星珠儀のうた

 <丘の下>はアル・ハルで名の知れた街だった。

 いにしえの昔、かの天上人の住処であったというアル・ハルは地に落ち、広大な湿地の上に死した都市の裾野を広げている。一見すると小高い丘のように見えるが、未だその中枢には誰も至っていないというおそろしい迷宮にして大遺跡だ。

 一攫千金を夢見る愚か者どもや、いにしえの知識を求めた学者たちがアル・ハルへ押し寄せ、そして出来たのがアル・ハルの<丘の下>。あるいは、うたかたの夢の街という。




 ――トウジィ、おやめよ、トウジィ。お前に冒険なんて向いてない。

 そう止めた友の手をなぜあのとき振り払ってしまったのかと、トウジィは今はげしく後悔していた。ああ、向いてない、本当に向いていないよ、ラウセ、僕には冒険なんて。空っぽの手の中を見つめてトウジィは切なく息を吐く。

 いざ冒険へと旅立つ前に、無一文になるなど思いも寄らなかった。

 <丘の下>は、冷たい血の通う鷹の棲む街、その噂をちゃんと聞いていたのに。手練れのスリの鋭いくちばしは、意を決してかき集めてきたトウジィの持ち物すべてをあっという間にかっさらっていった。気がつけばトウジィは街の真ん中で荷物ひとつ持たずに呆然と佇んでいたのだ。田舎者の学者が広げた夢のうたかたは、ぱちんと弾けて消えていた。

「どうしよう……」

 途方に暮れたトウジィは呟いた。幸いにして宿の滞在費だけは前払いで一月を払っている。それがなけなしの財産だったので、実のところ取られた金額は大したものではない。しかし荷物の中には、天上にいた頃のアル・ハルの姿を写したという星珠儀が入っていた。内側に水の込められた小さな星珠で、都市の細かな造形物が中で浮き沈みするという遺失物アンチックだった。そこに作られたすべてが本当かどうか、そしていにしえの昔なにが起きてアル・ハルが地に落ちたのか、トウジィはそれを知りたくてこの地を訪れたのだ。夢を導いたはずの書物はあっさりと奪われ、アル・ハルそのものを目の前に望みを断たれた。

 宿へ戻り、事情を話すといたく同情されたが、当然のように宿代は戻ってこなかった。せめて半月分をと思っていたが世間はそう甘くない。

 学院へ戻るだけの金を一月の間に稼がなくては。トウジィはそう考えて目を伏せたが、ふと重要なことに気がついた。他でもない、アル・ハルの星珠儀のことだ。あれは、ラウセからの借り物ではないか。

 いや、借り物どころかむしろ奪うようにして、トウジィは学院を飛び出してきた。止めるラウセを振り払い、彼の星珠儀を勝手に持ち出して。なんて自分勝手なことをしたのだろう、けれどそのときトウジィは、ラウセが共に来てくれないのが悪いのだと自身に言い訳をしたのだった。ああ、ラウセ、すまない、僕は本当に愚か者だ!

 トウジィは宿の主人にどうしても取り返したい大切なものがあるのだと話した。

「盗品はねえ。闇市に出ると思うけどおすすめしないよ。あれは物騒だから」

「物騒でも、どうしても取り戻さなければいけないんです。友人の星珠儀なんです」

 言いつのるトウジィに宿の主人は困ったように唇をひん曲げ、しばらく顔をこねるようにして考え込むとぽつりと言った。

「角に故買屋があるんだ。偏屈なばあさんがやっている店なんだがね、星珠ならもしかしたら、そこにあるかもしれない。でも本当に、もしかしたら、だからね」




 星珠は天上人の涙だったと伝えられている。

 真珠のように小さなものから、葡萄粒ほどの大きさのものまでがあり、ほぼ真円を描く球体だ。今を生きるものには決して成すことの出来ない加工が施されているのが特徴で、その元となった材料がなんであったのかすらわかっていない。天上人の遺産、古代人の智恵、ひとつとして同じ物のない遺失物。それだけに嗜好性は高く、蒐集家も多い。手放せば二度と手に入らないと言われるのが星珠の世界だ。

 トウジィは激しく悔いていた。やさしい友を振り切って旅に出たことも、その友の大切な星珠をこの手に捕らえてきてしまったことも、今や戻りようのない過去であり、トウジィは己の愚かさに恥じ入り、悔やむほかなかった。もし取り戻せなかったなら、と考えるだけで消え入りたかった。これは裏切りに違いなかった。

 顔を上げればアル・ハルの灰色の都市の裾野が見えるというのに、トウジィは己の足下ばかりを睨みつけ、足早に故買屋へ向かっていた。友の声も耳に入らぬほど憧れ、その膝元に駆けつけたいと望んだ死した都市に、今はもうトウジィには何の価値も見いだせなかった。うたかたは弾けたのだ、夢はもはや後悔でしかない。

 宿の主人が語ったとおりの場所に故買屋はあり、トウジィは飛び込むように店の中へ入った。故買屋、闇市、何も恐ろしくなどない、己の罪を改める機会があるなら!

 意を決して店に入った瞬間、トウジィはどうと強い水しぶきを浴びた。しかしそれはほんの一瞬のことだった。溺れると思わずつむった目を開いたが、体のどこも濡れておらず、足下の床の何処にも水滴ひとつない。たしかに大きな波をひっかぶってしまったように感じたのに。

 今のはなんだったのだろうと奇妙に思いながらもぐるりを見回すと、店内はごく普通の雑貨屋のように思われた。

 棚の上に、ところせましと星珠が並んでいる。大きな星珠はひとつひとつが透明な丸底の瓶に納められ、小さな星珠は仕切りのついた箱の中に黒い天鵞絨の布と共に納められ、それより小さな星珠は色ごとにわけられてそれぞれ瓶の中にまとめてしまわれていた。

 天井から吊された瓶の中には、たゆたう水面のように揺らめく青の光が刻まれた大きな星珠が入っている。まるで振り子のようだ、瓶を揺らすと、きっとさざめく波のようにうたうに違いない。トウジィは束の間、後悔を忘れて青い星珠に見入った。

「その星珠を買うのかね」

 しわがれた声をかけられ、トウジィは驚いた。棚の向こう側に、腰の曲がった老婆が佇んでいたのだ。

「そいつは大きくて綺麗だが、ただ波の音を繰り返すばかりだよ。だから安く売ってやってもいい。八千だ」

「八千……」

 トウジィは言われた額をおうむのように繰り返し、それから己が無一文なことを思い出した。代わりに払える物など何も持っていない。事情を話してみようかと店主らしい老婆を伺ってみる。老婆は両目の間が広く離れていて、魚のようにのっぺりとして表情がなかった。ふいにトウジィは自分が魔窟へ飛び込んでしまったような気がして、怖じ気づきそうになった。

 けれど、ここにならラウセの星珠儀はあるに違いない。こんなにたくさんの星珠が集められているのだ。一度手放したら二度と手に入らない、きっと今を逃したらどこかへ行ってしまうだろう。トウジィは踏みとどまった。

「アル・ハルのいにしえを象った星珠儀を捜しにきました。僕の友人のものです。今日、荷物ごと盗まれてしまいました。とても、大切な物なのです」

「大切な物なら、どうして本人が探しに来ないのかね」

「友人は<丘の下>には来ていません。僕だけでしたから」

「本当に大切な星珠なら、人の手に預けたまま旅立たせたりなどしないよ。そいつはあんたのもんだったんじゃないかね」

 トウジィは言葉に詰まり、老婆の離れた目を見ながら唇を噛んだ。

「僕が、友人から盗んだものです」

「そりゃあやっぱり、あんたのもんだあね」

 けらけらと老婆は楽しそうに笑った。

「盗んだもんは、自分のもんだあね。だから友人のもんだったけどあんたのもん。あんたのもんだったけど盗人のもん。そんで、盗人から買ったらあたしのもんだあね」

 恥ずべき行為を肯定され、トウジィはかっと頬に朱を上らせた。たった一度の過ちを、それを生業とするような盗人と同列に扱われ、お前もまた盗人だと烙印を押されたような気がした。

 星珠が戻らなければ、僕は本当に盗人のままだ。トウジィは思わず声を荒げた。

「なら、僕があなたから買ったら僕のものだ。僕が友人にあげたら友人のものに戻る」

「いくら出す? いくら出せる?」老婆は鼻で笑った。「金もないのに、生意気をいうもんじゃないよ。それともまた盗むかね? 盗まれた物を盗み返すかね」

 トウジィは返す言葉もなく、黙り込んだ。この老婆はどうしてこんなに、見透かしたようなことを言うのだろう。

「あんたのような奴はいっぱいいるよ。みんな星珠に唆されてやっちまうんだ。綺麗な星珠はみんなおしゃべりさ」

「星珠がおしゃべり?」

 星珠が言葉を話すというのだろうか。そんな話は聞いたこともない。

「そうとも。あんた、星珠がなぜ星と呼ばれるか知っているかね。あれは元々、天にあったものだからだろう?」

「天上人の涙だった、という話は聞いたことがあります」

「涙!」まったく面白いことを聞いたというように、老婆は鼻を鳴らした。「涙なんてものかね、あれは天上人の吐いた泡、うたかただよ」

「泡!」今度はトウジィが叫ぶ番だった。「泡が石になったというのですか?」

「そうさ、だからため息めいてうつくしいうたが、星珠の中には眠っている。あんた、星珠に耳を澄ませたことがあるかね? あの夜の底に沈む悲しいうたを、聞いたことがあるかね。でも、そう、綺麗な星珠ほどおしゃべりで、耳をすませずとも、奴らはうたうんだよ。まるで波のようにね」

 はっとして、トウジィは瓶の中の青い星珠を見上げた。店内に入ってきたとき、たしかに浴びたと思った大波を。でも、そんな、まさか。

「うたも、泡も、石になんてなりようがないでしょう」

「涙はそうじゃないとでも? 水が形を変えて氷になるように、涙が石になるとでも? そんな馬鹿なことがあるかね。星珠は一見、堅く揺るぎないもののように思えるが、本当はかたちのないものだよ」

 老婆は当たり前のように言い、手の中で小さな星珠を転がした。トウジィは、その星珠に触れてみたかった。本当にかたちのないものなのか、確かめてみたくて仕方なくなった。今すぐ老婆の手からもぎ取ってしまいたい。思わず手を伸ばしかけて、はっとした。

 老婆はにやりと笑った。

「唆されたかい? ほら、こいつはかたちのないものだ。これはね、魔法というやつなのさ」

 魔法、とトウジィは口の中で呟いた。

 天上人とただびとを隔てるもの。時の狭間に落ちて現代には伝わらなかった、失われた技術。文書に書き留められることのなかったそれは、たしかにうたの形をしていたのだろう、と言われていた。学院で読んだ多くの書物にはそう記されていた。いにしえのうたは魔法だった。つま弾く弦よりたしかに、吹きならす笛より高らかに、彼らはうたったはずだ。――だからこそ、アル・ハルは大地の頸木くびきを逃れ空を漂い、天上人と呼ばれた。

「あんたはとても耳がいい。もっとよく耳を澄ませてごらん。うたが聞こえるよ……あたしはね、星珠を集めているんじゃないよ、うたを捜しているんだ。うたの中に隠された、いにしえの言葉を……」

 老婆の差し出した星珠は、あのアル・ハルを象ったラウセの星珠儀だった。トウジィは思わずそれを両手でひっつかみ、そして導かれるようにそっと耳に当てた。

 こぽり、と小さな音を立てて、水がトウジィの耳へ流れ込んだ。そうだ、それでいい。ささやくような老婆の声が、ふいに遠くなる。こぽ、こぽ、こぽ、と湧きいずるように内へ、奥へと入り込む、水、水、水。

 満たされていく。頭蓋の内側を澄んだ清らかな湧水がせせらぎ、とうとうと流れていく。その心地よさに、肺から喉を伝って上がってきた恍惚の吐息が、こぽ、と水に泡を浮かび上がらせた。その泡のやわらかな圧が、弾けた音が、そっと歯の裏をくすぐった。今、唇を開いたなら、水があふれてしまうだろう、水が、いにしえよりやってくる水――変化するもの――かたちのない――涙――ああ、これこそが魔法、こみあげるうたの響きが!

 堪えきれず、トウジィは唇を開いた。瞬間、己の体が浮かび上がるような気がした。羽根が生えたように軽やかにぐんぐんと上っていく。うたの水たまりの中に、これまでトウジィを閉じ込めていたすべてが沈んでいくようだった。世界は水で満たされ、トウジィは乾いた魚のように身をくねらせ、空気を求めてひたすらに上へと宙を駆け上る。

 トウジィは暗い底へ横たわる、きらめく光の青天井を見た。大地こそ空、空こそ大地、海底に空が広がり、空の高みには海が広がっている。だからこそ空はあんなにも濃く青いのだと、赤子のように感動した。

 夜の深みよりさらに深く、昼よりもさらにきららかな水はやわらかくトウジィを取り巻き、彼の意のままにありとあらゆる場所へ連れて行ってくれるようだった。

 雲のかなたの白い月を眺め、嵐の上にある星を目指した。激流をさかのぼっていけば、暴風と波の切れ目に、ありし日のアル・ハルの姿を捉えた。

 都市は真円を描き、白だけで出来た建築物の群れを抱いて、翼も歯車もなく浮いていた。うららかな陽光と流れる雲を纏い、女神の腕に抱かれるように安穏と存在していた。

 ――これは記憶。

 耳に満ちた水が語った。

 ――これは記憶、あたしのなかの記憶。あたしは永遠。永遠は夢を見るもの。死すべき運命の刹那に、あたしは夢を見た。

 こぽり、こぽりと水が揺らぎ、うたう。

 ――これはあたしの末期の息……

 トウジィはふと、気づいた。

 そうか、これは夢だ。星珠が見せた夢、天上人の吐いたうたかた、失われた魔法――かつてそこに生きた誰かが、伝えそこねたいにしえのうたと記憶。

 水音を立てながら、見知らぬ天上人の女がうたった。泡が浮かび上がるたびに、彼女の姿がかたちを伴って浮かび上がる。

 彼女の背に翼はない。かわりに、まるで夜会の裳裾のように長くたゆたいながらひるがえる、極光のごときゆたかなひれがあった。泳ぐように風を胸へと抱く優雅な仕草は、陸上の生き物にはないものだ。桜色に透きとおった体の中には冷たい血が流れている。

 魚のようだった。少し両目の離れた、表情のない顔立ちはけれどうつくしい。

 ――見て、あれがあたしたちのアル・ハル、うるわしの都市。

 トウジィはまばゆく目を細めた。小さな星珠儀の中に刻まれていた、一目で心を奪われ、見惚れ、罪まで犯して手に入れようとした、いにしえの影。しかしそのうつくしさすら、すべてを象ることは出来ていなかった。せせらぎの音、天上高い場所にある真っ白な光、風の薫り。

 放たれたうたはどこまでも広がり、トウジィはアル・ハルを取り巻く風の中に呑まれていく。それでも少しもおそろしいとは思わなかった。

 ああ、本当に、なんてうつくしいのだろう――



「トウジィ!」

 呼ばれてはっと目を開けた。

「ラウセ」

 うたた寝をしていたようだった。机に伏せた体を起こすと、肘の下から小さくて丸い星珠儀が転がり落ちた。ラウセはそれを見やり、大きなため息をついた。

「ねえやっぱり考え直しておくれよ。君に冒険なんて向いてないもの」

 トウジィはぐるりを見回した。学院だ。己の部屋だ。

「どうしたの」

「いいや、なんでもないよ。とにかく僕はアル・ハルへ行くよ。<丘の下>に宿を取って、荷物を取られないように気をつけて……」

 おかしな夢を見た気がするが、その内容があまり思い出せない。ぼんやりとまたたきながら口に出すと、ラウセが奇妙な顔をして首をかしげた。

「おかしなトウジィ。<丘の下>だって? そんな街、聞いたことがないよ」



 こぽり、とうたかたはうたう。

 覚えていてね、うつくしかったアル・ハルを。

 滅び、死した都市ではなく、たしかに生きたアル・ハルを――

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