第3話(1)
市澤未来。二十一才。
港区・三田にある有名私立大学の学生であると同時に、広尾に在る実家の紅茶専門の喫茶店『クロノス』のマスターという顔も持つ、実に多忙な青年である。
いつものほほんとして、緊張感の欠けた雰囲気を持つ青年だが、いざ、その緩んだ貌を引き締めれば、そこいらのファッション雑誌の男性モデルや、TVで活躍中の二枚目俳優なぞ足下にも及ばぬ美丈夫であった。
その為か『クロノス』には、噂を聞いた客が、連日押し掛けていた。
上は、有閑のおばさん連中、下は、校則で保護者抜きでは喫茶店への立ち入りを禁止されているハズの近所の女子中学生達、とその層は実に幅広く、そして呆れる程偏っていた。
こうして言うと、『クロノス』は盛況そうに聞こえるが、実際のところ、皆、紅茶一杯で何時間も粘る為に、店の回転率を悪くしていた。
閉店後、帳簿を広げた市澤が、黒ボールペンよりも消耗の激しい赤ボールペンを握り締めたまま、頭を悩まさない晩は決して少なくなかった。
表向きは、そうなっている。
芒洋とした美貌に浮かれる女性客達の誰一人として、市澤が、『時次元(フィールド)』と呼ばれる時空間上で、可能性の数=無限に展開する『時代界(サイト)』の秩序を秘密裏に守る、史上類を見ない巨大な超法規組織『時次元監理局』に所属する超能力戦士の一人である事実を知る者は皆無である。
無論、彼女ら以外においても、市澤の裏の顔を知る者は、ほんの一握りしか存在していない。
市澤の超能力は、『光速で動く能力』である。
単純に、移動スピードが速いだけの能力ではない。人間の五感で感知出来る最速度『光速』は、繰り出した拳の衝撃波をレーザー光線に変え、時として、空間断層をも引き起こす凄じい破壊力を彼に与える。
だが、そのような能力をもってしても、『時次元』の秩序を乱す敵に対して、常に圧倒的な脅威ではない。
『時次元』を変革せんとする、途方もない野望を抱く者が絶えないのは、世界があまりにも広すぎる為であろう。
『時次元』の秩序を守る超能力戦士達に匹敵する、超絶能力を備えた超人も、決して少なくはなかった。
超人対超人。想像を絶する死闘の結果は、死ぬか、生きるか、いずれかしか無い。
任務を終えた数日後、市澤は『クロノス』のカウンターの中で、無意識に、無言で自分の両手をじっと見つめる事が多々あった。
両手に付いた、拭い取ったハズの朱色が、視覚を超越した感覚によってゆっくりと鮮やかな色を取り戻した時は、市澤は早めに『クロノス』を閉め、独りぶらりと街に出て行く。
一昨日の木曜日もそうであった。
能面の如き氷の貌で、黄昏の渋谷の街を彷徨ったのは、果たしてこれで何回目だったか、疾うに忘れていた。
夕日が落ち、昼に口にして以来、一滴も収めていない胃袋が締まりなく鳴る。
センター街を歩いていた市澤は、黒のTシャツの上に着ているライトブルーのジャケットの裾を翻し、近くに在ったファーストフード店の自動ドアを潜った。
調理に使用している油が体質的に合わないのか、胃に凭れるので余り好きではないハンバーガーとフライドポテトを投げ遣りに頼み、思い出した様にオレンジジュースを追加で注文して、傍のカウンターで立ち食いした。
暫くして左傍に、自分と同じメニューを乗せたトレイを持つ、サイドをツイストにしたセミロングヘアの、白いセーラー服を着た少女が、市澤の顔を伺う様に、いつの間にか立っていた。
「ここ、空いてます?」
市澤は少女に一瞥もくれず、自分のフライドポテトを摘み、自分の口に放り込んだ。
少女は、市澤に無視されているのを承知でスタンドにトレイを並べた。少なくとも、拒絶している様子は無いので勝手にした。
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