第19話 かりそめの姿の宴(前編)
新年の八日が、ヴェローナ大公が催した仮装舞踏会の当日だった。その日は古代ローマ帝国の常勝無敗将軍ユリウス・カエサルの百勝目の戦にちなんだ縁起のいい数字だとして、いささか早いが、大公が強引に日取りを決めたのだ。
カエサルの百勝目が何の戦いなのか、そもそもそれが局地戦なのか大規模な戦争なのか、単なる決闘レベルなのかは誰も知らない。それ以前に、カエサルの時代に決闘があったのかなんて話は、ウィレムの知ったことではなかった。実際のところは、何かと忙しい大公が新年の行事をうまく進めるために、大公が適当にこじつけて日程を調整しただけだろう。
時刻は舞踏会としてはだいぶ早く、午後二時には始まるそうだ。少しばかり特別な趣向のせいだという。
ただ楽士どもが流行の音楽を奏で、着飾った高貴な身分の男女がお行儀よく踊るだけのパーティーは、ヴェローナ大公殿下ともなると、もうとっくに見飽きているのだろう。自らが主催の宴では、イタリア国内の最新の流行のみならず、異国からの奇抜な趣向も次々と取り入れる。そうして客を集め、着々と人脈を広げているのだから、エスカラス公爵の手腕もなかなかのものというところか。
まずはその「特別な趣向」とやらのための支度を届けるため、ウィレムはまだ早朝と言ってもいい午前八時に、エスカラス公爵家の私邸を訪れた。革張りの大きなトランクを三つ馬車に乗せ、御者はわざわざ執事に鞭を取らせて。
本来ならば人夫風情のすべき仕事だが、これは少しばかり特別な、そして秘密の届け物だ。長兄も次兄も、ウィレムが届けるのが適任だと判断した。
馬車はわざと私邸の裏門側に着けた。その方が人目につかない上に、うっかり大公殿下に見とがめられて、せっかくの準備が知られでもしたら、全ての苦労が水の泡になってしまう。それはあまりに惜しかった。
「おはようございます、外洋航路第一大船舶船長様」
重々しい口調で衛兵が言う。ここの衛兵は総勢で三十人あまりだが、その全員とすっかり顔なじみだ。
「早くに邪魔するぜ、ルキーノ。いい新年だったか?」
名前で呼びかけてやると、衛兵は驚いたように目を見開いてから、真四角で生真面目そうな顔に、ぎこちないが嬉しそうな微笑を浮かべた。
「はい。ありがとうございます。どうぞ、お入り下さい」
「おう、かみさんと倅たちによろしくな。あ、そうだ、よかったらこれで菓子でも買えよ、七人も子供がいたら賑やかでいいな」
ウィレムはぴかぴかの銀化を一枚、衛兵に弾いて投げた。菓子にしては多すぎる額だ。子だくさんの家に、こんなに有難い新年の贈り物はないだろう。
「ありがとうございます!」
まさか衛兵風情の名どころか、家族のことまで覚えていてもらえるとは思っていなかったのだろう。小雪の舞う中で、ルキーノと呼びかけられた衛兵は熱くなる目頭を押さえてから、恭しいというよりも尊敬を込めた態度で、裏門の鎧戸を開いた。
裏門からは、美しい中庭を見渡す植え込みの小道を通らなければならないから遠回りだが、うっすらと降り積もった雪のきらきらした輝きと、雪の中からわずかに顔を出しているクリスマスローズの花が愛らしかった。
その小道は、やがて中庭と城塞の防壁側とに分岐する。ウィレムは迷うことなく中庭への道を選び、凍りかけた噴水の傍らに、既にパリスが立っているのを見つけた。
「待たせたな、すまん」
「いや、ビル、こちらこそ、こんな早くにすまなかったね。朝食は?」
「お袋が桃のピクルスとクリームチーズのサンドイッチを弁当に持たせてくれた。ついでに馬車の中でワインを一杯ひっかけたよ、それで十分だ。朝飯としちゃあ御馳走だったぜ、もう腹一杯」
「あはは、桃のピクルスって、君まだそれ好物なんだ。おちびちゃんのビルの頃から変わらないよね」
「おい、俺のお袋のピクルスをバカにする奴は水路に浮かぶぞ、パリス」
「まったく、冗談の分からない奴だなあ」
下らない会話と笑いを交えながら、二人は姫君の塔へと足を向ける。
その後ろからは、御者を務めていた執事が主の影のように付き従い、大きな荷物を運んでいる。トランク三つに馬車一台、この気配を丸まる消してしまうのは、ロザルド水運自慢の執事ならではの手腕だろう。
馬車を入れるのに正門を避けたのには、もう一つ理由がある。
ちょうど二人が姫君の塔へと着いた頃、大公殿下の公邸の方にロザルド商会の荷物を満載した馬車の列が到着したところだった。これまでの数週間にも、この宴のための準備は着々と進められていたはずだが、やはり当日の朝に配達しなくては意味のない品々も無数にあった。新鮮な魚介類や肉、野菜や果物の類はもちろんのこと、休日の間に港に届いた特別な品物も無事に届けなくては、ロザルド水運全体の信用に関わる。その荷車の数を見ただけでも、今日の宴がどれほど盛大か分かろうというものだ。
馬車や荷車の次々と到着する音を聞きながら、二人は塔へと足を踏み入れた。
切り出しの水槽には、うっすらと氷が張っている。その下を泳いでいる魚も、今日はどこかゆっくりとして見えた。
「今日の手筈は?」
「完璧だ」
不意に切り出されたパリスの問いに、ウィレムは口元だけで当たり前のように笑った。
二人の後ろを、大きなトランク三つを軽々と担いだ執事が影のようについている。彼は二人が姫君の塔を登り始めると、途中の踊り場で一つめのトランクを開け、深々と頭を垂れてパリスに差し出した。
「お前の希望はできるだけ叶えたつもりだ。ここで着替えて、姫様を驚かせてやれよ」
ウィレムは皮肉っぽい笑みのまま言う。風が当たらないだけいくらかましなだけで、この階段がいかに寒いか分かっていての意地悪だ。
「本気かい? この寒いところで?」
「ちょっと寒いのを我慢するのと、姫様がびっくりするくらい変身するのと、どっちがいいって話だよ」
「なら、びっくりさせる方に乗るよ」
パリスはいつもの、どこか憎めない子供のような笑みで答えた。愛する妻を喜ばさせるためなら、少しくらいのすきま風など屁でもないというように。
一つめの踊り場は比較的広いが、トランクを広げた上に三人の男が立つというのはいささか無理がある。その場にトランクを残して、執事は三段ほど下がった石段の下で臣従の姿勢のまま控え、ウィレムは逆に少し上がったところの階段に腰を下ろして葉巻をくわえた。
「いやあ、美丈夫だねえ」
「ふふん」
お世辞混じりの賛嘆の言葉にも、パリスは鼻で笑っただけだ。
実際、豪華そのもののベルベットのマントと真珠色の羊毛のガウンを脱ぎ捨てても、彼は堂々としたものだ。当時の下着と言えば下腹部を布と紐でまとめただけのお粗末な代物だが、その姿になってもパリスは、恥じるどころか軽く両手を広げて、まるで自らの肉体を誇っているかのようだ。
古代ギリシャの彫刻家たちは、権力者や英雄を神々や女神になぞらえて美しく完璧な存在に彫り上げた。それを受け継いだローマ人は、美しさの中に脆弱性を見いだして、逆に対象の姿をそのままに、老いや弱さも醜さも、皺の一本までをも刻んで、現実的な力強さを追求した。
その、どちらの彫刻家たちも、パリス・エスカラスの姿には文句の付けようがなかっただろう。完璧な彫刻を残したいと熱望し、そしてそれは叶わないだろう。
世の中に色男はいくらでもいる。美男と呼ばれる男も、まあそれなりにはいる。だが、パリスは別格だ。義父……いや、実の父であるエスカラス公爵は、若かりし日には決闘の申し込みが絶えないほど、イタリアの城という城の姫君たちの目を釘付けにし、宮廷のあまねく貴婦人たちの心を虜にした美丈夫だった。その大公殿下から受け継ぎ、さらに現代風に洗練された美しさと、そして長年の不遇な生活の中で鍛え続けた剣の腕、それを裏付ける筋肉の束が、この細身の皮膚の下にびっしり詰まっている。無駄な肉などひとかけらもついていないように見えた。
これほどの美男子となると、世界中を航海しているウィレムも二人しか知らない。こいつとまともに顔を合わせて負けていないのは、あの忌々しい英国海軍提督サー・アーサー・ラドクリフ伯爵だけだ。
「僕に見とれてくれるのはいいけど、衣装を早く出してよね」
「全く傲慢な上にせっかちな奴だ、お前は」
悪態をつきつつ、ウィレムは革のトランクから、いかにも清潔そうな生成りのシャツと、虫除けの藍染めのズボンとベストの一揃えを取り出した。下着代わりの絹のタイツと、折り返しのついた豚のなめし革のブーツはいささか不釣り合いだが、急ごしらえなので仕方がない。
「虫はついていないから安心してくれ、全部新品だ。後は小道具で、お望みの姿に変身だ」
と、彼はもう一つのトランクを指先だけで持ってこさせ、中から夕暮れ時の農夫がかぶる鍔の広い麦わら帽子と、肩にかける麻袋を取り出した。袋の中には、ご丁寧に種麦が入っている。
その間にも、ロザルド家の執事がまるで長年パリスに仕えている侍従のような手早さで、さっさと衣装を身に着けさせていく。パリスが何か口を挟む余地などなかった。もっと暴れて手のつけられない主人の着替えを簡単に済ませる程度の手腕だ、大人しく突っ立っているだけのパリスの衣装替えなど、ほんの数分もあれば良かった。
「さて、仕上げだな」
ウィレムは有無を言わさず、床から引っ掴んだ麻袋を彼の肩から斜めがけにすると、大振りな麦わら帽をパリスの美しい金髪の上にぐいと押し込んで、満足げに笑った。
「完璧とはいかねえが、まあまあだ」
つい口から出たのが次兄の言葉の受け売りだったことに、ウィレム自身は気付いてもいない。
「どう? 少しは農夫らしく見えるかな?」
「いいねえ」
そこに立っていたのは、農夫の若者というにはあまりにも美麗な、それでも麦の種を蒔く者としては十分な体裁を整えた、一種奇妙な人物だった。衣服は質素そのものだが、立ち居振る舞いと容貌がその高貴さを隠せないでいる。
「舞踏会の仮装とやらには十分だろう。農夫そのものに見えちまっちゃあ、それはそれで困る。宴の会場から叩き出されちまうだろ」
「何事もほどほどに、ってことだね」
「そうだ。今日のお前は、善良な麦撒きの若い農夫。その役柄を楽しめよ」
ウィレムは軽く笑うと、それから寸分の間を置かず、指先だけで足下に執事を呼び寄せる。
踊り場を挟んで、しかも間にパリスが立っているというのに、遮るものなど何もないかのような動きだった。
「よし、運べ」
あまりに短い命令に、執事は滑るような動作で最後のトランクを手に立ち上がったが、事の次第が飲み込めずにいるパリスは、いかにも不審そうに眉をひそめた。
「どういうこと?」
「例の侍女に、あの最後のトランクを姫様の部屋まで運ばせて、お召替えの手伝いをさせる。あれにはお前がご注文の、ジュリエット姫のお衣装が入っているんだよ。お召替えが終わったら声をかけるように、侍女には命じさせてある。手抜かりはない」
淡々とした説明に、パリスは農夫の姿になっても隠しきれない鷹揚さで笑った。
「ああ、なるほどね。聞いた僕が野暮だったよ。彼女が僕を見てびっくりするように、僕にも彼女を見て驚かせたいんだろう? 全部、君に任せておけばいいね」
「当たり前だバーカ」
ウィレム・ロザルドは不敵に笑った。水運商会のぼんくら三男坊、海賊気取りのいかれた船長、金で船を買った穀潰しの持て余し者。
それでも彼はやはり、ロザルド海運の血が流れている商売人だった。自分も損はしないが、客にも損はさせない。
そのための準備がすっかり整った。
「さあ、姫様と、ついでに大公殿下を驚かせてやりにいこうぜ」
「楽しみだね、ビル」
笑みを交わす二人の陰には、既に執事がいつの間にか戻って、ずっとそこにいたかのように、脱ぎ散らかされた衣装や使われなかった小道具をトランクに片付けていた。
「お姫様、入ってもいいかい?」
「ええ、ちょうど今、お支度が終わりましたの……」
と、答を待ちきれなかったパリスが扉を開けると、ジュリエットが驚きと歓声の入り交じった声で夫を迎えた。
「まあ、旦那様!」
「びっくりした? 似合う?」
姫君は何度も大きな目をぱちぱちさせながら、上から下まで繰り返し夫の姿を見て、やがてにっこりと、花の咲くような笑顔になった。
「とてもお似合いですわ。種麦を蒔く農夫の若者のお姿ですのね?」
「うん。自分でもまあまあかなって」
「まあまあだなんて、そんなご謙遜を。まるで、聖書か黄金伝説の彩色画のようですわ。きっと、神様がわたくしたちに最初に麦をお作り下さったときには、こんな風に天使をお遣わしくださったんですわ。お帽子の代わりに光輪が輝いていても、わたくしは不思議になんて思いません」
ジュリエットはうっとりと……どこか酔ったような口調で、自分の夫を褒め称えた。
「ただ、この帽子が苦労したんだ。なかなかちょうどいいのがなくてさ。これでも無理やり詰め込んでるんだよ」
パリスが冗談めかして笑うのを、ウィレムが苦笑いで受け継ぐ。
「一番でっかいので何とかなった。何しろ、お前の髪は見事すぎるんだ。後ろでちょっとくくったくらいじゃあ帽子の中に納まりゃしねえよ。まあひとつ、ここはこれで勘弁してくれ、まあそれなりにゃあ見えるだろ」
「ご自慢のお髪ですものね」
ジュリエットが微笑むと、それだけでパリスはとろけるような目になって愛妻を見つめた。
「君もとっても素敵だ。本当に可愛いよ、なんて美しいんだろう」
「ありがとうございます。そんな、わたくし、ちょっと恥ずかしいのですけれど」
ジュリエットは慎み深く、頬を薔薇色に染める。
執事が侍女を通じて届けさせたのは、街角の花売り娘をまねた、しかし驚くほど金のかかった衣装だった。
花売り娘のドレスは明国から仕入れた最高級の薔薇色の絹織物。前掛けは木綿だが、花模様の刺繍とガラスビーズがふんだんに施され、縁には飾り編みが幾重にも下がっている。大振りな肩掛けは手編みのクロシェットレースだ。可愛らしい藤編みの花かごに詰め込まれているのは、職人がこつこつ手作業で作り上げたリボンフラワーの花束だ。
「よかった、やっぱり君には薔薇が最高に似合うよ」
そう、何より小粋なのは、ジュリエットの美しい黄金の髪を庶民らしく編み込みにして、頭の後ろですっきりとまとめたところに、例の宝石細工の薔薇が一輪刺してある。エナメルと真珠細工の薔薇が金髪の上で、一段と輝きを増しているようですらある。
足下が鮮やかなピンクのエナメル靴なのは、もうこのさい、大目に見ることにしよう。この世にこんなに豪華で可憐な花売り娘は存在しない。それだけは間違いなかった。
「こいつあ素晴らしいな、姫様はまったく、何を着ていても姫様だ」
「だろう? 僕の妻は本当のお姫様なんだ」
ウィレムの賛辞に、ジュリエットは貞淑げに目を伏せて微笑を返し、パリスはいかにも自慢げに彼女の肩を抱いた。
それからふと、ジュリエットは目の前の相手の服装に目を留め、きょとんとした様子で訊ねる。
「船長様は、いつも通りのお姿ですの? 今日の主役ですのに」
「主役はいつだって姫様とパリスだ。俺のは、まあ、縁談相手の顔の一つも拝んでおく程度の話ですからね」
そうは言ったものの、この特別な舞踏会を開いてくれるように、そしてそこにウィレムに縁談が持ち上がっているパルマ公のご一家を招待するように、わざわざ大公殿下に願い出てくれたのがパリスだというのも事実だ。
パルマ公ファルネーゼ侯爵としても渡りに船の話だったらしく、二つ返事で参加の返事が来たそうだが、ウィレム自身はまだパルマ公の真意を疑ってかかっている。恐らくこの舞踏会で、もっと条件のいい……パルマ公が教皇派だと宣言するのにふさわしい身分家柄の娘婿候補を見つけたら、さっさとそっちに照準を切り替えるだろうし、正直そうしてもらいたかった。
だが、ここではそんな思惑を顔に出すわけにはいかない。ウィレムはいつも通りに若い夫婦に笑いかけた。
「ああ、もちろん、これから着替えますとも。だが生憎と、俺は陸の上じゃあ下っ端なんで、大将は長兄です。そのあたりは、ご覧になってからのお楽しみってことで」
「はい、楽しみにしておりますわ」
ジュリエットの声は心なしか弾んでいるように聞こえた。
それは無理もない。ずっとあの狭苦しい塔の一室で療養生活を強いられ、ごくたまに外に出るといってもせいぜいが中庭の散歩くらいだ。
ヴェローナ大公の公式な行事にも出席したことはなく、聖誕祭のミサで聖セバスティアヌス教会に行ったのが、この半年あまりで唯一の外出だった。
パリスがときどき夕食後にデザートを持って来てくれるか、こうして昼から友人を招いたり、何かしらの理由をつけて訪れてくれるのだけが、ジュリエットの外界との細いつながりだった。もちろんパリスはヴェローナ大公エスカラス公爵家の継息としての仕事がある。義父の公務の代理や立ち会いで、妻の部屋を訪れられない日もしばしばあって、ジュリエットは最近ようやく、それが寂しいと思うようなっていた。目覚めてからしばらくの間は、パリスがいくら手を握ろうとしても触れられるのすら拒み、全てに対して恐怖と拒否しか示さなかった彼女だったが、今では夫を心から頼る気持ちに変わっている。
いや、頼れるのはこの世にこの男ただ一人だと信じているのだろう。
何しろ彼女の両親も親戚も全て、キャピュレット家は事実上、ジュリエットが最後の一人になってしまった。もとより顔も名も覚えていない両親だが、その父は彼女が目覚めるより早く、やはり当時猛威を振るったスペイン風邪のせいで落命し、従兄ティボルトはモンタギュー家によって暗殺、ジュリエット本人もいつ息を引き取ってもおかしくない状態だった。
母はその悲しみと衝撃のせいでひどく心を病み、ついには正気を失って、修道院の奥深くへと幽閉された。あれほどの狂気に蝕まれてしまうと、恐らくそのお命も長くはないだろう。そのあたりのこともあって、庶民の口さがない者は、ジュリエット・キャピュレット・エスカラス公爵夫人のことを「疫病神に取り憑かれたお姫様」なんぞと呼ぶらしい。
だが、今はそんな寂しさも、忌まわしい歴史も、何もかもなかったかのように。
パリスがジュリエットの腕を取っている姿は、なんとも初々しい。パリスの容貌がいささか若く見えるのと、ジュリエットが無垢な子供のようなせいで、まるで初恋の一場面でもみているかのような錯覚すら覚える。
「お似合いのカップルだな、農夫と花売り娘ってのは」
「ありがとうございます、船長様。そう仰って頂けると、わたくしほっといたしますわ」
疑うことを知らない目でこちらを見てから、またその金色の眼差しを夫の方へと注いだ。
「だって、こんなにご立派でお美しい農夫なんていませんもの。まるで、種麦を人に齎した天使サリエル様のようで、わたくしなんかと不釣り合いに見えるのではないかと不安です」
「いやあ、姫様に似合う奴っていえのを探すとなると、これくらいの色男でないといけませんや」
「ふふん。僕よりもっと、我こそはジュリエット姫にふさわしいって男がいたら、堂々と手袋を投げつけてもらいたいね」
パリスは自信たっぷりに鼻で笑ったが、それも当然のことだ。
何しろパリス・エスカラスの剣士としての実力は、お世辞を半分まで差し引いてもイタリアで五本の指に入ろうという評判だ。これだけの剣の使い手を相手に一対一の勝負を挑もうとする勇気など、いかに恋に狂った輩でもそうそうはいないだろう。
パリスが今一番のお気に入りの東洋のサーベルは、ロザルド水運自慢の執事が実に巧妙に、斜めがけした種袋の下に隠れるように吊るしてある。麻袋に少しばかり麻縄のほつれを大き目にこしらえて、長い鞘がほとんど目立たないように細工した。間近で腕を組んでいるジュリエットでさえ、そこに大きな刃物がぶら下がっていることなど、気づいていないように見えた。
むしろ姫君は、やはりいつも通りに無邪気に、夫と自分の衣装を代わる代わる眺めて、愛らしく小首をかしげた。
「でも、こんな衣装で舞踏会なんて、お義父様もおかしなことをなさいますのね」
「仮面舞踏会からもっと進んで、仮装の舞踏会なんだよ。ヴェネチアあたりでは流行の遊びらしい」
パリスがにこやかに答えた。
そう。今日の午後から夜にかけての、長く盛大な宴は。
ヴェローナ大公殿下の思いつきで、仮装舞踏会として執り行われるのだ。
大公殿下は、自らの馴染みや既知の者はもちろん、これまで挨拶を交わした程度の人物にまで、全イタリアの諸公、爵位保持者などの大貴族から、貴族と名ばかりの騎士、従卒や一代爵持ち、あげくは裕福な商家や豪農、名のある芸術家や学者連中にまで、手当り次第に招待状を送りつけた。
「なお、恐れ多くも教皇猊下のご名代として、教皇庁からアルケイナス・ガラーニ枢機卿が我が公館の宴へお運び下さいます。しかしながら新年の繁忙な時候のゆえ、お出ましいただけないお方はどうぞご遠慮なくお申し出くださいませ」
その一文が招待状に添えられていたというが、それは脅しを通り越して、無理をしてでも参加しない者は皇帝派と見なすという処刑宣告に近かった。アルケイナス枢機卿の実家ガラーニ男爵家は教皇派の重要な支援者の一人で、元は豪農からの成り上がりゆえに地位こそ男爵と低く、諸公との血縁が薄い。その代わりに、南イタリアの重要な作物、特に広大な牧場からなる食肉には、その流通に絶対的な権勢を振るっている。
つまり、この招待状に「否」と書いて突き返してくる奴は、破門宣告までは受けずとも、南イタリアの名物である生ハムやベーコンはおろか、獣脂のひとかけらだって売ってもらえない状況に追い込まれる羽目になるのだ。
「皆々様がた、どうぞ浮き世を忘れた素晴らしい仮の姿で、一夜限りの宴を共に楽しみましょう」
その文面は、いかにも白々しい。
教皇猊下の信頼を傘に着て、エスカラス公爵は無理難題を押し付けた。つまり、ヴェローナ大公である自分に顔と名を売るのと、他人を出し抜く奇抜な装束と仮装で、彼の好みを満たすのを、同時に行えと。
その程度の才覚もない奴に用はない。
仮装舞踏会は、単なる異国趣味の余興ではなく、教皇猊下の実妹を妻とした男の博打なのだ。
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