第3話
「……何やってんだろ、私……」
はぁ、とため息をつき。瑞希は体育座りをしたまま、眼前の川を眺めた。水面は、晴れの日特有の日差しを受けてキラキラと輝いている。遠くの方に、キャッチボールをする小学生の野球チームが見えた。
小石を一つ拾い上げ、水面に向かって投げ入れる。小石はぽちゃんという音をたて、一度も跳ねる事無く水底に沈んでいった。そこで瑞希は、またもため息を吐く。
「闇雲に逃げたって、色々な人に迷惑をかけるだけなのに……」
「見付けたーっ!!」
「!」
突如聞こえた大声に、瑞希の思考は小石のように沈み込む事無く一時停止した。
一瞬の間を置いて再起動した意識を周囲に向けてみれば、もう一人の自分――瑞希の肉体に魂が入れられてしまった、松下裕也が立っている。
裕也は、荒く呼吸をしながら、時に激しく咳き込みながら。ふらふらとした足取りで瑞希に近寄ってくる。
「おまっ……逃げんな! ……聞いたぞ。このまま、入れ替わってると、俺……あと、半年で……っ!」
瑞希の元に辿り着いたところで、裕也は特に激しく咳き込み、そしてむせた。力無く座り込んでしまった裕也の背を、瑞希は慌ててさする。
「無理して喋らないで! 走っただけでも、相当苦しいはずよ!?」
「……元々、自分の体だったから……よくわかる、ってか?」
「……そうよ」
咳き込みながら尚も喋る裕也に、瑞希は暗い顔をして頷いた。すると裕也は、ぜぇぜぇと呼吸をしながら「なるほどなぁ」と呟く。
「たしかに、こんなに苦しいんじゃ……戻りたくねぇって、思うよな……。しかも、あと半年で……死ぬなんて、なったら……」
荒かった息は、段々収まってきている。裕也は大きく息を吸い、そして吐いた。
「けどさ……だからって、人の体を乗っ取って良いわけじゃねぇだろ。……ってかさ、このままだと、俺が代わりに死んじまうんだけど。半年後に。お前、それで良いの? 誰かを身代わりにしてまで生きて、嬉しいか?」
「……嬉しくなんかないわよ」
それだけの言葉を、瑞希は何とか絞り出した。一度発言してしまえばあとは楽なもので、言葉が勝手に口をついて出てくる。
「他人を犠牲にして生き延びて、心の奥底から喜べるわけないじゃない」
「なら……!」
裕也の説得の言葉を、瑞希の「けど!」という叫び声が制止した。
「それでも私は生きたいの! 本を読んだり、友達と遊園地に行ったり、恋人を作ってデートをしたり! 生きてなきゃできない、やりたい事がいっぱいあるのよ! ……あなたは?」
「俺!? ……俺、は……」
いきなり問われ、裕也は戸惑った。考える時間を、瑞希は与えてくれない。
「無いんでしょ? だから私を助けようとして、車の前に飛び出るなんて……無茶な事ができたんだわ!」
この騒ぎの、発端の事を瑞希は言っている。たしかに、裕也は車の前に飛び出した。ガードレールに突っ込んでいった車の前に。轢かれそうになっていた少女をかばうようにして。そして、結局二人揃って衝撃を受けてしまい、結果、現在こうして、魂が入れ替わってしまったまま対峙している。
「やりたい事があるなら、躊躇うでしょ? 飛び込んだら死ぬかもしれない、死んだらやりたい事がやれなくなってしまう、そんな風に考えない? そう考えなかったって事は、生きてやりたい事が無いって事でしょ!? やりたい事は無いけど、とりあえず元気だから日々をなんとなく過ごしている。そんな生き方をするんだったら、私にこの体、頂戴よ!」
「好き勝手な事言うなよ!」
裕也が、怒鳴った。堪りかねた顔で。それでいて、真剣な顔で。
「人ひとり助かるかどうかの瞬間に、そんな事ぐちゃぐちゃ考えられるわけねぇだろ! 体が勝手に動いてたんだよ! 俺だって、生きてやりたい事ぐらいあるっての! クリアしてねぇゲームだってあるし、可愛い彼女を作って一緒に遊びに行ったりとかしてぇよ! やりたい事がたくさんあるのは、お前だけじゃねぇ!」
瑞希の目が、見開かれた。顔が、見る見るうちに泣きそうに歪んでいく。
「……ごめん、なさい……。私、自分の事ばっかり……」
裕也が、困った顔で頭を掻いた。「あー、もう!」と自棄になったように叫ぶ。
「そんな顔するなよ。自分の情けない顔なんて、見たくねぇよ……」
「でも……」
それでも、瑞希の気は晴れない。泣きそうどころか、本当に泣き出してしまった。控えめな嗚咽が、裕也を更に困惑させる。
「泣くなよー。……なぁ、まだ半年あるんだぜ? 全く時間が無いわけじゃない。その間に、いっぱい思い出を作れば良いじゃねぇか。……あ、何なら、俺がお前の彼氏になっても良い!」
その場の勢いで言ってから、裕也は一瞬固まった。自分が何を言ったか反芻し、そして顔が赤くなる。
裕也の目の前では、瑞希が驚いた顔をしている。驚きのあまり、涙も止まってしまった様子だ。裕也は、覚悟を決めて開き直った。
「……変な顔すんなよ。……恋人、作りたいんだろ? 俺で良ければ、なってやるよ。遊園地でも、図書館デートでも。何でも付き合ってやる! そうすりゃ、お前がやりたい事全部クリアできるじゃねぇか。な?」
「……良いの?」
おずおずと問う瑞希に、裕也は勢いよく頷いた。
「良いって言ってんだろ! ……ってか、むしろ俺の方からお願いしたいくらいだっての。お前、結構可愛いしな!」
「えぇっ!?」
瑞希は驚いているが、この言葉に嘘は無い、と裕也は思う。瑞希は、可愛い。
そもそも、何故瑞希を助けるために車の前に飛び出したかと言えば……車が突っ込んでくる前から、道端で行き交った瑞希を、可愛いと思って思わず見詰めていた。だからこそいち早く車が突っ込んでくる事に気付き、そして飛び出したのではなかったか。
瑞希は顔を赤くしたまま慌てふためき。そして、何事かに気付くと、表情を暗くした。
「……でも、あの……その……私、あと半年で死んじゃうんだよ? どれだけ仲良くなれても、半年でお別れなんだよ? 裕也君は……それで本当に良いの? その半年で、元気で本当に可愛い彼女を作れるチャンスだって、あるかもしれないんだよ?」
「くどいぞ」
裕也は、一言で瑞希の言葉を遮った。
「誰が何と言おうと、お前が嫌じゃないなら、俺は今からお前の彼氏になる。俺が死ぬまで、お前の事、守ってやる!」
「言ってる事が滅茶苦茶よ! 裕也君が死ぬまでって……私は、あと半年で……」
「だから! お前があとたった半年で死んだりしねぇように、守ってやる!」
その言葉に、瑞希は絶句した。目が、これ以上ないほど大きく見開かれている。
「そんな……どうやって……?」
瑞希の問いに、裕也は「それは……」と口を開きかけた。だが、開きかけた口は結局、それ以上の言葉を発する事は無く。
「見付けたーっ!!」
とてつもなく大きな声が、辺りに響き渡った。裕也と瑞希は、思わず声のした方へと視線を向ける。そこには、疲れた顔で息を荒げるシーシンが立っていた。
「まさか、こんな所にいるとは思わなかったっス! 探すのにものすごく手間取っちゃったっスよ!」
次いで、ノゥトとリーグもやってきた。二人は、何やら呆れた顔をしている。
「単に、あなたが方向音痴なだけでしょうに。現に、あなたより後に公園を出た裕也さんが、先に瑞希さんを見付けているじゃないですか」
「お前、本当に今の仕事、大丈夫か? 部署変えるか?」
「やめてください! 俺、事務仕事は向いてないっス!」
シーシンが悲鳴をあげるように拒否を示した。すると、ノゥトが「まったくだ」と言わんばかりにうなづいて見せる。
「寿命管理班の立場から言っても、シーシンが事務に回るのは遠慮したいですね。ミスが増えるばかりで、誰も幸せになれませんよ。絶対に」
ひどい事をさらりと言ってから、ノゥトは「そんな事よりも……」と言いつつ、瑞希に視線を向けた。
「逃げるのはこれで終わりにしてもらいましょうか、瑞希さん?」
「二人の魂が入れ替わったままだと、こちらも色々と面倒臭い処理をしなければならないんでな。瑞希さんには悪いが、このままにしておくわけにもいかないんだ」
ノゥトとリーグの言葉に、瑞希は体を強張らせた。すると、強張った手を裕也が優しく握った。
「大丈夫だ。俺に任せろ」
「……え?」
振り向いた瑞希をよそに、裕也はリーグ達に「なぁ」と声をかける。
「俺達の魂を元の体に戻す前に、一つ訊きてぇ事があるんだけど」
「? 何だ?」
訝しげな顔をするリーグを見てから、裕也は視線をノゥトとシーシンに向けた。視線だけではない。右手の人差し指を、二人にビシリと向ける。
「俺達二人、そっちの手違いで魂を抜かれたり、他人の体に入れられたり。すっげー迷惑被ったんだけど。それに対する迷惑料とかは出ねぇの?」
瞬間、リーグ達三人の顔に緊張が走った。
「……何ですって?」
聞き間違いかと思ったのだろうか。ノゥトが、眉間に皺を寄せながら問う。裕也は、その程度では怯まない。
「迷惑料だよ、迷惑料。そっちのミスだってのは認めんだろ? なら、出すモン出して、誠意を見せるのが筋ってモンじゃねぇのか?」
「なっ……」
「……一理あるな」
絶句したノゥトの横で、リーグが渋面を作りながら頷いた。
「それで、裕也君? 君は迷惑料として、我々に何を要求するつもりなんだ?」
リーグの問いに、裕也は「当然」と言うように胸を張る。
「寿命。俺と瑞希、五十年ぐらいずつ寿命を延ばしてくれ。それで、手を打ってやる」
「!」
瑞希の目が見開かれる。「そう来たか……」とリーグが唸った。
「なっ……何言ってるんですか! 駄目ですよ、そんなの! ……裕也さん。そんなに寿命を延ばしたら、あなたは130近くまで生きる事になるんですよ? 人間の寿命から見ても、それは認められません。精々三十年までですよ」
その瞬間、裕也はニヤリと嗤った。そして、間髪入れずに言葉を口にする。
「じゃあ、それで良い。三十年ずつなら、寿命を延ばしてくれるんだな?」
「な……それとこれとは……」
狼狽するノゥトの横で、リーグが唸りながらも頷いた。
「……良いだろう。それぐらいなら、俺の権限で何とかできる。たしかにミスをしてしまったのはこちらだし、今、ノゥトが三十年なら認められると暗に言っちまったしな」
視線を向けられ、ノゥトは憮然としてタブレット端末を取り出した。「わかりました」と不機嫌そうに言い、画面上で指をスライドさせる。
「それでは、瑞希さんの寿命は本来よりも三十年延びて、47歳まで。裕也さんは……」
「あ、俺の分の三十年は、そのまま瑞希にあげてくれよ」
「えっ!?」
瑞希が驚いて、裕也の事を見た。瑞希だけではない。リーグも、ノゥトも、シーシンも。一様に裕也に注目している。
「さっきの口ぶりだと、何もしなくたって俺は八十近くまで生きれるんだろ? なら、別に俺は寿命が延びなくても良い。それに、瑞希があと六十年生きてくれれば、その分一緒にいられる時間ができるしな」
「なっ……なっ……なっ……」
言葉が出てこないのか、呆れているのか。ノゥトは口を金魚のようにぱくぱくと開閉させている。
「裕也君……」
驚いた顔のまま、瑞希は裕也の名を呼ぶ。裕也は、ニッと笑って見せた。
「言っただろ? お前の事、死ぬまで守ってやるってさ」
二人の様子に、リーグは苦笑した。「やられたな」と呟き、開いた口がふさがらなくなっているノゥトに声をかけた。
「おい、ノゥト。聞いた通りだ。裕也君の寿命はいじらなくても良い。瑞希さんの寿命を、あと三十年分足して、データベースも書き換えてくれ」
声をかけられ、ハッとして。ノゥトは「はい」と頷くと操作を再開した。その顔は、未だに「信じられない」と言っている。
「それで……最終的に二人の寿命はどうなった?」
「えぇっと……」
ノゥトが呟きながら実行アイコンをタッチすると、操作結果を表す画面が表示された。
「今までの寿命に60年が加算されまして、内藤瑞希さんの寿命は残り、60年と187日。松下裕也さんは手を加えていませんので、今までのまま。60年と37日ですね」
「……まぁ、人間の寿命としては妥当なところだな。……これで良いか、裕也君? 良ければ、そろそろ二人の魂を……」
「……待ってください!」
リーグの言葉を、瑞希が遮った。その行動にリーグとシーシン、裕也は怪訝な顔をし。ノゥトは「今度は何ですか!?」と悲鳴をあげる。
瑞希は、一歩だけ前に進み出ると、恐る恐ると言った様子で口を開いた。
「あの……今回私達は、違う性別の体に入れられてしまいましたけど、周りの人達は当然、そんな事は知りません。言っても、信じてもらえないと思います」
「そりゃあ……そうっスよね。死神に魂を入れ替えられたなんて言っても、頭がおかしくなったと思われるだけっス」
シーシンの言葉に、瑞希が「そうです」と頷いた。そう言えば、瑞希の両親や医者も、裕也の言う事はまったく信じてくれなかったな、と裕也は思う。
「だから、裕也君が私の体で男の子の言葉を喋ったり、私が裕也君の体で女言葉を使った事に関して、何もフォローする事ができないんです! このまま元に戻してもらったら……私も裕也君も、変な目で見られると思います。言葉遣いが急に乱暴になった、おかまになった、って」
「……あ!」
瑞希の言っている事の意味がわかったのだろう。裕也の顔が少しだけ、青ざめた。そんな裕也を眺めてから、リーグは視線を瑞希に戻す。
「……だから?」
「だから……今後予想される精神的苦痛に対しての、慰謝料も払って頂けませんか?」
「……それは……君の要求次第だな。瑞希さんは俺達に、一体どうして欲しいんだ?」
瑞希の顔が、少しだけホッとしたように見えた。
「さっきと同じです。寿命を延ばしてください。時間は……人の噂も七十五日と言いますから、75日ずつ」
「なるほど。……まぁ、それぐらいなら……」
良いだろうと言いかけたリーグの言葉に、瑞希は更に「それで……」と言葉を被せた。
「私はそんなに、ひどい精神的苦痛は受けなくて済むと思うんです。女の子が乱暴な言葉を使うなんて、と怒られはするでしょうけど、現代ではそんなに珍しい事ではありませんし。……けど、裕也君は、かなりからかわれるんじゃないかと思います」
「……そうかも。誰に見られたかにもよるけどさ……」
少なくとも、クラスメイトの村井と倉田には見られているわけで。彼らが、瑞希が「人違いだ」と言ったのを信じてくれるかどうか。……いや、例え信じてくれていても、「松下そっくりのおかまを見た」ぐらいは学校で言うだろう。そして、きっと面白おかしく言いふらすだろう。彼らの性格上、何も無かったように済ませてくれるとは考え難い。
「だから……私の分の75日を、裕也君にあげてください。さすがに150日もあれば、変な噂も消えると思いますから」
「!」
裕也は、目を丸くした。時間の長さは違えど、瑞希は先ほど裕也がやった事と同じ交渉をしてくれている。
「……どうしますか、支部長?」
苦虫をかみつぶしたような顔で、ノゥトがリーグの判断を仰ぐ。リーグはため息を吐きながら、「仕方がないだろう」と言った。
「六十年後に死んでから、本部で大騒ぎされても困るしな」
「……そうですね。……では、裕也さんの寿命にあと150日を加算しまして……」
そこでノゥトは操作の手を止め、「あ!」と叫んだ。
「どうしたんスか?」
「支部長、これ……」
シーシンの問いかけを無視して、ノゥトは端末の画面をリーグに見せる。それを見て、リーグは感心したように「ほぉう……」と呟いた。
「何、何? 何なんスか?」
めげずに、シーシンは問い続ける。
「60年と、187日」
リーグの言葉の意味がわからず、シーシンと裕也は首を傾げた。リーグは、相変わらず感心したように言う。
「裕也君の寿命を150日増やした事で、瑞希さんと裕也君の残りの寿命がまったく同じになるとはな」
「え……」
思わず、裕也は瑞希の方を見た。瑞希と裕也を見るシーシンの目が、楽しそうに輝いた。
「くはぁーっ! 何か、見せ付けてくれるっスねぇ!」
「死ぬまで私を守ってくれるそうですから。なら、私も死ぬまで、裕也君を守らないと」
にっこりと笑って、瑞希は裕也の手を握った。その様子に、リーグは「参ったな」と苦笑している。そして、ノゥトは「まったく……」と呆れ果てた顔をしていた。
「寿命を利用して、恋愛ごっこや数遊びをしないでもらえませんかね……?」
「まぁ、そう言ってやるな。……それで、迷惑料はこれで終わりで良いのか? 良いのなら、そろそろ本当に元に戻させて欲しいんだが」
リーグの問いに、裕也と瑞希は二人揃って頷いた。ノゥトがタブレット端末をしまいながら、安堵の息を吐く。
「はぁ……これでやっと終われますね。……じゃあ、頼みますよ、シーシン。二人を仮死状態にしてください」
「了解っス! 気合を入れて、殺すっスよーっ!」
言いながら、シーシンはどこからともなく、巨大なハンマーを取り出した。槌の部分には漫画のように「8t」などと書かれている。嘘か真かは量って知るべし、か。もちろん、そんな物を向けられた者はたまったものじゃない。
「いや、気合は入れなくて良いから!」
「ちょっと、何ですか!? その大きなハンマー!?」
慌てふためく二人に、シーシンは「大丈夫大丈夫」とにこやかに笑う。その笑顔が、逆に怖い。
「ちょっと痛いだけっスよ!」
「ちょっとで済むようには思えね……」
裕也が言葉を言い切る前に、シーシンがハンマーを振り下ろす。
悲鳴が、のどかな河川敷に響き渡った。
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