第2話(1)
天頂に達した三日月が、流れ行く雲の隙間から時おり顔を覗かせていた。
潮混じりの漆黒の闇の中で、数時間前までその上空を抜けていたジャンボジェット機の爆音に匹敵する、凄じい轟音が駆け抜けた。
「もらっ――?!」
勝利を確信したその声の主は、自らが撃ち放った衝撃波がもたらす轟音が最大音階に達する前に、その勝利が否定されるとは思いもしなかった。
闇の奥より届いた一筋の閃光が、必殺の衝撃波を粉砕し、声の聞こえた方角の闇で炸裂した。
目標に命中して飛び散った光は、声の主を闇の世界から引き摺り出し、筋骨隆々とするその身体を暗天に弾き飛ばした。
声の主は、後頭部から地面に叩き付けられても、自分の敗北を理解していなかった。一瞬の決着であった。
「ラァジィ!?」
閃光を受けて弾き飛ばされたラァジィと呼ばれる男の後方で、月下の宙に無様に舞う相棒を目の当たりにしたキィコは、自分達を追っている男の凄じい力に、込み上げる戦慄を禁じ得なかった。
キィコと共謀し、時空を越える密輸を行っていたラァジィの能力も決して劣るモノではない。
『時次元』と呼ばれる時空間の空間波動のエネルギーを、空間を構成する素粒子を一時的に減少させて取り込み、衝撃波に転換して撃ち放つラァジィの『死の波動(デッド・ドライブ)』は、キィコの出身時代である三十二世紀になって、ようやくその構造が解明されたオリハルコンをも分子レベルにまで分解してしまう破壊力を持っていた。『死の波動』は、音速で空間を駆け抜ける必殺の衝撃波なのだ。
しかし、音速を越える速度、『光速』の衝撃波には叶わなかった。
その閃光が、只のレーザー光線では無い事を、既にキィコは知っていた。
レーザー光線を放った敵が、全くの素手である事も知っていた。
『素手でレーザー光線を撃ち放つ能力者』の存在は、敗れたラァジイも噂には聞いていた。
その噂の能力者が、自分達の前に立ちはだかっていたのだ。
キィコは今、この敵と対峙している羽田空港の滑走路の外れに隠してある、密航に用いた『航時機』の許へ何としても辿り着きたかった。
ラァジイと共謀し、この『世界』に於て、人間の脳内で造られる脳内快楽物質『エンドルフィン』をベースに造り出した超麻薬『エンジェル・フィン』を密輸し、その代金として、未来世界では失われている美術品を入手し、未来世界の裏市場で売りさばく魂胆であった。
過去の世界の品を、未来の世界に無断で持ち込む事は禁止されている。その逆もしかり。
それは歴史の流れが変わるからではない。
単に、不当な手段で入手した行為を咎めているだけである。
実際、マンモスや二ホンオオカミと言った既に絶滅したハズの動植物が、種族保護の名目で未来の世界に多く持ち込まれて、その種を存続させている。その事によって、歴史の流れ方が大きく変動した形跡もない。人が思ってるほど、歴史の流れは頑なでは無い。
だからと言って、一個人の汚れた利益の為に、不当な流通は許されるべきではない。
ましてや、人を狂わす麻薬などはもってのほかである。
何処でどう嗅ぎ付けたのか、ラァジィを斃した能力者が所属する超次元機関『時次元監理局』に流通ルートを全て見付け出されてしまい、本格的に市場に流す直前に、麻薬を全て押収されてしまった。
首謀者であるラァジィとキィコは、逮捕される前に逃亡し、ようやくここまで逃げ延びて来たのである。
滑走路の外れの草むらに潜み、全身の感覚を、周囲の僅かな動きを見分ける為だけに集中している、幽鬼を思わせるキィコの相貌が一層青ざめていた。キィコにとって今ほど、時の流れが途方もなく永く感じられた事は無かったろう。
「あと一歩と言う所に来て、こうも追い詰められるとは……!」
「残るは貴様一人」
その静かな声が聞こえたのは、かっ、と瞠ったキィコの背後からであった。
「い、いつの間に――い、否、貴様なら容易い事だったな」
キィコは頬を引き攣らせ、歪んだ笑みを浮かべた。
「……『光速移動を可能とする能力者』、か。光速で繰り出した素手の拳の拳圧がレーザー光線になるとは……」
「『密航者』キィコ・マリスバリアード、これ以上逃げても無駄だ。『航時法』違反で、お前を逮捕する。
A級犯罪者として手配されたお前には、黙秘権も弁護士を立てる権利も無い」
「くくく、A級指定とはな。――では、俺を逮捕したら洗脳して別の人生を歩ませるか。それとも、ラァジィと同じに葬り去るか?」
「好きな方を選べ」
感情が全く伺えない、まるで機械の様な冷淡さを秘めた響きであった。キィコを追い詰めたこの能力者、果たして如何なる人物か。
「良かろう、選んでやるさ」
この期に及んで、キィコはほくそ笑んでいた。そして背後へ悠々と、それは余りにも無防備に立ち上がって振り向いた。
そこに立っていたのは、黒のタートルネックシャツの上に、膝下まである白のロングコートを着て、洗いざらしのGパンを履いた、街中に歩いていそうな一人の青年だった。
その相貌を除いては。
癖の強い黒髪を冠した、玲瓏たる月影を思わせる、冷たい美貌の持ち主だった。
その美貌に見詰められたキィコの背筋がぞくりとする。余りにも冷冽なその美貌を前にして、欲情よりも戦慄感の方を強く抱いてしまうのは、人間としての本能であろう。
神々しい。
その相貌を讚えるのに、最も相応しい言葉である。
振り向き、暫し我を忘れていたキィコは、辛うじて我に返り、再び不敵そうに微笑んだ。
「――ふん。莫迦め」
美丈夫は、不敵そうに笑うキィコに、その言葉の真意を問い質さず、その場に立ちつくしていた。
「動けまい?」
美丈夫は何も応えない。直立不動のまま、動こうとしないのだ。
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