第5話 縁の本

 よく晴れ渡った日だ。おかげで店主の機嫌が朝からいい。といっても眉間の皺の数が少ない程度だが。

 三日月通りを店とは反対側に歩いて数軒、そこに今日の目当ての店がある。扉を開けると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。

「あら、おばあちゃん。いらっしゃい。いつもの?」

 店主が店に入ると、おかみさんが満面の笑顔で出迎えた。このおかみさんは普段から愛想が良く、少なからず店の売り上げに貢献している。

「いつものを、いつもの数で」

 店主がそう言うと、おかみさんはあいよ、と威勢の良い返答をして品物を包み始めた。

 普通のパンと、ごまのパンを二日分。それが店主が買うパンの種類と数だ。これは店主がこの店でパンを買うようになってから一度も変わらない。

 毎日ではないが、一日置きには買いに来ている常連だ。この店はそうした常連でいつも賑わっている。

「お! ばあさん、来てたのか」

「パンが切れそうなんでね」

 本日店主が来ているのは、ハゲ親父がやっているパン屋だ。三日月通りに一件だけあるパン屋で、ここいらに住んでいる人間は大概ここに買いに来る。

 表通りにも何件かパン屋はあるし、有名所も大きな店もある。だが知っている人間はやはりここに買いに来るのだ。

 店内に置いてあるパンの種類はたったの四つ。それでもこの店はもうここに店を構えて四代目になるのだ。

「はい、いつものね。あ、中に入ってるのは試作品のおまけよ」

「今度のは自信作だぜ!」

 ハゲ親父が店の奥から声を張り上げた。職人の彼は滅多な事では店の方には出てこない。

「あんたが顔を出したら売れるもんも売れないよ」

 とは店主の言葉だ。内心傷付きながらも忠告に従っているのは、ハゲ親父らしいと言えるだろう。

 そのハゲ親父は、試作品を作ると必ず店主に試食を頼む。毎度辛辣な批評が返ってくるが、親父は黙って受け止めて次回作に活かしてくる。季節変わりの今頃は、毎度新作の試作品を作る時期にもなっている。

「当たり前だろ。作った人間が自信を持てない物なんざ、売り物になる訳がないよ」

 相変わらず眉間に皺を刻んだまま店主がそう答えれば、おかみさんが笑い、ハゲ親父は参ったな、と苦笑している。

「とにかく、試作品は感想の方、よろしくね」

「ああ」

「おばあちゃんの舌は確かだから」

 そう笑うおかみさんに見送られて、店主はハゲ親父のパン屋を後にした。


 普段通りに店を開けていた。今日はつい先程から雨が降り始め、あっという間に土砂降りになっている。店主の眉間の皺が三本程増えている。これ以上雨が続けば、皺はさらに増えていく事だろう。

 今日は編み物も進まない。そう思うと溜息が出てくる。誰もいない店内で、店主の溜息は外の雨の音にかき消されたが、消されない音もあった。扉の呼び鈴である。

 カウンターの中から入り口の方を見ると、この店にはそぐわない少女が一人、立っていた。

「入るんならとっとと入りな。雨粒が中に入ると店が汚れるよ」

「あ、ご、ごめんなさい」

 少女はか細い声でそう謝ると、慌てたように店内に入って扉を閉めた。

 ごく普通の少女である。とてもこの店に来る筋ではないようだ。その少女は胸元に包みを一つ、抱えている。

「で? この店に何の用だい?」

 相変わらず愛想の欠片もない声で、店主が聞いた。少女は一瞬びくっとしていたが、すぐにおどおどと視線が泳がせた。

 店主の視線は、少女の胸元の包みに注がれていた。少女がこの店に来た理由が、何となく理解出来る。が、あくまで本人に言わせるつもりで、店主は沈黙を決め込んだ。

「あ、あの」

「何だい?」

「ここって、不思議な本を買い取ってくれるって、聞いたんですけど」

 店主は眉間の皺を一本、増やすことになった。


 カウンターの前に小さい椅子を出し、少女をそこに座らせる。買い取りの場合はいつもそうするのだ。

「ここに売る物を置きな」

 とんとんとカウンターを指で叩いて指示を出す。少女は慌てた様子で包みを開いて、一冊の本をカウンターに乗せた。

 店主の表情がわずかに変化する。だがそれに少女は気づかなかった。

「この本はどうやって手に入れたんだい?」

「それが……」

 少女は俯いてしまった。俯いたまま、視線があちこちを彷徨う。どう説明すればいいのか、迷っているのか。

「どこかから盗みでもしたのかい?」

 店主のその一言に、少女はぱっと顔を上げて反論した。

「ち、違います!! その……気づいたら私の本棚にあって……」

 尻すぼみに言うと、少女はまた俯いてしまう。店主はそれ以上何も言わず、カウンターに置かれた本を手に取った。

 縁(えにし)の本。紛う方なき魔導書である。しかも頁をめくると使用された痕跡があった。

「この本、読んだのかい?」

「いいえ。開きはしたんだけど、中に何が書いてあるのかわからなくて……」

 魔導書は文字で書かれた物がほとんどだが、その文字自体には意味はあまりない。意味があるのは本そのものに込められた術式だ。

 魔導書を正しく使用する場合には、その魔導書に記された術式を発動出来るだけの魔力を供給する必要がある。

 中には供給を必要とせず、長い年月の間に本自体が人格のような物を持つ場合もある。そういった魔導書は癖が強く、持ち主を自分で選ぶ傾向がある。

 この本は魔力の供給が必要なタイプだ。そして本には術式を発動した後がある。だが目の前の少女には魔力はない。では誰が供給したのか。

「家族の誰かがこの本に触れたんじゃないか?」 

「ええ、兄も中を確認しました。でもやっぱり読めないって」

 だがここに本を持ち込んだのは少女だ。という事は、やはり本の力は少女に作用していると見ていい。

 縁の本。これは本の使用者の運命の相手を探し出すという本だ。例えどんなに離れた相手でも、本の力で引き寄せると言われている。

 さて、この少女の運命の相手とは、一体誰なのか。少女がこの本を手放すつもりで店に来たというのなら、相手はもうすぐそこまで来ている事になる。

 縁の本は役割を終えると、使用者の傍から離れるのだ。

「念のため聞くが、あんたの兄さんって人に、変わった事は起こらなかったかい?」

「変わった事?」

 少女は考え込んだが、結果は首を横に振るものだった。だがすぐにあ、と声を上げる。

「そういえば」

「何だい」

「今日の出がけに遠縁のおじさんが娘さんを連れてきたんだけど、その子を見て固まっていたっていうのは、ありました。あんな兄さん見たのは初めてだから」

「……なるほど」

 どうやら本は二人を使用者と認識しているらしい。兄だけが使用者と認識されたのなら、この本を持って来るのは兄の方でなくてはならない。

 珍しい話しだが、本が複数人を使用者と認める例はない訳ではない。

「あの、この本って一体何なんですか?」

「……知らずにここに持ち込んだってのかい」

 店主があきれ顔でそう言うと、少女は頬を赤らめた。実際ここがどういう店なのか、少女は知らなかったのだ。中に入って本屋なのだと知ったくらいである。

「あの、友達に教えてもらって……おかしな、あ、いえ、不思議な本だったらここに持っていくといいって」

 少女の失言にも、店主は特に機嫌を損ねる事はなかった。元々雨のせいで機嫌はかなり悪いというのもある。

 黙ったまま本の表紙を指先でなぞる店主に、少女は怒らせてしまったのかと不安になる。

「あ、あの、すみません……」

「何で謝るんだい」

「あの、おばあさん、不機嫌そうに見えたから、怒ったのかなと思って……」

 少女は当然ながら、天気と店主の機嫌の因果関係を知らない。店主は軽い溜息をついて少女の言葉を否定した。

「怒っちゃいないよ。ちょいと不思議に思っただけさ」

 この本は普通店主の手元には来ない種類の本だ。常に使用者を求めて人から人へと渡り歩く。

 今回も「仕事」が済んでいるのなら、店主の店に来るのではなく少女の手から誰か他の人の手に渡っているはずだった。何故今回はこの店に来る事になったのか。

 とりあえずは買い取りを済ませようかと、カウンターの引き出しから買い取り帳を取り出す。

「これに名前と住所を書いとくれ」

 ペンと一緒に差し出したそれに、少女は言われた通りの情報を書き込んでいく。その間店主は代金の用意をしていた。

 そんな時である。店の扉が開いた。呼び鈴のカランカランという音が店に響いた。

 振り返った少女と、カウンターから顔を上げた店主が同時に入ってきた人物を捉える。少女より幾分年かさの少年だ。

 少年というよりは、青年と少年の間くらいだろうか。その少年は手に籠を持っている。

「ばあちゃん! 親父が持っていけって、これ……」

 少年はすぐに店に店主以外の人がいるのに気づいた。ぽかんとした表情でこちらを見てくる少女の視線に、少年の目も釘付けである。

「ああ、また新作とやらを作ったのかい。こっちに持ってきな」

 店主に声をかけられ、扉の所でぼーっと突っ立ったままだった少年は、ようやく足を動かした。それでも視線は少女に止められたままだったので、足下の何かに引っかかり、危うく転倒する所だった。

「何やってるんだい。しっかり目ぇ開けて歩きな」

「あ、うん」

 少年はカウンターに籠を置くと、ささっとそこから離れてしまった。その様子を少女と見ていた店主は、籠の中身を確認してから少女に小さな袋を渡す。

「この本はうちで買い取るよ。こいつが代金だ」

「あ、は、はい」

「金額はここに書いてある通りだよ。今のうちに確認しとくれ」

 店主に言われて少女は袋の口を開けて中の金を数えた。本一冊の値段としては妥当な金額である。

「坊主、外はまだ雨が降ってるのかい?」

「え!? あ、いや、もう上がってる……」

「じゃあ丁度良い。あんた、この子を家まで送っていきな」

「え!?」

 驚いた少女と少年の二人は、同じように口を丸く開けている。

「え、じゃないよ。そろそろ暗くなってくる頃合いだ。そんな中、この子一人で帰すなんて出来るかい?」

 店主にじろりと睨まれて、少年は首を一生懸命横に振った。振りすぎて少し目眩がした程だ。

「じゃあ文句言わず送っていきな」

 そう言うと店主は二人を店から追い出した。扉から見た外は、雨が上がって綺麗な夕焼けに染まっていた。


 それから二人がどうなったかは、今のパン屋を見ればわかる。あの後どちらがより積極的に動いたのかまでは知らないが、あの後しばらくして二人は結婚したのだ。

 店主は店で例の本を手に取った。まだ次の使用者を探す気になれないのか、本は店先に置かれたままである。

 縁の本は使用者の運命の相手を探し出して、使用者と必ず出会わせる。ただ気をつけなくてはならないのは、運命の相手が必ずしもいい相手とは限らないという所だ。

 縁には良縁もあれば悪縁もある。そして縁の本は、善悪構わずに選び出すのだ。使用者にとっての運命の相手を。

「ある意味一番厄介かも知れないね」

 そう言いながら店主は本を棚の一番奥へ押し込めた。ここに置いた所で本自体が次の使用者を欲したら、勝手に店からいなくなるのだろう。

 店を体のいい休憩所として使われている訳だ。店主はやれやれと言いながら、今朝買ったパンの中にある試作品を取り出して食べてみた。

「……これは有りだね」

 どうやら今回のハゲ親父の試作品は商品の棚に並びそうだった。

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