第23話 子羊たちの踊り

 やはり彼は、案内も挨拶も無しに部屋に入ってきた。いつも通りに。

 硬い樫で張られた床を踏むブーツの音で、ウィレムには来客が誰なのか分かる。

 このロザルド水運本館の広い屋敷も、彼の邸宅に比べたら子供のおもちゃ程度しかない。

「ビル、どうかしたの」

 書斎の扉を開けるなり、挨拶も無しに、パリスが不審げに訊ねてきた。

 もともと細面で端正な顔が、今日は少し神経質に……いや、疲れて見えるのは、こちらの気のせいだろうか。

 ただ、見事な金髪と青い目は、昨日までと少しも変わらず美しい。

「君からお呼出なんて珍しいね、何かあったの?」

 執事が無言で外套を脱がせて受け取り、そのまま引いた椅子に当たり前のように腰掛け、軽く足を組む姿は、実に貴族的で洗練されていて、相変わらず一枚の絵のようだ。

 机を挟んで差し向かいに座ったパリスの姿を眺めながら、ウィレムは彼と真逆のならずものらしく、いかにも無作法にも机に両肘を突き、その上にあごを乗せたまま葉巻を吸っていた。

 これを他の人間がやったら、既に首と胴体がおさらばしているだろうが。ウィレムとパリスの間に、もうそんな礼儀はあってないようなものだ。

 ウィレムは葉巻の煙と一緒に、ぶっきらぼうに報告した。

「実は、婚約した」

「へえ。あのパラス・アテネと?」

「ご名答。驚かないのか」

「なんとなく、そんな気はしてたから」

 パリスは軽く肩をすくめて笑った。本当に予感があったのだろう、毛筋一本動かさなかった。

「お似合いだよ。羨ましいね、おめでとう」

「そいつはどうも」

 皮肉に聞こえなくもなかった。ウィレムは苦笑いで応える。

「確かに俺には似合いのアバズレだよ。あれはアテナイの女神なんていいもんじゃねえ、サイレンの魔女だ」

「サイレンの魔女って、船を沈めるっていう、あれ?」

「ああ」

 彼が頷くと、パリスは薄い唇で、今度こそ皮肉を込めた調子で笑って見せた。

「君はいつも海で死にたいって言ってた。だったらなおさら、君にふさわしい花嫁じゃないか」

 言い伝えによると、サイレンの魔女は、すなわちセイレーンは、その美しい歌声と姿形で船乗りを誘惑して魅了し、岩礁へと導いて難破へと誘う。そんな伝説が当たり前のように信じられていた時代だった。そうして死んだ男の魂を集めては、首飾りにして我が身を飾ると言われている。

「そう言われてみりゃあそうか。お前やっぱり頭いいな」

 そんな風に言われるとは思っていなかった。確かに、船乗りには似合いの女かもしれないと納得すらしたものだ。ウィレムの感心した顔はまったく演技ではなく、言葉もお追従でもなかったのだが、パリスはいつも通りに軽く鼻で笑うだけだ。

「ふふん」

 パリスの表情はやはりどこか憂いを含んでいたが、それでもウィレムが予想していたよりはずっとましだった。打ち拉がれた顔でもしているかと思いきや、いささか拍子抜けしたくらいだ。

 むしろいつもの冷淡なところが際立って見える。

 冷静さを取り繕っているだけかもしれないが、さすがに大公継息の暮らしのおかげか、それとも生来の誇り高さのためにか、幸福な夫を演じ続ける気力と技術はまだ失ってはいないようだ。

 だったら、その化けの皮をちょっと脱いでもらわねばなるまい。

「で、その魔女のアバズレが、持参金代わりに、こんなものを俺にくれた」

 と、ウィレムが机の上に、一通の封筒を放り出す。

 既に封印は解かれていたが、それが誰の目にも触れていないかのように細工することなど、次兄か執事の手にかかれば容易い。手紙の一通や二通、捏造することだってジルベルトなら平気でやる。

 だが、それが贋物ではないことくらい、パリスにも一瞬で伝わったらしい。

「こ、れ……」

 中から出てきたのは、手紙というにはあまりにも慌てて書かれた、ほとんど走り書きのような文字の羅列だったが、それが何を意味しているのかを理解した彼は、声を失った。

「ロレンスは、ただ牡蠣に賛美歌を教えるだけの馬鹿じゃなかったってだけの話だ。今さら狼狽えるな」

 封筒は粗末なもので、封印もそのあたりにあった蝋燭を垂らしただけ、手紙そのものも聖書の中表紙を引きちぎった紙切れで、何もかもがありあわせだった。おそらく彼自身の血で書かれた文字は、既に所々が黒く変わっている。

 ロレンス神父。

 ウィレムがこの手でデンマーク沖の冷たい海に突き落とした男からの、届くはずのない手紙だった。

「幸い、これがジュリエット姫のお手元に届く前に、フィーが……俺のアバズレが横取りした。で、これが今ここにある」

 フィオナは実際、優秀な悪党だった。

 ロレンスは自分がもうすぐ死ぬ運命にあるのを知っていた。そのための航海だということも。

 だからあの神父は、押込められた狭い船倉の、波音が鳴り響く地獄のような暗闇の中で、これを書いたのだろう。

 字がやけにがさがさしているのは、わざと伸ばした爪を割って、それをペン先代わりにしたためだろう。爪の間から滴る血で書くしか、彼には方法が無かった。

 どれほどの苦痛を伴う執筆だったことか。だが、それは彼にとっては必要なこと、ロレンス神父にできる唯一の贖罪だったのかもしれない。

 彼はその手紙を、『銀の狼』号が真水の調達のためにダンケルクに停泊したとき、隙を見て地元の漁師に託したのだそうな。

「キャピュレットの姫君に必ずお届けしてくれ」と。

 信心深い漁師が、仮にも神父からの頼みを断るはずがなかった。そうして、漁師から漁師の手へと渡ったこの手紙は、ロレンスが無惨に海の底へと消えた後に、何ヶ月もかけてついにイタリアにまで辿り着いた。

 だが、最後に手紙を託されたイタリア人の漁師は、キャピュレット家の姫君の顔を知らなかった。それは当然だ、深窓の姫君の顔など、老いぼれた漁師がそうそう拝めるものではない。キャピュレット様のお屋敷で迎えてくれた美しい貴婦人が手紙の宛名の人物だと名乗ったら、容易く信じた。

 そこでフィオナが、旧キャピュレット邸で待ち構えて、ジュリエットになりすましたという話だ。あのアバズレがいかにも姫君らしい服装をしたというのだから想像したくもないが。

 フィオナがどうやってその手紙の存在を知ったのかは、ウィレムにもなんとなく想像はついている。エルベ、あの河口の街。彼らが出会った場所は、ダンケルクのすぐ近くだ。

 ウィレムは思わず舌打ちした。すっかり油断していた……ロレンスはとっくに海に沈む覚悟を決めて、実に大人しく振る舞っていたからだ。断食の行も途中でやめ、時には長い船旅で疲れた水夫たちの懺悔を聞いてやることまでしていた。

「殺してから北まで運ぶべきだった。驚かせてすまん。俺の失策だ」

 しかしパリスは、少しも表情を変えることなく……というより、いつもの彼の涼しげな笑顔に戻って、こともなげに言い放った。

「大丈夫だよ。狼狽えたわけじゃない。ただ少し、驚いただけさ。正直、腰を抜かしかけた」

 おかげでウィレムも、いつもの道化じみた台詞を取り戻すことができた。

 頃合を計っていたのだろう、絶妙のタイミングで、執事がワインを持ってきた。足のあるワイングラスではなく、取っ手のあるカップに注がれたホットワインだ。デキャンタには、オレンジと葡萄がさりげなく沈められている。

「この手紙のことは、誰が知ってるの?」

 温かい飲み物を口にしてから、パリスはようやく口を開いた。それが、まるで天気の話題でもするような軽やかさで、正直ウィレムの方が面食らったほどだ。

「フィー……フィーはフィオナ姫、アバズレのパラス・アテナの愛称だ。とにかく、フィーと俺、それにうちの二人の兄貴と執事、それからフランチェスコ」

「結構な人が知ってるんだね、僕より先に」

「そこは済まなかったと思っている。だが、へそを曲げんでくれ。必要な会議だったんだ」

 いささか不満げなパリスだったが、動揺した様子はなかった。こちらの主張が正しいと、論理的に理解している表情だった。いや、もしかしたら彼は、自分のためにそれだけの人間がてんやわんやの騒ぎだったことを想像して、内心では嘲笑していたのかもしれない。

 そうだ、いいぞ、相棒。

 お前がそのくらい落ち着き払っていてくれるなら、話がしやすい。

 そう判断すると、ウィレムはすぐさま、政治的には最も重要な一言を付け加えた。

「もちろん、教皇猊下も、パルマ公も、お前の義父上様も与り知らぬことだ。そこは安心してくれ」

「そんな心配、最初からしてないよ」

 彼の答えは鷹揚としたものだった。

 実に、パリスが今すぐ大公になっても違和感がないくらいの威厳が、たった一晩の間に備わっているのをウィレムは感じた。

 そして同時に、その威厳……いや、傲慢や冷淡などという次元を越えた崇高さを齎したのが何だったのかを、誰よりも良く知っていた。

「報告が遅れたのは本当に済まない。だが、俺は……お前たち夫婦の二人きりの時間を、邪魔したくなかった」

「ひっどい言い草だね。僕の心の中なんてお見通しのくせに、この悪党」

「お見通しだからこそ、二人にしてやりたかった」

 実際、パリスの言う通りだ。ウィレムには、大体の察しはついていた。

 初めて愛する人の肌に触れた時に、彼が感じたのは。

 心から捧げ続けた愛が報われた喜びや、互いの体温を感じながら寄り添っていられる幸福でも、ましてやどうしようもなく激しい欲望ですらなくて。

 彼女が幸福そうであればあるほど、彼は絶望へと追いつめられたことだろう。嫉妬、後悔、それでもどうしようもない愛情に、気が狂いそうな思いをしたことだろう。

 その、地獄のような狂乱の中で。

 とうとう彼は、自らその地獄へと身を投じた。ぎりぎりで踏みとどまっていたものが、ついに一線を越えた。

 越えてしまった。

「辛かったか」

「辛かったよ。嫉妬と絶望で、ジュリエットを殺して僕も死のうとさえ思った。でも、思い直したよ」

 それが彼を、こんなにも変えた。ただの貴公子から、絶望の使途に。

「そんなこと、できるわけがないじゃないか。僕が死ぬのはどうでもいいけど、ジュリエットをこの手にかけるなんて、僕にはできない」

「ああ。分かってるよ」

 もし誰にも知られぬうちにこの紙片を火にくべていたら、彼はこんなに地獄へと突き進まずに済んだだろう。だが、そのかわり、一生嘘を吐き通し、それに満足したふりをしながら、真夜中に我が身をかきむしって、安らかな死よりも数千倍も、数万倍も辛い生き様を貫き通さねばならなかっただろう。

 どっちがましかと訊かれたら、どっちも最悪だとしか答えられないが。

 それでも、パリスに選ばせてやりたかった。

 そして、彼は決めたのだ。とうに、そうすることが決まっていたかのように、パリスは言い放った。

「だからね。毒食らわば皿まで。そう決めた」

「本当にいいのか」

 ウィレムの問いにも、彼はいささかの迷いも見せなかった。

「この苦しみにも一生耐えよう、それが僕にはふさわしい罰だと思っていたよ、ついさっきまではね」

 彼ならきっと、それに耐えた。ただ、愛する人のために。

 だが、それじゃああんまりだ。ひどすぎるぜ、神様。

 ウィレムがそう思ったとき、まるでその思いを全て知っているかのように、パリスが声を上げて笑った。

「でも、こんな手紙があったなんてね。あはは……神様ってひどいなあ。意地悪だと思わない?」

 彼はまだ神を信じている。だが、同時に。

「そんな不義理な奴とは、さっさと手を切るよ」

 パリス・エスカラス、ヴェローナ大公継息殿下は、神の敵となるのを宣言した。堂々と。

「僕は地獄に堕ちる。悪魔の方がよっぽどましだ」

「ちがいねえや」

 ウィレムも心から同意した。

 俺はまだ、神様って奴に会ったことがない。マリア様ってのにも、会ったことがない。

 だったら、こうして長いこと一緒にいた顔なじみの、気心の知れた男と心中する方がいい、その方がよっぽど気が楽だ。

 悪魔にも会ったことがなかったが、そっちの方は慣れている。悪魔とまともに渡り合えそうな上の兄貴と、悪魔を手玉に取りそうな次兄と、悪魔を悪魔だとすら思っていないような執事がいるのだ。何の心配もなかった。

「なら、いいやな」

 ウィレムは新しい葉巻に火をつけながら、かすかに笑った。

「あの錬金術師、フランチェスコには、教会を辞めさせた。次兄の申し出でうちの侍医として引き取ることにしたよ。新しい寺男は手配済みだし、地下の研究室も溶けた鉛を流し込んで潰した。いつ崩れるか分からない洞窟は危ないって御託を並べてな。フランチェスコはぐずったが、もっといいのをこしらえてやると言ったら飛びついてきた。ああいう奴は、手元にいる方が何かと便利に使える」

「これから、必要になるってことだね。さすがはジル兄さんだ」

「その通り。さすが察しがいいぜ、相棒」

 現状の淡々とした報告のつもりだったが、パリスもそれが癖になっているのか、主犯格を賞賛するのを忘れはしない。宮廷でのやり取りというのは、ウィレムが想像しているよりもずっと高等な駆け引きの連続なのだろう。

 いささか感心してから、ついでのように話を続ける。

「あの糞神父には、俺の次の航海に付き合ってもらう。カイルとジルはあいつにもう少し役に立ってもらうつもりでいたが、俺はあいつが嫌いだ」

「賛成。今度こそちゃんと沈めてね」

「大丈夫だ。次は死んでから船に乗せる」

 人の命がかかっている、いや、確実に失われる話だというのに、彼らは二人ともひどく楽しげだ。

「エジプトから木香を仕入れた。はらわたを抜いてそれを詰めれば、一月は腐らず、臭いも出ない。俺が次に出向くのは南方航路だ、喜望峰の沖にでも沈めてやるぜ」

「それなら心配ないね。木乃伊のやり方だ」

「そうとも。伝統は守らなきゃな」

 軽快めかして笑ってから、ウィレムは口元だけに昏い苦笑いを浮かべた。

「それに、フィーからは……俺は婚約者の姫君から、パルマを舐めるなって喧嘩を売られたぞ。うちとフランチェスコの間の物資のやり取りを克明に調査した書類一式、目の前に突きつけてきやがった」

 あの時のことを思い出すと、今でもかすかに背筋が凍るのを感じる。これで何もかもがお終いだと覚悟した、あの決定的な証拠を前にして、ウィレムには何の申し開きようもなかった。今でもこうして生きているのがなぜなのか、自分でもいまだによく分からない。

 だが、そんなこちらの考えなど知らないパリスは、ただ少しだけ眉を動かして、低い声で訊ねた。

「その書類とやらはどうしたの?」

「そこで灰になってる」

 ウィレムはあごだけで、明々と燃え盛る暖炉を示した。そこにはもはや、紙の形をしたものは、一片たりとも残ってはいない。フィーが暖炉に放り込んだのを、執事が念入りに細かな灰にやるまで焼いた。

「なるほどね」

 ようやく納得したようにパリスは頷き、もう一度椅子に深く腰掛け直した。

 殺風景なデスクから、そこには似合わないホットワインのカップを手にして、中身を一気に飲み干す。

 そして、例の……いささか冷淡に見える、だが掛け値なしに美しい微笑を刻んで訊ねた。

「それで、どうしようか。その手紙」

 ウィレムは少し考えてから、正直に話した。

「今すぐあの暖炉に放り込めとジルは言った。何かの保険になるかもしれんから、どこかに隠しておけとカイルは言った。だが俺は……それは俺の決めることじゃあないと思ってな」

「こんな手紙の一通に振り回されるなんてね。僕らはみんな、本当に、愚かな羊だ」

 パリスは手紙を封筒に戻しながら、こともなげに言った。

 その封筒を手にして、ウィレムは少し済まなさそうな顔になる。

「俺は、ジル兄の言う通りだと思う。実際、お前には何も知らせずに焼き捨てようと、何度も思った。そうすべきだった」

「でも、君はそんなことしない。分かってるよ」

 パリスがそう笑ったとき、ウィレムは半ば本気で、この男と運命を分かち合えて嬉しいとすら感じた。

 こんなに酷い台詞を、こんなにも品のいい笑顔で口にされては、悪魔でさえ味方するだろう。

「ああ。このお話の主役は、やっばりお前と姫様だ」

 俺は黒子だ。役者は二人。どちらも名優だ。最高に美しい。

 それを見届けたいとフィオナが言い出した気持ちが、なんとなく理解できた。

 実際、誰よりも彼自身が、この結末を見たかったのだから。

「だから、お前の好きにしろ。その始末に必要なものは、全て用意する」

 本気だった。採算などどうでも良かった。いくら金がかかっても、二人の兄のことは自分が黙らせる。

 その覚悟に呼応するように、パリスも不意に真顔になり、静かに告げた。

「だったら彼女に、この手紙を見せよう。彼女が決めてくれるよ。僕のジュリエットが」

「本気か」

 彼はその問いには答えなかった。やはり頭のいい男だ。必要のない質問には答えない。

 そして、封筒に残された脂汚れ、その指紋にそっと自分の指を重ねて、パリスは感に耐えかねたように呟いた。

「ロレンス神父様って、本当に立派なお方だったんだね。僕のために、こんな手紙を残してくださった」

 まさしく己の血を用いて、血を吐くよう思いで書かれたのであろう、その告白の手紙を、彼はまるで愛おしいものでも眺めるように目を細めて見つめる。

 それから顔を上げて、ただ静かに言い切った。

「君が海で死にたいのと同じくらい、僕は彼女の傍で死にたい。それだけが僕の願いだ」

 それは真実なのだろう。その気持ちは、痛いほど分かる。しかし、それでも。

「だが、俺はまだお前に死なれたくない」

 そう答えずにはいられなかった。

「ありがと、ビル。気持ちはとても嬉しいけど」

 パリスが言いかけるのを遮って、ウィレムは一気に、まるで喚き散らすような調子で訴えた。

「俺はお前を死なせない。絶対に死なせたりはしない。万全の策を練り上げる。そのために、あの糞忌々しい錬金術師のフランチェスコも、売女の侍女やらも手駒に入れた。これからとんでもねえアバズレで食わせものの魔女を妻にする。何もかも全て、お前と姫様のためだ。いや……正直に言えば、俺のためだ」

 どうしようもない、最低の告白だった。友人のためを装いながら、結局自分が見たくないものから目を背けようとしていただけだ。口にするどころか、自分でも気づきたくなかった真実に、ウィレムは思わず両手を机に着き、じっとマホガニーの板目を見つめるしかなかった。

「君のため、かあ。そうか」

 そんな耳に飛び込んできたのは、パリスの涼やかな、それでもいつもどこかで甘い、慣れ親しんだ声だった。

「僕の望む結末と、君の望む結末は違うね。でも、それなら僕は、どっちでもいいよ。ありがと」

「いや、必ずいい結末にする。前にも言ったろ。俺が好きなのは喜劇だ」

「ビル。気が思い描いている結末は喜劇じゃない。笑劇だよ」

 必死の告白を皮肉めいた笑いで返されても、不思議と不快ではなかった。むしろ、決意がよりいっそう強くなっただけだ。

「それでも、俺はお前たちを死なせてなんぞやらねえ」

「ずるいなあ、ビル」

 その困ったような笑顔だけで、彼の考えていることが全て分かった。

 この手紙の処遇を、パリスに任せたことを有難く思ってくれているのだと。そして、この無様で涙ぐましい友情にも、同じくらい感謝してくれているのだと。

 ウィレムよりもずっと聡明な彼には、ジルベルトの考えが一番正しいのは分かっていることだろう。こんなものは見せず、何もかもを闇に葬り、今までの計画を淡々と続けて、いつの間にか彼女が彼を、この世で愛するただ一人の男だと信じるように持っていくのが、きっと正解だ。

「でもね」

 そう口を開いたとき、パリスの横顔は天使のように美しかった。

 どうして彼は泣かないのだろう。どうしてこんな様になっても、こうして微笑んでいられるのだろう。

「僕にはもう耐えられないんだよ、ビル。大公の位もいらない。今の生活も、こんな宝石も、何もかもいらない」

 痛々しく、悲しげで、ただ絶望だけを抱えているのだと思っていたが。

 パリスが抱いているのは、絶望ではなく渇望だった。

「ただジュリエットの口から、僕への言葉を聞きたい。どんな愛の言葉も、もう意味がないんだ。あの男の身代わりではなく、ただのパリス、ただの僕への、僕だけへの言葉が。ねえ……それがどんなに憎悪に満ちたものであってもいいんだよ。僕だけに向けられた、僕のためだけの彼女の声を聞きたいんだ」

 そうでなければ、死ぬ価値すらもない。

 彼の決意は、もう翻らないだろう。

「お前は優しい」

「君もね」

 ウィレムの言葉に笑い返してから、パリスは思いもかけないことを言った。

「じゃあ、みんなで仲良く、一緒に地獄に行こうか」

「いいな。そうするか」

 自然と、そう答えていた。

 二人とも笑っていた。静かに、穏やかに。


「アイン」

「お傍に」

 ウィレムの命令より速く、まるで影のように、黒衣の執事が傍らに跪いていた。

「この手紙を、開封されていない状態に戻せ。それから、ジュリエット姫の元へお届けしろ」

「承知」

 質の悪い蝋燭の封蝋など、この男なら簡単に偽造するだろう。手紙の中身を書き換えるように命じることも出来た。だが、そうしなかったのは、ただ彼の望みを叶えるためだけの理由だ。

「その後、仕事だ。すぐに戻れ」

「喜んで」

 それだけ応答すると、明国の血筋の執事は、音もなく部屋から出て行った。

 やがて訪れる静寂。

 デキャンタに残った最後のワイン……冷めて不味くなった酒をカップに注ぎながら、パリスは心底申し訳なさそうに首を振った。

「ごめんね、ビル。君がこんなに良くしてくれたのに、僕は結局、神の子羊にはなれなかった。やっぱり僕は、生まれてくるべきじゃなかったんだ」

「そいつは俺もだよ。ごめんな、こんな役立たずが相棒で。兄貴たちなら、もっとうまくやっただろうにさ」

 正直な、飾り気のないやり取り。

 こういう、何のことはない会話の相手が妻ではないことに、パリスはどれほどの悲しみを堪えていたのだろうか。

 それでも彼は、非の打ち所のない顔に最高の笑みを浮かべて言い切った。

「いや。君だから、ここまで来れたんだよ。僕は、いい相棒を持って幸せだ」

「そいつは光栄だ」

 それも、心から出た答えだった。

 友情だなんて下らないものじゃない。これは共犯者の、いや、背徳者の結んだ同盟だ。その相手に、どちらの兄でもなく、出来損ないで穀潰しの自分が選ばれたことが、ウィレムには特別に思えた。

 パリスは静かに微笑みながら、その手をそっと差し伸べて、友人の指先に触れた。

「だから悪いけど、君には地獄の底まで付き合ってもらうよ、ビル」

「嬉しいね。喜んで付き合うさ。売れるものは悪魔に魂でも売りつけろってのが、うちの家訓だ」

 ウィレムも笑って返した。今度こそ、うまく笑えたような気がした。

 そんな悪あがきなど、神様の目から見たら、愛らしい子羊が踊っているだけに見えるのかもしれないが。

 ウィレムの不敬極まりない言葉に、パリスは意外にも、少年の頃のように屈託なく笑った。

「やっぱり気が合うよね、僕たち」

「そんなの当たり前だろ、バーカ」



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