第22話 黄金色の夜明け
その夜、初めてパリスは妻と同衾した。
ごく自然な成り行きだった。
先ほど味わった恐怖の余韻に打ち拉がれ、震えている彼女を抱きしめているうちに、どちらからともなくそうなっていた。
「前にも、こんなことがありまして?」
「夢の中でなら何度も」
「幸せですわ」
「僕もだよ」
穏やかに話し、微笑み、口づけを交わし。
ただ静かに夜明けの金色の光がカーテンの隙間から流れ込んでくるのを見た時、きっとパリスは……恐らく彼自身より彼のことを良く知っているウィレムだからこそそう思うのだが……愛する女性をついに得た満足感よりも、心が凍るような絶望と、どうしようもない敗北感に打ち拉がれていたのではなかろうか。心臓を嫉妬に焼ける杭で打ち抜かれ、激しい怒りに身をよじりたかったのではなかろうか。
自分より先にこんな幸福を味わった奴がいる。
殺しても殺したりない奴が。
いくら彼女の記憶から彼の存在を消し去ろうと、自分は覚えている。あの男の……まだ少年じみた美しい顔、青い目、短く流行の形に揃えた金髪、小生意気な物言い、純粋で眩しい笑み。そして彼女を見つめるときの、情熱的な、いや熱狂的なまなざしを。
「ジュリエット……ジュリエット!」
彼女の名を悲鳴のように、あるいは祈りの絶唱のごとく叫んだときの、あの男の声を、今でも鮮明に覚えている。
彼女とあの男の一部始終、あの二人の全てを知っていながら、何もかも知らぬふりをして、いや、何もかも自分との出来事だと彼女を騙して、ただ幸福な夫の芝居を続けるだなんて、とても堪え難い拷問だ。
そう、最初からこんな賭けに勝てる見込みなんてなかったんだよ相棒。
もう死んだ人間に勝てる奴なんてどこにもいない。
ウィレムは侍女から執事に届けられた報告書を読みながら、無意識に首の十字架を指先で弄んでいた。
「永遠に愛してくださいますわね?」
「もちろん。永遠に愛する」
最後の会話に、ウィレムは腹を抱えて笑った。
姫様、あんたもしかして全部分かって言ってねえか、これ、よう。
確かにパリスが誓ったのは永遠の愛だ。だがそれは永遠に叶わぬ愛だ。
偽りの。欺瞞の。嘘の。作り物の。
そんな愛しか、あいつは手に入れることができない。永遠に。
ひどい話だ。その時、パリスがどんな顔をしていたか。どんなに無邪気な顔でジュリエットが訊ねたか。その全てが目の前で起きているような気がして、何もかもが手に取るように分かって、ウィレムは笑いながら椅子から滑り落ち、床で笑い続けた。
「死者も生者には勝てませぬ」
不意に声をかけられて、ウィレムが顔を上げる。そこには東洋人の執事が、いつもと変わらぬ洒落た黒服に磨き抜かれた靴で、物静かな笑顔をたたえて立っていた。
「土の下から生者に手は届きませぬゆえ」
「俺は独り言を言っていたか?」
「はい」
「船乗りの悪い癖だな」
「他に聞く者がおりませんから、構いますまい」
「そうか」
長兄カイラスは大公殿下の公式の謁見に招かれて、恐らく今頃は商談に花を咲かせていることだろうし、次兄ジルベルトは自分の執務室に引きこもってしまったら火事が起きても出てこない男だ。
ロザルド兄弟水運商会本館にはウィレムにも一応書斎が与えられていて、立派な表札もかかっているのだが、中は机と椅子と本棚だけの殺風景な部屋だった。本棚に積まれているのは、執事が集めてくる世界中の最新式の航海器具機械類や武器の資料だけで、目立つのは紙切れの上に文鎮代わりに乗せられた大きな貝殻くらいのものだった。ここには船員でも用がある時以外は滅多に寄り付かないし、召し使いは入れない。埃が気になったら自分で掃除すればいい、酒が飲みたくなったら勝手に飲む、陸にいようが船にいるときと生活を変えるつもりはない、他人の手は必要ない、というのがウィレムの妙に気難しいところで、そういうところは確かに次兄に似てきたかもしれない。
だから、別に馬鹿笑いをしていたところで構いはしない。聞いている人間などいないのだ。こうして、気がついたら執事が傍にいるのはいつものこと……出来損ないの三男坊が陸にいるときは、商会の邪魔にならないようにお目付役が必要だと、カイラスは考えているのだろう。
「お客様がおいでですが、お通ししてよろしいですか?」
「ああ」
わざわざ執事が訊ねるのなら、パリスではないだろう。あいつなら勝手に入ってくる。大体、あいつは今それどころじゃないはずだ。
だったら船員か、航海士の誰かというところか。
「その前にお召替えを」
そんなことを言われるのは珍しい。ウィレムのところへ来る客はそもそもが少ない上に、こちらの服装など気にしない連中ばかりだ。
「誰だ?」
思わず訊ねると、意外な答が返ってきた。
「フィオナ・ファルネーゼ・デ・パルマ侯爵令嬢とお名乗りでございます」
執事の穏やかな声に、ウィレムは皮肉たっぷりに笑い返した。
「なら、このままでいいや」
「全く、若様ときたら」
「ぶつくさ言うなや」
執事が小言の一つも言いたくなる気持ちも分かる。
今のウィレムは、とてもロザルド海運の御曹司とは呼べないような姿だった。着古した木綿のシャツに裏革のズボン、ブーツはブーツ掛けに脱ぎっぱなしで、室内履きすらも履いていない素足だ。シャツのボタンはだいぶ下まで開けたまま、スカーフやリボンネクタイのひとつも巻いてはいない。髪もぼさぼさのまま、ただ邪魔だから後ろで結っただけという……綺麗に言えば船乗りらしい野趣に溢れた若者、有り体に言えばむさ苦しい無作法なならず者だ。
だが、わざわざ見かけを取り繕ってあのパラス・アテネ、仮装舞踏会で出会った貴婦人と顔を合わせる気には、何故かならなかった。
「どうぞ、こちらでございます」
執事の案内で部屋に入ってきたのは、見事なブロケードの黒いドレスを着た美女だった。外套は既に執事に預けたのだろう。素晴らしい腰の細さを、金の鎖ベルトで際立たせている。その白くて長い首には、確かに見覚えのあるエメラルドとダイヤモンドの首飾りが輝いていた。
「船長様、ご機嫌いかが? お仕事のお邪魔だったかしら」
「こんちは、女神様」
彼女の優雅な言葉に、ウィレムは床に胡座をかいたまま、そっけなく答えた。
それだけで、たいていの女はあっけにとられるか、愛想を尽かして退散する。フィオナ・ファルネーゼとやらも、こんな婚約者候補にはさっさと見切りをつけて、目の前から消えてほしかった。
しかし彼女は、少しも動じた様子はなかった。ウィレムを見下ろし、赤い唇でにこりと笑った。
「まあ、床に座って出迎えてくださるなんて相変わらず紳士ね。やっとわたくしの靴に口づけするおつもりになったの?」
「足舐めてほしけりゃあ服も脱げ、この売女」
相手が大パルマ公の養女だと分かっていながらも、ウィレムはわざと挑発に乗ってやった。
しかしフィオナは、歓迎されていないことを理解しているはずなのに、いや、売女などと侮辱されたというのに、特に気を悪くした素振りすら見せない。
「ひどい悪口ね。ご機嫌斜め」
「俺はいつもこんなもんだよ。お生憎」
彼女は軽口を叩きながら、ついさっきウィレムが滑り落ちた革張りの椅子に、まるで自らが女主人であるかのように腰掛ける。そうすると、彼女の組んだ足と、彼の横顔がちょうど同じくらいの高さになった。
二人は今並んで、何もない壁を眺めながら話している。
「あなたと最初に会ったときには、もう少しお優しかった気がするわ」
「ただの美人だと思ったからさ。俺は女には優しい」
「あら、心外ね。わたくしは女の数から除外されたの?」
彼女の言葉に、ようやくウィレムはいつもの皮肉めいた笑みを取り戻すことができた。
「ただの女の数からは、な」
そう。これは「ただの」女ではない。
最初に、あのエルベの河岸で出会ったときにも、かすかに感じた。
特別な女だと、あのときは思った。こんな場末で埋もれるには惜しい。それほど美しい女だと思ったからこそ、最高級の……ちょっとした屋敷が買えるくらいの値段の首飾りをくれてやったのだ。
だが、見込み違いもいいところだ。特別どころか、こいつは最悪の相手だと、ウィレムの本能が告げている。
とんでもねえものを釣り上げちまったようだな。
そんなことを頭の半分で思い巡らしながら、それでも残りの半分はならず者の頭領としての態度を忘れずに、不敬罪で処刑されても文句が言えないほどの態度を貫くことに決めた。
「で、パルマの姫様。いや、もう面倒だからフィオナとでも呼ぶぜ」
「そんなに面倒ならフィーでいいわよ」
「フィー?」
彼女が当たり前のように口にしたのは、最下層の娼婦のような、あるいは物乞いの小娘のような、貧相な呼び名だった。
「あたしの愛称よ。品がないでしょ。でも気に入ってるのよ」
「その下品なただの下級騎士の娘が、大パルマ公の養女に潜り込むってだけでもけっこうな離れ業だ。どうやった」
「わたくしは美人だから」
やはり当然のように答える彼女に、ウィレムは鼻で笑ってみせた。
「はん! 言うね、このすべた」
そんな品のない愛称は、いくら下級とはいえ、仮にも騎士の家柄ならば絶対に使わせない。
ならばこの女は、いったい何だ。
疑念と苛立ちが、脳の冷静な部分を蝕もうとするのと戦いながら、わざとらしい荒くれ者の芝居を試みる。
「で、そのパルマ公の姫様が、なんでプロイセンになんぞ旅行する? ローマやフィレンツェなら分かるさ、だがエルベに遊学だ? あんな河口のくそ田舎の街に、姫君に必要な教養や礼儀作法が落っこちてるのかね?」
こちらだとて、馬鹿な船乗りだが愚かではない。もはやこちらの手のうちはだいぶ見抜かれているようだ。牽制にはならないかもしれないが、だからといって好き放題やらせては、二人の兄に面目が立たぬ。
ウィレムは片膝を立て、女のほうへ身を乗り出して言った。
「だいたいその緑金髪に緑の目、そりゃ北欧の女の色だ。お前がデンマーク人だってんなら分かる。バイキングの女だってんなら分かる。だがお前、あっさりとイタリア人になりきってやがる。それが腑に落ちねえ」
いつもの道化の顔は捨てた。皮肉も諧謔も、今は必要ない。というより、そんな余裕などないままに、ただフィオナに詰め寄った。
「お前、何者だ。お前さんの狙いはなんだ、なんで俺に近づいてきた」
「母がデンマーク王国から嫁いで来たの。そういうことにしておいて」
しかしフィオナは、心地よい春のそよ風を感じてでもいるかのように、その美しい横顔にかすかな笑みを刻んだだけで、いささかも怯んだ様子はない。
怒りというより、不気味な焦りに突き動かされて、ウィレムは思わず立ち上がり、デスクの上のペーパーナイフを掴んだ。
「ぶち殺すぞこのアマ」
実際、そんなちっぽけなナイフでも、彼は彼女を殺せるだろう。
「何がご不満なのか、わたくしにはさっぱり分からないのだけど」
白い喉笛に銀のナイフを突きつけられても、フィオナの顔から微笑が消えることはなかった。むしろいっそう自信に満ちた声で、そらとぼけたふうに訊ねる。
「あなたの上のお兄様も貴族の妻を娶っておいででしょう? あなたの下のお兄様は、ファルネーゼ家なんかよりずっとお金持ちの家から奥様を迎えられた。ちょうど真ん中を取って、いい家柄の、そこそこ金持ちの女を妻にするのは、悪いお話ではないわよ」
あげく、軽くウインクして言い放った。
「ついでに美人だし」
確かに事実だけを並べれば、彼女の言う通りだ。しかし、それが表面的な事実でしかないことくらい、いくら出来損ないの馬鹿な末息子にでも分かる。
「その女が並の女なら、俺は何の文句もない。ファルネーゼ家に釣り合う爵位は、いつでもダチが売ってくれる。だが、お前は信用ならねえ」
裏のある話は嫌いだった。そういうのは、次兄か執事の専門だ。自分のような出来損ないは、サーベルを振り回して白兵戦をやっている程度の、馬鹿さ具合がちょうどいい。
ウィレムの脳の半分は、今すぐこの女を殺せと叫び、残りの半分は、こいつを殺すなら、どうすれば身内にかかる迷惑を減らせるかを考えろと指示していた。
ウィレムの目の奥に、本物の殺意がかすかによぎったのを、彼女は見逃さなかったのだろう。
「なら、信用しなさい」
フィオナ・ファルネーゼは、勝ち誇ったような顔で、ドレスの胸元から……美しい乳房を持つ女にだけ存在する特別な隠し場所から、小さくたたまれた一枚の紙切れを取り出した。
それが目の前で広げられ、突きつけられて、ウィレムはついに言葉を失った。
「こいつは……」
両掌の間にすっぽり収まってしまうほどの小さな書面だ。しかし、そこには、絶対に他人に漏れてはならない事柄が、事細かく書き記されていた。それも一切の間違いも矛盾もなく、何もかも正確に。
それは、この一年ほどの間に、ウィレムが……いや、正確には、ロザルド商会を通したパリスが、聖セバスティアヌス教会の寺男の元へと運び込んだ薬物や機材の、詳細な記録だった。ざっと見たかぎり、彼の記憶が正しければだが、全てが完璧に正確だった。世界中から集められたおぞましい毒や恐ろしい薬の数々、高価な道具類、その名前と量と価格が、小さな紙片にびっしりと書き写されていた。
恐らく、この一覧の原本は別にあるに違いない。彼女はただ、ここまで調べがついているのをひけらかしに、このちっぽけな紙切れを披露しただけだ。
今ここでこの女を殺すのは上策ではない。殺すな。殺しては駄目だ、絶対に。そんなことをしたら、一族が滅ぶ。兄たちに、両親に、それから水夫や人夫や、ロザルド水運に属する全ての人々に害が及ぶ。
それに、パリスが処刑される姿だけは見たくない。
どうやって、この取引の記録を調べ上げたのかは知らない。フィオナに訊ねても答えないだろう。相手に手札が全部知られているというだけで、勝ち目なんぞなかった。
「大パルマ公国を舐めないで」
婉然と笑うフィオナ姫に向かって、ウィレムは心の底から負けを認めた。
「なるほどなあ。ヴェローナごとき成り上がりとは年季が違う、か。恐れ入りましてございます」
大パルマの歴史に比べたら、たかがこの数十年で大都市に数えられるようになったヴェローナなど、糞田舎の新参者もいいところだ。そんな成り上がり者をいつまでも付け上がらせておくほど、バルマ公ファルネーゼ侯爵は甘い男ではなかったということか。
「まあ、そりゃあそうだろうなあ。でなけりゃ、こんなにあっさり皇帝派から教皇派に乗り換えられるわけがない。かなりのやり手なんだろう、パルマ公ってお方は」
と、ウィレムはやっとフィオナの顔を見上げて笑った。
「お前さん、諜報屋か」
「その言い方は聞こえが良くないわね。なんていうのかしら、もっとこう、詩的で浪漫的な美しい言い方はないの?」
「バーカ。あるかそんなもん」
そう言いながら、不意に。
ウィレムは彼女との会話を楽しんでいることに気づいた。
もちろん、宮廷作法に則った紳士淑女のやりとりではない。だが、場末の娼館で百戦錬磨の娼婦たちと交わす言葉ともまた違う。
そう、これは、衝角戦の快感だ。白兵戦で敵目がけて突っ込んでいく時の、一対一の命のやり取りだ。あの激しい爽快感を、どうしようもない高揚を、まさか狭苦しい陸の小部屋で味わうなど、思ってもいなかった。
やっぱり不思議な女だ。
「俺の負けだよ、投了だ」
ウィレムは手にしていたペーパーナイフを窓際の壁へと放り投げた。だが、わざわざそう宣言しなくても、彼女はとうに勝利を確信していただろう。
しかし、彼女とパルマ公の目的が分からない以上、いま考えうる最善の策を打つしかない。
「よく調べたもんだ、完璧だよ。パルマ公はそれを手土産に法皇猊下に寝返ったってわけか」
「いいえ、違うわ」
フィオナの答は意外なものだった。
「これは、ファルネーゼ公……あら失礼、わたくしの老父は知らない話よ。むしろパルマ公としては、法皇猊下にお取りなしして下さったエスカラス大公殿下に本気で感謝しているくらい。でなきゃ、あんな老いぼれがわざわざ仮装舞踏会になんて出てきやしないわよ」
彼女は義理の父であり、おそらくは自らの雇い主でもあろう大パルマ公をすら軽く鼻で笑い飛ばした。
「ついでに言うけど、これを持ってローマ教皇猊下にご注進なんてするつもりはないから。あなたを教皇庁に突き出すつもりはないわ。あなたのお兄様がたにも、あの美しい農夫と花売り娘に迷惑をかけたりしないわ」
これも意外な申し出だった。
この書類一式あれば、ウィレムとフランチェスコの破門は確実、ついでに縛り首もほぼ確定だ。二人の兄は自分ほど愚かではないから、忠実な執事と一丸となって、何とかしてロザルド水運を守ろうとはするだろうが、利権をパルマに吸い上げられる道具にされても文句は言えない。
だが、いくらこの記録上は、すべてウィレム・ロザルドと聖セバスティアヌス教会の間のやり取りになっているとしても、パリスに妙な疑いが向く可能性もなくはなかった。侯爵継息というのはいくらでも言い逃れができる立場だが、いざその段になってエスカラス大公殿下から梯子を外されたら。
「だったら、どういうつもりなんだ? 俺を法皇猊下に差し出して生け贄すればいいさ、その方がずっと気が楽なんだよ。俺は馬鹿なもんで、はかりごとの駆け引きってのは苦手でね。この命ひとつでロザルド水運とヴェローナが守れるなら安い。持ってってくれ」
ウィレムは壁にかけられていた愛用のサーベルを掴むと、フィオナに向かって突き出した。
これで殺せと言っているわけではない。武器を捨てて、完全に降伏すると宣言しているだけだ。彼女が自分に仕える兵士か、パルマ大聖堂の騎士団の連中を連れてきているのなら、そいつらのところに大人しく連れて行かれるだけの覚悟はできていた。
しかし。
「そんなことしないわ。面白くないもの」
フィオナ・ファルネーゼは緑色の瞳を輝かせて、その美しい顔をウィレムに近づけた。
「あなた、あたしがどうして近づいてきたか訊いたわよね」
その瞳の中にあるのは、政治だの信仰だのとは無縁な、きらめく純粋な好奇心と野心だった。
冒険家の……いや、海賊の目だ。
そう、ウィレムは思った。
「あたしは見たいの。このお話の結末を」
「どの話の?」
思わず訊き返すと、フィオナは迷うことなく、まさしく女神のような笑みを浮かべて答えた。
「稀代の美男美女の、最高の悲劇」
だが、それは彼が望んだ答ではなかった。
いや、ウィレムが望む結末は、そんな物語ではない。
「絶対に悲劇にはしない。生憎な」
「それは残念だわ。でもあなた、確かにそう言ってたわよね、悲劇は嫌いだって」
彼女は言葉とは裏腹に、さほど気にした様子もなく軽く笑っただけだった。
そして、そのエメラルド色の瞳で、じっとこちらの目を見つめながら言う。
「だったらあたしからも訊かせて」
「何をだ」
「どうしてあなた、そんなにエスカラス公爵継息……パリス・エスカラス様に肩入れするの? そりゃあこっちだって、あなた方が幼なじみだってことくらいは把握しているわよ。でも、友達だの、親友だのなんていうきれいごとの域を超えているわ。商人としたって、採算なんて度外視しているでしょう」
彼女の疑問はもっともなものだった。
我ながら、いささか度を過ぎているのは認める。
「そうでもねえよ。儲けはちゃんと出してる。採算のことは兄貴に訊いてくれ」
ありふれた商人らしい答えになど彼女が満足しないことは分かっていたが、それでもそう口にせずにはいられなかった。
フィオナはほとんど鼻が触れ合いそうなほど顔を寄せ、船乗りを沈めるサイレンの魔女さながらに、歌うように囁く。
「それでも、あなたのやっていることは酷いわ。こういう言う方は気が利いていないかも知れないけれど……悪魔の所行よ。そこまでしてやる義理が公爵家にあるの? どうしてなのか、あたしに教えて」
それから不意に顔を離し、椅子からも立ち上がって、投了を宣言した相手に向かって堂々と言い放った。
「勝者の権利よ。戦利品を頂戴な。全部白状なさい」
「分かったよ」
そう苦笑いを浮かべた時、目の前に立ちふさがって腕組みしている美しい女が、ウィレムには本当に女神のように見えた。
もしかしたらこれは、救済かもしれない。
何もかもぶちまけることで、あんな教会の糞神父に懺悔なんぞするよりはずっと、胸の痞えが下りるのではないか。自分一人では抱えきれないことを、聞いてくれる相手がここにいるのではないか。
「あいつは……パリスは、俺と同じ人でなしなんだよ」
そんなものは錯覚で、ただの願望に過ぎないと分かっていながら、それでも彼は口を割った。
つらつらと。ただ、思いつくままに。
「あいつは、どうしようもない人でなしだ。悪党だ。その人でなしが、好きな女のために必死でいい奴になろうとしてる。嘘を嘘で塗り固めて、仮面の上に仮面をかぶって、はらわた煮えくり返ってんのに最高の笑顔で愛を語って、本当に彼女が愛したたったひとりの男になり切ろうとしてる。全て嘘なのに、嘘の愛で満足しようとしている。そうやって必死で、ただただ必死で、いい奴の役を演じ切ろうとしてる。泣ける話だろ?」
「笑える話ね」
「ああ」
庶子として、忌み子として扱われた子供時代が、パリスの優しい心をねじ曲げた。
幼いジュリエットと出会ってまともになりかけていた魂は、エスカラス公爵の突然の後継者指名によって、悪意と陰謀の渦巻く貴族社会へとたったひとりで放り込まれてしまった。
「考えても見ろよ。宮廷の、あの陰口の海の中で、必死に生き延びようともがいているうちに、あいつは何より大切なものを赤の他人に奪われ、蹂躙されちまったんだぜ」
それで、とうとう。
「人の道を外れることを選んでしまった、のね」
その一部始終を知りながら、海の上にいて何もできなかった自分が歯がゆい。いや、海へ逃げた自分が許せなかった。
「だから俺は、そんなあいつの黒子になることにした。いい役者にはいい黒子が必要だ。そうだろ」
いつものように皮肉らしい笑みを浮かべたつもりだったが、うまくいっているとは思えなかった。
フィオナの宝石の瞳が、じっとこちらを見下ろしている。
そういえば、天国の床はエメラルドで張られているのだと聞いたことがある。一面に、星の上に。その話をしてくれたのは誰だっただろう。
もしかしたら、彼女だっただろうか。
そうならいいと、ウィレムは思った。
フィオナはただ、静かに訊くだけだ。核心だけを突いて。
「ねえ。本当はあなたも、ジュリエット様を愛しているから、ではなくて?」
「そいつはとんだ見当違いだな」
たぶん、今度こそうまく笑えただろう。
俺が愛しているのは姫様そのものじゃない。パリスの傍らにいる姫様なのだから。
なればこそ、不敵に、ならず者の流儀で言い放つことができる。
「俺がもしそうだったら、あのいまいましい糞餓鬼が手を出す前に、あの野郎をぶち殺して、切り刻んで鮫の餌にしてる。いや、あの餓鬼が生きている目の前で、姫様の方をこの手で殺す方がちったあ胸がすくかもな。正直に、そう思うぜ」
自分ならばそうした。必ず。
この瞳の奥底に、確信があるのを見届けたのだろう。フィオナは追求するような口調で続けた。
「パリス様もそうすべきだったと?」
「あいつにそんなことできやしねえよ。あいつは悪党だが、それでも羊だ」
そう口走りながら、ウィレムはひどく悲しくなった。
「いい奴になりたかった……ただの羊なんだよ」
なりたいものになんてなれない。欲しいと望むものほど得られない。
その真実に触れてしまったような気がした。
だが、そんな感傷は、フィオナの音楽のような声が吹き飛ばしてくれた。
「パリス様は狼じゃない、ってことね。あなたと違って」
「いや。生憎と俺も、狼なんていいもんじゃあねえよ。俺は、悪魔でも天使でも、英雄でも海賊でもねえ。そんないいもんにゃあ、とてもなれなかった。俺は出来損ないの穀潰しだ、生きてる価値なんざねえ屑だ。他人様の色恋沙汰に首を突っ込みたがるただの下種野郎だ」
それは事実そのものだった。
だから当たり前のように言えたし、当たり前のように笑えた。
すると、意外なことに。
「分かったわ。あなたは、あのお二人が一緒にいるのが好きなのね。一緒にいるのを、遠くから見るのが」
フィオナ・ファルネーゼも、かすかだが美しい笑みを浮かべた。作り物ではない彼女の顔を、初めて見たような気がした。
「分かったような口きくんじゃねえよ、バーカ」
やっと口をついて出た軽口に、ウィレム自身が誰よりほっとしていたかもしれない。
自分で思っているよりもずっと、頭の方はまともだ。そう自覚することができた。
「悲劇はお嫌い、そう仰っていましたわよね。あなた喜劇が好きなんでしょう? 笑える話が」
フィオナは非の打ち所のない顔に、ある種奇妙なというべきだろうか、目的など何もない、ただ欲望だけを溢れさせた表情を浮かべた。笑ってすらいない。大きな目をさらに見開いて、身を乗り出し、ほとんどウィレムの体の上に馬乗りになりながら言った。
「ねえ、あたしにも最後まで見せてよ。こんなお話なら、あたしも喜劇……いえ、笑劇の方が好きになりそうだもの」
そして、その胸元の特別な隠し場所に長い指を押し入れて、もう一枚の紙片を取り出す。
「これを見て」
完璧に整えられた爪の間に挟まっていたのは、決してあってはならない書面だった。
全身に鳥肌が立つのを感じながら、ウィレムはその内容を、ただひたすら目で追った。確認できるほど、脳は働かなかった。ただ情報を受け入れるだけで精一杯の彼に、彼女がとどめを刺す。
「これならあたしを信用するわよね?」
「ああ。信じた」
ほとんど迷わずにウィレムは答えた。
「これをどう使うかは、あなた方にお任せするわ。せいぜい素敵なお話を見せてね」
彼女はその紙片を、いささか呆然としつつある男の手にしっかりと握らせた。
それがどれほどの価値と意味を持つのか、彼女ならば分かり切っているというのに。まるで子供にお菓子の包みを握らせるように簡単に、フィオナはそれを彼に渡した。
「何もかも闇に葬ってもいいのよ。あたしは、それでも文句はない」
「そうできたら、そりゃあいいだろうけどなあ」
ウィレムは首を振りながら笑って見せた。そんなにうまくいくはずがない。だからこそ、パリスの手助けとして俺が必要とされているのだ。
求められているうちは応える。それが商人のやり口だ。
しかし、彼女は間者の出とは言え、今はパルマ公国の令嬢だ。こんな博打に乗る必要はない。
「だが、これでお前さんも人でなしの仲間入りだぜ。降りるなら今しかない」
そう告げても、彼女は顔色一つ変えなかった。
「もともと人でなしよ。羊なんかじゃない。あたしは女神だから」
「なるほど、言うね。このクソアマが」
ウィレムは床に座ったまま、また少しばかり笑うと。
突然思い立ったように、執事を呼びつけた。
「アイン」
「お傍に」
「うちで一番いいエメラルドの指輪を持ってこい。兄貴たちは黙らせろ。婚約する」
「喜んで」
明国の血を引く執事は、恭しい態度で主人に一礼してから、その隣に立っている淑女にも丁重なお辞儀をした。
一切のそつがない態度に、満足というより安心を得てから、ウィレムはもう一つ命令を下した。
「それから、家族会議だ。椅子を一つ増やせ」
「承知」
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