冥夢
arm1475
第1話
「この渋谷という街はいつ眠るのかね」
ネオンライトに淡く照らされた道路を埋め尽くし、煌めく世界へと流れ消え行く人波を前に、ため息混じりの紫煙がゆっくりと散った。
市澤(いちざわ)は、渋谷駅前にあるハチ公像横にある喫煙所でぼんやりとした顔で一服していた。
吸っていた煙草が尽きると、ライトブルーのブルゾンのポケットからラッキーストライクのBOXを取り出した。
吸い終えた煙草を灰皿に捨て、既に封の切ってあるラッキーストライクを軽く振ると、一本だけフィルターが顔を出す。
それを口元に引き寄せ、銜えて引き抜くと、今時珍しく、同じポケットに入れていたマッチで火を点した。
軽い深呼吸と共に、市澤の肺に溜った紫色の霞は、少し困憊気味の吐息となって、七色に煌めく街並に、すうっ、と流れて行った。
市澤はおもむろに、自分の左手首に巻かれている液晶デジタル式腕時計を見遣る。
街の灯りのお陰で、内蔵灯を使わずに読める時刻は、午後八時一分を表示していた。
「さて」
市澤はおもむろに振り返る。
視線の先には、足下の辺りをきょろきょろと見回している壮年のサラリーマンがいた。
サラリーマンはどうやら何かを落としてしまったらしい。その不安げな顔は、行き交う人の波の間からでも判るものであったが、波は決して彼に興味を示そうとはしなかった。
市澤はそんなサラリーマンの顔を、何かを見計っているかのようにしばらく見つめる。
そして吸い終えた煙草を灰皿に収めると、彼の元へと進んだ。
「お困りですか?」
市澤が優しく声を掛けると、サラリーマンは不満げな顔をもたげた。
無論、市澤に罪があるわけではないが、見知らぬ人間に不意に声を掛けられては、やり場に困った感情はそう簡単には消せるものではない。
「あ」
毒気を抜かれるとはこう言う事なのだろうか。サラリーマンは、端正の取れた穏やかなその微笑に一瞬、我を忘れた。
「何かをお探しのようで?」
「あ、ああ……」
サラリーマンは後頭部を掻き、
「人とぶつかった時、結婚指輪をうっかり……」
「今夜、お食事なんですよね」
「ああ、あと30分で妻と娘が……って、え?」
「いえ、何となくそんな気が」
その返答にサラリーマンは呆けた顔をする。
「あぁ、前にもあったんですよ、ここで。ここ、そう言う場所なんでしょう」
「はぁ?」
「で、どこいらへんでぶつかりました?」
言われて、サラリーマンは釈然としない面持ちを改札口の方へ向けた。
「改札を出たあたりまでははめていたんだが、関節の辺りが少し気になって外した拍子に、横から来た人とぶつかって……」
「なるほど」
市澤は合点した割にはどこかわざとらしい仕草で頷く。
「と、言うことは」
そう言っておもむろに、交番のほうへ指してみせた。
「あの辺りに転がってません? 角度的に」
「はあ?」
サラリーマンは困惑しつつ、その指さした場所へと視線を移す。
「あ」
サラリーマンはもう一度、我を忘れた。
「ああっ!」
そして人混みを抜け、市澤が指した交番前の地面に飛びついた。
「あった!」
サラリーマンは大切な指輪を掴んだ右腕を振り上げ、全身で喜びを表現した。
「キミ、ありがとう! 本当にあったよ! 何で判ったっ?!」
「んー」
市澤は傾げる。
「これで5度目かな」
「え?」
「先ほども言いましたが、前にもあったんですよ」
「前にも?」
「ここで」
「ここで?」
「角度的に」
「角度的に?」
「それよりもうお時間じゃないですか?」
市澤の元へ駆け寄ろうとしたサラリーマンは、慌てて自分の腕時計を見る。
「あっ、まずい、遅れてしまう! キミ、本当にありがとう!」
「なに、困っている時はお互いさまです」
市澤は軽く手を振って応える。
「急がれてるんでしょ? どうぞ、こっちも人と待ち合わせているんでお構いなく」
「す、すまない」
サラリーマンは深々と会釈し、慌てて雑踏の中へと走り去っていった。
市澤はその背が消える前に踵を返し、再び喫煙所に戻った。
そして、はぁ、と溜息を吐くと、3本目をくわえてまた紫煙を吐いた。
「まぁ、このままだとずうっと間に合わないんだろうけど。こちらの待ち人もいつ来るか判らないが」
市澤はここでずうっと人を待っていた。
周りにも、同じ様に人を待ってたむろする、大勢の若者達が居る。
自分より前から待っていた者や、市澤が待ち始めてからやって来た者達の、待ち人に巡り合えて零した笑顔を、時おり何処か羨ましそうに眺めつつ、市澤は新しくくわえた4本目に火を点した。
細く柔い白い筒は、オレンジ色の境界線の向こうで灰色に染まり、市澤が口元から離す度に、筒の長さは短くなって行く。
やがて、銜えているフィルターの長さと同じ位に短くなると、市澤は、最近になってようやく減らす事が出来た煙草の本数が、また増えるのではないかと少し気になった。
「待った?」
5本目がフィルターだけになったところで、ようやく市澤の待ち人は現れた。
フィルターをくわえて憮然とする市澤の目の前に、一人の少女が立っていた。
その少女は、横縞のTシャツの上に、レモンイエローのスイングトップパーカーを着ていた。
サイドの髪をツイストにしたセミロングヘアで、恐らく高校生、十七、八才くらいであろう。
口紅を引いた程度の薄めの化粧で、やや大人びた爽やかな色香を湛えた少女は、市澤の顔を伺いながら、済まなそうに微笑んでいた。
「……少しも」
市澤が素っ気なくそう答えると、不意に、辺りに時報を告げるチャイムが鳴り響いた。
二人が居るハチ公口の向かいにある、『シブヤ109―2』の大画面オーロラ・ビジョンに表示された時刻は、午後七時丁度を指していた。
オーロラビジョンに表示されている時計が狂っているのだろうか。それとも市澤の腕時計が狂っているのか。
市澤の腕時計も、午後七時丁度になっていた。いつの間に直していたのであろうか。
しかし市澤は時計の異変に気付いている素振りもなかった。
「ところで――」
市澤は、変に気怠そうな口調で切り出すが、しかし少女はにこりと微笑み、いきなり市澤の左腕に抱き付いた。
「おい、こら」
「良いじゃない? 今夜は恋人同士なんだから」
少し年下の強引な少女の満悦した笑顔を、市澤は少し困った顔で見つめた。
市澤は、暫し空いている右手で後頭部を掻き毟る。やがて諦めたのか、肩を竦めて憮然とする貌を崩した。
「……まあ良い。ではお姫様、七色に煌めく不夜城へ参りましょうか」
「ええ、親愛なる王子様」
二人は互いに澄まし顔で掛け合い、同時に吹き出した。
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