第24話 星を踏み行く者
仮装舞踏会が過ぎ、大公の公式な謁見の宴も終わり、新年を祝う浮かれた気分もすっかり消え失せた頃。
人夫たちは倉庫での仕事に戻り、水夫たちは自分の船の手入れに勤しみ、漁師たちは冷たい海へ出るために網を広げた。
長い休みの後はいつもこうだ。何もかもが忙しなく、最高の伝書鳩の速さで時と人々が過ぎ去って行く。
だから、ロザルド兄弟水運商会の本館に出入りする人々が普段より多いのも、不審に思う者などいなかった。いや、年明けとしてはごく当たり前の風景だった。
その間、パリスはたびたびウィレムのもとを訪れた。公式な行事の合間を縫ってのことだから、暇さえあれば、というところだったろう。
「邪魔するよ、ああ、こんにちはジル兄さん」
「ごきげんよう、パリス殿。愚弟に何かご用件でも?」
「ええ、ビルさえよければ、夕食を一緒にと思ってね。まだ僕の妻は、晩餐会には出られないから。誘いに来たんだ」
姫様との夕食。
その一言に、ウィレムのみならず、ジルベルトの眉もかすかに動いた。
しかし、それらにまったく気づかぬふりをして、パリスは実に明るい調子で訊ねる。
「どう、ビル。今夜は暇?」
「ああ。いつどこまででも、俺はお前に付き合うって言ったろ」
苦笑混じりに答えてから、次兄が部屋を出て行くのを待ち……その足音が聞こえなくなってから、ウィレムは声を落として訊ね返した。
「それで、あれはどうした?」
その問いに、パリスはごく自然な笑みで答える。
「今朝届いたよ」
「そうか」
葉巻に火をつけながら、ウィレムは小さく頷いた。
「姫様もお心を整理するお時間がいるだろうし、夕飯ってのはちょうどいい頃合いかもな」
そう言いながら、自分のくわえた葉巻がかすかに震えていることに気づく。
俺の方がよっぽど気持ちの整理をつけるための時間が必要に思えた。だが、時間とはただ淡々と流れていくものだ。
「夕方まで、ここで時間を潰すか?」
「いや、これからまだ、片付けなくちゃいけない用事がいくつかあってね。夕刻になったら迎えを寄越すよ」
そう微笑むパリスの方が、自分ごときよりもずっと落ち着いて見えた。
一度腹が据わった人間というのは、こうも清々しいものなのか。
彼に比べたら、自分などとんだ臆病者だ。
そんな考えが頭をよぎったが、もう後戻りは出来ないことは分かっていた。葉巻はともかく、手は震えてはいないことに安堵しながら、ウィレムは机の引き出しの裏、そこに設けられた隠し扉から、美しいベネチアングラスの香水瓶を取り出した。
「なら、これを渡しておく」
「綺麗な瓶だねえ」
透明なガラスの上に、金彩とエナメルで美しいピンクの薔薇の花模様が描かれている。その図柄はあまりにも皮肉だったが、パリスは穏やかに目を細めた。
中に入っているのは、透明な液体だ。傾けると、少し粘度があるのが分かる。
パリスは満足げな笑みを投げかけながら言った。
「ありがと、ビル」
「それじゃ、後でな」
その喜びが何を指しているのか……いや、本当にそこに喜びなど顕現するのか分からず、ウィレムはもう一度葉巻に火を点けた。
部屋から出て行くパリスの後ろ姿を見る勇気すらなかった。
葉巻はくわえた唇の上でぶるぶる震え、吸い込むことも出来ぬまま、ただ苛立って、彼はそれを吐き捨てた。
大理石の床の上で燃え尽きていく葉巻の煙が、ひどく目に染みて、ウィレムは無言のまま目元を押さえた。
青い月の美しい夜だった。
彼らは二人、長い影を石畳に伸ばしながら、姫君の住まう塔へと赴いた。
その塔がなぜそんな、小さな要塞のごとき様式だったのか、その理由は、もう明白だった。
外部からの攻撃を恐れたのではない。
ただ、彼女を外に出さないためだ。
「こんばんは、お姫様。入ってもいいかな」
いつものように、姫君の部屋の扉を少し開いて、パリスは訊ねた。
「あなた」
あたたかな光が螺旋階段に漏れてくるのと同時に、鈴を鳴らすような愛らしい声が聞こえてくる。
そしてすぐに、こちらの気配を感じ取ったのか、恥じらいを含んだ可憐な言葉が続いた。
「もしかして、海賊さんもご一緒なのね。でしたら、せめてガウンを羽織る時間を下さいませ」
その間、ほんの数十秒。
しかしそれが、二人には無限の拷問のように思えたかもしれない。
「いいわ、お入りになって」
許しを得て二人が室内に足を踏み入れると、枕の積み重ねられた寝台の上に、美しい金髪を波打たせたジュリエットが、真珠色の絹のガウンに袖を通し、微笑みながら座っていた。
ガウンの合わせ目から覗く閨着のレースが、ぞっとするほど艶かしい。彼女の金色の目が無垢であればあるほど、その白い首筋や胸元、そしてわずかに覗く足先は、邪な欲望で愚かな男どもの心をかき乱すには十分に見えた。
だが、そこに手を伸ばす勇気のある者などいないだろう。少なくとも、この地上には。
「お夕食はもう召し上がりましたの?」
ジュリエットは無邪気な天使の笑顔のまま訊ねる。
「あまり食欲がなくてね。ビルは昼を遅くに食べたそうだから、気にしないで」
「はい」
パリスが答えても、彼女は何の疑念も抱いていない様子で素直に頷いた。
「君はちゃんと食べたかい、ジュリエット」
「はい。お薬もちゃんと頂きました」
そう言いながらこちらを見上げる彼女は、まるで当たり前のことを褒めてもらいたがる子供のようにすら見えた。
「それなら良かった」
パリスが頷き返すと、彼女は黄金色の瞳を輝かせて言った。
「あなた、外はまだ冷えますでしょう? お酒を召し上がります? 先日頂いたシェリーが、まだ少し残っていますけれど……お体が温まれば、少しはお食事も進むかもしれませんわ」
その視線の先には、彼女のサイドテーブルがある。
シャンデリアの光をきらきらと跳ね返すクリスタルガラスのデキャンタには、ジルベルトが売った最高級のシェリー、開きかけの薔薇のような美しいピンク色のヘレス・デ・ラ・フロンテーラが、瓶底に四分の一ほど残っていた。
「君が注いでくれるなら飲むよ、喜んで」
パリスがにっこりと笑うと、彼女も愛らしく微笑み返し、クリスタルのグラスに酒を注いだ。
そして彼は、そのグラスを受け取った。そのとき、両手で優しく妻の手を包んで。
「たとえそれが毒でも、僕は喜んで飲む」
そのままパリスはグラスの酒を一気に煽った。
彼女の手ずから、口に毒を注がれるのを自ら望んだのか。
「パリス様」
思いがけない行為だったのだろう、ジュリエットは彼が両手を放すまで、そのまま小さなグラスを握りしめていた。
予想外のことをされると、人間という者は自分も予想外の行動を取ってしまうのだろうか。彼女は震える手で、しかしグラスを取り落としたりすることはせず、そっとテーブルの上に戻した。
その間ずっと、一度も夫の目から金色のまなざしを背けることはなかった。いや、目を反らすことなどできなかったのだろう。
「愛しているよ、僕は永遠に君のものだ」
ただ彼女の瞳を見つめながら、彼は本当に優しい、清らかな、子供の頃のように無邪気な笑みを浮かべて、最愛の妻へ告げた。
「あなたはわたしの夫じゃない」
ジュリエットは胸の奥から絞り出すような声で、それでも堂々と……姫君らしく、毅然と言い放つ。
「あなたのことなんか、わたしは一度も愛したことはないわ」
絶対的な拒絶。そのはずだった。
だが。
「それでもいい」
パリスは迷いの欠片もない目で、まっすぐに愛する女の目を見つめて繰り返した。
「それでもいいんだ」
優しく、子供に言い聞かせるように。
彼女が目覚めてからずっと、そうしてきたのと同じに。
「君は、僕のことなんて忘れておくれ。その代わりに、僕が永遠に覚えている。地獄に堕ちても、地獄の業火に焼かれても、僕は永遠に君を愛する。それだけで、僕には十分だよ」
「パリス様……」
こんなにも。人は人を愛することが出来るのか。
こんなにも愛していたからこそ、彼はこんな結婚を自ら選んだ。意識が戻るかどうかも分からない、既に他の男の手で穢された娘を、最高の花嫁として、最愛の妻として、彼に出来るかぎりのことをした。
最後にはついに、悪魔に魂まで売ったのだ。
それが伝わったからこそ、彼女は彼の名を呼んだのかもしれない。
「疲れたよ。横になってもいいかな」
パリスはジュリエットが腰掛けていた彼女の寝台に乗り、はじめは枕の山に背中を軽くもたせかけるだけだったが、やがてそのまま、体中の骨が機能を失ったごとくに、ぐったりと身を横たえた。
「どうしたんだい、君が泣くことなんて何もないじゃないか」
それでも彼は、愛する妻に笑いかけた。
「泣かないで、僕のお姫様。さあ、笑っている顔を見せておくれ」
もはや、彼は手を持ち上げることすら出来ない。それでも必死に指を伸ばして、妻の頬を伝う涙を拭おうという仕草を見せた。もちろん、それは届くことはなく、何もない虚空を、弱々しく震える指先が彷徨い……シーツの上に、その手が落ちただけだったが。
「君を永遠に愛する。僕は君のものだ」
最期に、最期の力を振り絞って。
気高い態度で、彼は言った。
彼が暗闇の中でもがき苦しんでいる時に、たったひとつの光だったのは彼女だった。
「わたしは永遠に愛さない」
彼女がそう言い放っても、その事実だけは永遠に変わらないだろう。
「決して愛さない。わたしからあの人を奪ったあなたのことを」
ただ、彼が彼女の光にはなれなかっただけ。
それは悲しいことでも、笑い事でもない。ただの事実だ。
だから、どんなに憎しみと恨みと、軽蔑すらこもった目で彼を見たとしても。
「決して許さないわ、永遠に」
彼女の金色の瞳から、涙が絶えることはなかった。
ジュリエットはずっと泣いていた。
どんなに彼が自分を愛していたかを、それがどんなに深い愛だったかを、彼女はとうに知っている。
そして、自分も彼を愛しかけていたことにも、きっと気づいていたはずだ。
だから、もうその愛らしい唇から、彼への罵倒を聞きたくはなかった。
「そんな恨み言、もう聞こえちゃいないぜ。もう死んだ」
ウィレムは沈んだ声で告げた。
死の天使の役回りを自分が演じる羽目になるとは、毒ごと皿まで食った身の上でも、やはり、少し辛かった。
「親友の敵討ちをなさるおつもりなら、どうぞお好きに、海賊さん」
まるで何事もなかったかのように、いや、全ての感情が彼とともに死んだように、ジュリエットの声には何の抑揚もなかった。
彼女は横たわったままの夫の体温が徐々に失われていくのを惜しむように、優しくその髪や頬を撫でている。
ジュリエットは、こちらを一瞥もしなかった。
それが少しだけ寂しいような気もしたが、仕方のないことだ。俺は、彼女に情けをかけてもらえるような人間じゃない。人間なんてとっくにやめてしまった。
「貴方様を殺したら、俺も俺の一族も道連れだ。だから黙って見てたんだよ、ダチが嫁さんに殺されるのをさ」
だから、人でなしらしい、人非人らしい言葉をわざわざ選んで、彼女へと突きつけた。
「愛する人に殺されるのを、見ててやった。まあいいだろ、人の生き死になんぞにゃあ慣れてる」
それがウィレムに出来る、最後の友情の証だ。
実際、何人もこの手で殺してきたし、殺されかかったことも何度もあるのだ。今もまだ生きていることが不思議なくらいだった。だったらいっそのこと、こんな命はいらぬ。
この命一つで、本当に守りたいものを守ろう。
覚悟は決まっていた。
「ああ、それから俺は、姫様に一つ返さなきゃならんものがあるんだ」
そう切り出して、ウィレムはティーテーブルの……たった今パリスが口をつけた杯が置かれたままになっている天板の上に、自分の首から金鎖を引きちぎって投げつけた。
グラスの脚に当たってキンと軽い音を奏で、そこに転がったのは、いつも彼が首から下げていた小さな金の十字架だった。
「これ、は……」
その意味が分からずにかけるべき言葉が見つからなかったのか、それとも本当に声を失ったのかは分からない。だが、ジュリエットはそれきり、両手で口元を覆った。
「いい細工の十字架だろ? 俺があの小僧から剥ぎ取ったものだ。刑死者の持ち物は船乗りのお守りだって話は、前にしてさしあげましたよね」
その言葉の意味に思い当たったのだろう。ジュリエットがかすかに息を飲むのが聞こえたような気がする。
「そう、ご想像の通り。あんたが愛した男、モンタギュー家のロミオを殺したのはこの俺だ。これは、その時の戦利品さ」
そのときウィレムは、自分がどんな表情を浮かべていたのか分からない。皮肉っぽいのか、嘲笑めいているのか、勝ち誇ったようなのか、それとも惨めな敗残者の面か。
「この人の命令で?」
「まさか。こいつはそんなことする奴じゃない。パリスにゃあできねえよ。そんなことくらい、あんたも知ってるだろ」
そう言いながらふと彼を見ると、本当に幸福そうな顔で目を閉じていた。
とうに血の気の失せた顔だというのに、彼は微笑んでいる。
こんなに優しい男が、いくら恋敵だからといって、いや、むしろジュリエットが愛した相手だからこそ……まだ十六の子供を殺せと、命じるはずなどなかった。
だから、何もかもが上手くいけば、ロミオとジュリエットは、二人が望んだ結末を迎えられたはずなのだ。
「ロレンス神父は、あんたが飲むはずの薬はちゃんと後で目が覚めるって、ロミオに伝え損ねてなんかいない。あいつはそんなに馬鹿じゃない、できる奴だったさ」
そうとも。
ロレンスは優秀だった。彼は、そんな重大な失態を犯すような間抜けではない。
「だから。ロミオはあんたが死んだと思って絶望して自殺したんじゃない。生きてるあんたの目の前で、俺がこの手で殺した。真っ正面から撃ってやった。気が晴れたぜ」
ロレンス神父は、自らの失態がこの悲劇を招いたことにして、せめて彼女が生きる希望を持てるようにとこの手紙を書いたのだろう。だが、そんなものは逆効果だ。
「どうして……どうしてそんなことを?」
ジュリエットが動揺しているのは当然だ。深窓の姫君には血なまぐさすぎる話だ、ましてやそれが自分のために行われたとなれば。
それでも、ウィレムはその話を打ち止めにするつもりはなかった。
「目障りな餓鬼だったからだよ。糞餓鬼が粋がって、俺たちの大事な姫様に手え出しやがった。俺たちの宝物を横からかっさらって行きやがった。許せるわきゃあねえだろう、そんなもん。だから殺した」
吐き捨てるような口調になったのは本心からだった。
モンタギュー家のロミオ。あの忌々しい糞餓鬼。
糞生意気で、美少年で、野心に溢れていて、それでいて純粋で。ただひたすらに恋に身を焦がした、あの大馬鹿野郎。
奴のしたことは許せない、今でも。だが、その気持ちは分かる。
彼女が欲しかった。
誰もが望んだことを、容易く手に入れた男には、それにふさわしく、容易く消えてもらった。それだけのことだ。
「殺しても殺したりねえ奴だ。本当にすっきりしたよ、あいつをこの手で撃ち殺したときは」
そのときの火薬の臭い、銃口から流れる白煙、血を吐いて吹っ飛んだ若造の体。
「何もかもが最高だったよ」
そう言い捨てててから、彼はふと、姫君の愛用の鏡台へと目を落とし、並べられた香水瓶の下に隠された秘密の品物を見つける。
いや、それも巧妙とは言えない隠し方で、ただ封筒の上に瓶がびっしり置かれているだけだったが、それらの瓶の下から、ウィレムは丁重に一通の封筒を取り出した。貴重で繊細の香水便の一つにも傷を付けないよう、細心の注意を払って。
その薄汚い封筒は、この絢爛を極めた空間にはあまりにも不釣り合いだったから、すぐにそれと分かった。
「ああ、この手紙が、ちゃんとあなたに届いてよかった」
その封筒を静かに取り上げながら、ウィレムは口元だけでにやりと笑った。
「ロレンス神父様という方も、まさか……?」
「ああ、俺が殺した」
自らが発した問いの答えに、ジュリエットは両手で口元を覆った。
だが、どこかでその予感はあったのだろう。さほど取り乱した様子はなかった。
あの手紙の文面を読んでいたなら、ロレンスがどれほどの絶望と後悔、そして死の覚悟をもってその文章をしたためたのかくらい、彼女にも容易く想像できただろう。
「デンマーク沖に沈めてやったよ。今頃じゃあ、牡蠣を相手に賛美歌を教えていなさるはずさ」
ウィレムは封の切られた手紙を、取り出して読んだりはしなかった。
そもそも貴婦人宛に書かれた手紙を許しもなく読むのは無礼だったし、それに、彼女が読んだよりももう数百回も、彼はその文字と戦い続けたのだから。
彼はその封筒をジュリエットの方に投げた。博打場でカードを投げるときとそっくり同じ手さばきで。
その手紙が彼女の膝掛けの上に落ちたとき、ようやくウィレムは、今度こそうまく笑えているはずだと思った。
「いい文面だな」
「ええ。今朝……夜明けとともに、その手紙がわたくしのところへようやく届きました」
そう。彼女はそれを、長い長い旅だったのだと信じている。
ダンケルクの漁師から漁師へと。それからカペーへ、南フランスへ、イタリアへ。信心深い漁師の手から手へと受け継がれて、数ヶ月の道のりの果てにここまで辿り着いたのだと。
「全てが書いてありました。モンタギュー家とキャピュレット家のこと、ロミオとわたくしのこと。ロミオとわたくしが、ロレンス神父様の立ち会いで正式に結婚したことも。わたしが眠りについたのを、死んだのと思い違えて……ロミオが絶望して死を選んだとも書いてありました」
「本当にいい脚本だよ。頭のいい男だ、ロレンスは。ロミオをいい男に書いてやってる。だが、それは嘘だぜ。殺したのは俺だ」
内容は知っていた。何度も読んだ。全部そらで言えるくらいに。
「あんたの目の前で、あの小僧っ子の腹を吹き飛ばした。あんたは泣きながら、死んだあいつのはらわたをかき集めて元に戻そうとしてた。あいつの血にまみれて、あいつの名前を叫びながら。それから俺は、あんたに毒を渡した。これでこいつと一緒に死ねるからって」
それがただの眠りのための毒と同じものだとは知らずに、本当に死を求めて彼女はそれを飲み干した。目的は同じだった。ただ、ロミオと一緒にいたかったのだろう。
それを叶えてやらなかったのは俺であり、ロレンス神父でもあり、そういう意味では、むしろ俺たちの方が共犯者だった。
「どうだ、思い出したか」
「いいえ。何があったのかは分かっても、何も思い出せません」
彼女は悲しんでいるというより、寂しげにそう呟いた。
「一度死ぬ前のわたしは、ロミオという方のことを、本当に愛していたのでしょう。でも、わたしは、その方の顔も、声も、面影すらも思い出せない」
いや、寂しさではなく、それは罪の意識だ。
人は二度死ぬと、昔から言う。一度は命が絶えたとき、二度目は、愛する者から忘れられたとき。
だとしたら。
「何もかもあなたがたが塗り替えてしまった。パリス様の顔に」
あのバルコニーでの出来事も。薔薇色の夢のような一夜も。結婚の誓いも。
舞踏会で初めて目が合った時の、あの衝撃ですら。
それはすべて、パリスとの思い出だ。
「だから……ロミオ様のためにではなく、わたくしのために。わたしはパリス様を殺すしかなかったの」
意図しなかったこととはいえ、いや、意図していないからこそ、彼女もまた彼を殺した一味だ。
知らぬうちに加担させられていた罪科、自ら知らずに犯した罪の重さを……自分が選んで、愛しかけていた男を処刑することによって実感しようとしたのかもしれない。
いや、それは、少しばかり感傷的すぎる考えだな、と、ウィレムは苦笑した。
姫様は、パリスを永遠に愛さないと言ったではないか。
だが、それでも。
「俺はずっと、あんたとパリスが一緒にいるところを見ていたかったんだよ。子供の頃そうだったようにな。あんたがあの男のことを忘れちまった以上、あんたが少しでも愛した男は、パリスしかいない」
そう思ったら、自然と笑えた。
子供の頃……何も知らない頃は、幸せだった。
懐かしいのではない。切ないのでもない。ただ、失ったものが大きすぎる。俺も、彼女も、彼も。
「ああ、ついでに言っとくが、パリスはあんたがロミオを愛していたことも、俺が奴を殺したことも、何もかも全て知った上で、あなたを妻にしたんだ。あいつは言ってた。欲しいのは、あなたからの真実の言葉だけだと」
「やめて、聞きたくもないわ」
「俺は満足だ。あなたはパリスの手元に戻り、俺はあんたたち二人が一緒にいるのを、今こうして見てる」
彼女の拒絶を無視して、ウィレムは満足げに笑った。
「最期に見るには、いい様だ」
まるで疲れ果てて眠っているだけのようなパリスと、同じベッドに座ったジュリエット。彼女の細くて白い指が、彼の豪奢な金髪に埋まっている。
まったく、神様って奴は。
こんなにも美しい生き物を、同時に同じ場所に、なぜ何人も生み出した。誰か一人だけなら、こんな結末にはならなかっただろうに。
「海賊さん」
ジュリエットが何か言いかけたのを、ウィレムは遮って続けた。
「俺のことも、ここで殺すつもりだろ? 礼を言うよ。姫君に殺されるなら、俺の家族には迷惑はかからん。だが、毒薬ってえのはどうもよくねえや、船乗りらしくない。そうだろ」
と、彼は椅子の傍らに置いていたトランクから、おもむろに一挺の銃を取り出す。
「どうかひとつ、こいつで頼むよ」
それは比較的小さな、我がイタリアのピストイア地方が誇る小型のマスケット銃だ。後に拳銃を意味するようになるピストルの語源となった、由緒正しき銃だ。これならば小さな鞄や服の下にも隠し持てるし、女の手でも扱える。
「これだ。これがロミオを殺した銃だ。これで撃てや」
ウィレムは自分の胸の中央、ちょうど胸筋の間からその下あたりを示して、妙に軍事めいた、鋭い口調で言った。
「いいか、このへんだ……俺の胸から腹のあたりを狙え。弾は一発しか篭めてねえからな。よっぽどの手練じゃなけりゃあ、小説や演劇みたいに一発で頭なんぞ吹っ飛ばせねえよ。胴体なら的がでかいし、はらわたが傷つくから確実に死ぬ。俺がロミオのどてっ腹を狙ったのもそのためだ」
彼は言いおいてから、その銃を彼女の手元目がけてぽんと投げた。
すぐ指を伸ばせば触れられる位置に、狙い澄まして。
だが、その黒光りする鉄の塊をじっと見つめてから、彼女はほとんど気遣わしげにすら聞こえる声で訊ねた。
「でも、それでは、お苦しいのではありませんの?」
「やっぱり優しいなあ、俺たちの姫様は」
本当に泣きたいくらいだった。
本当に、なんて罪深いことをしているのだろう、俺は、俺たちは。
こんなにも優しい、何の罪も知らぬ天使を、地獄の道連れにしようとしている。
「だがよ、姫様。あんたの海賊から、今生一度のお願いだ。俺のことも、ちょっとくらい苦しませてくれ。俺はロミオやロレンス神父を苦しめた……他のたくさんの人のことも苦しめた。誰より、あんたは苦しんだ。パリスも苦しんだ」
それでも彼は、不思議と笑えた。
「俺は友達を見殺しにしたんじゃない。友達を……あんたを心から愛している男を、悪い奴に変えちまったんだ。そんな俺が楽に死んだら、パリスに悪いだろ」
こんなにも悔恨に満ちているのに、それでも笑っていられる自分のことを、ウィレムははじめ本気で憎み、やがてそんなことすらも忘れた。
「俺さえいなけりゃあ、あんたはロミオと一緒にどこか遠くで、誰も知らないところで、たとえそれが天国だろうと、幸せに暮らせたかもしれねえ。パリスはあんたを失った悲しみで気が狂うほど泣いて泣いて、それからきっと、いい大公になっただろう。人の痛みや悲しみの分かる王様に。教皇派だの皇帝派だの下らない話はご破算にして、あんたがた二人がこの空の下のどこかで幸せにやってるのを祈れるような、いい奴になれたと思うんだ」
涙など流れなかった。
「あいつがなりたかった、本当にいい奴に、あいつはなれたのに。必ずなれたはずなのに。俺が台無しにしちまった」
ただ上手に笑えていることだけを祈っていた。
「あんたにとっても、俺は愛する男を……あの糞餓鬼を殺した仇だ。殺しても殺し足りないだろ」
奴の名前なんぞ、この期に及んで口にしたくもなかった。
「俺が苦しみ抜いて死ぬのを見ながら、祝杯をあげてくれ」
その言葉の意味を悟ったのだろう。
ジュリエットは美しいレースの膝掛けの上に投げ出された、彼女にはあまりにも不釣り合いな……小さな手には余る大きさの銃を手に取ると、まっすぐに構えた。
「分かりました、そうします」
驚くべきことに、その手はほとんど震えてはいなかった。
「素敵なお話をたくさん聞かせてくれてありがとうございました。わたくし、あなたのお話を聞くのが大好きでしたわ」
彼女は最後に、かすかに笑ってくれさえした。
「それじゃあ、さようなら、海賊さん」
「さようなら、俺たちのお姫様」
別れの挨拶が終わるとほぼ同時に、まったく迷うことなく、彼女は引き金を引いた。
耳を突き抜く轟音と、白い煙、立ちこめる硝煙の香り。
どれもウィレムは大好きだった。
だが同時に、激しい衝撃が体の芯を貫き、彼はくわえていた葉巻を落とした。
自分の口から大量の血反吐と泡、言葉にならない呻き声が出るのが、不思議なことに、ごく当たり前の結果なのだと分かった。
「げええっ……」
肉片の混ざった血を吐きながら、彼はその場に腹を押さえてうずくまる。
己の体を抱きしめた両腕の間からも、ぼたぼたと音を立てて、なまぬるい血が溢れ出した。
「パリス様。海賊さん。ありがとうございました。本当に」
自分のために無様に死んでいく男を眺め下ろしながら、彼女は涙を流し、それでもかすかに笑っていた。
彼女はかりそめの夫、いや、彼女を心から愛した男の傍らに軽く腰掛けると、彼の見事な金髪を優しく撫でた。
本当に、何もかもが黄金で出来ているような有様だった。
血だらけで冷たい床に倒れた自分だけが、そこには入っていない、存在していないも同様だということをつくづく感じて、ウィレムは本気で笑い出しそうになるのを必死に堪えていた。
「おやすみなさい、あなた」
彼女が最期にそう笑いかけてやったのがパリスで良かった。
永遠に許されなくても、こいつも俺も満足だよ。
パリスが使ったグラスに、彼女が同じ酒を入れるのを、じっと見ながら。
彼女がそれを煽って、床に崩れ落ちるのを見ながら。
綺麗な人は死に様も綺麗なもんだな、と、皮肉っぽく笑い、大好きなものだけに囲まれて、ウィレムは気分よく死んだ。
最期まで目を見開いたまま。
そして静寂が訪れた。
床に落ちた葉巻が燃え尽きたとき、この小さな美しい部屋、この世でもっとも豪華な牢獄は、二人の貴族と一人の船乗りが横たわるだけの、大きな棺へと変わった。
はじめにシャンデリアを彩る蝋燭が消え、やがて暖炉の薪が水でも打たれたかのように燃え尽きた。
明かりの一切が消え、世界を闇が支配する。
「光あれ」と、神がはじめに口にしたよりも前の、暗闇だけがぽっかりと存在するその場所で、彼らは眠りについた。
さあ、時が来た。
我らの時が。
悪魔たちよ、歌い踊れ。
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