第6話(3)

「だから、未来に似た人を見間違えて、つい急いじゃったのね。本当、ドジなンだから」


 舌を出して照れ臭そうに笑う深雪に、憂いは見受けられなかった。


「……未来は、この『世界』を壊しに来たんでしょ?」

「そうだ」


 微笑みながら尋ねる深雪への、市澤の返答は、躊躇いの無い、余りにも冷然過ぎる口調で告げられた。

 しかし深雪は、市澤がそう答えるものだと判っていたのか、動揺もせずに微笑んでいた。

 その笑みが僅かに、昏く陰りを見せた。


「……どうしても?」

「ああ」

「……良いわ。未来なら、壊しても」


 曖昧な微笑を浮かべた深雪は徐に瞑り、クルリ、と回って市澤に背を向けた。


「……全て承知で、あたしとデートしてくれたンでしょ?

 あたしは貴方とデート出来たから、もう満足。これ以上『世界』を止めてたりしたら、他の皆ンなに迷惑が掛かっちゃう…モンね…」


 市澤に背を向け、感慨深げに語る深雪の語尾は掠れ気味であった。

 いつの間にか小刻みにわなないている深雪の肩を、市澤は無言で見つめていた。

 暫しの沈黙の後、不意に、深雪は未来の方に振り向き、その愛しい胸に飛び込んだ。


「……でも…もう暫く…貴方と…こうして居たかった。――こんな、死んだあたしが思い通りに生きていられる、造り物の『世界』じゃ無く、普通の世界で、生きて、この胸に飛び込みたかった!」


 深雪は泣いていた。両目から止め処なく溢れる涙は、市澤の胸元を覆う布地を、昏い色に染め返していた。

 そのわななく背を、市澤は両手で優しく包み込む様に抱いた。


「……望むのなら……僕は、このままでも良い」


 暫しの沈黙の後、物悲しそうな貌で洩らした市澤の言葉に、深雪はわななくのを止めて瞠った。

 それが、御座なりな慰めの言葉では無い事を、深雪は疾うに理解していた。


「……壊すだけの生き方は……もう疲れたよ」


 ぼそり、と洩らす市澤に、深雪はどう答えて良いのか、判らなかった。

 この『世界』そのものである深雪にとって、自らの『世界』に取り込まれている市澤の心中を知る事は、造作も無い事であった。

 市澤がこの『世界』に侵入して来た時、深雪は侵入者の正体を確かめぬまま、その目的を探る為に心を一瞬覗いていた。

 血色の荒野に独り佇む市澤の姿を見た時、深雪は慌てて彼の心を探る事を止めた。

 市澤は血の涙を流していた。

 見てはならない姿だったと、深雪は後悔し、ハチ公前で待っている市澤の前に現れたのである。

 それ以降、デートの間も一度たりとも市澤の心を覗こうとはしなかった。

 もっとも、あの事故に遭わずに、生きたまま市澤とのデートが叶っていたとしても、この美丈夫を沈ませている紅色の昏い想いは、直ぐに理解出来ただろう。


(……この人は優し過ぎるンだ。なのに、闘わなければならない矛盾を抱えている。

 超人であるが故に、闘わざるを得ないンだ。

 ――なら、闘う事を止めれば良いのに……。

 だけど、自分が出来る事をしないが為に、他の誰かが傷付くのを黙って見ていられない。

 他人の為なら、自分が傷付く事さえ厭わない人なんだ)


 深雪は即座に理解した。


(この超人〔ひと〕も人なんだ。人だから、疲れ迷う事もある。――人だから、人を愛しているんだ)


 深雪は嬉しかった。この人に巡り会えた事、こんなに強く優しい人を愛せた事に。

 だから深雪は、市澤の胸から離れた。


「……あたし、逝くわ」


 深雪は、満面に笑みを浮かべていた。


「深雪…」


 二人を取り巻く昏い世界が、次第に色褪せ始める。

 乳白色の光に取って代わられようとする夢見の刻は、今、終わりを告げようとしていた。


「あたしはこれで良いの。だって、あたし以外に、未来の力を必要とする人達は、未だ大勢居るハズよ。

 今のあたしなら、それが良く判る」


 もう、残る想いは無い。後、一言だけ。


「……貴方と逢えて良かった」


 微唾む『世界』の中心で、二人は互いの微笑みを見つめ合っていた。

 やがて、二つの影は寄り添い、互いの唇が静かに重なった時、『世界』は眩い光を受け入れた。

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