第4話(2)
「本当はアルコールは飲み慣れていないのだろう? ほれ、中和薬だ」
市澤は、内ポケットから取り出した小箱を掌の上で振り、箱の中から、一見して鹿の糞を思わせる、小さな黒い丸薬を掌に乗せた。
「『万鈞丹(まんきんたん)』と言う万能薬だ。見掛けはアレで苦そうだが、意外にも甘い味がする。水無しで飲めるハズだ」
市澤の掌に乗る怪しそうな丸薬を、深雪は眉を顰めて睨んだ。
ちらっ、と市澤の顔を伺い、騙されたと思ってそれを一粒抓み、放り込む様に口に含んだ。
栄養ドリンクに似た味の中に僅かな苦味が口内一杯に広がるや、ふらふらしかけていた頭が見る見る内にすっきりし、赤面も程好く納まる。意外なまでの速い効きめに思わず瞠った深雪は、ほっ、と安堵の息をついた。
「……ありがと、楽になったわ。あたし、大人の味、って一生判りたくない気分よ」
ぼやいて肩を竦める深雪に、市澤はふっ、と曖昧な微笑を浮かべる。その貌が寂しそうに見えるのは気の所為だろうか。
市澤はコップのビールを飲み干し、ふう、と何処となく困憊気味の吐息を洩らした。
「……深雪君。何故一昨日、僕に声を掛けた?――何故、以前から僕の事を見ていたんだ?」
問われて、深雪はきょとんとした。
まるで市澤の言っている意味が判っていないかの様に。
ややあって、深雪は顔を曇らせ、
「いつも、哀しそうな顔をしていたから」
「哀しそうな顔?」
「うん。まるで、大切な友達と別れたみたいに」
深雪がそう言うと、市澤は沈黙した。
そうなのかも知れない。
皆、目指す道さえ違えなければ、良き友でいられたのかも知れない。
朱色は未だ、市澤の手から拭い切れていなかった。
「……そうだったの?」
深雪は、迂闊だったのではないかと心配そうな顔をして、沈黙している市澤の顔を伺った。
市澤は頭をゆっくり振って微笑んだ。
「心配するな。もう慣れている」
「でも……」
「大人は、それ位でへこたれていちゃ居られないのさ」
「ごめんなさい……!」
詫びる深雪は、いきなり市澤の傍らにあるビール瓶を引ったくり、自分のグラスにビールを注いで一気に呷った。
「おいおい……!」
「――ウィック。いいの、飲みたくなったンだから」
「仕様が無いな、全く。酔い潰れたら家に――そう言えばまだ名前以外、君の事を訊いていなかったな」
「パパは、カナダへ愛人の秘書を連れて長期出張中。
ママはそれをイ~事に、毎日若いつばめンっ所へ入り浸り。
家に居場所が無い、二人の可愛い一人娘は、安心して外でグレていられンのよ、ヒック」
頬をほのかに紅く染めて拗ねる深雪は、しゃっくりしながら三杯目のビールをグラスに注いで呷った。
「おいおい、酔っ払ったのか」
「ヒック、あたヒはぁ、まだぁ、ヒらふよぉ」
顔を真っ赤にした深雪は、やや座り気味の目で市澤を睨む。
「ジョ~ダンはぁ、マイケルだけにヒなハいなぁ。あたヒはもうオ・ト・ナ。あたヒが誰とキフヒようがぁ、ヘックフヒようがぁ、あンな離婚フんへんのぉ、身勝手でファィテーな人達にぃ、何も文句は言わヘないわよぉ、ヒック」
「やれやれ、酒癖が悪い娘とは思わなんだ。――成る程、これ程荒れしまっては、飲ませた相手がその気にもならない理由だ。えぇい、仕様が無い」
「あらぁ、何フンのよぉ?あたヒ酔っ払ってないからぁ、もうあんな鼻クフォ丸めたみたいなクフリなンかぁ、飲まないわよぉ」
「なら、少し黙っとれ」
そう言って市澤は、深雪の鼻先を右人差し指で指した。
突然、深雪の目前で、無数の閃光が煌めいた。
まるで天河の星々の瞬きが、手に届く所に降りて、自分に何かを囁いている様であった。
よもやその閃きが、光速移動した市澤の右人差し指の残光の明滅がもたらしたものだとは誰も思うまい。
閃光が漸く収まると、深雪はすっかり酔いが醒めていた。光の明滅を利用した催眠術によって、内臓を一時的に超活性化する暗示を掛けられ、数秒でアルコールが抜けたなどと知る由も無かった。
「あ…あたし……!」
酔いの醒めた深雪は、アルコール抜きで赤面して俯いた。
「気にしない、気にしない」
深雪を慰めながら、市澤は、彼女が声を掛けて来た理由を悟り、少し嬉しい気分になった。
迷いが晴れて微笑する市澤は、右手で掴んでいるコップのビールを口にした。少し炭酸の抜けた苦味は、不思議と旨かった。
「たまには、思いっきり鬱憤を晴らさないと人間おかしくなってしまう。注文した物を食べ終ったら、嫌な事は忘れて、外でパァーと騒ごう」
「うん」
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