三日月通りの魔導古書店

斎木リコ

第1話 幸せの本

 その街の大通りから一歩外れた路地裏の一つに、通称「三日月通り」と呼ばれる通りがある。いつ、誰が呼びだしたのかは知られていないが、誰もがそう呼んでいる。

 その名の通り三日月のように曲がった路地だ。どういった経緯でこんな変わった路地が形成される事になったのか、それを知る者も誰もいない。それでも路地は昔から、そこに静かに存在していた。

 路地には小さな店があちらこちらに点在している。大通りから外れているからか、どこもそんなに流行っていなさそうな店ばかりだ。

 その中の一つに、古書店がある。掲げられた鉄製の看板には『魔導古書店』と入っていた。

 扉を開けるとカランカラン、と軽やかな音を立てる。扉に呼び鈴が付けられているのだ。その音が店内に響くと、カウンターの向こうからぬっと姿を現す存在がある。

 この店の店主である。齢八十を軽く超えてそうな皺だらけの顔に、白髪をひっつめてかぎ鼻の上には小さな丸眼鏡を乗せている。黒っぽい服を好み、そこに店では白いエプロンをかけているのだ。

 まるで絵本から抜け出した魔女のようなその姿が、店主の定番のようだ。

「何か用かい?」

 店に来た客には必ずそう聞いた。「いらっしゃいませ」の一言もない。ついでに言うなら愛想もない。初めての客は大抵この最初の洗礼で面食らうものだ。

 それでも客足が一定数から衰えないのは、この店でしか扱っていない魔導書が数多くあるからだという。あくまで噂の範囲だった。

 だが噂だけならばこの店は実に幅広いものがある。曰く、城の魔導師長が買い物に来ただの、他国の魔導騎士が泣きながら懇願してやっと一冊の魔導書を手に入れて帰っただの、またあるものは教会の司祭が何やらよからぬ魔導書を買っていっただの、という、どこまで胡散臭いものばかりだったが。

 そんな噂が立つ古書店は、今日も通常営業のようである。


 魔導古書店の朝は早い。これは店主の朝が早い事に起因しているようだ。周囲のどの店よりも早く開店している事は、皆知っている。

 店主は近くの集合住宅に住んでいる。近隣の住人の話によれば、一番長くその集合住宅に住んでいるのだそうだ。店主がいつからそこに住んでいるのか、誰も知らないんだとかとも言われている。これも噂の域を出ない話ではあるが。

 そこから店まで歩いて約十分。店主は毎日歩いて通っている。ただし晴れの日のみである。

 雨の日や雪の日は自動的に店は休みとなる。はるばる異国から来た客が、やっとたどり着いてみれば雨で店が休みだった、なんて事も過去にはあったらしい。

 その事を翌日店主に愚痴った客が

「それはあんたの都合だろう? 店を開けるかどうか決めるのはあたしの都合だよ」

 と、けんもほろろに言い返されたとか。それでもその客は目当ての魔導書を購入し、喜び勇んで帰ったそうだ。

 店に到着して店主がまず始めにやることは、店の掃除である。店の前を掃き掃除し、棚の埃を落とし、床を掃き掃除する。カウンターを拭き上げれば掃除は終了だ。

 硝子窓は拭かないのか、と以前聞いた強者(つわもの)がいたが、

「これ以上拭いた所で綺麗にゃならんからね」

 という内容の事を、いかにもつまらんことのように返してきたそうだ。聞いた方は答えが返ってくる事自体想定していなかったようで、返事をされた時にはひどく驚いたという。

 なるほど、店の窓硝子は綺麗とは言い難いが、それでも埃や汚れがついているかと言われると、そんな事はないようだ。

 では何故綺麗とは言い難いのかと言えば、何となく曇っているのだ。硝子自体が。確かにこれは拭いても綺麗にはならないだろう。そんな理由で店主は窓硝子だけは拭かないのだそうだ。

 だが拭かない割には埃が積もっているという事もない。不思議な窓硝子だと言う者と、実はみんなが見ていない所で拭いているんだという者とがいる。どちらが真実かは、やはり誰も知らなかった。

 掃除が終わると、店主はカウンター内で作業をしつつ、店番をする。作業は時期によって変わる。春から夏は縫い物を、秋冬である今は編み物が中心だ。

 まれに春夏でも編み物をしている事がある。レース編みである。誰だかが見た時には、テーブルクロスに出来そうな程の大作を編んでいたそうだ。

 店には一日客が来ない日もある。そう言った日は店主にとっては珍しい日ではないらしく、特に機嫌には響かない。彼女の機嫌に響くのは、日々の天気のみだ。

 今日の機嫌があまりよくないのは、今にも降り出してきそうな空模様のせいだろう。季節柄曇天が多いのは致し方ない事ではあるが、この所綺麗に晴れ渡る日が少ない。

 今朝は家を出るときから嫌な感じがしていたが、ここに来てそれは確信に変わろうとしていた。今にも空から雨粒の一つ二つでも落ちてきそうな程、外は暗い。おかげで手元も暗く、灯りを付けなければ編み目もよく見えない。

 店主は手元から目を上げて、窓硝子越しに外を見やった。まばらな人通りではあるが、いくらか人はいる。その誰もが早足になっているのは、やはり今にも降りそうな空模様のせいなのだろう。

 軽い溜息を吐いて店主は手元に視線を戻した。朝から降らなければ店は開けるのだ。


 どれくらい手元に集中していた事か、不意に店主の耳に店の扉を開けた時になる、カランカランという呼び鈴の音が響いた。

 ひょいと視線をそちらにやれば、入って来たのはあまりこの店に用のなさそうな年若い男である。

「何か用かい?」

 店主はいつもと同じようにそう言った。男の客は、カウンターからぬっと顔を出した店主自体に驚き、さらにその口から発せられた言葉にも驚いたようだ。

「……普通店に客が来たら『いらっしゃいませ』って言うんじゃないのかい?」

「そう言って欲しきゃ他の店に行きな」

 即答である。とりつく島もないとはこの事だ。客は軽く肩を持ち上げて流すと、店内を見回した。

「ここって古書店と出てたけど、何かお薦めはあるのかな?」

 「ないね。魔導古書店と看板に書いてあるだろ。ここにある本は持ち主に渡るべくここにある本ばかりだよ」

 あっさりとそう言われ、客は店主と会話することを諦めて狭い店内を見回した。古書店というだけあって、店の中の棚は本だらけである。小さいものから大きなものまで種々雑多だ。その唯一の共通項が「魔導書」である。

 店主は店の中をうろつく客を、そうとは知られないようにカウンター越しに観察する。どうにも魔導書には縁のなさそうな人物だ。

 確かに客の中には使いとして店に来る者もいる。そういう使いの者は魔導書に縁がありそうには見えないものだ。ただそういった手合いは必ず欲しい本の題名をきちんと告げて「こういう名の本はありませんか?」と聞いてくる。

 だが今店内にいる客はそうではない。使い走りでもないし、自身で魔導書を購入するような風でもない。客の目的が何であれ、店主はいつもと変わらず対応するだけだった。

 店主は軽い溜息を吐いて、そのまま客を放置する事にした。今日は編み物の調子がいいのだ。天気が悪くて機嫌が悪いのだから、せいぜい編み物に集中しておくことにしよう。店主は手元に目線を落として編み目を追い始めた。


 カウンターの向こうから向けられる視線が消えた事に気をよくした客は、あちらこちらと店内を見て回る。

 狭い店内に所狭しと並べられた棚、そこに並べられる本達。これらのどれでも、一冊で一財産築けそうなものばかりだと聞いた。

 ただし、と客に教えてくれた仲間が声を潜めた。あそこの本はどいつも曰く付きな代物ばかりだと言う。「仕事」をするつもりなら、それを頭に入れておけ、と忠告をしていった。

 安酒場でこの店の情報をくれた「同業者」の顔を思い出し、客は密かに笑った。確かにあのさえない男なら、この店でさえ攻略は難しいだろう。だが自分は違う。

 ──あんなばあさん一人くらい、どうってことないっての

 そう内心舌を出すと、客は本格的に獲物を漁りだした。

「ん?」

 何度か見渡した棚の中に、ひときわ目を引く本がある。こういう勘は大事にする方だ。客は本を手に取ってみた。表紙の文字は金色で、装飾が過ぎて読み取れない。

 中を開けてページをめくると、古語で記されているらしくこちらも読む事が出来ない。これでは何の本かは判別のしようがないではないか。致し方なく客は本を手に持って、店主に話しかけた。

「ばあさん、この本は何の本だい?」

「読めなきゃ買うのは諦めな」

 にべもない。客はその様にいささか面食らった。普通、店と言えば客に商品を買ってもらう為にあれこれと工夫するものではないのか。

 少なくとも客が今まで行った事のある店ではそうだった。この三日月通りの他の店でもだ。

「おいおい、売ろうって気はないのかい?」

「売れるもんなら何をしようと売れるさ。逆に売れないもんは何をどうしようと売れないよ」

 真実のような、ただの怠惰のような言葉だ。客はしばし本を手にその場で固まっていた。

 店主はカウンターの向こうから、かぎ鼻の上に乗せた丸めがね越しに鋭い視線を客に投げた。

「あんたが何を買う気になろうがあたしには関係ないがね」

 老婆はまだ続ける。

「あたしがあんたならその本だけは買わないよ」


 結局客はその本を買う事にしたのか、カウンターまで持ってきた。だが店主の提示した値段を聞き、客は驚きのあまり固まった。法外な値段だったのだ。相場にもよるが、ちょっと良い場所に広い土地付きの家が買える程だ。

 最初は何かの間違いかと聞き直したが、何度聞いても最初に聞いた値段の通りだった。

「高すぎないか? 本だろう?」

「気にいらないなら買わなきゃいいだけの話だろう?」

 まけてくれる気はなさそうだ。だがあいにくそんな持ち合わせはない。だがこの本はどうしても欲しい。読めもしない本がどうしてそんなに欲しいのか、自分でも不思議に思うがこうなると理屈ではない。

 交渉してみるが、店主の方は一切まける気がないらしい。この本のどこにそれだけの価値があるのかはわからないが、ここまでくると客の方も意地になってくる。

「今手持ちがないんだ。明日にでも持ってくるから、この本、売ってくれないか?」

「寝言は寝て言いな。うちは現金払い以外は認めないよ」

「そこを何とか。宿に帰れば金はあるんだ。ああ、そうだ」

 何かを思い出したように、客は懐に手を突っ込んだ。そこから取り出した手には、一つの古ぼけた時計を握っている。

「それまでの質として、これを預けていくよ」

 時計をカウンターに乗せると、店主はそれを手に取ってしげしげと見回した。取り立ててどうという事はない時計だ。少なくとも店主が提示した本の値段に見合うような品には見えない。

 店主は丸めがねの向こう側から鋭い視線を投げかけてくる。

「……正気かい?」

「ああ。親の形見だけど、この際だ。おれはどうしてもこの本が欲しいんだよ」

 そう言って客は先程手に取った本を愛しそうに見つめた。その様子に店主は軽い溜息を吐き、

「そこまで言うならまあいいだろう。せいぜい後悔しない事だね」

 と悪態をついた。客の方はそれには頓着せず、嬉々とした面で店を後にする。

「ふっ。ちょろいもんだぜ」

 そう言うと、客は足早に店の前から立ち去った。


 店主の手元にある時計は、かすかな音を立てて時を刻んでいる。蓋付きの懐中時計だ。銀色の蓋を開けると、蓋と本体の両方の縁の辺りに何やら文字が彫ってある。細かく、かつ図案化された文字の為、解読は骨が折れそうだ。

 店主はカウンターの裏側にある引き出しから虫眼鏡を取り出し、その文字を読み取っていった。文字は古語である。

 丁度その作業が終わった時、扉の呼び鈴が軽やかな音を立てて来客を報せた。

「よお、ばあさん。元気か?」

「あたしゃあんたのばあさんじゃないよ」

 入って来たのは禿頭の大柄な男だ。筋骨隆々なのと口の周りにはやした髭が相まって、近場では強面で通っている。彼の店もこの三日月通りに存在している。

「そんなの当たり前じゃねえか。いくらなんでもうちのばあちゃんはあんたみたいに性格悪かないよ」

 店主の悪態にも、親父の方は慣れたものである。軽口を叩きながらカウンターまでのしのしとやってきた。その様子をちろりと眺めながら、店主は軽い溜息を吐く。

「知らぬは孫ばかりなりってね」

「あ? そりゃどういう意味だい」

 訳がわからないという顔で禿頭が聞いてきた。もういい年だというのに、相変わらず自分の母親と祖母の話には弱いらしい。カウンターに肘を突いて店主から聞き出そうと言う気満々なのは見て取れる。

 このまま居座られても営業妨害だ。店主は早々に話題を変える事にした。

「こっちの話だよ。で? 何か用があって来たんだろう?」

「ああ、そうそう」

 禿頭の親父は店主のその一言で思い出したと頭を一つ叩いた。親父は何故かカウンターから乗り出し、声を潜めた。

「この通りで泥棒が出たんだよ」

「泥棒?」

 店主の復唱に、親父は大きく頷いた。

「ああ。だが夜中に盗みに入るってんじゃなくて、店に来て適当な品を一つだけ買っていくんだよ。で、その他にもめぼしい品をちょろまかしていくって寸法よ」

「なるほど……」

「まあこの店が狙われる事ぁないだろうけど、一応用心の為にな」

 何せこの店で扱っているのは魔導書ばかりだ。素人では扱えない。しかもこの店に置いてあるのは全て「曰く付き」というもっぱらの噂だ。

 もっともその泥棒が噂を知っているかどうかは謎であるが。

「その泥棒の人相はわかっているのかい?」

 店主が泥棒に興味を持つとは思わなかった親父は、数瞬反応が遅れた。珍しい事もあるものだ。この他人にほとんど興味を示さないばあさんが、泥棒の人相に興味があるとは。

「何でも若い男で、旅人風情だったそうだよ」

「そうかい」

 話を聞いた店主は、すぐに興味をなくしたように手元の虫眼鏡を引き出しにしまった。

「ばあさん、その時計はどうしたよ?」

 カウンターに肘を突いたまま覗き込んだ親父の目に、店主には似つかわしくない代物が入った。大きさから言って男物だろう。

 この店の店主に夫や息子、孫息子の類がいないのは周知の事実だ。

「現金が手元にないからって、さっき来た客が質代わりに置いていった代物だよ」

「は? あんたが現金で品を売らなかった? 珍しい事もあるもんだ」

 明日は雨ではなかろうか。のど元まででかかった言葉を、親父はそのまま飲み込んだ。目の前の老婆は雨と雪の天気が嫌いだった。ただでさえ今日はそろそろ一雨来そうな空模様だ。店主の機嫌も空模様と同じく急変してもおかしくない。

「やられた店はどこだい?」

「へ?」

 いきなり聞かれ、何のことだか理解出来なかった親父は間抜けた声を出す羽目になった。それを蔑むように見て、店主は言葉を足した。

「泥棒被害にあった店はどこかと聞いたんだよ」

「あ、ああ。そういう事か。確か入り口付近の貴金属店と三軒向こうの文具店、それから一番奥の時計屋だな」

 親父の口から出てきた店を思い浮かべ、店主は納得した。どこの店の品も、小ぶりで高価な物ばかりだ。

 貴金属店は、小ぶりで質はあまり良くないが、一応宝石と名の付く物を扱っている。文具店はこんな路地で商売している割に高級文具を扱っているし、時計屋は言わずもがなである。

 店主は手元の時計に目をやりつつ口を開いた。

「あんた暇だろ?」

 おもむろにそう聞かれ、危うく親父はうなずきそうになった。反射とは恐ろしい。慌てて首を横に盛大に振る。

「いやいやいや、これでも仕事の合間に知らせに来てやっただけなんだからな! 暇なんかじゃあないぞ?」

 決して自分の店が暇な訳ではないと言い訳をするが、店主の方は聞いちゃいない。

「それはいいから、あんたちょっと被害にあった店に行って、盗まれた物は今夜か明日の昼頃までには戻ってくるって伝えてきな」

「は? へ?」

 親父は目を白黒させている。それもそうだろう。つい今し方泥棒の話をしたというのに、今夜、遅くとも明日の昼までには盗まれた品が戻ってくると店主が言うのだ。そんな親父に店主はだめ押しをした。

「信用しな」

「いや……ばあさんがおかしな事を言うのはいつもの事だがよお。さすがに今回のはいただけねえや。被害にあった店の中にゃあ、結構な額もってかれちまってるのもいるって話なんだぜ?」

「だったらなおさらだよ。安心させる為にもとっとと伝えに行きな。あたしゃこれで店を閉めるからね」

 店主はそう言うと、さっさと荷物をまとめて親父共々店の外に出た。まだ昼時だというのに、外は夕方のように暗い。空を見上げれば、分厚い雲に覆われているのがわかる。店主の眉間の皺が深くなった。

 それを見た親父はいささか慌てた様子で通りを走っていく。これから店主の言葉に従って、被害にあった店に品物が戻ってくる事を報せに向かったのだろう。

 店主は荷物を持ち直すと、こちらもいささか早足で帰宅の途についた。


 安宿の一室、例の男が寝台に寝そべっている。その枕元の机には、あちこちの店からちょろまかした「戦利品」が並べられていた。

 彼は駆け出しの泥棒だ。今はまだこんなちゃちな物しか盗めないが、そのうち都で一番の宝石店からだって盗み出してやる。今やっているのはその時の為の、いわば練習だった。

 今彼の手には、例のばあさんがいた店で買った本がある。買ったと言っても金を払った訳ではない。安物の時計を質代わりに置いてきただけだ。もちろん代金を持っていくつもりはない。あんな法外な金、払えるものか。

 あの時計は確かに父親の形見ではあるが、ろくに金も残さず死んだ老いぼれが唯一残した品というだけだ。なくした所で惜しい物ではない。

 あの店からは買ったと見せかけたこの本と、他に数冊小さめの本を失敬してきている。何となく惹かれたこの本から目を通してみようと思ったのだ。表紙には金色で装飾的な文字が装丁されている。

 店で最初の方に目を通した時には、読めない文字がびっしりと綴られていたが、見ていけば読める部分もあるかも知れない。売り飛ばす前に確認してみたいという欲に駆られたのだ。

 寝台に起き上がり、組んだ膝の上に本を置いて表紙をめくる。そこには一行だけ文字が書いてあった。


 これはお前の為の物ではない。


「……何だ? こりゃ」

 確か店で見た時には、こんなに白いページは見なかった。おかしく思いながらもページを繰っていく。次のページにも、やはり一文があるだけだ。


 身の丈を知らぬ者には報いがあるだろう。


「……教会の教えの本か?」

 小さい頃、近くの教会にいる怖い祭司に似たような事を言われたのを思い出した。その頃から手癖の悪かった彼は、度々祭司に捕まっては盗みの報いをいつか受ける事になる、と説教されていたのだ。

 それにしたって、店で見たあの不思議な文字はどこにいってしまったのか。間違えて別の本を持ってきてしまったのだろうか。表紙をもう一度確かめたが、確かに店で手に取ったあの本だ。

 首を傾げながらも、もう一ページだけ、と繰ってみる。白いページには、やはり一文だけが黒いインクで記されている。


 引き返さなかった事を悔やむがいい。


「これ、本当に本か?」

 まるで今の自分をどこかから眺めていて、盗みを咎めているのではないか、そんなあり得ない思いに囚われたのだ。

 さすがに気味が悪くなり、表紙を閉じて寝台に放った。はずだった。

 本は彼の手を離れると、すーっと空中を移動して彼の目線より少し高い位置に浮いて止まった。何だこれは? 何が起こっている? あり得ない事が目の前で起こって、彼の思考はおかしな位に鈍っているようだ。

 本が浮いている。それをようやく理解した途端、彼は奇声を上げて寝台から転げ落ちた。

「う、うわわ!」

 浮いている本はぼんやりと光り、風もないのにページがばらばらとめくれていく。どうなっているんだ!? これは一体何なんだ!?

 その時、彼の脳裏に老女の言葉が蘇った。

「あたしがあんたならその本だけは買わないよ」

 あのばあさんはこの事を知っていたのか!? 当然か。売っている側なのだから、商品の事を知らない訳がない。この本はやはりおかしい! 店の情報を寄越した男は何と言っていたか。そうだ、曰く付きの代物ばかりだと、そう言っていた。曰く付きって、こういう事なのか!?

 混乱する頭のまま、男は震える足を叱咤し逃げだそうとした。だがその彼の目の前に、本がすーっと移動してくる。

「ヒイ!!」

 ばらばらとめくれていたページが、やがてある場所で止まった。見たくはないのに目の前にあるため見てしまう。目を閉じることさえ出来なかった。

 真っ白いページには、黒いインクではっきりと書かれていた。


 逃がさない。


 安宿のとある一室の前に、警官が何人かいる。先程から扉を激しく叩いているのだが、中からは誰の応答もない。

「留守か?」

「だが宿の者は出かけた様子はないと」

「仕方ない。おい、鍵を」

 宿の人間を扉の前まで誘導し、合い鍵で開けさせた。匿名の手紙で、ここに泥棒がいると報せてきたのだ。宿の者に確認すれば、昨夜から泊まっている若い男の客だという。

 その客の人相が、被害を訴えてきた店の連中が言う人物と似ている為、彼らが確認に来たのだ。

 合い鍵で開けられた部屋には、誰もいなかった。警官が踏み込み、狭い室内を見回すと、寝台の脇にある机の上に、被害届のあった品が並んでいる。

 それとは別に、一冊の本が床に落ちていた。一人の警官が拾い上げたその本の表紙には、金色の装飾文字が装丁されていた。


「ばあさん、いるかい?」

 扉の呼び鈴のカランカランという音に似つかわしくないハゲ親父が店にやってきた。カウンター越しにちらりと見やると、その手には何冊かの本を持っている。一目でわかる。この店から盗られた品物だ。

「これ、ばあさんとこの品だろ」

 親父は恐る恐るといった風でカウンターの上に本をまとめて置いた。彼もこの店で扱っている本の事は知っているのだ。

 まるで長く触れていたくはないと言わんばかりのその態度に、触れた程度ならば何も起きやしないのに、と店主は醒めた目でいた。

「以外と早かったね」

 時間はまだ午前のうちだ。どうせ警察に持って行かれたあれこれ調べられると思っていたから、昨日宣言した時間よりも遅れるかも知れないと思っていた所だった。

「何か警官の連中も首傾げながら持ってきてよ。よくわからねえけど盗品は一度返す、その後捜査に協力してもらうかも知れないって言っていたぜ」

 店主は話し半分に聞きながら、本の状態を確かめた。どれも破損などはしていないようだ。良かった。破損などした日には、これらの機嫌がどれだけ悪くなる事やら。こいつらをなだめるのは、店主にとっても一苦労なのだ。

 店主はカウンターに置かれた本を手に、椅子から立ち上がった。そのまま棚の前に移動し、本を元あった場所に戻していく。

「なあ、ばあさん。そりゃ何て本なんだ?」

 聞いた所でわからないだろうに、親父は何気なくそう聞いてきた。丁度その時手にしていたのは、例の金色の装飾文字で装丁された本だ。

 珍しく親父の言葉に手を止めた店主は、その表紙をじっと見つめて一言ぽつりと呟いた。

「幸せの本」

「は?」

 店主の口から彼女らしくない言葉が出てきた為か、親父の口から間抜けた声が出た。それには構わず、店主は抑揚なく説明を続けた。

「幸せの本というんだよ。この本を読むことが出来た人間は幸福になれると言われている」

「読んだだけでか? 本当かよ」

 胡散臭そうな表情で言う親父に、店主は無表情のまま、さあね、と返した。

「読めればそうなれるかも知れないよ」

「読めれば? って、誰でも読める文字で書かれていないって事かい?」

「そういう訳じゃないよ。まあ中身は古語だそうだから、読む人間を選ぶのは間違いないがね。こいつは本自体が読み手を選ぶのさ」

 あまりの事に、親父は言葉もなく口を開けたまま呆けている。それはそうだろう。店主の言い分では、本に意思があるようだ。

「こいつは自分が選んだ読み手にしかその内容を明かさない。でも読み手に選ぶ人間は決まってこの本を手に取ろうとしない連中ばかりなんだよ」

「それじゃあ誰も読めないって事じゃあないのか?」

「そうとも言うね。それとこれが大事なんだが、こいつは非常に厄介な本でね、自分が選んだ読み手以外の人間が所有しようとすると、相手を呪うんだよ」

「は?」

「だから力尽くで持ち出そうとはしないこったね」

 そう言いつつ店主は本の背表紙を開いた。本の最終ページまでめくると、そこには何人かの名前が記されている。

 一番下に記された名前を見て、あの若い旅人の名前がわかった。一瞥しただけで背表紙を閉じ、棚に戻した店主の背中から幾分慌てた様子の親父の声がかかった。

「おいおいおい、ばあさん。まさか、あの泥棒がいなくなったってのは」

「この本に呪われたんだろうよ。親の残してくれた護りを手放したのが奴の運の尽きさ」

 そう言ってエプロンのポケットから、前日に質だと言って置いて行った時計を取り出した。親父も見覚えがある。昨日カウンターの中で店主が見ていた時計だ。

「だからあたしゃやめておけって言ったんだがね」

 だがこの本のせいで泥棒が消え、盗まれた品が戻って来たのなら、泥棒以外の人が幸せになれたという事だろうか。


「なあ、ばあさん」

「なんだい、あんた。まだいたのかい」

 嫌そうな店主の顔に、親父はそりゃねえだろう、と情けない表情をする。

「いやさ、その本。この店にあって大丈夫なのかと思ってよ」

 いやに神妙な表情でいる。何が言いたいのだろうか。

「何がどうしてその結論に至るのか、あたしにゃさっぱりわからないんだが?」

「だってその本、自分で選んだ相手以外が持つとやべえんだろ? ばあさんも呪われたりするんじゃねえのか?」

 普通の人間なら先程の話など鼻で笑って端から信用などしないだろう。この親父の性質は素直と取ればいいのか単純と取ればいいのか、店主はよく悩む。

「店に置いてある以上、所有しているのはあたしじゃなくて店だからね。それに人目に付く所に置いてもらえなきゃ、読み手を選べやしないだろう? 第一この本はこの店に来てからもう何年も経っている。あたしが呪われるならとっくの昔に呪われているよ」

 ああ、なるほど、と親父は手をぽんと叩いて納得した。実際そうした曰く付きの本はこれだけではない。店主が把握しているだけでも、この棚にあるうちの半分近くは正当な所有者以外が持つと危険な本ばかりである。

 それ以外にもこの店の中には、危険とまではいかないが厄介と言える本が多くある。いや、厄介な本以外はないと言った方が早い。

 だがそれを正直に親父に話して聞かせる程、店主は親切ではなかった。

「さあさ、商売の邪魔だよ。とっとと帰った帰った」

「わ、わかったわかった、帰るって」

 親父はまた店主に追い立てられるように店を出て行った。また静寂を取り戻した店内で、店主はカウンターの向こう側に腰を下ろし、編み物の続きを始める。

 今日は天気が良いので気分がいいのだ。こんな日は編み物であれ縫い物であれ捗るだろう。店主は珍しくも少しだけいい気分で作業を進める事に集中した。


 三日月通りの古書店は、その道の知る人ぞ知る名店である。だが一般の人にはまるっきり知名度はない。それでいいと店主も客も思っている。そんな魔導古書店は、今日も平和そのものだった。

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