第20話 かりそめの姿の宴(中編)

 そんな世俗の思惑など知る由もない我らが姫君、いや、可愛い花売り娘は、広大なヴェローナ大公の謁見の間を眺め、いつもとは様変わりした様子に目を丸くしていた。

「不思議な感じですわね」

 彼女が思わずそうつぶやくのも無理はない。

 ここは、とてもヴェローナ大公の屋敷とは……いや、イタリアとすら思えない有様だった。

 大広間中に灯されているのは、いつもの豪華なシャンデリアの明かりではなく、ペルシャ風のステンドグラスのランプだった。色とりどりのガラスの中から、虹のように蝋燭の明かりが透けている。まだ日も高い時刻だというのにカーテンは閉め切られ、わざと薄暗くしてあるせいで、無数のランプが輝く様は実に幻想的だった。

 音楽を奏でているのは、どこから連れてきたのだろう、ターバンを巻いた色黒の楽士たちだ。見たこともない風変わりな楽器ばかりが並んでいる。金属の管が並んでいる打楽器だの、奇妙な果物のような形の弦楽器だの、何かの貝殻をそのまま使った笛だの、楽士の腕の中で自在に形と大きさを変える太鼓だの。流れてくるのも、人の心を惑わすような、複雑で異国的な旋律だ。

 並べられた酒も料理も、純粋にイタリアのものは数少ない。金にあかせて世界中から集められた珍味、貴種の酒の数々はもちろん、とても食い物とは思えないような代物までテーブルに乗っている。もちろん、この宴のメインディッシュは最高に豪華だ。さまざまな香料にスパイスがたっぷりと使われた、香ばしい香りを放つ、大きな牙が特徴的な牡の猪の丸焼きだ。その両側では針金で形を整えられた鴨のローストが、こちらも猪の威容を引き立てるように飾り付けられている。

「本当に、とても豪華だね。義父上も思い切ったことをなさるものだ」

 そこに集った人々も、実に奇妙ななりをしている。中には知り合いもいるのかもしれないが、そもそもジュリエットにはそれらの記憶が一切合切なかったのだし、誰も彼もが趣向を凝らした衣装に身を包んでいるものだから、どなたが高貴なお方でどれが召し使いなのかすら分からなかった。

 あちらには英国海軍の軍服に眼帯と鍵の義手をつけた、イギリスの海賊趣味を揶揄するような紳士が、またこちらには、大きな蝶の羽を背中に負い、宝石でできた胸当てをつけただけの半裸の婦人がいる。向こうの椅子には革の腰巻きに玩具の剣を手にした古き良きローマ時代の剣闘士が、手前のテーブルの上には明国のドレスをまとった美しい女たちを従えた中華風の男が、はたまた……と、一つ一つ見渡していたらきりがないだろう。

 比較的ただ着飾っただけに見える人々も、それなりにどこか羽目を外している。顔に直接奇妙な化粧をしたり、動物の角や耳を模した髪飾りをつけてみたり。ヴェネチア風の仮面をつけるくらいでは大公殿下が満足なさらないことなど、ここにいる者は皆、百も承知だ。

「まあ、なんてこと」

 全てピンク色の鳥の羽でできた長いローブで身を包み、顔まで桃色の化粧で塗りたくり、ご丁寧に口には黄金の嘴をつけた鳥男がぎゃあぎゃあ鳴きながら目の前を駆け抜けていったときには、ジュリエットは度肝を抜かれた感じで口元を覆った。

「いくら仮装でも、あれはやりすぎではございませんこと?」

「いや。彼は鳥になりたいんだろう。みんな自分のなりたいものになるなんて、素敵じゃないか」

 パリスは妻の姿を満足そうに眺めながら、優しく笑った。

 それがどこか寂しげな風情に見えたのか、ジュリエットは夫の横顔を見上げて訊ねる。

「パリス様は、種撒きの農夫にお生まれになりたかったのですか?」

「そういうわけじゃないけど……僕はほら、忌み子だからね」

「そんな」

 庶子の生まれの過酷さを、彼女は知らない。だが、それで夫が長いこと苦しみ、今も苦悩を抱えていることは知っている。それが、彼女が目覚めてから知りえた、数少ない彼の本質だった。

 だから、ジュリエットは夫の腕に添えた手に、少し力を込めた。

「そうじゃない人生には、少し憧れる。それは本音だよ。でもね」

 少し悲しげにも見える微笑は、すぐに妻を心から安らがせる、いつもの晴れがましい笑顔へと変わる。

「この生まれでなかったら、こうして君を義父上に会わせることはできなかったものね。これでいいのさ、僕は」

 と、彼は腕を組んで歩く妻の額に軽く口づけして、謁見の間の上段へと堂々と上がった。

 さすがにこの男が誰かを理解しない者はいないのだろう、モーゼの海渡りのように人波が割れ、ヴェローナ大公エスカラス公爵の前へと続く道が出来上がる。

 息子夫婦が近づいてくるのを見た大公殿下は、いかにも機嫌のいい様子で、楽しげに笑った。

「おお、パリス、種まきの農夫とは、これまた粋じゃな」

「ありがとうございます」

「命の種の麦を蒔く。それを大切に育てるのが農夫とすれば、優しいお前には似合いの装束だと思うぞ。お前はまことに心根が優しい。わしは、お前の心の広さには、いつも感心しておる。お前はいい倅じゃ」

「ありがとうございます」

 義父、いや、実の父の言葉に、パリスは深々と頭を下げて感謝の意を示した。たとえ後継者に指名されていても、彼はまだ君主ではない。息子であろうと、絶対的な臣従の姿勢を取るのは当然だった。

 ジュリエットは夫に倣って、貴婦人らしくドレスの裾をつまんでお辞儀したが、それが花売り娘の衣装なものだから、無垢と言えば聞こえはいいが、どこか滑稽な子供染みた感じが際立つ。

 しかし、エスカラス公爵はその可笑しさを一種の諧謔として楽しんでくれたようだ。美しいバリトンの笑い声が、いっそう高く大広間にこだまする。

「それに、これはこれは。わしの倅の嫁は美しい花売り娘か、はっはっは」

「ええ、どんな姿をしていても、この美しさは隠せません」

 パリスが誇らしげに答えると、大公殿下も満足げに大きく頷いた。

「似合いじゃ、実に似合いじゃ。わしはここに宣言するぞ、この農夫と花売り娘の結婚を」

「まあ、お義父様ったら」

 ジュリエットが恥ずかしそうに俯くのを、大公はまた穏やかな笑顔で眺め下ろした。

「ジュリエット、そなたはいい嫁じゃ。わしの息子を、末永く大事にしてやってくれ」

「はい。神様にかけてお誓い申し上げます」

 彼女がほとんど間を置かずに答えたことに、パリスは一瞬驚いた……というより、怯んだと言った方がいいかもしれない。

 だが、ジュリエットは夫の当惑になど気づくはずもない。それは大公も同じだったようで、満足げに何度も頷いてから、すぐ近くで歓談していたアルケイナス枢機卿に声をかける。

「わしの息子と嫁でございます、どうぞ枢機卿、この婚姻をお認めくだされ」

 枢機卿の方も心得たもので、洒脱な挨拶で歓談の輪から離れ、大公殿下の隣に立つと、優雅な身振りで十字を切った。

「あなたがたを夫婦として認めましょう。神のご加護が、この善良な農夫と花売りの夫婦を永遠に結び、お護りくださる。誰かこの婚姻の誓いに異議のある者がいたら今すぐに申し出るように」

 騒がしかったはずの広間は、枢機卿の声でいつの間にか静まり返っていた。

「そんな勇気のある者は誰もおりません」

 パリスにはよく聞き覚えのある声が隅から響いてやっと、広間にどっと笑いが起き、盛大な拍手とともに宴が再開された。

 さすがに枢機卿ともなると仮装はしていないのだが、今は周囲が異様な服装の者ばかりだから、かえって枢機卿の方が浮いて見えるくらいだ。だがその振る舞いは威厳ある、実に高貴なもので、ついでになかなかの洒落者と見た。アルケイナスは大公に軽く目礼すると、また自然に、大貴族たちの会話の輪に戻っていった。

 ことのなりゆきにしばらくきょとんとしていたジュリエットも、枢機卿が去るとともに我にかえったのか、ただ無邪気そのものの少女のように目を潤ませて、舅であるエスカラス侯爵に礼を述べた。

「ありがとうございます、大公殿下、いえ、お義父上様。わたくし、結婚式のこともまだはっきりと思い出せないでおりましたので……改めて神様にお誓いを立てる機会を頂戴しましたこと、本当に嬉しく思っております」

「わしはちょっとした余興のつもりだったが、そなたがそんなに喜んでくれたのならば良かった。後でアルケイナス殿にはわしから礼を言うておこう」

「本当にありがとうございます、お義父さま」

 ぽろりとこぼれる涙の一滴に、大公は大いに驚き、また喜んだ。それはパリスも同じだったようで、ポケットから質素なハンケチを取りだして、優しく彼女の頬を拭ってから、涙の跡に口づけした。

「義父上、私からもお礼を。ここまでしていただいて、まことに……」

「何を申すか、可愛い倅夫婦のためじゃ。嬉しいか、そうか」

 パリスの言葉に最も喜んでいたのは、実は大公本人であったかもしれない。彼はうきうきとした様子で、傍らの銀のゴブレットを取り上げ、ワインを立て続けに煽った。

 ジュリエットはそのときになってようやく、義父の衣装の意味に気付いたようだ。

「お義父様はペルシャの王様ですのね。お似合いですわ」

「そうじゃろうそうじゃろう、この冠もゴブレットも本物のペルシャ王のものじゃぞ、パルティエの遺跡から出たのを、カイラスから買ったのじゃ」

 大公殿下は上機嫌でスパイスたっぷりのワインを揺らしながら、自分の頭に輝く銀の冠をジュリエットに示した。

 それは純銀の板から打ち出しで作られた、複雑な植物文様の装飾のある王冠だった。最近の冠の主流は尖塔のような飾りをいくつもこしらえて、その先に宝石や十字架を乗せるのが一般的だが、古代ペルシャ帝国の冠は全く違う。まっすぐな銀の筒に、征服した民族や国家の名を次々に打ち刻んでいく。そのためとても縦長で、上辺の縁にちょっとした球状の飾りがつけられているだけだ。決して華やかではないが、歴史の重みとササン・ペルシャ大帝国の強大さを伝える宝物だ。

「冠だけでなく、仮装の方も素晴らしいですよ、義父上」

 パリスがありきたりの世辞を言っても、それが世辞に聞こえないほど、エスカラス公爵の装束は豪華だった。最高級のつややかな絹のローブ、毛足の長い滑らかなベルベットのガウン、この世で最も最も貴重かつ高価な黒貂の毛皮で作られた肩掛け、金銀と宝石をふんだんに使ったベルトに首飾り。

 それが似合う男も、実際彼しかいないだろう。エスカラス・ヴェローニアス侯爵、ヴェローナ大公、かつては絶世の美男子ともてはやされた男、今はこの小さな世界の最高権力者である男。

「わたくし、夢を見ているようです。まるで、遠い古代の世界に迷い込んだようですわ」

「そう言ってくれるのは嬉しいぞ。この衣装もな、カイラスの見立てじゃよ。全てペルシャ王が使っていたものを取り寄せさせた。わしはペルシャ王アルダールそのものじゃよ!」

「なるほど、偉大なアルダールも、より偉大な我がイタリアの前ではただの仮装ということですね。さすがカイラス兄さんだ」

「そうじゃろう、そうじゃろう。まことお前は飲み込みが早い、さすがわしの倅じゃ、聡いのう」

 ジュリエットが心底うっとりと、パリスが当意即妙に言うのが、それぞれに嬉しかったのだろう。大公は饒舌だった。

「あちらにいらっしゃるのがカイラス様ですの? どの方が?」

 ジュリエットの問いに、エスカラス公爵は広間の片隅に陣取った一団を指差した。

「ああ、あそこの山賊一派じゃ。船の一族が山男の衣装とは、ロザルド家の奴めらも、うむ、やりよる」

 大広間の、楽士たちが音楽を奏でる傍らのあたり、ちょうどいささか場所の開いたところに、その一家はなんと、堂々と熊の毛皮を縫い合わせた大きな敷物を持ち込み、その一番奥にわざわざ木彫の肘掛け椅子を運び入れて、自分たちの陣地を整えた。

 その椅子に座っているのが、ロザルド海運商会長、カイラス・ロザルドだ。

 彼は黒熊の毛皮を素肌に纏い、裏革のズボンに毛皮のブーツ、玩具の棍棒を片側に、その反対には玩具の大きな宝箱を置いて、いかにも山賊の頭領らしい風格を醸し出している。

 その傍らに立つのは、黒豹の毛皮をマント代わりに全身を覆った次兄のジルベルト。帽子も黒豹革で、前に両手で支えているのは断頭用の大斧だ。彼の「青髯」の通称を効果的に使っている演出だった。

 足下に控えているのは末弟のウィレムだ。彼は上半身裸で、右肩から斜めに毛皮をベルトに挟んで下肢を隠しただけの姿だ。ちょっとした喧嘩になって足を上げても丸見えだから、執事に念を押されて、一応下履きは履いているが、そのあたりをご存じないご婦人には、いささか目のやり場に困る格好だろう。

 だが、野蛮人には野蛮人の格好がよく似合うものだ。彼の姿を見たパリスは、思わずにっこりと笑った。

「やあ、ビル。それ似合うね、格好いいよ」

「おお、ありがとな。いいだろ、狼の毛皮だ」

 ヨーロッパの人間は狼を悪魔の手先として恐れ、羊を食らう宿敵として憎む。だから、殺してもわざわざ毛皮など剥がない。死体は杭に突き刺して、他の狼への見せしめにするのが習わしだ。しかしイタリア人にとっては事情が違う。一匹の牝の狼が、ロムルスとレムス、ローマ帝国建国の双子を育てたという伝説から、大ローマの紋章には必ず狼が使われる。イタリアにとって、狼は唯一無二の神聖な獣だった。愛情に溢れて気高い、決して裏切らない、勇猛で忠実な友の中の友。それはキリスト教が主権を握っても変わらない。狼の毛皮は、だからとても特別なものだ。

 それに、ウィレムの狼好きは今に始まったことではない。この毛皮は……

「ああ、それ、オスカルの毛皮だね」

「覚えていてくれたのか」

 意外そうに目を丸くするウィレムに、パリスは軽く片目を瞑って答えた。

「当たり前だよ、君の大事な友達のことは忘れない」

 まだ彼らが子供だった頃、カイラスが狼の子供を拾ってきたことがある。

 狼は訓練さえしっかりすれば最高の護衛兵になる。兄が迷わずどこぞへ売り飛ばそうとしたのを、ウィレムは泣いて止めた。

 まだ塊の肉が食えないほど小さかった子供の狼のために、子供だった彼は生肉を挽き潰して食わせ、馬小屋の藁の中で一緒に寝た。そうして狼が立派なおとなになった頃には、ウィレムは少年になり、一緒になってどこへでも行った。狼が十年の短い生涯を終えた時、ウィレムは船乗りになり、やがて自分の船に死んだ友達の名前をつけた。

 狼なんぞを引き連れた汚い糞餓鬼に「遊ぼう」なんていう変わった子供は、パリスしかいなかった。数年後には、ちっちゃなジュリエットが加わった。

 そんなことを思い出したら、急に可笑しくなった。

 この仮装ときたら、全く。俺たちはみんな、いや、俺とパリスは、ただ昔に戻りたいだけじゃねえのか。

「もう大公殿下へのご挨拶は済んだみてえだな。それにしても姫様は、本当に何を着てもお美しい」

 感傷を笑い飛ばす方法など、彼らはよく知っている。二人とも巧い道化だ。

「こんな美人の花売り娘がいたら、俺ならそのまま馬でひっ攫って逃げるな……って、ああ、もちろん、やらん、やらんぞ。やらんから刀から手を離せ、パリス」

「まったく、冗談の通じない奴だな」

「それはお前の方だろ!」

 いつも通りの茶番にも、ジュリエットは楽しげに笑った。

「お召替えが速くてお見違えいたしましたわ。今日は海賊さんじゃなくて、山賊さんですのね、ウィレム様」

「姫様は千夜一夜物語をご存じかな? そのアリババと盗賊たちでございますよ」

 ウィレムは出来るかぎり最高の笑顔を作ると、自慢の兄たちを紹介した。

「山賊大将のアリババがうちの長兄のカイラス、こっちが次兄のジルベルトです」

 付け髭に革づくしという山賊の親分の姿形を装っていても、そこは平民として当然の礼儀を取る。カイラスは座していた椅子から下りて、熊の毛皮の上に両膝をつく最敬礼の姿勢を取った。

「こうしてお話しするのはお久しぶりでございますな。ロザルド兄弟水運商会の商会長、カイラス・ロザルドでございます。いつもこの末弟がご懇意にして頂いているそうで、お礼の申し上げようもございませぬ」

「お久しぶりですと申し上げたいのですけれど、わたくし病のせいで、お顔に覚えがございませんの。お許し下さいませ、カイラスお兄様。お噂はかねがね、主人と船長様から伺っておりますわ」

 いかにも申し訳なさそうな顔で挨拶を返すジュリエットに、付け髭の下から、カイラスは実に人好きのする笑顔で言った。

「全くお気の毒なことです。ですが、そうお心を痛められますな。こんな中年親父の顔など忘れてしまって構いませんとも、たいして面白い顔でもなし」

「まあ」

 と、思わずジュリエットが吹き出したのも無理はない。カイラスは老いの兆候で緩んできた頬を目一杯に膨らませて、両目を斜め上へと見開き、実に滑稽な表情を作ってみせたのだ。

「ね、カイル兄さんは面白い人だろう?」

 パリスも笑いを堪えながら言う。

「本当ですわ、本当に楽しい方。わたくしとも仲良くしてくださいませね」

「これはこれは、山賊風情にはもったいないお言葉。では花売り娘の姫様、ひとつわしにもその花束をお売り下され。代金は、そこの宝石箱から好きなものをお持ち下さい」

 こういうところ、カイラスは実に如才がない。玩具の宝石箱を彼が開けると、中には宝石のようにきらきら光る紙に包まれた菓子の類が詰まっていた。

「わあ、美味しそうだね、ジュリエット」

「本当に。これはどちらのお品物ですの?」

「ベルギー王国のショコラでございますよ、ヘーゼルナッツのクリームが詰めてございます。お口に合えばよろしいが」

「とっても美味しいですわ!」

「でしたら、明日にでも一箱ほどお届けさせますとも」

 かくして、山賊のチョコレートと、花売り娘の紙細工の花束は商談成立した。ついでに、さすがはロザルド水運の会長だ。ベルギーの最高級菓子を一箱、すんなりと公爵家に売りつけた。

 彼は自分の横に、やはり臣従の姿勢を取っている黒服の男を示して、にこやかに告げた。

「これが上の弟の、ジルベルト・ロザルドです。我が水運商会の副商会長で、主任海図師をしております」

「こちらがジルベルトお兄様ですのね」

 ジュリエットは天使のような笑みを、誰もが恐れる青髯に向かっても分け隔てなく向けた。

「ジルベルトでございます。お久方ぶりにお目もじ頂けて光栄至極でございます、姫様。相変わらず、いや、一段とお美しさが増されたご様子ですな」

「パリスが猫っ可愛がりしてるからだろ」

「口を慎め、愚弟」

 ウィレムの軽口にぴしゃりと言うところは、まさに冷血の通り名にふさわしい厳格さだ。しかも、今はわざと自らの異名を活用して、黒ずくめの不気味な姿を作っている。

 それなのに、ジュリエットは彼に向かっても、愛くるしい笑顔を変えない。

「とても素敵な方ですのね。お気を悪くなさらないで頂けたら嬉しいのですけれど、ジルベルトお兄様のことは、もっとお怖い方だと伺っておりましたの」

「それは後で愚弟を叱っておかねばなりませぬな」

 ジルベルトが瞳だけを動かして末弟を睨む。それには、大袈裟にウィレムが縮み上がって見せた。

「頼むぜ姫様、勘弁してくれ」

「あら、ごめんなさい、船長様」

「ジル兄さんのお説教は、お前の日頃の行いが悪いからだよ、ビル」

「お前がそれを言うか!?」

「パリス殿と愚弟には、一言申し上げたいが、またの機会にしましょう」

「ジルベルトお兄様もカイラスお兄様も、本当に素敵な方でよかったわ」

「この面がお気に召しましたかな、ほれ」

 カイラスがまた、顔をぷうっと膨らませる。ジュリエットは淑女らしく、口元に手を当ててはいたものの、心から楽しげに笑っていた。

 身分や地位の違いを感じさせないほど、実に楽しい会話が続き、その一角には笑いが絶えなかった。

 パリスにとっては気心の知れた仲だし、ウィレムにとっては家族だ。その親しげな雰囲気が、ジュリエットを安心させたのだろう。さりげなく供された異国風の、果物を入れた紅茶だの、珍しい菓子だのも、まだ子供の心でしかない彼女を夢中にさせるには十分だった。

 そうして、どれほど時が過ぎただろうか。ほんの数十分か、それとも一時間を越えたところか。

 不意に、天高く響く雷鳴のように鋭く、しかし音楽のように美しい声が、身内だけの会話を断ち切った。

「まあ。乱暴者の盗賊どもが、善良な農夫と花売りのお嬢さんを捕まえているのかしら? 狼藉は許さなくてよ」

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