第3話 山越え~デルフォイへの道

「ごめんなさい。途中で無理だって言えば良かったわね」


「すまない。気づくことのなかった俺の過ちだ」


 無理な行軍が祟り、フィオナは一日倒れ込んでいた。


 尾根には一日ごとに休息できる山小屋があるが、太陽が天頂に昇る頃には一つ目の山小屋を通り過ぎ、これなら大丈夫だろうと二つ目の山小屋へと続く尾根を急ぎ足で抜けてきた。

 尾根筋は決してなだらかとはいえず、ゴツゴツとした岩肌を這うようにして進まなければならなかった。その結果がこれである。


「そこはわたしがなんとかするべきだったんです」


「二人とも悪くないわ。やせ我慢するのは私の悪い癖だって、昔からリアムにも言われてたもの。そのせいでメディアにも迷惑をかけたわ」


 ぐったりとしたフィオナの背中の上に拡げた手をのせ、メディアが聖印を握りしめる。


『秩序の神 我が祈りに応えよ 旅人が再び立ち上がる 健やかなる息吹を与えたまえ』


 正法~それは秩序の神が与えた奇跡。

 世界を清浄かつ正常に保つ力を行使することができる。


 解熱や体力の回復、傷口を塞ぐなどは【第一階梯祈念】と呼ばれる初歩的な技だ。

 高位の聖職者になると消せない炎を操ったり、投石機によって放たれた巨石を弾き返す障壁を形成することもできる。


 メディアは本職は紋章官であるので、第一階梯以上は使えないが、それでも捧げた祈りの言葉は術者の精神力と引き替えに、対象の回復力を加速させる力を持つ。


 もちろん術者は精神的に衰弱するので次の日は一日動けなくなる。

 メディアは休息のため、その場で横になる。


「ありがとう。すっかり楽になったわ」


「未熟とはいえ、誰かの役に立てるのは嬉しいです」


「そんなことはないわ。メディアは努力してなんでもできるもの。私なんかどれだけやっても魔法を覚えられなかったし、今だって足を引っ張ってる」


「フィオナは俺やメディアの何倍もの知識を持っている。それでいいじゃないか」


「そうですよ。わたしだっていってみれば器用貧乏なんです。ヘリオス様や先生みたいに一つのことに長じた人が羨ましいことだって多々あります」


 そういうヘリオスも魔法はとても苦手らしく、初歩の魔法をメディアに教えてもらっているらしい。


「そうえばヘリオスって、時々急に丁寧なしゃべり方になるわよね」


 正法を使ったメディアが休息している間、食事の用意を始めたフィオナは、隣で食材を仕分けているヘリオスにそう尋ねた。


「実は私は元々はこういう話し方であるのだが、陛下に言われていてね。普段のままではどうも慎重すぎて面白みにかけるらしい」


 流暢な共通語でそう語る彼は、なぜかいつもと違って見えた。


「そういうわけで、形から入ってみようってことになったんだ。まずは冒険者っぽく俺とかいってみることにした」


 今度はいつも通りの南部訛りのあるしゃべり方だ。


 結構、細かいことを気にする性格だったんだ。

 と、いうか何度かメディアが指摘していたのは、それがきちんとできているか確認していたのだろう。


 そう考えると思わず笑みがこぼれる。


「なんだ。何かおかしかったのか?」


「ふふふ……。そういうわけではないけど、最初の印象とあまりにも違うから」


「それをいうなら、フィオナがちゃんと笑っている顔も今初めて見たぞ!」


「え? そう!?」


 自分では気がついていなかったが、指摘されればそうだったような気もする。いつもリアムにはもっと笑うべきだといわれていた。


 それなら意識して笑顔をつくらないといけないな。などと思いつつ、ヘリオスに声をかける。


「メディアが起きるまでに食事の用意を済ませておくわ。そこの竹の皮の包みを取って」


 ぽんと放り投げられた竹の包みを受け取り、するりと解く。中には赤茶色の大豆スープのペーストが入っている。米や麦が育ちにくい雪割り谷では、大豆は貴重な作物である。


 大豆スープは煮た大豆に豆麹をあわせて熟成させた物。辛みが強く風味が良い。肉を煮るにも野菜を煮るにも合うので、雪割り谷では好んで飲まれている。そこに乾燥した薬草や野菜を入れて煮るのだ。


「それとパンと干し肉、あとはバターね、お願いできるかしら」


「任せておけ!」


 そうしてメディアが起きてくる頃には、食事の用意はできあがっていた。


「ごめんなさい。お手伝いできなくて……」


「何いってるのよ。メディアが治療してくれたからこうやって動けてるのよ。ほら、食べて食べて!」


 背嚢から取り出した木の椀にスープを注ぐ。幸運だったのはミケーネの隊商から乾燥させた岩舞藻ワカメを仕入れたばかりだったことだ。水につけるとわさわさと量が増えるので、かさばらずに野菜を取ることができる。


「この大豆スープはおいしいです。それにしても定番の具材が海藻だっていうのは不思議な気もします」


 山奥で冬場は新鮮な野菜が入り辛いからこそ、乾燥した海藻を多く摂ることになるとは、世の中面白いものである。


「それは俺も思った。だが、我がコリントスも北から薬草や麦を輸入している。移入して育てても、なかなかうまくいかなったりするものだしな」


「どこで何が足りていて、何が足りていないかを知るのは、領主の義務よ。単純に別の地方に持って行っても作物は育たないわ」


「そうなのか?」


「土の中に含まれている成分や気候なんかに影響を受けるのよ。まあ、それよりも今はご飯に集中よ」


 ついつい気になってしまい、フィオナに聞いてしまうが、言われてみれば褒められた行為ではないなとヘリオスは考える。スープを作る時に熱を持った石を用意していたので、そこの上でパンと干し肉も暖めて黙々と食べ続けていた。


 フィオナとメディアの回復にはまだ一日かかるので、明日以降の行程について話をした。

 明日には北西にある盃山の山頂を越えて、そこから沢下りをすることを確認した。


 途中で大きな滝が有り、そこを抜けて低山地部に入ると鷲獅子グリプスなども出没するので、慎重に進まなければいけない。


 特にこの時期は繁殖期に入っているので、細心の注意を払わなければならぬ。

 翌日、今度はペースを考えて休憩なども挟みながら、盃山山頂の山小屋にたどり着いた。


 盃山~山頂が盃のようにえぐれていヴァルドシア山の北西峰。


 1000年前の大戦で岩巨人ギガースに吹き飛ばされたとも、それ以前の時代に龍達の戦争によって吹き飛ばされたともいわれている。どちらにしても三日月を天に向けたようなその偉容は数百年も前から詩や歌に詠まれている絶景である。


 そしてすり鉢の上半分を削ぎ取ったような山頂は、翼人ニケー達の国家、イリオスの飛び地。

イリオスは内海の上に浮かぶサモトラケ島を首都とする翼人たちの国で、他の王国とはあまり交流を持たないことで知られている。


 彼女らは背中の羽根で空を飛ぶため、各地の高地の山頂部を領地もしくは租借地として領有している。


 彼女らは……というのは、翼人は種族的な特性なのか男性はほとんど生まれず、そして大多数が羽根を持たない非翼人ニンフと呼ばれる階級に属し、女王の下で厳しい階級秩序を守って暮らしている。


 妖魔バルバロイと言われるアトラス側に寝返った種族の中でも、女人族アマゾーンはそのニンフが進化した種族であり、500年前の大戦の後に再びヘレネス側に帰属したハルモニア公を始めとする女人族も翼人とはきわめて仲が悪い。


「ほう、それは大変でしたね。私も相棒が行方不明で無ければお手伝いしたいのですが……」


 盃山の山小屋につくと翼人の警備隊が出迎えてくれた。だが、そこにいた翼人は一人だけであった。

 山小屋にいたのはアンジェロという男性の翼人。風を通さない黒皮のズボンに青い長袖のシャツ。更に長い瑠璃色の貫頭衣の胴を銀細工で飾られた飾り紐で結びつける翼人独特の装いである。


 そして何より特徴的なのは、顔の上半分を覆う鳥の顔を模した仮面。


 鳥のくちばしが人の鼻の部分で大きく前にせり出し、丸い大きな目の部分には遮光ガラスがはめ込まれていて、表情をうかがい知ることができないようになっていた。


「空で君らを倒せる者がいるとも考えにくい。もしや鷲獅子グリプスにやられたのであるまいか?」


「カルロは今年から守備隊の任についたばかりでした。三日も帰らぬとなれば、何かあったと考えざるおえません」


「この時期の鷲獅子は縄張り意識が強いのよね。雌に気を取られてるうちに雄に背後を取られたのなら、ひとたまりもないわ」


「鷲獅子が子育てのためにつがいで行動することは言い含めていたのですが、ヘリオス様にもフィオナ殿にもご助力できず、もうしわけございません。」

 

 初夏に山を下る時には、そこがどれだけ休憩に適していたとしても、決して更地に出てはいけない。

子供の餌を探す鷲獅子は相手が人間でもかまわず襲いかかって来る習性を持っている。


 普通は空で翼人に勝てる者は龍だけといわれているが、凶暴さを増した鷲獅子は、そんな翼人にとってもなかなかにやっかいな敵だ。


 特にまだ戦いに慣れていない若者は、鷲獅子に不意を討たれることもある。


「負傷して避難している可能性もあるのだろう? こちらもできる限り手は尽くさせてもらう」


 ヘリオスがいうように、飛ぶことができないのであれば山頂にたどり着くことはできない。代わりの者が来るまでアンジェロはこの場を離れられない。


 異変を告げる狼煙は上げたが代わりが来るまで、まだ4、5日はかかる。

それまでに麓を確認できるのはこれから山を下るフィオナ達だけだ。


「多少危険だけど鷲獅子の巣の辺りまで捜索してみるわ。何かわかれば狼煙で知らせるわね」


「助かります。フィオナ殿」


「うちの村も貴方たちにはいつもお世話になってるしね。お互い様よ」


 この地に駐留する翼人にとって雪割り谷の人間は、唯一交流のある人々。

フィオナはこの山小屋に逗留するついでに補給物資も持ってきていた。


 昨日も飲んだ大豆スープや岩舞藻。それに岩塩などだ。


 そしてここについてから、メディアはずっとこの珍しい翼人に見入っていた。彼らは一度すべて女王の養子となり、同じ翼人階級の女性と結婚する決まりになっている。


「翼人の殿方って、初めて見ました」


「そうでしょうね。我々は女王陛下の許可無く国の外には出られませんから……」


 七年に一度の五王の帝都参勤期間を例外として、男性の翼人を普通の人々が目にする機会は、まず無いと言っていい。


「その仮面を外すにも許可がいるのであったな?」


「こればかりは仕方有りませんね。翼人の男に生まれた宿命です」


 翼人の王、エリュシオンの名を冠する栄誉を受ける代わりに、全てを女王と国家に捧げる。

顔も名も奪われるその生き方は、人間ヘレネスには想像もつかない息苦しさだろう。


「それでも、考えようによっては楽な生き方ですよ。あなた方のように自分で自分を縛ったり、進む道を決める生き方よりはよっぽど楽だ」


「そうよね。家から逃げられないのはヘレネスもアトラスも同じなのよね」


フィオナだけではない。ヘリオスも、それにメディアだって家には縛られている。

それだけに、その運命は自分で選んだのだ。と、納得したい気持ちはある。


「まあ、皆さんも明日には沢を下るでしょう。こういう時はあまり難しい話はよしましょう」


 幸い明日は天気が乱れる様子も無く、早朝からアンジェロが途中の道も見回ってくれるという。

行方不明になったカルロのことは気になるが、まずは体を休める必要がある。


その夜は数日ぶりに暖かいベッドで寝ることができたのだった。


 幸いなことに、今年の初夏は晴天が続いたため、デルフォイへと至る翡翠河の水量は多くない。

それはすなわち、いつもの年に比べて沢下りが楽だということを意味していた。


 朝一で増水が無いことはアンジェロが確認済み。


 滝の裏を数時間も下る最大の難所も、増水さえ無ければそこまで危険では無い。


「残念だったな。二人を抱えて飛び降りてもよかったんだが」


「ダメです! ヘリオス様! お願いですからやめてください!」


「私からも反対させていただくわ。私もメディアも貴方みたいに頑丈じゃない」


「そうか……残念だな」


 心底残念そうなヘリオス。


 いくら下は滝壺とはいえ、雪割り谷で飛び降りた数倍の高さを飛び降りるとか正気の沙汰では無い。巨人が踏んでも壊れない勇者様ヘリオスとフィオナ達は違うのだ!。


「何かあったらメディア殿の魔法で合図を送ってください」


「わかりました。ありがとうございます、アンジェロさん」


「そうだ、村まで飛んで救援を頼んでみたらどうかしら? 誰か山仕事のついでに来てくれると思うわ」


「そうですね。カルロのことも気になります。お言葉に甘えさせてもらいましょう」


 若い男達はほとんど薬売りに出ているとはいえ、村には隠居するにはまだ早い壮年の男達も少しは残っている。彼らも諸国を巡ってきた古強者でもあるのだ。


 そして二時間後、雪割り谷への救援要請を終えた翼人に見送られて沢下りが始まった。


「たぶん一番の難所はネフィリィティス大滝に降りるまでの北西斜面よ。鎖に捉まって降りないといけないから手に布を巻き付けておいてね」


 『人馬族ケンタウロスすら降りられぬ』と評されたネフィリティスの岩壁は、その名の示すとおり巨大な翡翠の絶壁である。なめらかな表面は雨が降ると滑落の危険が高まるため、旅人は最新の注意を払わなければならない。


 岩壁の中程から湧き出すネフィリィティス大滝は勢いよく流れ落ち、その下の山の中腹に突き出した巨大な岩で二つに裂かれて麓まで流れ落ちる。二つの流れは片方はデルフォイに注ぐ翡翠ネフィリィティス河と、もう片方はテーベを抜けて南海に注ぐ珊瑚コーラリオン河となる。


また、滝の水だけではなく初夏まで残った雪解けの水も、この場所をさらなる難所に仕立て上げていた。


 滝の裏に人が通れるほどの天然の隧道あることがわかり、登ることのできぬ岩壁に下山道が整備されて数十年。この道を使うのは雪割り谷の男達か、武芸の修行者だけである。


 翼人が整備しているとはいえ、鎖はところどころ錆び付いていて素手で降りるのは危険に思えた。


「ほ、本当にこの斜面を降りるんですか?」


「私も来るのは初めてだけど、これは……想像以上ね」


「二人とも命綱はつけたか? それは俺に繋いでおいてくれよ」


 ヘリオスは飛び降りてでも。という自分の言葉を後悔していた。

話には聞いていたが上から見ると、斜面はほとんど垂直にしか見えない。


 彼だけなら落ちても死にはしないだろうが、乙女二人は別である。


「アンジェロに魔法をかけておいてもらって良かったわね」


 本場のニケーの障壁術の効果は昼過ぎまでの数時間は持つ。500ペーキュス(約250m)の斜面を下るにはギリギリだが、滝の水が降りかかる足下のおぼつかない難所さえ抜けてしまえば、その先の滝の裏への道はわりとしっかりしている。


 これが増水している時期だったら、流されないように岩場に張り付いて移動しなければならないために、何倍もの時間がかかるところだった。


 三人は樹に張り付く虫のように崖を下りていく。ニケーの障壁術は上から降りかかる水にも有効で、空気の壁に触れるたびに、滝の水がはじき飛ばされている。


 鎖に捉まりながら人一人分の足場を慎重に進み、轟々と音を立てる大瀑布の裏に入り込んだ時には、すでに太陽は天頂に差し掛かっていた。


滝の裏にできた天然のトンネル。瀑布から飛び散った飛沫が、陽光を浴びてきらきらと光り、洞窟の中を蛍のように舞う。

 

 その幻想的な光景は、断崖絶壁を乗り越えた者だけが見ることのできる光景だ。


 羚羊レイヨウしか降りられないようなこの山で、この登山道の開拓は歴史を変える発見だった。


 それまでは帝都からデルフォイまでは二十日ほどもかかっていたのだが、帝都からテーベ北部のアルゴスまで二日、雪割り谷まで二日、そこから約五日の山道と、中央山地の山沿いに進むしかなかった道程を一気に短縮することが可能となった。


 ほどなく突き出した大きな岩が滝の流れを裂き、外の景色の見渡せる大きな広場にたどり着いた。

いかなる神の悪戯かはたまた自然の力か、巨大な岩の中心部分が龍の顎のごとくパックリとくりぬかれている。地面にはたき火や野営の跡が有り、外にせり出した部分には樹が植えられていた。


 それらは先人達が植えたもので、今はここまでの疲れを癒やすスモモの実がたわわに実っていた。

これも山に生きる生活の知恵といえる。


「わぁ。すごい景色です。そのまま通り過ぎちゃうのはもったいない気がします」


「わかったわ。ここでお昼にしましょう」


「こんな絶景が見られるなんてな。苦労した甲斐があった」


 今までの山道では、街道を進んでいるような気楽さだったヘリオスの顔にも疲労の色が浮かぶ。


 フィオナとメディアが滑落しないか気にしていたのだから当然ともいえる。


「本当に幸運だったわ。雨の多い年だと、滝に呑まれないように、ここも命綱をつけて降りるのよ」


「そっか。だからここに野営の跡があるんですね。ここが天然のテラスになってて本当によかったです」


 落ちないように慎重に滝の外の景色を眺めながら昼食の用意を進めるメディア。パンにハムを挟んでマスタードを塗り込む。フィオナは洞窟の水で野草を洗う。こんな山の中でも食べられる草はあるのだから不思議である。スモモというデザートもあるので一息つくには十分だった。

 

 食事後しばらく休んだ三人だが残りの道程を降りきり、滝の外に出ようとした時、外の様子をうかがっていたヘルメスがそれを発見した。


「なあ、フィオナ。鷲獅子グリプスって奴は縄張りの外で人間を待ち構える習性はあるのか?」


「聞いたことはないけど……まさか?」


「キィィィン。キィィィン!!!」


 そのまさかだった鉄琴を打ち鳴らすような叫びと異臭を帯びて巻き上がる風と羽ばたきの音。

鳶色の輝く目は煌々と輝き、鉄の強度を誇る白と茶色の羽根がガラガラと鳴る。


「あれは雄だな。おそらく一匹だ」


「これは困ったことになったわ……」


 原則として繁殖期の鷲獅子は雌雄一組で行動し、縄張りを守るものだ。

それが雄が一匹で林道まで出てきているということは、雌が何らかの理由で動けないため、積極的に外敵を狩りに来ていると考えられる。


 人間は鷲獅子を狩る。鷲獅子にとっては数多くでやってきて、土足で踏み込んで巣を荒らす厄介な敵だ。それに主食とする草食動物よりも不味いため、できる限り人里離れたところに巣を作っている。


 まだこちらに気がついていないようだ。

 ヘリオスは急いで鎧を装着し鞘の留め金を外して剣を構える。

メディアは小剣を抜くと障壁強化の加護を祈る。よく見ると小剣の表面には文様が刻まれていて、それが単純な武器ではなく魔法のための呪具を兼ねることを意味していた。


 フィオナは背嚢の中から世界辞典マグナ・コスモスを取り出した。


 即座に鷲獅子のページを開く。

今まで知っていた習性を思い出すとともに、狩りの注意点を瞬時に検索する。


【鷲獅子は、主に中央山地からマケドニア東部の森林地帯に棲息する魔獣。元々は魔人族アトラス諸族が騎乗用に飼育していたらしく、知能が高く警戒心が強い。卵から孵化してから数ヶ月の間に接触した者を親と思い込む習性があり、現在でもごくまれに飼育される例も見受けられる。

ただし、野生では縄張り意識が強く大変危険な生物である。また、宝石などの光り物をため込む習性も持っており、この種の住む地域では屋外でのアクセサリーの着用は危険である】


「鷲獅子といえば、獅子に似た足の攻撃を警戒するものだけど、実際にはそうじゃないの」


「たしかあいつらは臆病だから、最初はくちばしで攻撃してくるんだったな?」


「さすがヘリオス。よく知ってるわね。気をつけなければいけないのはクチバシと、あと羽を振り回す動作よ。転んだところを丸太のような前足で、ズドン。と、やられるわけね」


「魔法は有効なんでしょうか?」


「ほかの魔獣と比べて彼らは視覚に頼っていると考えられているわ。目くらましの類いは有効で、逃げる時は地面に這って転がるといいわ」


「できれば殺さずに済ませたいが、それができる相手か?」 


 魔獣とはいえその羽根や皮、巣の中に宝石の原石をため込む習性もあり資源とも考えられている。

 ヘリオスからすれば、狩りで生計を立てるわけでもなく、それを殺すことに若干の抵抗はある。


「ヘリオス。貴方ならできるかもしれないけど、かなり危険よ。まずは首の付け根のたてがみ状の羽根。身を守る盾であるとともに体当たりの際には強力な武器にもなるわ」


「それなら今はやりすごして、夜の間にこっそり通り抜けるのはどうでしょう?」


 メディアはできる限り危険は避けたいと思っている。逃げられるならそれに越したことはない。


「今晩はそれで切り抜けられるけど、問題は明日ね。相手に先手を打たれるとなかなかに厄介よ」


 鷲獅子は高く飛ぶことは苦手であるが、それでも攻撃の届かない上空から巨体を生かした突撃を仕掛けられたらひとたまりもない。普通の狩りでは弓矢などの飛び道具で羽根を集中的に狙って、落ちてきたところを数人がかりで集中的に攻撃することが常道とされている。


「それに相手はこちらを食物ではなく、敵と認識しているなら逃げるのは難しいわ」


「やるしかないな。メディア。奴は俺が引きつける」


「わかりました。先生はわたしの後ろに隠れていてください!」


 戦闘能力を持たないフィオナを隠すのは当然にも思えるが、フィオナの答えは違っていた。


「そうしたいのはやまやまだけど、私も囮になるわ。あいつらは、ああ見えてかなり賢いの。柔らかそうな獲物を先に狙う習性があるのよ」


「それでいこう。フィオナを狙うあいつを足止めしているあいだに魔法で目を狙ってくれ」


「わかりました。絶対に無茶はしないでくださいね」


 ヘリオスとフィオナはゆっくりと肯く。覚悟を決めて滝壺に石を投げ込むと二人は外に躍り出た。


「キィィィィィッン!! キイエェェェェェェッ!!」


 不意に響いた水音に下を見た鷲獅子は二人の人間が飛び出してくるのを視認する。

彼はキラキラでない方――すなわちフィオナ――を獲物と定めた。

 

 少しだけフワリと浮き上がると滑空し急降下を開始する。


「かかったわね!!!」


 予想通り、フィオナを目がけた滑空。羽根が起こす風に吹き上げられないように、メディアの反対側に転がっていく。木々のあるところなら相手も自由には動けまい。


「残念だったな。お前の相手は俺だ」


 そこをフィオナと敵の間に割り込み、ヘリオスが迎え撃つ。


 一度攻撃態勢に入った鷲獅子は進路を変えられない。

クチバシで邪魔な堅い奴を串刺しにしようと大きく首を振りかぶる。


 ガキィィィン!!! 


 鎧とクチバシが交差し、火花が飛び散り四肢と胴を取り囲むように魔方陣が回る。ヘリオスが身につける鎧は宝石や輝石で彩られているが、それはただの装飾ではない。


 城壁すらも一撃で粉砕するアトラスと戦うため、鎧自体が小さな城塞のような儀式正法をかけられている。


 それゆえ、人間族ヘレネスの持つ加護障壁を何倍にも増幅する効果を持つ。大樹すらへし折る鷲獅子の一撃も受け止められるくらいの勢いに減衰されていた。


「くっ!! 思ったより早いじゃあないか!!」


 それでもそのまま構わず突撃されて拡がった鬣に突き上げられる。

並の力量の剣士であれば為す術もないが、ヘリオスは誓約の勇者。

鉄靴サバトンで鬣を蹴ると、空中で向きを変えて地上に着地する。


 地面と鎧が触れて今度は羽根が舞う。正法と魔法による多重装甲。

彼一人が一個の砦とも呼べる防御力を発揮していた。


「キェッ!?」


 跳ね上げたはずのヘリオスが地面にあることを確認し、鷲獅子は再び空へ昇る。彼の本能は瞬時に飛び込んできたこのキラキラを驚異と理解する。


もう一度柔らかそうな獲物を狙うべきか?


 それとも先にこの強敵を排除するべきか?


「メディア。準備はいい?」


「はい。準備完了です!」


 泥だらけになりながらも立ち上がったフィオナが、木々の間を走る。


「ヘリオス。信じてるわよ!」


 メディアのいる滝の方に走りながら、フィオナは宝石のついたペンダントを取り出す。

これは換金用であると同時に、こういう時のためのお守りでもある。

――――それでも、まさか戦闘に使うことになるとは思わなかったが。


「キィェ? キィィィン!!」


 光り物に柔らかそうな獲物。頭よりも先に本能が柔らかいのを狙えと告げる。

フィオナは走ることもあまり得意ではない。はっきり言ってヘリオスを信じる外ない。


だから、必死に走る!。走る!!!


『生ぜよ。【光】。

 願う。【回れ】早く何よりも早く。

 命ずる。【炸裂せよ】真昼の太陽の如く』


 もっとも簡単な三つの力の言葉を組み合わせた魔法。

一の言葉で事象を生み、二の言葉で動きを与え、三の言葉で結果を生む。


 メディアが導き出したのは回転し炸裂する光。

今は細かい制御よりも早さが求められる。握りしめた小剣を振りかざすと、その先端に光が生まれた。


 息を切らしながら走るフィオナの横をすり抜けると、今まさに二度目の降下に移ろうとしていた敵の目前で炸裂する。


「ギャァァァァァァッ!!!」


 不意に生まれた光に視界をふさがれ、盲滅法に羽根で周囲をなぎ払おうとする鷲獅子の突撃を剣を構えたヘリオスが正面から迎え撃つ!


「行かせる…………ものかぁ!」


 自分の何倍もの巨体を正面から剣でガッシリと受け止める。

ヘリオスを押し切ろうと何度も羽ばたき頭と手足を振り回すが、そのことごとくをヘリオスは剣の平で払いのけていた。とても余人に真似できる技量ではない。

 

 武人同士が打ち合うようにその場で何合も打ち合っていた両者。

そこに一瞬生まれた隙を勇者ヘリオスは見逃さなかった。


「てぇぇぇりゃあぁぁぁ!」


 鷲獅子の眉間に思い切り剣を叩きつける。


 ガシンと丸太をぶつけたような音が響き渡り、よろよろと揺らめくとその場にドウっと崩れ落ちた。

宣言通り、鷲獅子を殺さずに倒すことができたのだ。


「大丈夫ですか! ヘリオス様! 先生!」


「はぁ、はぁ……私は大丈夫。ふぅ……だけど、ほんと、噂には聞いていてたけど出鱈目な強さね。一人で鷲獅子と正面から殴り合う大馬鹿な人間なんて聞いたことないわよ」


背後で気絶している鷲獅子を眺めながら、涼しい顔で立っているヘリオスを見る。


「そうはいわれても、これが仕事だからな。それに最初の一撃で仕留められなかった。本当にすまない」


 待って、そこ謝るところが違わない? などと思ったが、ヘリオスは大まじめな様子。

つまりまだまだ全然本調子でなかったのだろう。頼もしくも恐ろしい強さだった。


「それで、この鷲獅子どうするんですんか?」


倒された鷲獅子は、脳震盪を起こしているようで、起き上がることができない。

両方の羽根の根元を罠でつなぎ前足も縛り上げておく。こうすると前に体重がかかり鷲獅子は起き上がれなくなる。


「巣の様子を見て判断。だな。人間を探していたということは、カルロも生きている可能性がある」


「日が沈むまでに探しましょう。巣の場所はおそらくあっちよ!」


 昼食を取った時に、フィオナは巣の場所の中りはつけていた。

開けた場所で高い針葉樹がある。そういう場所に鷲獅子は巣を作る。

疲れはあったが、そこまでの距離でもないので歩いて行く。


 開けた場所に着いた時、三人が見たものは力なく横たわる、雌の鷲獅子の死骸であった。

それは背中から真っ二つにされて地面に打ち捨てられていた。


「雌がやられたから雄が出てきていたのね……」


「やったのは翼人だろうか?」


「わからないわ。この背中の引き裂かれたような傷は翼人ニケーの風魔法っぽいわね」


「う~ん。でも魔法にしては切れ味が雑というか……」


魔法に関してはメディアの方が詳しい。いずれにせよ普通の人間の力でできる真似ではない。

針葉樹。背の高い杉の根元には枯れ枝と羽根でできた巣が有り、中には二個の卵があった。


「おそらく私達を襲うことはもうないと思うけど、あの雄一頭でこの卵を守るのね」


鷲獅子は頭が良く、一度捕らえられるとその人間には二度と近づかなくなる。

それにしても一頭での子育ては困難を極めるだろう。


「そういえば、カルロさんの姿はありませんね?」


この場にいないということは負傷して避難している可能性もある。

周囲に足跡がないということは飛んでいたのだろうか?

 

「山小屋に向かったのかしら?」


だが、願いも空しく滝への帰り道で翼人カルロの遺体が発見された。

青い貫頭衣を赤黒い血で染め、体をくの字に折り曲げて大樹にめり込んでいた。


「こちらはクチバシ。というわけではなさそうだな」


「体当たりされて打ち所が悪かったようにも見えるけど。背中の傷は気になるわね」


 背中の羽根は折れ、爪で抉られたような傷がある。

鷲獅子にやられたにしてはどうにも腑に落ちない。


「それよりも……早く運びましょう。このままでは可哀想です」


 病人やけが人を見慣れているフィオナやヘリオスと違い、メディアは悲しそうにカルロの亡骸を見つめていた。その様子にヘリオスは予備の外套を取り出すとゆっくりと遺体を動かして包む。


「そうだな。いくら戦いの後とはいえ、人の死を悼む心はわすれてはいけない」


「そうよね。このことを早くアンジェロにも知らせないと」


「せめて安らかに眠ってください」


 メディアの祈りにあわせて二人も祈る。

この地に不慣れなカルロが誤って鷲獅子の巣に近づいてしまい二頭と交戦。

 雌を仕留めるも撤退中に雄に不意を打たれて激突死。

姿を見失った雄は死んだカルロを探して飛び回っていた。


 理屈の上では間違っていない。

捕らえた鷲獅子の扱いはアンジェロに任せることにした。

 人を殺したかもしれない魔獣を無条件に解き放つわけにはいかない。

少し戻って遺体を横たえると合図の狼煙を炊いてカルロの死を知らせる。


 明日の朝にはアンジェロが遺体の回収に来るだろう。


 精神的にも肉体的にも疲れた体を引きずって最後の山小屋についたのは、日も沈み始めたころだった。ランタンを灯し簡単な食事を済ませベッドに横たわる。

 

 明日の夜までには国境を抜けたデルフォイ側の村に着くだろう。

言葉少なに眠る三人が、扉をノックする音に起こされたのは世もかなり更けた頃だった。


「このような夜更けにもうしわけない。誰ぞ、おられぬか?」


 ドアをノックする音と共に野太い男の声がする。

それだけではない。ジャラジャラと何かが擦れるような音。これは鎧の音か?。


「うぅん。どーなたーでーすかー」


 寝ぼけまなこをこすりながら、目を覚ましたのはメディア。

隣ではやはり目を覚ましていたヘリオスが戸口を見つめていた。


「拙者はマケドニア騎兵団ヘタイロイの騎士。デメトリオス・ファシス。戦死者有りのしらせを受け、急ぎ駆けつけ申した」


 マケドニアはケンタウロスの王国。その主力部隊である騎兵団ヘタイロイは、ケンタウロスの重騎兵カタフラクトゥスによって編成される帝国軍の主力ともいえる強力な軍団。


 強靱な膂力で投げ槍を集団で投擲する戦法で知られている。


 それだけでも脅威なのに、さらに鱗のような鉄板を幾重にも重ね合わせた騎兵鎧の防御力と、長大な騎兵槍サリッサで敵の戦列をズタズタに引き裂く突撃力を持っている。


「お役目ご苦労。中に入られよ」


「かたじけない」


 そのまま扉を開けると、半人半馬の巨体が月の光を浴びて輝いていた。

騎兵鎧の隙間から覗く腕は丸太のように太く、スカート状の騎馬鎧に覆われた馬体は同じく普通の馬の倍近い太さがある。

 筋骨隆々という言葉通り盛り上がった筋肉に太い血管が浮き出ていた。その姿はそびえ立つと表現にするにふさわしい巨躯。


「ええと、フィオナ先生はどうします?」


「疲れているだろうし、起こさないでおこう」


「他にもお連れの方がおられるのか。あまり騒がしくしない方がよいな」


 いう間に、デメトリオスの体躯はみるみる収縮して人と同じ二本足、ヘリオスと変わらないくらいの身長になる。

 騎馬鎧であった部分は人の姿になると背後が長いスカートのようで、前方は膝までしかないので燕の尾ように見える。


 彼らのこのスタイルはおしゃれ好きの他の種族の貴族達の着る乗馬コートのモチーフにもなっている。

数ある獣人の中でも半人半獣の姿を取る種族は珍しい。

 そしてケンタウロスは他のアトラス達とは違い、人間と積極的に交流することでもしられている。

 今では騎兵団の三分の二は統馬族ラピテースと呼ばれる変身能力を失った者達だ。


「急いで参ったのだがこのような刻限になってしまった。重ねてお詫びいたす」


「わざわざこの夜道を来られたのだ。感謝こそすれ責める理由はない。メディ、鎧を外すのを手伝って差し上げろ」


「はい。かしこまりました」


 どっかりと腰を下ろすのを見て、メディアは鎧の横の留め金を外す。


 人馬族ケンタウロスの体力であれば、鎧を着たままでも問題は無いのだが、やはり人間の姿の時は外していた方が寛げる。


メディアが鎧を外している間に、ヘリオスは自己紹介と狼煙は山の上の有翼族に向けたものであるとの説明を済ませていた。


「なんと、コリントスの勇者殿でござったか! てっきり、リアムが狼煙をあげたのだとばかり…………」


「えっ? 今何って?」


「デメトリオス殿。そのリアムというのは、まさかリアム・ライアンか?」


 まさかの名に驚きの声を上げる勇者主従。自体をまだよく理解できていないデメトリオスはその様子に首をかしげた。


「その通りだが、何をそこまで慌てておられる? む、よもやそちらのお嬢さんがフィオナ殿なのか?」


「いや、こちらの者は私の紋章官、メディア・ラプシスだ。そちらで寝ているのがフィオナだが…………メディ。急いでフィオナを起こしてくれ」


 しばらくして、寝起きの眠そうな目をこすりながら、フィオナはデメトリオスの話を聞いていた。

 その様子は怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなく、ただただ事実を把握しようと努めているように見えた。


「話はわかりました。ですけれど…………なんで連絡の一つも寄越さなかったのです?」


「わからぬ。拙者はどうしても帰れない用事があるとしか聞いてはおらぬ」


「考えたわね。この場所なら絶対に雪割り谷の人間と会わなくて済むもの」


「それはどういうことだ?」


「私達は山を越えてこなければいけないでしょ? その時に絶対に火は使うのだし村から誰か来るならわかるわよね?」


「デルフォイからの道ではここには来ないのか?」


「わざわざ帰り道として使えないこちらには来ないもの。特にこの辺りの薬草の植生はもう少し北とも同じだし鷲獅子のいる森を選ぶ理由はないわ」


「つまり最小の監視でやりすごせるのか」


「常々リアムは申しておったな。フィオナの考えの裏をかかなければ絶対に探し出されるであろうと」


「嫌な信頼のされかたね…………あのバカ」


 それでも無事であったことに安心したのか、言葉の割には表情は柔らかい。


「それならなぜリアムさんはそこまで頑なに帰ることを拒んでいたかですね」


「さすがに人の家庭の事情ゆえ、そこまで込み入った話は尋ねなかった。ただ…………いつも拙者にはフィオナに逢いたいと申しておったぞ」


「とにかく、無事であることが確認できて良かったわ。明日はその山小屋を見て町に向かいましょう。ずっと森の中にいたのでなければ、行先に心当たりはあるわ」

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