇者ではなく、ただの処刑人になってしまう。
「デメトリオスさんが見た感じではどうだったんですか?」
「噂に違わぬ醜い外見ではあったが、そこまで邪悪な者ではなさそうでござった。ただ、身の回りの世話を奴隷にさせているらしいとは聞く」
「禁止されてる奴隷を。ねぇ。あまりいい趣味とはいえないわね。でも、それをリアムが看過したとも思えないのだけど」
記憶の中の
そんな彼が何もいわずにいたとも思えないのだ。
彼は半月ほど前にデメトリオスが戻ってきた時には山小屋にいなかったらしく、狼煙を見たデメトリオスはそれをリアムが上げたものだと思ったのだという。
「それはミダスに直接尋ねてみるがよかろう。拙者は明日の朝アンジェロ殿とこの後のことを話し合ねばならぬ。先にリアムの山小屋にいっていてはくれまいか?」
当たり前と言えば当たり前なのだが、同じ帝国軍の戦士であるため、アンジェロとデメトリオスは知り合いだ。
亡くなったカルロの処遇については二人に任せるのがいいだろう。
できればデメトリオスからアンジェロにリアムの消息を伝えてもらっていたら、ここまでの苦労はなかったのかもしれないが、そこは約束を守る義理堅さにかけては定評のあるケンタウロス。
それだけでもこの男は信頼に値する人物であるとわかる。
「ありがとうござます。少なくとも彼は騎士認証から逃げたのでないとわかっただけでも安心しました」
今のフィオナにとっては、何よりもその報せが嬉しかった。
夜が明けた。
デメトリオスは一足早くネフリィティス大滝へと向かった。
翼人の遺体を仮に埋葬するのか、それとも救援が来るまで待つのかを話し合わねばならず、合流は昼過ぎになる。
ヘリオスもそれに同行する。
そこから町まではその背にフィオナとメディアを乗せていくという。
鎧さえ無ければヘリオスも同じくらいの早さで進めるそうなので、なんと日の高いうちにデルフォイ領内に入ることができるそうだ。
1日に1000スタディオン(150km)を駆けるといわれるケンタウロスが早いのは当たり前の話だが、ヘリオスもその速さで駆け抜けられるのは驚きだ。
もっとも、さすがにヘリオスといえども何時間もそんな速さで走れるわけもなく、さらに翌日は動けないらしい。
「半月前といえば本当につい最近です。もしかしたらまだデルフォイにいるかもしれませんね」
「ただデメトリオスさんの話によると、いつもは頼んでいる伝書がなかったそうよ。それは気になるわ」
「へぇ……そうなんすね。でも師匠にきちんと書き置きとか、リアムさんって結構まめなかたなんですね」
「そういう奴が二年も連絡を寄越さないから心配なのよ」
少しだけ不機嫌そうにいいながら足早に林道を進むフィオナ。
メディアも慌ててその後を追いかける。
程なくしてやや外壁の朽ちかけた山小屋が見えてくる。
その壁面はツタで覆われていて三分の一くらいは潰れていた。
しかし反対側はまだ綺麗なもので、手入れさえすれば十分に利用できるようになっている。
入り口の前の茂みには四方を縄で縛られた丸太が吊されていて、これを標的に体術や剣の練習をしていたのだろう。
弓も父であるクレイグに習っていたので、食料に困ることは無かったはずだ。
ケンタウロスに師事していたのだから、槍も学んだのかもしれない。
少なくともついこの前まで彼はここに居たのだ。
例え不在だったとしても、何か手がかりになるようなものがあれば良いが。
「あれ? 誰か居るみたいですよ」
小屋の異変に気がついたのはメディア。それを聞いてフィオナは慌てて左手に布を巻き付ける。
そして慎重に物音を立てないように立ち止まった。
しばらくして、バタン。と扉が開き中から一人の男が姿を現す。
だが残念ながらその男はリアムではなかった。
身長はあまり高くない。やや白に近い銀色の髪。光の当たり具合によっては金色にも見える琥珀の目。筋骨隆々というわけではなく、どちらかといえばしなやかな印象を受ける。美男子の部類に入るのだろうが、なかなかの異相だ。
「誰かおられるのか? このような場にどなたか?」
澄んだ声。武器などは帯びていないようだが、森を歩き慣れているのか足音一つしなかった。
「初めまして。わたしはフィオナ・グレン。貴方もこの小屋の主にご用でしょうか?」
距離的には例え何かあったとしても、ヘリオス達に呼び声は届く。
そしてケンタウロスの全力疾走であれば、ここまでは一瞬だ。
今は翼人もいるだろうし、そこまで危険では無いだろうと判断する。
「そうか。貴方がリアム君の婚約者か。残念ながら彼はおられぬようですよ」
「貴方は?」
「すみません。自己紹介がまだでありましたね。私の名はリック・ヴィオラ。毛皮の商いなどをしている商人であります」
聞き慣れないほど丁寧でゆっくりとした口調で、男はそう告げる。
「そうでしたか。今日はお一人ということはご商談というわけではないのですか?」
「ん……ああ。そうですね。本日は数ヶ月ぶりに顔を見に参りましたが、荷物などもございませんでした。どこか遠くに行かれたのでしょうか?」
それにしてもおかしな話だ。毛皮を仕入れると言っても一枚や二枚では無いだろう。
まとまった数が必要ならもう少し供のものが居ても良いはず。
村から一日ほどの距離とはいえ、一人で気楽に来られるものだろうか?
「毛皮といっても大きな獲物ではございません。襟巻きにするような小さなイタチなどです。マケドニアの商人には高く売れるのです」
「ごめんなさい、顔に出てたのでしょうか?」
「いやいや、貴方はまず人の話を聞くときに、ずいぶんと考え込むと聞いていたのですよ」
「あー、彼はそんなことまで話してましたか」
「フィオナに隠し事はできない。彼の口癖でございました」
なんだろう。疑問に思ったことはとことん突き詰めてしまう生来の性格のせいか、必要以上にリアムにプレッシャーを与えていたのかもしれない。
自分を信じていてくれるのは嬉しいが少し警戒しすぎじゃ無い?などとフィオナは考えてしまう。
「もしかして私のそう言う態度がいけなかったのかしら?」
「いえ……そのようなことはないでしょう。彼は貴方との再会を心待ちにしていましたよ」
目の前の男にも、デメトリオスにもそう伝えていたのなら、その言葉に嘘は無い。
やはり理由はあるのだ。
「リックさんには心当たりはあるのですか?」
「さぁ。皆目見当もつきません。あ、そうだフィオナ殿であればわかるでしょうか。ここから少し街道の方に毒沼ができていたのですが……」
「えっ……毒沼……ですか?」
「一月前には無かったものですから、そんなに突然できるものかとね」
「いえ、そのような話は聞いたことはないわ」
珍しく即答するフィオナ。
「それでは彼もいないようですので、私はこれで失礼します。あと、次に会う時には後ろの娘さんも紹介していただければ幸いです」
背後に隠れていたメディアに聞こえるように少し大きな声で告げ、彼は街道の方に歩き出した。
(嘘っ!! 結構離れているのに気づかれていた!?)
リックの去った後、隠れていたメディアが慌てて駆けつける。
「大丈夫ですか? 先生」
フィオナからは返事は無い。ただ、今まで見たこともない深刻そうな表情でそこに立っていた。
「わたしのことに気がついてたみたいですけど、なんでバレたんでしょう?」
「ええ……」
「先生、彼に何か言われたのですか?」
「そこまで……深刻な事態では無いわ。うん」
明らかに様子がおかしい。とりあえず合流のために山小屋に連れて行く。
ヘリオス達が合流するまでフィオナは、彼女の婚約者がいたという小屋をボンヤリと眺めていた。
そこには生活の痕跡は無く、彼がここから旅だったことを告げていた。
ヘリオス達が合流する頃には少し持ち直したようだが、それでも普段の彼女とは違う。
「おかしいでござるな。一切合切片づけられておる。拙者にも告げずに出て行くとは」
「デメトリオス様、やっぱりそうなんですか?」
「うむ。修行中にも町に出た時に色々と買っておったからな。それよりもフィオナ殿の様子が」
「はい、さっきからあんな感じです」
「フィオナ、話はつけてきた。とりあえずカルロは埋葬、形見の品を持ち帰ることになった。すぐにでも町を目指すぞ」
「…………わかったわ」
少し間を置いてフィオナは答えた。
そして離れる時もじぃっと朽ちた山小屋を見つめ続けていた。
「少し寄って欲しいところがあるわ。それとデメトリオスさん、あなたが半月前に来た時に、近くに毒沼はありましたか?」
「ん? そういえばここから少し西にいつの間にかできておったな。グリプスも住む森ゆえ、そのようなこともあるのかと思ったが、珍しいことなのか?」
ようやくいつもの調子に戻ったフィオナはその答えを聞いて首を横に振る。
「確かに大地を腐らせる魔獣もいることはいます。ただ、ここは湖沼地帯からも遠いし岩場なのね」
「普通では無いのだな?」
ヘリオスも確認するように問う。
「私もしらない現象かもしれません。まずは様子を見たいです」
リックのことは後からメディアが告げるだろう。今は一刻も早くその毒沼を見たかった。
「これは近づけませんね。浄化の祈りを捧げます」
言われたとおり毒の沼地はすぐ側にあった。岩場がえぐれて、折り重なった木々が腐食し、禍々しい暗緑色の液体が溢れていた。近づくと気分が悪くなりそうなので、慌ててメディアが浄化の祈りを始めたのだ。
フィオナはその様子を呆然と見つめていた。普段なら一心不乱に現状を解析しようとする彼女には珍しいことだった。
「フィオナでもわからないのか?」
「見当もつかないわね……」
「そうか……ならば長居は無用だな」
なぜか安心したような様子でヘリオスはそういった。
「では、先を急ぐとしよう。二人とも、拙者の背に乗るが良かろう」
毒気に当てられぬよう人馬の姿に変じていたデメトリオスが女性陣二人を背に乗せる。
ヘリオスとデメトリオスは、街道を目指して走り出す。
どこか途中で別の道に行ったのかリックを追い越すことは無かった。
そして夕方前にはデルフォイ第二の都市、フォキスに到着した。
それでもメディアはいつになく元気の無い様子のフィオナを心配せずにはいられなかった。
フォキスの町は、この地方第二の都市である。
500年前にはこの地にフォキス候国が存在し、先の大戦の以前までは、恐るべきアトラス王『人類皇帝』アキレウスが治めていた。
アキレウスはマケドニアに属するテッサリア公国の公子であった。その頃のテッサリアはマケドニアの南半分を占める広大な領土を持ち、更にその南半分。現代のデルフォイでいえば北半分に相当する領域がフォキス侯国だった。
有力な皇位継承者と見なされていたが、
後年、そのアキレウスが、流刑にされたアトラス王国をまとめ上げ、復讐のために二度目の大戦を引き起こした。
全てのヒトの王、『人類皇帝』を僭称した彼は、
大戦後、新たに首都として整備されたデルフォイが、イアソンを王に戴く新王国として発足したのだが、イアソンはコリントスの所領に移り住んだため、以後王国は四人の評議員の中から、選挙で選ばれた副王が統治する形態を取っている。
旧都であるフォキスは、町の中心を街道が通っていて今でも商人達の交流の場として賑わっている。
デルフォイはこの町を更に西に進んだ新街道の先にあり、南北から来た積み荷がかつての城があった町の中央の市場で取引されている。
「デルフォイに着いたら王宮に顔を出さなくてはね。その間フィオナのことをよく補けるように」
「承知しました。ヘリオス様」
「本来ならメディも連れて行かなければいけないのだけどね。フィオナを一人にするもの気が引ける」
強行軍の疲れを癒やすべく一人部屋を取ったヘリオスの部屋。
ここには二人だけと言うこともあり、ヘリオスは本来の貴公子然とした語り口で寛いでいた。
フィオナは併設された酒場でデメトリオスからリアムの思い出話などを聞いている頃だ。
「そういえばフィオナ先生の様子が何かおかしかった気がしますけど、ヘリオス様はどう思われます?」
「そうか。やはり気がついていていたか。あの沼地を見た時、いつもと様子が違っていただろう?」
「はい。いつもの先生なら真っ先に
「それについては、まだ確証が得られないので私の意見は保留しておく。ただ……そこまで動揺していたということは、フィオナも戸惑いがあるのだと思う」
「だからわたしが側にいた方がよいのですね?」
「そういうことだ。放っておくと一人であの山小屋まで戻ってしまうかもしれないからね」
わからないことは徹底的に調べる性分だとフィオナはいっていた。
そうならない保証はどこにもない。
「そこは任せてください。あの人はわたしにとって大事な恩人ですから」
「任せたよ、メディ」
さしものヘリオスも疲れたのかゆっくりと目を閉じる。
メディアは自分に任された責務を思い、グッと拳を握りしめていた。
一方、フィオナの方はというと、デメトリオスから様々な思い出話を聞かされていた。
「あの大滝の下の淵で水練をしておった時にな、こう二抱えもある大きなナマズを捕ってしばらくはナマズづくしでござった」
「へぇ。ケンタウロスでもナマズを食べるのですね」
「いや、内陸の方はまだ水が泥臭くてな。あのように美味なものであるとリアムに教えられて初めて知ったのでござる」
ナマズ獲り、キノコ狩り、
鹿狩りやイノシシ狩り。
採れた獲物を町で売って野菜や消耗品を買う。
それは雪割り谷となにも変わらない生活。
どうして彼は帰って来なかったのか?
「ミダスのところに行ったのは素性を隠して働くためでしょうか?」
「そうかもしれんな。商売人だけあって奴も口だけは堅いようだ」
「とにかく、明日直接尋ねてみましょう。デメトリオスさんもご同行願えませんか?」
「そういうと思っておった。すでに先ほどヘリオス殿下と共同で使者は立てておいた。門前払いということはなかろう」
「ありがとうございます」
少し考え事があったために、フィオナはそこまで気が回らなかったのだが、二人は宿に着くなり伝馬士の手配を済ませていたのだ。
伝馬は元々街道に沿い町から町、国から国へ皇帝の命令を伝える軍制の一つであったが、時代が下ると市民同士の連絡手段として伝馬士や飛脚が用いられるようになっていた。
特に伝馬は内陸部では若い
ちなみに島嶼や山岳地、海ではこの役目は
これで相手も言い逃れはできないはずである。
どのみち今は身体を休めて、出立に備える時。
その後は目を覚ましたヘリオス達も加わり、山小屋では落ち着いて話せなかったこの2年のリアムの生活の様子やデメトリオスやヘリオス達の今までの旅の話で盛り上がった。
フィオナも不安な気持ちをしばし忘れて、三人の冒険談を世界辞典に書き留めるのだった。
そして翌朝。気分が少し上向いたフィオナは、朝食の材料を買うために朝市を訪れた。
フォキスからデルフォイは帝国の誇る大穀倉地帯。
麦の穂が沃野になびく黄金の大草原は、この地域の初夏の風物詩となっている。
豊富な穀物や野菜類を眺めていたフィオナは、意外な人物を発見する。
「あれ? リックさん随分早かったのですね。船を使われたのですか?」
そこにいたのは、昨日山小屋で出会ったリック・ヴィオラだ。
こちらを見て、相手は少し驚いた様子を見せる。
「これは……フィオナさんでありましたね。そちらこそとてもお早い」
「ええ、リックさんもご存じ有りませんか? リアムの師匠が送って下さったのです」
「リアムの……師匠ですか?」
何かを考え込むような表情、ほんのわずかにフィオナの心にざわりとさざ波が立つ。
「ええ、
「
ざわり。と、もう一度いいようのない不安の波が押し寄せる。
昨日話した限りでは、こんな笑顔のような怒りのような表情を浮かべる男だったか?
「私達は街道を来たのですけど、リックさんは船はどちらに?」
一度気になりはじめると、次々と不安はわき上がってくる。
街道で会わなかったから船で来たのだと思ったが、リックは船の話は一言もしていなかった。
だから尋ねてみる。
「ああ。そうでありますね。船は翡翠河の漁師にお借りしているのですよ。市場に魚を運ぶ馬車に同乗させてもらったわけです」
その言葉に矛盾は無い。
「そうだ、フィオナさん。あの沼地のことは何かわかりましたか?」
「い、いえ……なにも。なにもわかりません」
意図的に考えないようにしていた話題を振られ、フィオナは目を逸らす。
「果たしてあのようなものがわずか一月でできるものでしょうか?」
フィオナの答えに期待するようにリックは尋ねる。
「少なくとも、私と私の辞典が
無性に会話を終わらせたい。
優しく見えたはずのリックの琥珀色の瞳が、今は猟犬のようにフィオナの喉笛に狙いを定めているように感じる。
「そうでありましたか。貴方であればあの意味をご理解いただけると考えておりましたがね」
早く、立ち去らなければ。
自分の顔面が蒼白になっているであろうことがわかる。
この男は彼女にあの光景を見せることが目的だったのではないか?
「随分ご気分が優れぬようですね。どのみちあなた方もデルフォイに行かれるのでしょう? 私もしばらく滞在しておりますので、またその時にでもお逢いしましょう」
「あ、あの……」
呼び止めようとフィオナが声を掛けようとしたとき、すでにリックの姿は無い。
こちらの気持ちを知ってか知らずか、リックはそう告げるとあっという間に雑踏の中に消えていた。
音も無く消えたその姿に彼女は不吉の影を感じずにはいられなかった。
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