第2話 嘘の本

 今日は朝からよく晴れていた。おかげで珍しくも店主の機嫌が朝から良かった。数日雨が続いた後だからか、普段の晴れの日よりも上機嫌であった。何せ開店からずっと棚の整理をするくらいだ。

 この古書店では棚の整理はほとんど行われない。必要がないのだ。掃除は毎日するので埃はないが、棚におかれた本は系統も見た目も見事にばらばらだ。

 それを今日という日に限って店主が整理している。その光景を運悪く目にしてしまった親父は、店の入り口で棒立ちになってしまった。

「何て顔してんだい、人んちの店の入り口で」

 言っている内容は普段と変わらないが、その口調が普段とは比較にならないほどに柔らかい。親父の驚きはさらに増してしまい、開けた口を塞ぐ事ができないでいた。

 一瞬自分は似たような違う店に入ったのかと錯覚した程だ。だが店主の見た目が変わる訳ではないので、やはりいつもの魔導古書店なのだと、ようやく納得した程である。

「いや……ばあさんがそんなに機嫌がいいなんて、雨でも降るんじゃないかと」

「縁起でもない事言うんじゃないよ」

 親父の方は、いっそ雨が降って普段の機嫌の悪い店主に戻りはしないか、と祈りたくなっていた。機嫌のいい魔導古書店の店主というのが、これほど恐ろしい物だとは思わなかったのだ。


「で? 今日は何の用だい」

 棚の整理を途中で切り上げ、店主はいつものようにカウンター奥に座りながら親父に聞いた。いつまでも店の入り口に突っ立っていられちゃ、商売の邪魔でしかない。

「ああ、そうそう。ほらこれ」

 やっとこの店に来た理由を思い出し、親父が手に持っていた紙袋をカウンターの上に置いた。何やらいい匂いがする。

「これは?」

「うちの新商品……の、候補だな。お得意様に試食してもらおうと思ってよ。ばあさん、いつも朝早いうちに来て同じ物買ってくだけだろ? たまには別の商品を、と思ってさ」

 親父の説明もそこそこに、店主が紙袋を開けると、そこにはまだ温かいパンが入っていた。手の平大の丸いパンが三つ入っている。おやじの店は通り唯一のパン屋だ。

「あたしの目にゃあ、普通のパンに見えるんだがね。これのどこが新商品なんだい?」

 紙袋から一つをつまみ出し、しげしげと眺め回しながら店主がそう言うと、親父は勢い込んで説明し始めた。

「いやいやいや、見た目も味も今までのとは違うんだよ。何せ仕込みの段階で」

「ああ、そんな説明はいいよ。どれ」

 話の腰を折られた親父が苦い顔をする前で、店主はパンを一口分ちぎって口に放り込んだ。普段食べているパンより大分柔らかく、香りも甘い。口の中で咀嚼する度甘みが増すようだ。

「悪かあないね」

「だろ!?」

 先程までしょげていた親父が満面の笑みでそう確認してくる。彼は自分が焼いたパンをおいしいと言ってもらえる時が、一番幸せだと感じるのだ。

 ちなみに店主の「悪くない」は、最上の褒め言葉なのだと親父は知っている。


 その後もあれこれ目の前でしゃべる親父を余所に、店主はパンをちぎっては食べちぎっては食べしていた。中途半端に袋にしまうより、食べきってしまう方がいいと判断したのだ。

 それにしてもこの男はよくしゃべる。結局このパンを作るのにどれだけ苦労したかを延々としゃべっているのだ。店主は半分以上右から左へ抜けさせているが、親父の方は気付いているのかいないのか。

「と、いう訳なんだ。あー、さすがに喉渇いてきたわ」

「そんだけしゃべりゃあそうだろうね。どれ、パンの礼代わりに茶の一杯も煎れてやろう」

「え!?」

 またもや親父が固まった。店主との長い付き合いの中で、店の中で茶を振る舞われた事は一度もない。それだけ長居をしなかったというのもあるが、扱っている品が品のせいか、店主自体も店での飲食はほぼしないのだ。今日のように、パンをかじるとか汁気のない食べ物なら口にする事はあるが。

「いらないのかい?」

「いや、いる! いります! ください!」

「……飲むときゃそこから一歩も動かず飲みなよ」

 そう言うと店主は店の奥に引っ込んだ。

 店の奥には、小さいが水場がある。基本店主が食事をする時は家に帰るので、この水場は掃除の時か、今日のようにお茶を煎れる時以外には使われない。

 その水場で親父の分と自分の分、二人分のお茶を煎れて店主がカウンター内に戻って来た。

「ほら」

「お、おお。ありがとう」

 べらべらとしゃべった後なので、お茶の水分が喉に嬉しい。意外と美味しいその味に、親父は再び驚かされた。


 本当にカウンター前で立ったままお茶を飲んでいた親父は、何やら考え込んでいる店主に気付いて声をかけた。

「どうしたんだ? ばあさん。眉間に皺なんぞ寄せて。ただでさえ皺だらけだってえのに」

「一言余計だよ」

 カウンターの中からじろりと見上げられて、親父は黙ったままカップに視線を落とした。

「どうにも気にいらないね」

「何が?」

「らしくないんだよ」

「はあ?」

 店主の謎の言葉に、親父は首を傾げた。何がらしくないというのだろう。確かに今日の機嫌のいい店主はらしくない。棚の整理をする店主も、らしくない。店の中で、しかも親父に茶を振る舞うのもらしくない。

「わかった! 天気が良くてばあさんの機嫌がいいかららしくないんだな?」

「あんたが脳天気だってえのは良くわかった」

 そう言って店主はカウンターの椅子から腰を上げた。そのまま親父が来るまで整理していた棚へ行き、一冊の本を手にしてカウンターへ戻った。

「それは?」

「今回の大本だよ」

「今回?」

「『らしくない』事の、元凶さ」

 意味が飲み込めず、親父は再び首を傾げた。相変わらずこの店では訳のわからん事が起こるものだ。

「元来こいつは持ち主の周囲に、持ち主が普段なら取らないような行動を取らせて混乱させるのを好む本なんだが」

「……性格の悪い本って事か?」

 短絡的な言葉に、店主は心底呆れたような表情で親父を見上げた。

「そんなの、ここには掃いて捨てるほどあるよ。そうではなくて、この本は今持ち主不在の状態なんだ。力を振るう事はないはずなのに」

「じゃあ、実は持ち主がすぐ側まで来てるとか?」

 何をばかな、と言い返そうとして、店主は一瞬詰まった。だがすぐに首を横に振った。その可能性はない。本は持ち主を選ぶが、持ち主もまた本を選ぶのだ。お互いが選ばれなくては、この本は力を発揮しない。

「何が原因かは知らないが、本の力が漏れ出したと考えた方がいいね。おそらく他の店でも、普段とは違う行動を取ってるやつがいるはずだよ」

 三日月通りには、種々雑多な店が並んでいる。表通りとはひと味違った個性のある店ばかりが並んでいるのだ。

 親父のパン屋も例外ではない。表通りにいけば、いくらでも見た目が綺麗で味もおいしいと評判のパン屋があるが、親父の店のパン屋には「ここのパンでなければダメだ」という常連が数多く通ってくる。三日月通りの店には、そうした客が来るのだ。もちろん、この魔導古書店も、である。

「うちだけでなく、あんたん所まで広がっているなら、本の力が通り一体に拡散していると見た方がいいだろうよ」

 一体いつからその力に操られていたのかは謎だが、少なくとも昨日の時点で異常はなかったはずだから、力が漏れたとしたら今朝からか。

 何が原因だろうと、本を眺めながら店主が考えていると、親父が眉尻を下げた情けない表情で恐る恐る聞いてきた。

「そ、その本の効果って、何か副作用みたいなのはあるのかい?」

 以前聞かせた本の話を覚えているらしい。さて、何と言うべきか。

「こいつは変わった性格をしちゃいるが、そこまで厄介な代物じゃないから実害と言えるものはないだろうよ。せいぜい普段と違う行動して周囲に気味悪がられる程度だね」

 本来の持ち主が力を発揮させるとまた違う作用があるのだが、それを目の前のハゲ親父に言う必要はないだろう。でかい図体をして、本当に肝の小さい男だ。

 店主の言葉にやっと安心した店主は、お茶を飲み干してから帰って行った。店に戻ってかみさんに不思議がられるだろう。定番商品以外に新しい品を考えるなんていうのは、あの親父の普段の行いからは外れている。

 そうした小手先の事で得た客はすぐに離れる、と常々言っていて、基本的なパンだけで勝負をかけている店なのだ。あの親父の父親、そのさらに父親の代からその姿勢なので、代々受け継がれてきたものなのだろう。

 店主は改めて手元に置いた本を眺める。

「このあたしにまで力を及ぼすたあ、良い度胸じゃないか」

 気のせいか、手元の本が一瞬震えたように見えた。

 本来この本は、正当な持ち主の手元にある時にのみその力を発揮する。周囲とのいざこざを抱えた相手の元を好んで選ぶ癖がある本で、その力を使って普段とは真逆の対応を持ち主にさせる。

 頑固な人間なら柔軟な対応を、意地悪な人間なら優しい対応を。それこそ人が変わったような態度を取らせるのだ。しかも本人はその事に気付いていない。

 長くそうさせる事で、抱えていたいざこざは消えていく。最終的には持ち主の性格そのものまでを真逆に変えてしまう、これはそんな本だった。


 ある物を逆なものへ。本当を嘘へ、嘘を本当へ。本の名前を「嘘の本」という。

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