彼岸片

シャンクフラウンの左目

　絵は描けぬ、とシャンクフラウンは言った。

　彼は画家だった。半球の天蓋を持つ北の王の星の宮に、かつて彼は夜を駆ける竜を描いた。星を縫うしなやかな背と骨の透ける薄い鱗翅を持つ竜は、北の王をおおいに喜ばせた。このものは十二宮の星座の狭間に竜の座を置いた、十三の星の描き手であると王はのたもうたものだった。

　その十三の星の描き手は、だから竜ももう描けぬ、と言った。

「そうおっしゃらないでください。北の王はあなたの絵を望んでおられるのです」

　わたしは腰を低くしてもう一度頼み込んだが、シャンクフラウンの返事は変わらなかった。白と金の混じった髪を背に流し、揺り椅子に深く腰掛けた姿は隠者のようだった。実際、彼は北の王の寵を蹴ってこんな山奥の片田舎に引きこもり、十三の星以来何も絵を描いていないという。年は四十ほどと聞いていたが、わたしの想像していたよりもはるかに若く、それでいて物事のすべてを知っているとでもいうような老成した雰囲気があった。

「何度頼まれても、もう絵は描けないのだよ」

　シャンクフラウンは立ち上がり、はっきりとこちらを向いた。わたしは息を飲んだ。彼の右目は古酒のような琥珀色をしていたが、左目は違う。両の目の色が異なるとは、聞いていない。

「この目をごらん」冬の枝を思わす細い指が、そっと自らの目の縁をなぞった。またたく瞳は夜露のように色がない。「見えないのだ。私の左目は死んでしまった」

　それでも、とわたしは声をあげた。わたしは北の王に忠実だった。

「片目だけでも、描くことは出来るでしょう。腕がないわけではないのですから」

　二色の瞳が丸くなった。シャンクフラウンは笑った。

「ならば描いてみせようか。描けないということを証明するために」

　絵を描いていないと聞いていたが、シャンクフラウンの庵には絵を描くための準備があった。

「描いていないのではなく、描けない」

　彼はわたしの無言の疑問に答えるように言った。わたしはその言葉を証明するために、彼が絵を描くところを監視せねばならなかった。北の王は十三の星を愛しており、娘のために建てる新たな宮にも竜を住まわせたいと考えていた。わたしは北の王のために新たな星を取ってこなければならない。

　シャンクフラウンは棚から顔料の入った壺を取り出し、机の上に並べた。目の粗い麻布を床一面に広げた。麻布はあちこちに染みや汚れがあり、とても絵を描くのに適しているとは思えない。そこへ何の躊躇もなく描き始めようとするので、わたしはあわてて彼に尋ねた。

「下地は塗らないのですか？　白は？」

「白」シャンクフラウンは色のない左目を細めた。「白は駄目だ。あれは異なる世界の色だから」

　結局下地は塗られなかった。しかしわたしが麻布の汚さや、下地の有無に気を配ったのはほんの一時だった。彼が右手に持てば木炭だって命を持ってしまうに違いない。そう思うまでほとんど時間はかからなかった。やわらかな炭は呼吸をするように踊り、鈍色の足跡はいっさいの迷いがない。まるで麻布の中にあらかじめ棲んでいた生き物を誘い出すかのようだった。

　机の上に並べられていた顔料は、麻布の中の生き物を誘引するための香料であり、餌であり、罠だった。まず垂らされたのは辰砂か銀朱か、滴るさまは血の赤にして焔の赤だった。それが麻布の上に伸ばされた瞬間、花がほころぶように鮮やかに空気を変えた。その色は熟れた果物のように、秘めた毒と甘さをたたえていた。そこへ蜜を求める蜂のように山吹がこぼれ落ち、温かな熱すら持って赤と混ざり合い、それ自身が蜜のように麻布の上へ広がった。甘い香りに耐えかねたように、描かれようとする生き物が布の内側にのたうった。シャンクフラウンの右手は、生き物をなだめるかのようにやさしく筆を操った。

　大地の緑が、生き物のために命を捧げる。鹿のための車軸草のように地を覆った緑はいきいきと瑞々しかった。麻布の内で生き物は安らぎ、シャンクフラウンの手に身をゆだねただろう。けれどこの緑は、あかがねの錆から成る猛毒に依る。豆科のたくましさでしなやかに伸びた車軸草は、あっという間に生き物をがんじがらめにした。

　春の嵐を思わす群青が荒波となって取り巻き、海を越えた青金石の青に押し流され、黄土の岸辺に打ち上げられる。その頃には、薄い鱗翅を幾重にも背にいただいた生き物の姿がわたしの目にもはっきりと見えていた。それはこの世の何処にもいない、星のやみの十二宮のはざまを駆け抜けるもので、いましも異なる世界より召喚されようとしていた。

　庵の内側には絵画独特の油の匂いが漂う。乳鉢に砕かれた鉱石や植物に油を混ぜたこの絵具の異臭を、芳しいと感じたのは初めてだった。

　時間はあまりにも早く過ぎた。竜を捕らえるために、十二宮の狭間へ飛び込んでしまったのだろう。そのときわたしは、シャンクフラウンとともに夜と朝のあわいに立ち、いやまして輝こうとする十三の星に手を伸ばそうとしていた。

　夜明けを迎える意識は朦朧とし、魔術めいた香りの酩酊にわたしは目をまたたいた。シャンクフラウンの琥珀色の古酒に似た右目が淡い光を漂わせている。わたしを酔わせた香りはここからあふれていたのか。それともこれが十三の星だろうか。

「さあ、現れるぞ」

　シャンクフラウンの右手が麻布の上に円を描いた。目だった。

　ばつん！　と世界が音を立てて破れた気がした。麻布の上に開いた円から、ただただ白い光が一直線に吹き上がった。世界に空いた小さな穴から無数の星屑が飛び出し、突風とともに悲鳴のような声を上げて麻布が引き裂かれた。

　竜――！

　わたしの視界いっぱいに竜は重なりあった薄い鱗翅の翼を開いた。虹の光彩が鮮やかにこぼれ落ちる。翼はあまりにも繊細で羽化したばかりの虫のようだったが、その細い骨の繋がっていく肩は猛禽のたくましさだった。胸へ繋がる筋は躍動し、その血潮のみなぎる肉の内側に、焔が息づいていることを教えてくれる。焔を抱くのは、太古の昔にいかづちとともに地の底へ落ちた青い骨だ。水晶のように透きとおり、竜の血をたたえた骨は紫の硝子杯のようにきらめいている。年輪のごとく重なる鱗は、大地の色を映してあおく、車軸草のつるのようにしなやかな尾までを軽やかに覆っている。

　竜は高らかに咆哮した。

　純白に浮かび上がる極彩色の竜は、おそろしいほどの存在感だった。相対するだけで体が恐怖とも興奮とも思えぬふるえに支配され、異なる世界より訪れたその圧倒的な気配、形容に目を離すことが出来ない。

「ああ」シャンクフラウンが嘆きとも感動ともつかぬ声を上げた。「お前だ。竜よ、お前だ。また再び会った」

　竜はシャンクフラウンへ慈悲深いとすらいえる笑みを向けた。竜のかたちは人とは異なっていたが、それはたしかに笑みだった。

「わたしの姿をまた写したか、人よ。今度こそわたしと契ってくれるのか？」

　シャンクフラウンは頭を抱え、竜にすがって膝をついた。竜はなぐさめるように彼へ語りかけた。

「さあ、わたしの目を見るといい。わたしの目を見つめ、わたしの目からお前の世界を見るのだ。そしてわたしはようやく、お前の世界で存在できる」

　竜の顔が彼へ近づく。竜は、夜露のように色のない光そのもののような右目と、古酒と同じ琥珀色の左目を持っていた。

「竜よ、竜よ、竜よ！」

　シャンクフラウンが言った。泣くような、振り絞るような声だった。

「お前を描くことは出来ぬ、お前が現れることはまかりならぬ！　お前の世界の冷たさは、わたしの世界のうつくしさは、けっしてひとつには交わらぬ！　だからわたしはお前を見ることはない、己が己を見ることのないように！」

　シャンクフラウンの右手が、世界を打ち据えた。

　突風が吹き荒れ、竜をもみくちゃにした。薄い鱗翅を摘み上げ、鱗を剥がし、その肉を切り裂いた。風はびゅんびゅんと高く鳴きながら、ありとあらゆる方向へ竜を散り散りに放り投げた。千切れながら、竜は啼いた。

「お前の左目はわたしの目。お前が、お前の世界をわたしに見せたのだ……！」

　最後の風が粉々になった竜の屑をかき混ぜ、塵とともに夜明けへ吐き出していった。光の彼方へ、夜の底へ、異なる世界のくらやみへ――

「だから、描けぬといったのだ」

　朝の光の中に、シャンクフラウンの色のない左目がきらめいていた。わたしは無性に鏡を見たくなった。彼は察して言った。

「お前の目は前のままだ。竜に奪われてはいない」

　麻布の中で揺らめいていた竜の残骸が、朝の風にさらわれてほどけた。夜にはたしかに描かれていたはずの竜の姿は、風の手になでられてころころとさまざまな色の貴石となって、ただ染みと汚れを残すばかりの麻布へ転がった。

　わたしは一瞬垣間見た、竜の目を思い出した。色のない、夜露のような瞳。シャンクフラウンの左目と同じ、対となるまなこを。

「わたしの目を差し出したなら、竜を描いてくださるのですか？」

　琥珀色の瞳を細め、シャンクフラウンは首を振った。

「この左目に見えるものを知らずにいることが、いかなる幸福かはわかるまい。この世ならざるものを常に見続けるということが。そしてそれに触れられぬということが。この身に、己のものではないものを埋め続けるということが――わかるまい、わたしはもう描かぬ」

　彼は麻布の上に転がる山吹色の蜜のような琥珀をわたしの手に握らせた。それは手の上で粉々に砕けちり、絵具の芳しい香りだけが残った。

「北の王に伝えておくれ。シャンクフラウンは竜に焦がれ、異なる世界を愛するあまり、目を失ったと」

　北の王はシャンクフラウンの失明をひどく嘆き、彼に多くの報償を贈った。王女の十二宮は、竜を住まわせられぬならいらぬと建立されることはなく、代わりに昼の宮という鳥の舞う半球の天蓋が作られた。この夜と昼とを象徴するふたつの宮は十三の星とその描き手の逸話によって広く知られ、北の象徴として多くの人々に愛されることとなる。

　十三の星の描き手の名は、長く語られた。竜を描いた者、竜に焦がれるあまり、両目を失った者――本当はそうではないと、わたしは知っている。けれど彼はいつか、噂の通りになるだろう。あの琥珀色の右目も失い、竜とひとつになるために。

　そのときまでシャンクフラウンの左目は、十二宮の狭間にあいたこの世ならざる十三の星として、世界を見続けるに違いない。

　あの芳しい絵の具の香る、夜と朝のあわいにある白い世界の内側から。