第6話 断絶の本

 ここ数日、雨の日が続いていた。どこの家でも洗濯物が乾かないという嘆きの声が聞こえたが、さらに切実な人物がいた。魔導古書店の店主である。

 彼女は雨が降ると店を開けないどころか、部屋から一歩も出ない生活をする。そうするとどうしても食料品が底をついてしまう訳だ。

「ばあさん、おはようさん」

「……朝っぱらから暑苦しい顔ひっさげて、何の用だい」

「おいおいおい、ご挨拶だなあ。ほら、うちのパンと、こっちはかみさんに頼まれたハムと卵、それに牛乳だよ。それと瓶詰めの豆はまだあるか、野菜類はどうするか聞いてこいって言われてるんだ」

 部屋の入り口に立つハゲ親父は、雨の中を歩いて来たせいか足下が塗れている。それに眉間の皺をより深めて、店主は部屋の中へととって返した。その手には届けてもらったばかりのパンがある。

「葉物を少し、豆はまだあるよ。塩漬け肉を大目にしとくれ」

「了解。んじゃあ夕方までには持って来るよ」

 そう言うとハゲ親父は雨用の外套のフードを被って、くるりと背を向けた。手にした大きな籠に水よけの布をかけている所を見ると、まだ他にもパンの配達を頼まれているのだろう。

 親父の店は、常連に限りパンの配達を請け負っている。そのほとんどがこの三日月通りに住んでいる連中だ。皆何某かの店を切り盛りしている者ばかりで、いわば仕事仲間のようなものである。

 もっとも店主にそう言うと嫌そうな顔をされるが。


 ハゲ親父が店主の家にパンを届けるようになったのは、大分前からだ。雨の日限定の配達は、親父が子供の頃から行われている事だったのだ。

 それに加えてあれこれ買い物の代行をするようになったのは、おかみさんが来てからだった。

「だって、おばあちゃん放っておいたら何日もパンと水だけなんて生活しちゃうだろう? それで具合悪くなったりしたらどうすんだい」

 そう言って店主の家に押しかけ、台所を漁って足りない食材を買っては届けるようになった。雨の日が続いた時限定の事だ。

 もっとも最初の時こそ部屋に上がり込まれて台所をくまなく見て回られた店主だが、二度目からは玄関で応対する事を覚えた。

 買い物の代金は後払いにし、代金に手間賃が必ず上乗せされる。おかみさんが断ったら、

「なら買い物もしなくていいよ。買った物押しつけたいなら手数料は受け取りな」

 と、いつもの仏頂面で金を寄越すものだから、おかみさんは毎度噴き出したいのをこらえるのに苦労していた。

 今は雨の日の配達が定番になり、他の常連からも請け負うようになったが、そのきっかけがこの店主だと知る常連は意外に少ない。

 配達がハゲ親父になったのは、単純におかみさんに雨の中配達やら買い物やらに行かせたくないと親父が思っているからだが、それが周囲にバレていないと思っているのは、当人だけだったりする。


 その人物を見つけたのは、ハゲ親父が午前中の配達を終えて店に戻る時だった。一度籠を店に置き、それから店主の買い物に行く予定だ。

 降りしきる雨の中、古書店の扉をばんばんと叩き続けている人物がいたのだ。

「その店なら休みだよ」

 今にも扉をたたき割らんばかりの人物に、ハゲ親父は眉を顰めてそう言った。声に振り向いた人物は、まだ若い男だった。雨よけの外套は、その役目を既になしていないようで、若者の額からは雨が幾筋かしたたってきている。

「休み!? 昨日も一昨日も閉まったままだったぞ!」

「そりゃそうさ。ここしばらく雨が続いているからね」

 そう言って見上げた空は、重い雲が垂れ込めてしとしとと雨をしたたらせていた。朝よりは雨脚が弱まったが、まだ当分上がりそうにない。

 ハゲ親父の言葉に、若者は首を傾げている。

「雨? それとこの店と、何の関係があるんだよ?」

「雨が降ると、この店は休みになるんだよ」

 降るのが昼過ぎからなら開いているのだが、朝から雨だと確実に休みだ。それはこの三日月通りにいる者なら誰もが知っている事である。店主の雨嫌いは筋金入りだ。

「冗談じゃない! 雨ごときで休むなんて、ばかげてる!!」

 その場で激昂する若者を眺めながら、

「しょうがないだろ、そういう店主なんだから」

 と、あやうく口から出る所だった。親父は意識して口をつぐむ。この店が休みで憤る相手には、下手な事は言わないのが一番だ。

 本当なら関わらないのが一番なのだが、さすがに古なじみの店の扉が破壊されそうになっているのを黙って見過ごす事は出来なかった。

「とにかく、あんたが何の本を探しているのかは知らないが、雨が止むのを待ちな。降ってる間は何をどうやったってその店は開かないよ」

 ハゲ親父の言葉を最後まで聞かずに、若者は盛大に舌打ちをしてその場を後にした。やれやれ、と親父は禿げ上がった頭を手で撫でて、首を横に振ると自分の店に戻る為に歩き出した。


 若者は雨の中、自分が宿泊している宿に向かっていた。怒りがそのまま足に向かっているのか、端から見てもわかる程荒い歩き方だ。ほとんど小走りと言ってもいい。

「ふざけるな……どんな思いでここまで来たと思ってるんだ! たかが雨で店を閉めるだと?」

 若者はここにたどり着くまでに、いくつもの国を探し歩いてきた。どうしても手に入れなくてはならない本を探して、生まれ故郷から遠く離れたこの国まで来た。

 こんな所でもたもたしている暇はない。急いで戻らなくては、手遅れになるかも知れないのだ。

「姉さん……」

 故郷には彼の帰りを今か今かと待っている人達がいる。彼ら彼女らの為にも、自分は一刻も早く例の本を手に入れて帰らなくてはならない。なのに。

「肝心の店が開いてないっていうのは、どういう事だよ!」

 若者は悪態をつきながら宿への道を急いだ。


 実に数日ぶりに雨が上がった。上がったと言っても、いつまた降ってくるかわからない重たい空模様ではあるが。

 それでも雨が降っていないので、久々に店主は店を開ける為、自宅を後にした。

 石畳はまだ濡れている。明け方まで降っていた雨のせいだ。空気も湿っている。店主は眉間の皺を一本増やしながら店への道を歩いていた。

 三日月通りの店の前に、人影があるのに気づく。開店前から来る客にも構わず、店主は普段通りの歩みで道を進んだ。

「邪魔だよ、ちょいとそこをおどき」

 扉の前に立ち尽くす相手に、店主は遠慮もなくそう言い放った。振り返った相手は例の若者である。店主は知らない事だが。

「あんたがこの店の主か?」

「だったらどうした。いいからそこをどきな。店が開けられないよ」

 そう言われてはどかざるを得ない。若者は渋々といった風で扉の前から移動した。店主は持っていた鞄から大きな鍵を取り出し、扉の鍵穴に差し込んで回す。がちゃりと重い音を立てて鍵が開いた。

 なめらかに開く扉と、呼び鈴の軽い音。店の中は締め切っていたせいか、普段よりほこり臭い感じがした。

「本を探しているんだ!」

「まだ店は開いちゃいないよ。掃除の間外で待ってな」

「待ってられるか!!」

 店主の言葉に、若者は声を荒げた。振り返った店主の目に入ったのは、怒りで目を吊り上げている若者だった。

「俺が何日この店に通ったと思ってる!? たかが雨ごときで店を閉めやがって,何考えてやがんだ!?」

 激昂する若者を醒めた目で見る店主は、何も言わずに店の奥に引っ込んだ。戻って来た店主の手には、いつもの掃除用の雑巾が握られている。

「おい、何だよそれ」

 店主は若者を無視したまま、カウンターを雑巾で拭き始めた。いつも通りの開店前の掃除である。

「おい、ふざけんなよ。ばばあだと思って容赦なんざしねえからな!」

 そう言って若者が店主の肩に手をかけようとした途端、若者の動きが止まった。まるで彼だけ時間が止まったようである。

 若者の額に冷や汗が浮かんだ。身体が動かないのだ。指一本動かせない。まるで身体が固まったかのようである。

 何なんだ、これは。混乱する若者をよそに、店主は普段通りの開店準備を進めていた。

 掃除も終わり、カウンター内の定位置に店主が座ると、若者の身体がやっと動かせるようになった。いきなりがくっとした動きの後、自分の手を驚愕の表情で見つめている。

「今の……あんたが?」

「で? 何の用だって?」

 若者の質問には答えず、店主はいつもの通りに対応した。一瞬面食らった若者だが、すぐに自分が何故ここに来たのかを口にした。

「断絶の本が欲しい」

 決意に満ちた若者の表情を眺めながら、店主は一言だけ返した。

「やめときな」

「何故!? 俺にはあれが必要なんだ!! 金なら払う! いくらなんだ!?」

 カウンター越しに怒鳴る若者に、店主は座ったまま手元に目を落とした。今日持ってきたのは縫い物だ。あともう少しで縫い上がる。

 雨続きだったせいで、家での作業になってしまったが、案外捗ったものだ。出来映えを確認している店主に、若者はさらに言葉を重ねた。

「あの本でなけりゃ、姉さんを助けられない! 頼むよ!!」

 店主はようやく顔を上げて、若者の顔を見る。今にも泣きそうな顔は、思っていたよりも若いのかも知れない。

 その相手に、店主は静かに告げた。

「断絶の本では、誰も救う事なんぞ出来やしないよ」

 若者は驚いた表情をしている。一体目の前の老婆は何を言っているのだろう。

「そんなはずはない。確かに聞いたんだ。断絶の本なら」

「ありとあらゆるしがらみを断ち切る事が出来る。例え人と人以外の契約でもね」

 若者は、今度こそ驚いた表情のまま固まっている。この老婆は、何をどこまで知っているのだろう。魔導書などという不可思議なものを扱う店の主とは、こういうものなのだろうか。

「あんた……何を知ってるんだ」

「悪い事ぁ言わないよ。このまま帰りな。姉さんとやらを助けたかったら、一緒に村を出るんだね。それ以外に方法はないよ」

「だめだ……姉さんが助かっても、別の娘が生け贄に捧げられる。それじゃあ、だめなんだ」

 自分の身代わりに誰かを犠牲に捧げて生きていける程、若者の姉は強くない。村を出ようと何度も言ったのに、首を縦に振らなかった。

 そんな彼女も、断絶の本の話には乗り気だったのだ。誰も犠牲にせずに済むのなら、と。

「だから、俺はどうしてもあの本を持って帰らなきゃならない」

 そう言い切る若者を、店主は醒めた目で見つめた。

「契約というのは、必要だからこそ結ばれるもんなんだ。その契約を勝手に断ち切るという事がどういう事か、本当にわかっているのかい?」

「わかっているさ。これ以上犠牲を出さずに済むんだ」

 何を言っているのか、と言いたげな若者の様子に、店主はこれ以上言っても無駄かと諦めた。

 何より先程から棚の一部が騒がしい。本そのものが行きたがっているのだろう。ならばこれ以上自分が言うことなどない。

「本ならその棚の上から三段目、左から六冊目にあるよ」

 若者は飛びつくように指示された場所を探した。不思議な事に、一冊の本がすぐに目に入る。手に取って表紙を見ると、断絶の本と入っていた。

「これが……」

「代金は今あんたが持ってる有り金全部だよ」

「ぜ、全部!?」

「本来ならそれでも足りないくらいだ。ああ、村への帰りはその本を使うといい。街から出た所で本を手に、目を閉じて村を思い浮かべな。運んでくれるさ」

 店主のその言葉に、若者は懐を探って財布を出した。本の購入代金に、と村中から集めた金だった。

 これを持ったまま逃げるんじゃないかと言う者もいたが、姉が村にいる以上必ず帰ると約束して出てきた。

 若者にとって、姉はたった一人の家族だ。見捨てて一人だけ助かるような真似は出来ない。

 若者は財布をカウンターに置いた。店主はそれを手に取り中身を確かめる。

「嘘はついちゃいないようだね。結構な事だ。魔導書の多くは嘘をつかれるのを嫌うからね」

 自身は平気で嘘をつくくせに、使用者や周囲の人間に嘘をつかれるのには怒る本が多いのだ。魔導書が厄介だと言われる理由の一つである。

 若者の方は店主の言葉を聞いてはいない。手に入れたばかりの本に見入っていた。

「これで……みんなが救われる……」

「聞いちゃいないだろうが、その本じゃあんたの村は救えないよ」

 店主の言葉通り、若者はその言葉を聞いていなかった。ふらふらとした様子で店から出て行く。その後ろ姿を見ながら、店主は軽い溜息をついた。


 若者が本を買っていってから一月が経とうかという頃、店に客が一人来た。

「こんにちわー」

 魔導師長である。

「何しに来たんだい」

「やだなあ、そんな嫌そうな顔しなくてもいいじゃない。あ、今日は本買いに来たのよ。あ、あった。これこれ」

 そう言って彼女が手に取った本を見て、店主は眉間の皺を増やした。いつの間に戻って来ていたのか。

 魔導師長の手には、断絶の本があった。

「知り合いにさ、厄介な男と結婚しちゃった子がいてね。円満離婚したいから何かいい手はないかって聞かれてさ。あ、その子はもう親も親族もいないから。子供もいないし、これ使うなら今かなって思って」

 そう言うと、魔導師長は少し寂しそうな笑顔を浮かべた。

「友達なら、あんたとの縁も切れるよ」

「それはしょうがないかな。あんなしょうもない男と一生一緒にいるよりは、全てを断ち切ってでも新しい生活送って欲しいから」

 断絶の本は全てを断ち切る。しがらみも縁も。断ち切るものを選ぶ事は出来ない。夫婦の縁も、友達の縁も、家族の縁も何もかも。

 そして、人と人との縁だけではなく、人と人以外の縁も絶ちきる。住んでいる場所との縁もそうだ。この本を使うという事は、魔導師長の知り合いの女性は、今住んでいる場所から出て行く事になるだろう。

「あ、そうだ。おばあちゃん、この間北の方の小さい村が消えたの、知ってる?」

「いいや」

「雪崩に押し流されたんだって。場所的に今まで一度も流されなかったのが不思議なくらいだっていう話だけど、あそこ何か呪術的な事でもやってたのかなあ」

「契約さ」

「え?」

 魔導師長は、店主が答えてくれるとは思っていなかったのか、ぽかんと口と目を丸くしている。

 そんな彼女にはお構いなしに、店主は勝手に話し続けた。

「数年に一度、村から山の神の花嫁を選ぶんだ。選ばれた娘は一人で山へ行き神の花嫁となる。花嫁は二度と里には戻れない。その代わり自然災害の全てから村を守ってもらっていたのさ」

 山の神がどういう存在なのかは知らない。だが娘一人の命と引き換えに、確実にその後数十年の平安を与えるのだ。

「じゃあ、どうして今年は?」

「契約が切れたんだろうよ」

 店主はそれ以上何も言わなかった。魔導師長も首を傾げながらも何も聞かなかった。

「じゃあこの本、もらっていくね」

「代金はあんたの年収の三倍だからね」

「……高いよ」

「嫌なら置いていきな」

 魔導師長は半べそをかきながら本を持って帰って行った。扉から見える空は鈍色で、そろそろ降ってきそうな空だった。

 もっともここしばらくの気温では、雨ではなく雪になりそうだが。

「だからやめろと言ったんだがね」

 店主がこぼした独り言は、誰にも聞かれないまま店の中で消えていった。

 あの若者も村の人間も、間違えたのだ。生け贄を捧げたくないのならば、全員で村を捨てる以外にないのに、彼らは何も失う事なく契約を勝手に切り捨てる事を選んだ。消滅はその結果だ。

 魔導書は自身の力を発揮する事を望む。その結果までは保証しない。だからこそ使う側の人間が慎重に使わなくてはならないのだ。

 この店に通う人間の中には、その事を知らずに来る者もいる。最低限の事として店主は彼らに忠告をするのだが、そういう連中に限って人の話を聞かない。

「厄介なものだよ、まったく」

 だから人に親切にする気にはなれないのだ、と今まで一度も親切にした事のない店主がぼやいた。

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