第25話 我らが名は神の御名

 内陸部としては珍しく大河をよりどころとした港町として、ヴェローナ市は発展の一途をたどっている。

 その支配者たるヴェローナ大公の屋敷は広大だ。表門から庭を通り、館へと続くまでの曲がりくねった遊歩道は、ちょっとした公園なんぞよりよほど長い。

 そこをすれ違う人々は、互いにの身分や素性を吟味し合いながら、挨拶を交わし、交流の糸口や攻略のための弱点を掴む。

 そういう煩わしいことを避けるために、大公殿下にとって特別な客、あるいは教皇庁お墨付きの賓客に関しては、公邸ではなく、私邸へと続く裏口へ馬車を着けることが許されていた。

 裏門も、確かに正門に比べればいくらか見栄えは劣るが、それでも素晴らしいゴシック装飾の施された門扉は見事だったし、衛兵たちも熟練の手練が揃えられていた。

 今日は立春の後の最初の満月の夜にあたる、ヴェローナ大公の謁見の日だ。この日ばかりは、大公殿下の公邸に人が押し寄せる。直接のご拝謁を得られない身分の者でも、大公への直訴の手紙を届けることが許されている数少ない日だ。もちろん、ヴェローナに居を構える貴族、大富豪、豪農をはじめ、近隣諸国からも特権階級が、本人あるいはそれと同様の権限を持つ名代を立てて大広間へと集う。中には、バチカンから遣わされた大司教もいたという。

 そんな蜂の巣をつついたような騒ぎの中ともなると、まだ午後の早い時刻から、正門にはいくつもの馬車が押し寄せている。謁見の間に続く控え室に入る許しを得るだけで、書状を手にした従僕連中で受付の行列ができる有様だ。

 そんな表通りの喧噪を離れて、一台の瀟洒な馬車が、エスカラス侯爵の私邸の裏門の前へと停められた。

 ここからなら、中庭を通って直接大公殿下の私邸の玄関へも行けるし、また大公殿下に個人的に挨拶に伺うにも近道だった。

 本来なら、かなり親しい人間にだけ許された出入り口だが、門扉を守る兵士は、馬車の扉に金塗りとエジプシャン・ブルー……いや、ラピスラズリの顔料に、パルマ特産の塩漬け肉に使って青緑色に変色した塩を混ぜた、鮮やかな空色の「アズーリ・デ・パルマ(パルマ・ブルー)」で描かれた六輪の百合の紋章を見て警戒を解いた。それは、イタリア人ならば誰でも知る、大パルマ公国の盟主・ファルネーゼ家の紋章だ。

 また、馬車の上に掲げられた旗は、パルマ公国内に広大なカレスターノ地方を領有するロッシ伯爵のものだ。盾に二本のサーベルが交差する紋章は武勲を誇る家柄にはありふれているが、その盾が帆立貝の形をしているのはこの一族だけだ。代々、大パルマ公国の水軍提督を務めてきた家柄ならではの図柄だった。

 馬車から降りた人影に、兵士は嬉しげな笑顔を見せて敬礼した。

 栗色の長い髪を後ろで束ね、大きな駝鳥の羽のついた黒い帽子を洒脱に斜めに冠り、ぴかぴかに磨き上げられたブーツと長いサーベルが、流行の腰までのグレーのマントから覗いている。首に巻かれた絹のスカーフを留めているのは、ロッシ伯爵家の紋章を象った銀とサファイアと粒真珠のブローチだ。

「カレスターノ水軍伯ファウスティーノ・ロッシ閣下、ご到着でございます!」

 衛兵の歓迎の声に、伯爵は満足げに頷き返し、軽く片手を上げた。

 礼に応えてもらった衛兵の顔が、光栄のゆえか、ぱっと輝いたように見えた。

 伯爵は連れの貴婦人が馬車から降りるのに、紳士らしく手を差し伸べる。山羊革の手袋が、午後の太陽に光った。

 手を取られて降りてきたのは、こちらもいかにも貴婦人然とした美女だった。男に任せた左手には、大きなエメラルドの指輪が輝いている。右手では、ドレスの裾を優雅に捌いていた。ドレスが光沢のあるグレーのベルベットなのは、連れの男性と色彩を合わせたのだろう。首には豪華なエメラルドのネックレスがきらめき、彼女の緑金髪にその光が映り込んで眩いばかりだ。

「パルマ公国大公令嬢フィオナ・ファルネーゼ・デ・パルマ殿下、ご到着でございます!」

 兵士の声はひときわ高らかだった。

 大勢の侍女や衛兵を従えて、二人が中庭を横切ろうとした、そのとき。


「放して、放しなさい!」

 中庭の奥にある塔の扉が半ば開き、中から女の、悲鳴にも似た声が聞こえた。

「構わぬ、妻を放せ」

 低い声とほぼ同時に、その分厚い扉から、痩せた人影が転がるように飛び出してきた。

 なんとか制止しようとしていたのであろう、明らかに狼狽えた様子の衛兵を、後ろから続いて現れた品格のある若者が無言で抑えた。

 最初に出てきたのは女で……お世辞にもまともとは思えない姿をしていた。長い金髪は櫛も通さず絡み合い、化粧もせず、やせ細っていた。素足のまま、彼女は中庭の石畳を駆けてくる。もとは最高級だったのであろう白絹の閨着は、自分で引き裂いたのか、半ば胸が見えそうなほど破れてぼろぼろだった。

「助けて、助けて海賊さん」

 女はカレスターノ伯爵のことをそう呼びながら、すがるようにその胸元へ飛び込み、珍しい金色をした瞳で見上げた。

 輝く黄金色の目には、懐かしさと悲嘆と喜びと……様々な感情の色の混ざり合った涙が浮かんで、青白い頬へと伝い落ちる。

「あなた、お知り合いですの?」

「いや」

 困惑した様子で顔を見合わせた二人に、女の後を追ってきた貴公子が申し訳なさそうに言った。

「これはご来客に、妻がとんだ無礼を」

 彼は伯爵に取りすがった女を容易く引きはがすと、細い腰に腕を巻き付けるようにして抱いた。もう片方の手では、しっかりと女の腕を掴んでいる。暴れる女を取り押さえるのには慣れているようだった。

 それから彼は、女を抱きかかえたままなので略式の目礼をしながら名乗る。

「初めまして。ヴェローナ大公、パリス・エスカラス・ヴェローニアス公爵です」

 なるほど、彼の見事な金髪の上には大公の冠が乗っており、マントやガウンこそ羽織っていないが、身につけているもの全てが上等だった。白いブラウスも赤の上着も全て絹で、ブーツは美しいエナメル彩色だった。ただ、指輪やブローチ、首飾りなど、宝飾品の類を一切用いていないのが、大公というにはいささか質素にも見える。

「こちらは妻のジュリエット。いささか気の病でして」

「違う、わたしは病気なんかじゃない!」

 彼が言い終わるより早く、女は喉も張り裂けんばかりの声で叫んだ。

「あなたはわたしの夫なんかじゃない、放して!」

「また夢とうつつの区別がつかなくなってしまったようだね、可哀想に」

 エスカラス侯爵は、大公殿下と呼ぶにはまだあどけなさすら残す若者だったが、妻を見つめる目は優しく、慈愛に満ちていた。狂気の女に対しても実に穏やかな物腰で、あくまで夫として、紳士としての振る舞いを忘れない。これが大物とでも言うべき、さすがの風格を感じさせる。

「放して、触らないで!」

「大丈夫だよ、放すものか」

 力のかぎり暴れる彼女を、彼は体の左に押し付けるようにして抱え込んでから、上着の内ポケットから水晶細工の薬瓶を取り出した。

「落ち着いておくれ、さあ、お薬をお飲み」

 まだ少女から大人になりかけの女性は、口元に差し出された薬瓶を振り払おうとした。それが叶わぬと悟ると、はじめ唇を引き結んで、その唇が割れると、次は歯を食いしばって拒否しようとした。

 やがて瓶の口から薄紅色の液体が静かに、ごく数滴流し込まれたとき。

 その歯の間からわずかに流れ込む液体の味に気づいたのか、彼女はぞっとしたように目を見開いた。

「嫌あ!」

 彼女は必死になって口の中にあるものを……いや、体の中にあるもの全てを吐き出そうとするかのように、周囲に人がいるのも気にせず、喉に指を突っ込んだ。しかし、出てきたのはごぼごぼという奇妙な咳と、濁ったわずかな唾液だけだ。

 エスカラス公爵はそれでも決して怒ったような顔はせず、ただ妻の口元を優しく拭ってやり、うずくまった彼女を抱いて立たせてやった。

「お願いだから、お薬だけはちゃんと飲むんだよ。そうすればすぐに楽になるからね」

 子供に言い聞かせるように言ってから、大公は客人に謝した。

「やれやれ……お見苦しいところをお目にかけました」

「恐れ乍ら、奥様のことはお聞きしております、大公殿下。お気の毒に」

 と、労しげに答えてから、客人はマントの片側を颯爽と跳ね上げると、丁重に、宮廷風ではなく騎士風の一礼をした。

「申し遅れました。初めてお目にかかり光栄です。舅、ファルネーゼ・デ・パルマ公の名代として参りました」

 それから素早く大公の足下に片膝をついて、恭しく両手で剣を捧げる。自分の心臓に剣の切っ先を向けて拝礼する、昔ながらの恭順の礼を取ってから、彼は厳かに名乗った。

「大パルマ公国水軍提督、ファウスティーノ・ウィレム・ロッシ・デ・カレスターノ、伯爵です。ヴェローナ大公殿下と我らが神に、永遠の忠誠をお誓い申し上げます」

「これはこれは、ご丁寧に」

 彼が立ち上がり、変わった形のサーベルを鞘に戻すのを待ってから、ヴェローナ大公もにこやかに……というより、満面の笑顔で頷く。

「カレスターノ水軍伯、ですね。輝かしいご武勲の数々は耳にしておりますとも、もちろんね」

「それは光栄の極みでございます。こちらは妻のフィオナ・ファルネーゼ・デ・パルマ」

「お見知りおきを、殿下」

「ファルネーゼ・デ・パルマ公爵のご令嬢ですね。お二人とも、我がヴェローナまでお運びくださったことに感謝します」

 交わされる儀礼的かつ丁寧な挨拶にも、フィオナは貴婦人らしい居住まいを崩さず、ただドレスの裾を捧げて礼を受けるに留めた。実際、彼女の地位ならそれだけで十分なのだ。

 病だという娘が、男の顔を見つめながら叫ぶ。

「ウィレム様、わたしの海賊さん!」

「確かに私は水軍士官ですが、海賊呼ばわりはいささか心外ですな」

 これには、カレスターノ水軍伯は軽く肩をすくめて苦笑いした。

「誠に申し訳ない。心からお詫びを申し上げます」

「いやいや、どうかお顔をお上げくださいませ、殿下」

 大公ともあろうお方に頭を下げられるのを憚ったのか、それとも懐の広さを見せつけたかったのか、伯爵は静かに首を振る。

 相手の態度に安堵したのか、それとも立場上、最初から許されると分かっているのか……恐らくその両方だろう、エスカラス大公も鷹揚に頷き返し、それ以上の謝罪はしなかった。

 それから彼は衛兵か侍女を呼ぼうとして手を挙げかけ、すぐに思い直したらしく、その手で再び妻の手首を握った。

「誰か、早く妻を部屋に……いや、いい、僕が連れて行く」

 彼が王冠以外に装飾品らしい装飾品を身につけていないのは、妻の体を傷つけないように慮ってのことなのだろう。パリス・エスカラス大公は若々しく力強い腕で、妻を軽々と抱き上げた。

「いや、放して、放して!」

 彼女が暴れて腕を振り回し、それが夫の顔を殴りつけた形になっても、大公はいささかも動じた様子はなかった。

「助けて、海賊さん……助けて!」

 夫の腕の中で、彼女は懇願のまなざしをこちらに向けながら、必死に抵抗している。激しく動かす足の裏からは、石畳の角か小石ででも切ったのか、真新しい血がぽたぽたと辺りに撒き散らされた。

 それを気遣わしげに、だが正視するのも失礼とばかりに横目で眺めながら、カレスターノ伯は困ったように婚約者を見た。

「私は誰かに似ているのかな、フィオナ?」

「さあ……海軍の将校のかたがたは、どれも似たような制服ですもの。お気を病まれた方が、お知り合いだとお見間違いでもなさったのではないかしら」

 水を向けられた貴婦人は、まるで日差しを遮るかのごとく自然に扇を広げて、大公夫人のひどい有様から目を背けていた。

 彼女のそつのない受け答えに、大公もいい助け舟を出してもらったような気になっただろう。言葉を選びつつ、事情を手短に語ってくれた。

「言い訳をするわけではないが、これの生母……キャピュレット夫人も、心を病んで修道院にいる身です。そのような家系に生まれついたものかも知れません。全ては忌々しいスペイン風邪のせいですよ」

「半年もお眠りになったままだったと伺いました。奥方様におかれましては、どうぞお大事に。後ほどお見舞いの品でもお贈りしましょう」

 カレスターノ伯爵の儀礼的な見舞いの言葉に、病んだ少女……いや、ヴェローナ大公夫人は、ついにわっと声を上げて泣き出した。

「ひどいわ……あなたまでわたしを見捨てるの?」

 その悲痛な訴えは、確かに聞く者の心を打つが、同時に狂人の戯言にしか聞こえないのも事実だった。

 しかしパリス・エスカラス大公殿下は、彼女の小さな体を抱いた腕にいっそう力と愛情を込めて、優しく言い聞かせ続ける。

「僕は決して見捨てたりなどしない。大丈夫だよ、ジュリエット。ずっとこうして傍にいるからね」

「いや、放して!」

 響き続ける女のわめき声を、まるで小鳥のさえずりでも聞くかのように、悠然とファルネーゼ・デ・パルマ公爵令嬢は微笑んだ。

「なんとお気の毒なことでございましょう。でも、今はいいお薬がたくさんございますもの。奥方様もきっと、すぐによくなられますわ」

 この堂々とした態度には、さすがのパリス・エスカラス・ヴェローニアス大公殿下も、賛嘆のため息を隠さなかった。

「仰るとおり。さすがはパルマ公の姫君だ、聡明な方ですな。伯爵は、よい奥方をお迎えになったようだ」

「ええ。私のような無骨者には、まことに過ぎたる家内ですよ」

 パルマ水軍提督ロッシ・デ・カレスターノ伯爵は、そのとき口元だけで、いささか皮肉めいた笑みを浮かべた。

 ほんの一瞬、大公と伯爵が顔を見合わせて微笑みあったように見えたのは、明るい陽射しの見せた幻だったろうか。

「では伯爵、後ほどゆっくり」

「ええ、大公殿下、後ほど」

「晩餐会を楽しみにしておりますわ」

 社交界流の、ありふれた挨拶をやりとりしてから、大公はさっと振り返ると、もう後ろも見ずに、中庭の奥へと歩いていった。

 あの石造りの、美しい塔へと。

「さあ、ジュリエット、少し休もうね」

「やめて、お願い……もうやめて、許して……」

 弱々しい懇願の後、彼女は細い喉がはち切れんばかりの声で叫んだ。

「みんな嘘吐きよ、みんな嘘吐きよ! わたしは病気なんかじゃない、わたしはこの人の妻じゃない、違うの!」

 夫に抱き上げられた彼女は、痩せた腕を振り回して暴れたが、そんな抵抗など、騎士の中の騎士の膂力の前では空しかった。塔の扉の向こう側へと消えていく二人の姿に、未来のパルマ公夫妻はどちらからともなく声をかけた。

「お気の毒に」

「お大事に」

 そして衛兵たちが扉を閉める、重々しい音だけが響いた。


 付き従っている兵士や従卒、召使いたちに向かって、フィオナ・ファルネーゼは厳格な表情で命じた。

「今のことは他言無用よ。家族にも話してはならない。分かったわね」

「畏まりましてございます、姫様」

 その優雅な姿からは想像も出来ないほど、彼女が厳しい女主人であることは、仕えている者は全員知り尽くしている。この中庭で起きたことを家族や恋人にでもうっかり話したら、舌を抜かれた死体が家族もろとも、ポー川からアドレア海に流れ着くだろう。

 使用人たちの畏怖と忠節に満ちた態度に満足したのか、彼女は再び夫君の腕を借りると、悠然と中庭の石畳の上を歩きはじめた。

「よくもまあ、あれだけしらばっくれられますこと」

「何のことだかな、フィー」

 不敵な笑みを含んだ妻女の声に耳を傾けながら、それでも彼女の方は見ず、ウィレムはただ晴れた中庭の美しい情景を眺めて言った。

「俺は何も嘘なんかついていないぜ。伯爵家の名前と領地をそっくり買ってからパリスに会うのは初めてだ。あいつが大公になってから会うのも初めてだ」

 確かにそれは全てが事実なのだ。ジュリエットには悪いが、嘘など欠片もない。

「今の俺は、大パルマ公国が誇るパルマ大聖堂騎士団の水軍提督だ。海賊じゃない」

「そちらの方のご商売は、今は誰がなさってるの?」

「それは、お前は知らなくていい」

 妻の問いには答えなかった。そんな必要はないと思ったからだ。

 妻より何より愛する我が船の改修には、なかなか時間がかかったが、そこはロザルド水運が誇る職人団がいる。もともと武装している大型の外洋船を、軍艦に改造するのに半年もかからなかった。

 ついでに次兄は、新しい外洋船を建造して、それを……これまた意外にも、自分で乗り回しはじめた。副船長には、十二になったばかりのカイラスの息子が選ばれて、徹底的に商売のやり方を叩き込まれている。だが、あのジルベルトは、自分のような無茶はしないだろう。

 無茶と馬鹿は、姓が変わったところで末っ子の担当だ。

 そのためにわざわざ、カイラスとジルベルトは男爵も子爵もすっ飛ばして伯爵の位、それも大パルマ聖堂騎士団提督の家柄にこだわったのだ。二人の兄は、可愛い弟が英国海軍提督に小馬鹿にされて黙っているほど大人しい連中ではなかったと、ウィレムは改めて思い知った。

 伯爵にして水軍提督なら。

 あの忌々しいイギリス野郎、英国海軍提督サー・アーサー・ラドクリフ伯爵と、対等な立場だ。今度は正々堂々と、真っ正面から喧嘩を売れる。

「あの英国の海賊民族どもに、目にもの見せてやれ」

 カイラスがそう言って伯爵家の紋章のブローチを渡してくれたとき、彼のイタリア人としての、いや、一族の誇りを見たような気がしたものだ。

 カレスターノの広大な領地とロッシ家の家名を買うには、確かに莫大な資金がかかった。何しろ、代々提督や将軍を輩出する家柄だ。しかし、根回しの方を兄たちがかなり以前から、それも相当うまくやっていたようで、思っていたよりあっさり手に入った。

 もともとロッシ家には、跡継ぎにふさわしい、いかにも軍人気質の一人息子がいたが、妻を娶る前に例のスペイン風邪に罹患したのが元になり夭折してしまった。次に、しかるべき親戚筋の貴族の家から養子を迎えたが、これが大酒飲みの上に手のつけられない暴れ者で、性質の悪い女に引っかかったあげくに阿片に手を出し、たった三ヶ月でロッシ家の財産が半分にまで目減りしたため、あっという間に廃嫡された。

 かくして、平民ながら、莫大な資産とロザルド水運の後ろ盾を持つウィレムを売り込むのに、そう手間はかからなかった。しかも、既に当時婚約が決まっていたのが大パルマ公の姫君と来ている。代々お仕えしてきた主家の姫君を嫁に迎えるというのは、とてつもない名誉であった。それほどの若者が養子候補と聞いただけで、既に老いの影を見せ始めていたファウスティーノ・ロッシ・デ・カスタレーノ伯爵がこの話に飛びついたのも、無理はないだろう。

 老ファウスティーノは、一目見るなりウィレムを気に入り、自分のファーストネームを与えて養子にした。もちろん、老ファウスティーノが気に入るような、いかにも水軍士官らしい衣装を選び抜いてのことだった。ウィレムを見栄えよく飾ったのは、いつものように次兄と執事だった。

 それにしても、ウィレムが伯爵家の養子になると決まった時の長兄カイラスの喜びようと言ったらなかった。長年の苦労が報われたと言わんばかりに、無言で弟たち、ジルベルトとウィレムを抱きしめたほどだ。

 それから半年、ジュリエットが自ら毒を煽ってから目覚めるまでの間に、彼はロザルド兄弟水運商会の三男坊ウィレムから、パルマ水軍提督ファウスティーノ・ウィレム・ロッシ・デ・カレスターノ伯爵となるための教養と行儀作法を叩き込まれた。次兄だけでなく、この怖い婚約者も、この改造劇には一役買った。

「それにしたって、あの拝剣礼は格好つけすぎよ。今時あんなの、教皇猊下にだってやる奴いないわよ。とんだ猿芝居だわ」

「カッコいいだろ、あれ一度やってみたかったんだよバーカ」

 ウィレムは大声で笑い出しそうになるのを必死に堪えて、握りしめた手袋の拳で口を押さえた。

 それから、ついでのように軽く肩をすくめてみせる。

「あら、ちょっと。その言い草は許せないわね。半年前の貸しはまだ返してもらってないわよ。誰のおかげで命拾いしたと思っているの?」

「ああ、鱗鎧には感謝してる。腹に鉛弾くらった時には馬に蹴られたかと思った」

 半年あまりが過ぎた今でも、彼の腹には、赤く肉の盛り上がった痣が残っている。多分この傷とは一生付き合うことになるだろう。あばらも二本折れた。

 それでも彼がこうして生きていられる理由は、何もジュリエットの銃の腕前のせいだけではない。彼女が名人で、あるいはたまたま頭か首にでも当たっていたら、とっくにあの世に行っている。

「しっかし、うちのクソ執事の用意した血糊の不味かったことったらねえや。豚の血と内臓だぜ?」

「その演技、見られなくて残念だったわ」

 フィオナは平然と笑った。

 そう。彼の命を救ったのはフィオナであり、死を装ったのは執事だ。

 バイキングの鱗鎧の話は、あなたにもして差し上げたはずだぜ、姫様。

 まさかそれを実際にフィオナが手に入れてくるとは思っていなかったし、それを身につけてジュリエットに撃たれても、命の保証はなかった。もちろんウィレム自身は、あのまま死んでも悔いはなかったつもりだが。

 そんな思いなど見透かしたように、それでもやはり彼女は中庭の美しい花々を眺めながら言う。

「でも、残念ね。こんなことになるなんて」

「ああ。本当にな」

 さすがに、ジュリエットは大切に育てられた姫君だった。そもそもが、世の中のことを疑うことを知らない子羊だった。それが一切合切記憶の全てを失ったのだ。御しやすい相手には違いなかった。

 彼女がパリスを殺すために選んだのは、自分が毎日口にしている薬だった。

「一日に七滴まで、最大でも八滴」がフランチェスコの処方で、一時にティースプーン一杯ほど飲むと気を失い、さらに増やすと命を奪う。

 彼女自身は記憶すらしていないのが皮肉なものだったが、事実、あの日、あの運命の時、ジュリエットは愛するロミオと天国の門の前で再びまみえることを信じて、その毒をグラス一杯煽ったのだ。

 そして彼女は、その同じ毒薬をシェリーに混ぜて、パリスに渡した。

「あの毒……あれをもし、姫様がパリスに飲ませなかったら。あいつは幸せなまま死ねたのに」

 ウィレムの声は、どこか悲しげだった。

「いい奴のまま死ねたのに」

 必ず死ぬのは十一滴です、と、彼女の侍女ハンナは伝えていただろう。

 だが、あの狡猾な執事が、絶対的な致死量を、急ごしらえの間者程度の扱いの侍女に教えるわけがなかった。

 もちろん、何の策も用意していなければ、たったそれだけの毒でもパリスは死んでいたかもしれない。実際、伝えられていた致死量の倍近くを、彼女は杯に注いだ。

 だが、あの忌々しい白子の錬金術師は、別の毒を用意していたのだ。

 毒を制するのは毒。

 そう彼は断言した。その毒をあらかじめ飲んでおけば、ジュリエットが例の薬をどれだけ盛ったところで、パリスの命に別状はない。フランチェスコは自らの腕前に自信を持ってそう言った。

 ただし、ジュリエットがもし、例の薬に手をつけず、ただ愛しい夫に寄り添うだけだったとしたら、パリスは確実に死ぬ。

 そういうとてつもない代物を、あの白子の魔法使いはちゃんと準備していた。

 だからパリスは、生き延びてしまったのだ。

 あの夜。ジュリエット姫の幽閉されている塔に赴く前に。

 パリスは迷わず、フランチェスコの作り出した毒を口にした。

「もし彼女がそうしないのなら、僕は喜んで死ぬよ。ジュリエットは本当に僕を愛してくれているんだって思いながら死ねる。そんなに幸せなことなんてないじゃないか」

 そう言って笑ったあの男の顔を、ウィレムは一生忘れないだろう。

 忘れようとしても忘れられない。あんな美しい様は。

 天使だって、いや、悪魔ですら、あんな風には笑えない。あれは、ただひとりの女に全てを捧げた男だけが浮かべられる、羊の笑顔だ。

「これから一生かけて、姫様に復讐するのね。大公殿下は」

「いや。あれは復讐なんかじゃあない。パリスはただ愛し続けるだけだ」

 たった数時間眠っただけで目覚めてしまったとき、パリスは神に祈っただろう。

 ベッドの横の床に倒れた妻の体を抱き起こし、その唇に解毒のための毒を垂らしながら。

「どうか神様、僕から彼女を奪わないでください。まだ早い。まだ早すぎる」

 生まれて初めて、真剣に。彼は心から神に祈ったのだろう。

「彼女を連れて行かないでください、神様、どうか神様!」

 骨折と内出血の痛みに身を起こすことすら出来なかったウィレムは、ただ彼の祈りの言葉だけを聞いていた。

 やがて、なぜか本当に眠くなり。

 執事とその手の者が自分の体を運び出し、パリスとジュリエットに適切な手当を施し、ハンナだかアンナだか忘れたが、姫様付きの召使いの死体がガルダ湖から引き上げられたと知ったのは、それから三日も経ってからのことだった。


 そして彼女は再び半年もの、長いながい眠りにつき。

 ようやく目を覚ましたとき、何もかも思い出した。

 ロミオのことも、パリスのことも。

 そして、自分自身のことも。

 絶望と、死を望む哀訴の悲鳴が、その場にいなかった自分にもはっきりと聞こえるような気がする。

 だが、そんな彼女のことを、パリスはまだ愛している。いや、いっそう強く愛するようになった。

「愛して愛して、死ぬまで放さない。いや、たとえ死んでも」

 だって、俺たちはみんなまとめて地獄へ行くのだから。

 天国の門は永遠に閉ざされた。我々はもはや羊ではない。

 彼女も罪を犯した。夫を殺そうと試み、自らも死を選んだ者を、厳格な我らが神がお許しになるわけがない。

 地獄になら、容易く追いかけていける。

「あなた方の素敵な悪巧み……いえ、素敵なお話に参加できて光栄よ、旦那様」

「俺も、お前みてえな最高のアバズレをかみさんにできて幸せだよ。フィー」

 未来の大パルマ公夫妻は、不敵に笑い合った。

 それから不意に、真顔になって言う。

「ヴェローナとパルマ、そしてローマ。強力な同盟になりますわね」

「教皇猊下と教皇庁のご威光、ローマとパルマの由緒ある栄光の歴史、ヴェローナの繁栄、ロザルド兄弟水運の莫大な資金、そして俺たち」

 ウィレムはそのとき、無意識に。

 先代のヴェローナ大公エスカラス殿下の演説の一説を口にしていた。

「皇帝派は皆殺しだ」

「楽しみね」

 フィオナは再び、心底嬉しそうに……緑色の宝石のような目を輝かせて笑った。

 それから不意に、もう中庭の散策も飽きたとでも言うように、美しい小さな塔を見上げた。

「助けて……ここから出して」

 ステンドグラスの窓からは、その悲鳴はほとんど聞こえない。耳を澄ましていなければ、誰も気づかないだろう。

「出して……助けて……」

 だが、この二人にだけははっきりと聞こえた。

 救済を求める、もはや無垢ではなくなってしまった女の声が。

「あんなに愛されて。ジュリエット様が羨ましいわ」

「はは……本気か?」

「ええ、本気よ。ジュリエット様は、本当にパリス様に愛されていらっしゃる」

 冗談かと笑い飛ばそうとしたが、その声が真剣そのものであることに気づいて、ウィレムはその日初めて、フィオナの顔を真正面から見た。

 だが、フィオナの完璧な顔には、何の表情もなかった。彼女はただ淡々と、悪魔の所行を口にする。

「あたしたちに出来ることは、たったひとつだけ。ジュリエット様が、あのお薬をちゃんと召し上がって、お心を安らかにお過ごしになられる日が、一日も早く来るよう、神様にお祈りすることよ」

 確かに、あの薬さえ飲めば。

 彼女は落ち着く。不安も、恐れも、ただ薔薇色の霧の向こうに消え去り、穏やかな安らぎがやってくる。

 ただ、薬の効果が切れるまでの、ほんの短い時間だが。

「あの薬か……飲むかね?」

「飲まずにはいられないように作ったのはあなたでしょう? ひどい人ね」

「作ったのは俺じゃない。そう命令しただけだ」

 あの薬に強い依存性を付与したのは、ウィレムの命令だった。

 あの嘘で塗り固めた時間は、彼女を中毒者にするには十分だった。

 いくら理性が拒否しようとしても、肉体が、脳髄が欲しがる薬を作る。もはや姫様は、この薬なしでは生きていけない。

 フランチェスコはそう言い切り、実際そんな薬を作り上げて、ほんの数枚の金貨と引き換えにパリスに渡したのだ。

「あたし、世にも恐ろしい夫を持ったのねえ」

「怖い執事と怖い黒魔術師も漏れなくついてきた。いい買い物をしたぞ、パルマ公は」

「おかげであたしの義兄が三人ばかり天国に行ったのだけど……まあ、それは別にいいわね、跡継ぎの件はあなたがいるから安心だもの」

 そう。パルマ公にも、代償を支払ってもらった。

 養女として、庶民に降嫁させるために迎えたはずのフィオナしか、今のパルマ公に後継者は残っていない。実質的に、大パルマ公国ファルネーゼ家は、婿として迎えたウィレムを侯爵およびパルマ公に指名するしか手がないのだ。

「先にパルマを舐めるなと喧嘩を売ってきたのはそっちだ。うちは、売られた喧嘩は満額で買え、釣り銭は貰うなってのが家訓でね。大パルマがこんな成り上がりの出来損ないに乗っ取られるんだ、いい気味だぜ」

「本当に気分がいいわね」

「誰よりも大損を掴まされて歯噛みしていなさるのは、お前のお義父上だろうさ。安く買ったつもりの女諜者と、法王庁に寝返るために選んだ出来損ないの馬鹿息子が、今では水軍伯と侯爵令嬢の夫婦だ」

 一年も前には、北海航路だのプロイセンだのをうろついていた二人が、今となってはもう誰も容易く手出しできない立場となった。ヴェローナ大公となったパリスどころか、法皇でさえ無視できない勢力を、彼らはついに作り上げたのだ。

「本当に気が晴れるわ。いい気味よ」

 フィオナは貴婦人らしく口元を手で覆って笑ってから、わざとらしく気遣わしげな表情を作った。

「あのお姫様も早く、お心安らかに、お気が晴れるといいのだけれど」

「この十字架に祈っとくよ」

 そう答えた彼の首にかかっている金の小さな十字架は、この馬鹿げた芝居の戦利品だ。

 あの忌々しい小僧の死体からむしり取った、たったひとつの大切な形見。そんなものを、姫様の手元になんぞ置いておいてやるつもりはなかった。

「姫様が、何もかも忘れて、ただ愛されている幸福に満ちて、お過ごしになられるように」

 十字架を血が出るほど握りしめて、彼は邪悪な祈りを捧げた。

「我らが名は神の御名なり、子羊とは我らの名なり。子羊たちに、神のご加護を」

 それから、カレスターノ伯爵夫妻、すなわち未来のパルマ公夫婦は、ヴェローナ大公の私邸入り口で盛大に出迎えられた。

 晩餐会まで、特別に個別の前室が支度されている。そちらで休めばいい。

 二人に付き従うのは、身なりの整った東洋人らしき執事一人だけだった。


 そして美しい中庭には、小さな噴水の爽やかな水音と、そこに集まる小鳥たちの愛らしいさえずりだけが響く、穏やかな空気が戻った。

 あの小さな塔の高みから、美しいステンドグラスの飾り窓から、まだかすかに、とぎれとぎれの悲鳴が漏れ聞こえてくるのかもしれないが。そんなことには、もうこの世の誰も、誰一人として、気づかないだろう。

「お願い、許して……許して」

「大丈夫だよ、ジュリエット。何も怖がることなんかないんだ」

 そのときも彼は、きっといつもの美しい笑顔で、心からの愛を込めて囁いていたことだろう。

「愛しているよ。僕は永遠に君のものだ、ジュリエット」

 そう。愛を知る者こそ、最も神に近い。

 なればこそ、神に祈りを。


   (完)

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ジュリエット 猫屋梵天堂本舗 @betty05

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