第21話 かりそめの姿の宴(後編)

「うん?」

 パリスが振り返ると、そこにはギリシャ神話で最も有名な戦争の女神、オリュンポスのパラス・アテナの衣装を着た美女が立っていた。

 流れるような緑金髪は後頭部にまとめ、黄金にエメラルドがちりばめられたオリーブの冠を頂いている。長い首には見事なエメラルドの首飾りが輝いていた。つや光りする純白の絹を左肩から乳房、尻から足にかけてゆったりと巻き付け、腰のところだけ金細工のベルトで絞ってあるだけの姿で、少し歩くだけで大理石のように白い太ももまでが覗くのが艶かしい。履いているサンダルも、革の上に金の装飾を施してあった。

 パリスとウィレムは素早く目配せする。

 こいつは大物だ。かなりの資産家か大貴族だ。敵に回すな、うまくやれ。

 こういう時に何より威力を発揮するのは、やはりパリス本人の素性だ。彼は仮装舞踏会の趣旨を無視して、堂々と名乗った。

「初めてお目にかかるお顔ですね。私はパリス・エスカラス・ヴェローニアス、ヴェローナ大公エスカラス侯爵継息です。こちらは妻のジュリエット。この度は父の舞踏会に、ようこそおいで下さいました」

「まあ、これはとんだご無礼をいたしました」

 女神アテナは、言葉とは裏腹に、さほど動揺した様子はなかった。やはり優雅に、宮廷風ではなく古代ギリシャ風の、軽く膝を折る一礼をして微笑む。

「なにとぞお許し下さいませ、殿下。わたくし、パルマ公ファルネーゼ侯爵家の末子でフィオナと申します。どうぞ、お見知り置き頂けましたら幸いでございます」

「これはこれは」

 パリスは思わず目を見張った。これが大パルマ公の養女、つまりはウィレムの縁談の相手か。

 自分を「養女」と呼ばず「末子」と名乗るあたり、この女、なかなかに賢しらだ。

 そして、まさに女神の衣装がふさわしいほどの美女だった。どう見積もっても二十歳か、もっと若いだろう。ジュリエットとそう年齢が離れているとは思えないが、大人の女の艶やかさと色気を、実に気品たっぷりに漂わせているのは奇跡的だ。

「この度は、お招きに預かり光栄でございます。後ほど改めて、父侯とご挨拶に伺わせて頂きますわ」

「こちらこそ、遠いところをわざわざお運びいただきかたじけなく思っております。明日は正式な謁見の席も設けております。今夜はどうぞ、浮き世を忘れてお楽しみ下さい」

 大パルマ公の娘となれば当然だが、パリスとのやり取りも、実に堂に入ったものだ。あまりに不遜な態度のせいか、ジュリエットが少し怖がっているのが分かって、パリスは彼女の視線を別方向へと誘導した。

 要するに、ウィレムに投げたのだ。

「ご紹介しておきましょう。僕の友人の、ロザルド兄弟水運商会の第一外洋航路大船舶船長、ウィレム・ロザルドです」

「存じ上げておりますわ。お名前だけは」

 ウィレムが儀礼的に一礼したが、それにもフィオナ・ファルネーゼは眉一つ動かさなかった。

「ウィレム様は、お持ちの船の御名がギリシャ語だとお聞きしましたわ。古代ギリシャ神話がお好きなの?」

「まあ、それなりに」

「ヘロドトスはお好き?」

「読んだだけ」

 こうなると、ウィレムの方も意地が出てくる。

 このクソ女、今はパルマ公の娘でも、所詮は下級騎士の小娘の生まれだろうが。

 こんな小娘ごときに舐められて終わるわけにはいかない。

 兄たち、そしてパリスとジュリエットがはらはらしながらこちらを見つめているのを感じながら、ウィレムは口元だけで笑って言い放った。

「アリストパーネスの方が好みですよ」

「喜劇がお好きなの?」

「悲劇は優れた者を描くもの、喜劇は劣った者を描くもの。俺はこの二人の兄と違って、落ちこぼれの出来損ないなものでしてね、喜劇の方が性に合う」

「アリストテレスですわね。学はあるのねえ、山賊風情のくせに」

 彼女はこちらの引用を的確に受け答えてから、その美しい唇に傲慢な笑みを浮かべた。

「ところで下っ端の山賊のあなた。戦の女神に接吻の礼もしないの? その程度の学はあるのに礼儀は知らないのね」

 と、フィオナ・ファルネーゼはサンダルの足を、すっとウィレムの眼前に差し上げた。

「これは失礼を」

 ウィレムは彼女の青緑色の目を真っ向から見返して、両手を自分の胸の前で組んだ。女神、いやパルマ公のご令嬢の足先に触れるのを拒んだのだ。

「ですが女神様。わたくしめごとき下賎の者が女神の足先に口づけしても、おみ足が穢れるだけでしょう。恐れ多いことでございます」

「生意気な平民ね」

 フィオナはやはり眉ひとつ動かさずに言い放ち、その場にいる者すべての背筋を凍らせた。即座に不敬罪で処刑されても文句は言えない。パリスは必死に頭を巡らせて、友人の非礼を詫びる文言を考えたが、何一つ浮かんではこなかった。大パルマ公国の名前だけで、それだけの効力があった。

 しかし。

「でも、面白い人」

 と、彼女は不意に、かすかに微笑んだ。

 優しさや貞淑さ、従順さなど、当時の貴婦人に求められるべき美徳など欠片もない笑みだった。ただ誇り高く、荒れた北海の海のように冷たくて、そして底知れぬ強さを潜めた、瞳の輝きだった。

 ウィレムはそれでも、そんな相手に笑い返す自信があった。

「あなた様もね、フィオナ姫。いや、パラス・アテネ。面白い女神様だ」

 そう。はっきりとした自信がある。

 俺は、この女を知っている。

「ところで、俺にはどうも、その首飾りは見覚えがあるんだが、以前どこかでお目にかかったことがありませんでしたかね?」

「さあ? わたくし、山賊ごときならず者に知り合いはおりませんわ」

 フィオナは空とぼけた様子で、あえて見せびらかすように、両手で自らの首飾りを示した。

 素晴らしいエメラルドの、金の鎖に涙型にカットされた石が大きさを揃えて並べられ、中央には真四角の大きな宝石が、その下にはシャンデリアのように金鎖と石の飾りがぶら下がっている、この世に二つとないような見事な代物だった。

「これはプロイセン王国のエルベに旅行しておりましたとき、とてもハンサムな船乗りの方に頂きましたのよ」

 フィオナ・ファルネーゼは当たり前のように言った。それがどれほどの価値のあるものなのか、知っているはずなのに。

「わたくしの目と髪の色には、エメラルドしかふさわしくないってね。そんなこと言うお馬鹿さんは初めてだったから、よく覚えていますわ。わたくしそれから、エメラルド以外の宝石は全部捨ててしまいましたの」

 彼女は傲慢に笑った。それが、何とも言えぬほど美しかった。

「それでは皆様、ごきげんよう。老父が退屈しておりますから、話し相手に戻らなくては」

 彼女が立ち去ると、その場にいた人々はまさに女神に出会ったような気持ちになりかけ、すぐに正気に戻った。

 パリスが苦笑混じりに言う。

「まったく、気の強そうな女だね」

 それを受けたのは、長兄のカイラスである。

「結構なじゃじゃ馬とお見受けしますな、あのお方は」

 それからしばらく続いた重苦しい沈黙を破ったのは、意外にも、いささか満足げな次兄ジルベルトの声だった。

「あの首飾りをくれてやったのはあの女か。それなら許してやらんでもない」

「マジで? ジル兄愛してるぜ」

「高くつきそうな女だ。だが、悪くはない。採算は合わせる」

 ジルベルトは既に、頭の中でさまざまな計算を終えたのだろう。あらゆる局面を想定し、あらゆる解決策を見いだし、その上でなお、彼女に評価を下した。それは恐らく、間違ってはいないはずだ。

 しかし、彼女の居丈高な様子に、ジュリエットは夫の腕にすがりついて呟く。

「でもちょっと、怖い方ですわ」

「戦争の女神の格好だから、そう振る舞っていらっしゃるだけだろう。あんまり親しげなパラス・アテナなんて興ざめだものね。お父上のご心配をされてお戻りになるくらいだ、普段はお優しいご婦人かもしれないよ」

「ええ、そうですわね」

「そうだよ、そもそも僕たち、農夫の夫婦が山賊に絡まれてるのを助けにきてくれたんだから」

「そうでしたわ、女神様にお礼を言うのを忘れてしまいました」

 パリスの言葉にあっさりと納得するあたりは、やはりこの姫君は子供の魂の持ち主だ。簡単に誤摩化せる。だが、そのごまかしを多用しすぎると、いざというときに手詰まりになる。

 いい頃合いで、女神様が立ち去ってくれたものだ。

 ウィレムは内心、上出来の拍手でもしたいくらいだったが。

 そこは堪えて、次の一手だ。

 実のところ、ウィレム自身の嫁候補など、このさいどうでも良かった。本番はこれからだ。道化が道化を演じ切り、主役が主役の役割を果たす。それが舞台であり人生だ。

 さあ、開幕だ。

 曲芸師の一座のふりをして、客の中にも、執事の手下を紛れ込ませてある。配置は万全だ。

「パリス」

「うん?」

「曲芸師が火の輪くぐりを始めたら、それが合図だ」

「分かった」

 パリスはそれだけ答えると、ごく自然に、他の来客たちと談笑を始めた。

 はじめのうちは、ジュリエットと仲睦まじく腕を組み、客人たちに妻を紹介し、妻に客たちの名や身分を明かし、大公継息とその夫人にふさわしい敬意と節度を持った態度で宴を過ごした。

 次第に、異国の音楽が強く響き始める。

 大広間に集まった男女が、それぞれに気に入った相手を見つけ、優雅でありながらどこか淫らな香りのする踊りに身をまかせていく。

 ダンスの時間だ。それまでは穏やかに語り合っていた人々が、音楽が変わるたびに相手を入れ替え、次々に混ざり合い、どこに誰がいるのかさえ分からなくなっていく。

「あら?」

 ジュリエットがそれに気づくのは、少し遅かった。

 彼女がふと周囲を見回した時、そこに夫の姿はなかった。

 回りを取り囲んでいるのは、強欲そうに太った男や、もっとあからさまな情欲に目を血走らせた若者、貴族の地位をかさに着た傲慢そのものの遊び人気取り、そんなどうしようもない連中だった。

 彼女はぎゅっと身を硬くして、助けを求めてあたりを見回す。

 その彼女の視界の隅で、大公が招いたのであろう、異国の曲芸師たちが、燃え盛る火の輪を次々と飛び越えはじめた。

 沸き上がる歓声とともに、彼女を取り巻く男たちの輪も狭まっていく。

 飢えた獣のど真ん中に、小さな子羊を投げ込んだようなものだ。

「おや、この美しい花売り娘はどこから紛れ込んできたのかな?」

「ははは、待て待て、これ娘や、俺に花を売ってくれ」

 男たちは淫らな欲望を隠そうともせず、美しい少女に手を伸ばし、捕まえようとする。大公殿下の主催の舞踏会だ、少しくらいの狼藉ならばもみ消してもらえるという算段もあるのだろう。下司どもは美しい花売り娘を力ずくで押さえ込むと、その絹のドレスを剥ぎ取りにかかった。

「お放しなさい! 放して!」

 女の悲鳴など、音楽に紛れて聞こえはしない。

「誰か……だれか助けて!」

 ジュリエットははち切れそうな心臓から、必死の一声を絞り出した。

 そのとき。

「あなた……」

 大広間の二階にいる男と、目が合った。

 まるで全身を、雷に打たれたようだった。

「パリス様」

 その声はきっと、彼の耳には届かなかっただろう。だが、二階の廊下の手すり越しに、彼は彼女の名を叫んだ。

「ジュリエット!」

 パリスは妻の名を呼ぶと同時に、手すりを飛び越えて、そのまま華麗に一階の大広間へと着地した。まるで一羽の美しい鳥が舞い降りたかのようだった。

 彼は迷わず腰のサーベルを抜き放ち、妻の元へと駆け寄ると、彼女を左手で抱きしめながら言った。

「僕の妻に触れた者は誰だ」

 パリスは怒っていた。だが、動揺してはいなかった。その怒りは冷たく、巨大な氷山のように御しがたく、いかなる甘言も媚び諂いの言葉も、それを溶かすことなど不可能だと知れた。

「僕はパリス・エスカラス。大公継息だ」

「ああ、いえ、その、失礼しました」

「わしら、そんなつもりじゃなかったんで」

 浮き世の身分を忘れた乱交や狼藉が付き物の仮装舞踏会とはいえ、大公の後継者が溺愛する夫人に手を出した愚か者など、命があるだけでありがたいと思うのが筋だ。

「その腕を切り落とされたくなかったら失せろ、今すぐに」

 彼がそう吐き捨てると同時に、群がっていた男たちは、波が引くように逃げ出した。後ろを振り返る者すらいなかった。

 ジュリエットは夫の胸にすがりついて、思わず声を立てて泣いた。

「怖い……怖かったですわ、パリス様」

「ああ、怖かったね。でも、もう心配はいらないよ。こうして僕がついているからね」

 パリスは妻を力いっぱい抱きしめると、落ち着かせるように、優しく彼女の頭や背中を撫でた。

「はぐれてしまったんだね。いけないよ、もっとしっかり手をつないでいなければ」

「ずっと、こうしていてくださいませ」

「うん。分かった。そうするよ」

 ジュリエットの言葉は懇願に近かった。それをはねつける度胸のある人間など、この世にはおるまい。パリスは妻の細い腰に腕を回すと、涙に濡れた頬を優しく拭ってやりながら、子供に言い聞かせるような口調で言った。

「君に無礼を働いた連中のことは全員こらしめてやりたいけれど、こういう特別な宴だ。義父上のお顔を立てるつもりで、ここは我慢してくれるかい? 本当にごめんね」

「はい。でも、もうどこにも行かないでくださいませ」

 ジュリエットは夫の腰に両腕を巻き付けて、泣きながら訴えた。

「わたくしを放さないで」

「もちろん、放すものか」

 パリスは妻の額に優しく口づけし、彼女が泣き止むまで待った。そうして寄り添う二人は、本当に聖書の彩色画のように美しかった。


 その一部始終を間近に眺めていたのは、この二人。

「ご苦労」

「いえ」

 ウィレムの労いに、東洋人の執事は何事もなかったかのように答えた。

 実は、パリスに両腕を切り飛ばされる寸前まで行った、太った金持ちそうな男の中身はこのアイン・シャンだったのだが、そんなことは誰に報告する必要もない。アインが扮装をすっかり解いてしまった今では、誰がジュリエットに狼藉を働こうとしたか探索したところで、何の痕跡も見つかりはしないだろう。

 そもそも、この広間の中で、先ほどの枢機卿の取り仕切った婚礼ごっこを目にしなかった者などいないはずなのだ。ジュリエットがいざこざに巻き込まれることそのものが不自然極まりない。それに気付いていない者の目は節穴だ。

「後はこちらで始末いたします。若様はどうぞ、ごゆっくりアテナイの女神を口説きに行かれませ」

「いや、ありゃあちと手強い。これから家族会議だ。アイン、お前も来い」

「喜んで」

 アイン・シャンは恭しく一礼し、毛皮一枚の主人にさりげなく外套を羽織らせた。これでもう、山賊どころか、そこらの貴族よりずっと立派に見える。

 執事の手筈に満足して、ウィレムはそのまま広間を立ち去ろうとしたが。

 ふと振り返ると、ちょうどパリスが妻を伴って、ヴェローナ大公殿下に辞去を申し出ているところだった。

 それはすぐに許されるだろう。二人だけの時間を楽しむがいいさ。

 そんなことを考えながら、ウィレムは声高に叫んだ。

「格好良かったぜえ、パリース! ヒュー! 大公継息閣下万歳!」

 呼応して、広間中から拍手や歓声、口笛が響く。全て、彼の華麗な活躍を讃えるものだった。

「ありがと」

 パリスは短く言った。ただ、友人のためにだけ。

 その腕には、しっかりと妻の体を抱きながら。彼はこの、異界の広間から去っていった。

「どういたしまして、だ」

 その姿が消えてから、ウィレムは小さく笑って、葉巻に火を点けた。

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