第18話 老アレサンドロの隠居館にて

 北イタリアの冬は寒い。新しい年が始まる頃はいつも雪だ。

 ヴェローナはアルプス山脈とガルダ湖が砦になるせいで、そうひどくは積もらないが、街並に雪化粧くらいは施される。雪と氷のおかげで、ただでさえ華やかな港町がいっそう美しさを増す。

 凍ったガルダ湖の鏡のような輝き、冷たく澄んだ水が流れ続ける川面に落ちてはきらきらと消えていく粉雪、そして一面に並ぶ倉庫や家屋敷の屋根の全てが眩しいほどに白い。教会の真新しい銀の鐘が、薄灰色の雪空の下でもかすかに光っている。

 美しい季節だ。

 新年を故郷で、家族と迎えるのは何年ぶりだろうか。

 ロザルド一族は、三兄弟の両親であるアレサンドロの隠居館に全員集まり、それぞれの妻や子を交えて、賑やかに過ごした。

 うっすらと雪に覆われた庭ではしゃぐ孫たちを眺める老アレサンドロと妻アイーダは幸福そうだった。初孫のカルロはそろそろ少年と呼んでもいい年齢になっていたが、ここのところ特に祖父に似てきて、将来は祖父と同じく立派な鑑定人になりたいと新年の誓いで宣言し、老アレサンドロをことのほか喜ばせた。

 屋内は外とは打って変わった暖かさ、まるで別世界だ。暖炉には明々と炎が燃え、その横には山のように上等の薪が積まれている。空気にはワインと香水と葉巻の香りが満ち、テーブルには常にあたたかい料理や菓子や飲み物が並び、音楽が絶えることはなかった。

 父の召し抱えの楽士は竪琴奏者と歌い手だった。歌い手のほうは中年を過ぎたカストラート(去勢歌手)で、容色が衰えてもう舞台に立てなくなったのを拾ってやり、相応の扶持を与えている。竪琴奏者はまだ若く、とても一流とは呼べないが、この館からヴェローナ音楽院に通っていて、その学費は父が支払っていた。どちらも一家にたいそう恩義を感じているらしく、新年を祝う楽しげな歌曲を次々に披露して家族を楽しませた。

 時には母も歌に加わった。アイーダは父が航海の途中で見初めた美女で、ノマドだかロマだか、流民同様の芝居小屋で歌手と踊り子をしていた。今でも四十数年前の容色の残り香が見える、というより、年老いたがゆえに一層その美しさに風格と気品が備わった。今となっては……もちろん富豪の名前が後ろ盾とはいえ、彼女を貴婦人と認めないものはこのヴェローナには一人もいない。

 いくらか衰えたとはいえ、その美声は聞く者の心を和ませる。どんな疳の虫がおさまらない子供も容易く寝かしつけてしまうのだ。ウィレムはそんな母が好きだったし、母から髪と瞳の色を受け継いでいる次兄のことを羨ましく思うことすらあった。

 長兄カイラスは、父アレサンドロとチェスの勝負に夢中だった。だが、弟子はなかなか師匠を超えられないものだ。後手のくせに、何度やってもたいていは父が勝つ。カイラスが投了するたびに、揺り椅子に並んでおしゃべりに興じていた女性陣の笑い声が響いた。最初はカイラスが上手に負けてやっているのかと思ったが、それが見抜けぬほどまだ父は耄碌していなかった。まあ、本当に強いのだ。父がまだ若かりし頃、大プロシャ帝国のチェス王者のなんとかいう伯爵と後手から引き分けて馬車を賜ったという話は、今でも自慢の語りぐさだ。

 黒白の大理石の盤と金彩銀彩の施されたヴェネチアンガラスの駒の一揃えなど、そんじょそこらの貴族も持ってはいないだろう。兄の金冠付きのキングが父のポーンにいいようにやられるのは、何回見ても確かに痛快だった。

「お前は商売はうまいが、戦争はやめておけ。城攻めが下手すぎる。歩兵ごときに王の首を取らせては駄目だ」

「全く、わしの騎士は弱い。ウィレム、お前が小さくなって、わしのナイトの代わりにここで戦ってくれ」

「親父のクイーンに手が届く前にルークに殺られるからやめとくわ」

「お前はキャスリングにいいように引っかかりそうだものな、愚弟」

「やかましいわ」

 珍しく軽口を挟んできたところを見ると、次兄ジルベルトは、今日はかなり機嫌がいいらしい。

 普段あまり構ってやれないのを埋め合わせているのか、次兄はさっきから妻シーリーとしきりに話し込んでいる。どうやらシーリーは新しい犬が飼いたいと言っているようだ。前に飼っていた犬が死んでから一年以上、もう何も飼わないと言い続けていた奥方だが、ようやく新しい子犬を迎える心持ちに変わったらしい。

「白い犬がいいんですの。大きな犬」

「狆はどうだ、明から買えばよい」

「それはそれで自慢できそうだけれど、あたしは大きい犬が欲しいんですのよ」

「ならばデンマーク王国の、トナカイ狩りの犬はどうだ? 確かサマアルド、いやサモエドと言った、白くて大きい。白熊のような犬だ」

「それはいつ手に入りますの? 子犬?」

「すぐに手配させよう。愚弟!」

「はいはいはーい! 今度は何のお呼びだ?」

「サモアドの子犬を用意しろ、今すぐ」

「えー、俺、今からノルウェー行くの? ロシア? 北極? 行かなきゃ駄目? せめてこれ食ってからにしてくれよジル兄」

「愛玩動物用の獣舎に三匹子犬がいただろう、そのうちの牡でいい」

「あれはもうカイル兄貴がフランス王国の司教だか大司教だかに売る契約を……」

「キャンセルだ。その子犬は恐水病で死んだ。いいな」

「ういっす。了解」

「いや待て弟ども、それは困る! 取引相手はフランス宰相のリシュリュー卿だ、大の動物好きの慈善家なのだ」

「ならそのへんの野良猫箱に詰めて贈ってやればいいじゃねえか」

「それはもうとっくにやったわい馬鹿者!」

「やったの!? マジやったの!? カイル兄バカじゃね!? マジウケるんですけど!」

「ウケたんだから構わんだろうがこのバカ弟め!」

「大声を出すな、兄上、愚弟」

「誰のせいでこうなったと思ってんだよこのクソ兄貴、死ね!」

「兄弟喧嘩は外でやれ、叩き出すぞ馬鹿息子ども!」

「あらあら、どうしたの。賑やかねえ」

「まったくですこと、お義母さま」

 と、シーリーはにこやかに言いながら、姑にボンボン菓子の小皿を差し出した。まるで自分が言い出したことが発端になっているのを知らぬ風に平然と言い放つあたりは、さすがはジルベルトの嫁だ。

 次兄夫婦の方にはまだ子供はなかったが、実に仲睦まじい。裕福なヴェネチアの商家から嫁いできたシーリーはかなり気位の高い女だが、夫のことは心から愛し、かつ尊敬していると見える。婚約の席で初めて『青髯』の異名を持つ男に紹介されても、彼女はにっこり微笑んで言ったそうだ。

「とてもお怖い方だとか冷血漢だとか聞かされておりましたのに、本当にみんな意地悪だこと。失礼がないよう緊張して損を致しましたわ。こんなにハンサムな方があたくしの夫になるのが、みんなそんなに妬ましかったのかしら?」

「私が美男とは、あなたは少々変わった審美眼の持ち主でおられるようですな」

「あたくしのことは褒めて下さらないの? おめかしして参りましたのよ」

「シーリー嬢、あなたは機智に富んだ素晴らしい女性だ。容貌を褒めることのできる女性は多いが、知性を賞賛できる方は珍しい」

 婚約の日から今まで、ジルベルトは妻のその知性を讃える心を失ってはいない。

「一目で分かった。妻は知性で武装することで我が身を、そして心を守っていることに。あれは実は、本当に心の優しい、繊細で傷つきやすい女なのだ。『青髯の夫人』などと呼ばれているのが不憫でならぬ」

 と、彼は兄弟の前で本音を語ったことがあった。ジルベルトにしては珍しい、というより異例のことだ。

「私は、妻の望みは必ず全て聞いてやることにしている。知っているだろう、兄上」

「分かった分かった。ならば宰相閣下には、サモエドではなくダルメシアンを進呈することにしよう。馬車旅行のお供にはいい犬だ。ダルメシアンの方がいくらか安いが、伝票の金額はそのままでもお気づきにはなるまいて」

 長兄のカイラスも器の大きなところを、ついでに商売人らしいところを見せた。

「ちょっと待てジル兄。俺がネックレスちょろまかした時にはさんざん説教しただろうがよ、自分はお咎め無しか、ずりーぞ」

「まあまあウィレム、そう仰らないで。シーリーがやっと犬を飼う気になってくれたんですもの、いいことだわ」

 そう取りなしてくれたのは長兄の妻カタリナだ。

「だって、あなたがどこかの港で美女にプレゼントしてしまったのは、素晴らしいエメラルドと黄金細工の首飾りだって聞いたわよ。叱られるのは仕方がないわ、シーリーに子犬を届けてあげたら、ジルの機嫌も治るわよ」

 かくなるほどに、兄たちの妻同士の仲も良好で、屋敷が近いせいもあろうが、普段からよく行き来し合っている。カタリナは貴族の生まれだが、傲慢なところはなく、多少の浪費癖も兄が片目を瞑れば済む程度のものだ。

 父アレサンドロ・ロザルドは隠居を決め込んでいるから滅多に表舞台には立たないが、鑑定人としてはイタリアでも名の通った男だから、しょっちゅうどこかしらの貴族や商家から、あるいは教会や博物館から仕事が回ってくる。

 しかし何よりこの家の中心は、やはりイタリア人気質と言うべきか、母アイーダの存在だ。

 息子や嫁たちからだけでなく、水夫や商会員、末端の労働者連中からすらもひどく慕われていて、今朝もあっちこっちから新年の贈り物や、感謝の手紙が届いていた。どいつもこいつも、アイーダの顔が見たくてわざわざ自分で持ってくる。一等航海士のバロテッリに至っては、生まれた赤ん坊の顔を見せたくて、この寒空の中を毛布にくるんでかごに入れて、夫婦で担いで連れてきたくらいだ。

「かわいい子ね」

 アイーダがかごの中を覗き込むと、不意に赤子の無邪気な笑い声が響いた。

「バロテッリ、あんた父さんになったんだから、これからもっと稼がなきゃならない。でも命は大切にするんだよ、航海士ってのは船の命綱みたいなものなんだから。決して無茶なんてしちゃいけません」

「へい、よっく分かっておりやす」

「なら、まずはこの子と大事な奥さんに風邪引かさないようにね。ほら、これかぶせて、早くお帰んなさい!」

 アイーダがそのへんの椅子にかけてあった羊の二枚継ぎの毛皮を渡してやると、夫婦はまるで女王からマントでも拝領したかのように喜び、感謝の涙すら浮かべたものだ。二人はその毛皮で互いと赤子のかごをくるみ、互いに抱き合うように、支え合うようにして帰っていった。

「いいですわね、赤ちゃん。羨ましい」

「うちにもそのうちこうのとりが来る。心配ない」

 間近で聞いていなかったら、それが次兄とその妻女の会話だとは、ウィレムは信じなかっただろう。

 何もかもが微笑ましかった。幸福だった。

 幸福なときは穏やかに、しかし恐ろしいほどの速さで進んでしまうことに、まだ彼は気付いていなかった。


「ほうら、坊や。お前の大好きなブルスケッタだよ、桃のピクルスもあるよ。食べられるだけ食べてお行き」

 母が手ずから作ってくれたのは、子供の頃からお決まりの、ウィレムの好物ばかりだった。

 薄切りにした焼きたてのパンに、ドライフルーツとクリームチーズを乗せたブルスケッタは、陸でなければ食べられない。いや、母が作ったのでなければ、食ってもちっとも美味くない。

 パンにニンニクもオリーブオイルもかけないで、母がその手で生乳のバレルを揺さぶって作ったクリームチーズをべったり塗り、その上に、やはり母の手作りのイチジクのコンポートと、ドライフルーツを細かく刻んだのがぎっしり乗せてある。これに、甘めのピクルス液で漬け込んだ桃とパールオニオンを、付け合わせというには多すぎるくらい、これでもかとばかりに山盛りに添えて一皿だ。隣にはブルターニュ栗の糖蜜煮の皿と、ミルクと蜂蜜をたっぷりぶち込んだジャスミンティーのカップ。もちろん茶葉は明国からの直輸入品だが、これだけ蜂蜜を入れたら茶の味はほとんどしない。

 普段の彼を知る者なら、間違いなく笑い出すメニューだろう。まるで小さな子供の喜ぶ夢のようなおやつだ。だが、これがウィレムにとっては、陸にいる時の最高の贅沢だった。

「ビルおにいちゃま、お手紙よ」

「サム、いや、サマンサ! なんて大きくなったんだ、もう立派なレディーじゃねえか」

 どこぞの下男が届けてきた封筒を届けにきたのは、カイラスの娘のサマンサだった。

 彼女は七歳。一番生意気で、一番可愛い年頃だ。彼女は叔父の言葉が嬉しかったのか、鮮やかなオレンジ色のドレスの裾を持って、淑女風のお辞儀をしてみせた。

「いいぞ、どこから見てもレディーだ、さすがママの娘だな」

 サマンサの母カタリナは傍流とはいえ、父は一代爵を持っていたほどの貴族の出で、美人で気が強く、宝石とドレスが大好きで、ついでにさっきのような会話の中では助け舟を出す機智と話術を持っている、つまりは本物の淑女だ。

 実子にも当然、貴族の子女同様かそれ以上の暮らしと学問をさせているが、商家に嫁いだことを忘れているつもりもなく、身の程をわきまえた躾をしている。

 カタリナは立派な母親だ。長男のカルロも長女のサマンサも、本当に善良で、しかも礼儀をわきまえた子に育っている。彼女ほどの女性が何故、長兄のカイラスと結婚するに至ったのか、詳しいことは知らないが、兄はいい妻を娶ったとウィレムは思っていた。

 ただ、まだ七歳の女の子に本物の細粒真珠とマルカジットとストーンカメオの首飾りをさせているあたりは、いささかついていけないが……まあ、今日は新年だし、可愛いから許そう。

「おにいちゃまなんて呼んじゃいけねえ、おじさんだ。ウィレムおじさんって呼ばないと、ママに叱られるぞ」

「おかあさまなんて怖くないわよ。おにいちゃまはおにいちゃま。カルロおにいちゃまの上にもうひとりおにいちゃまがいるんだって、最初に言ったのはママだもの。あたし、変えないわよ」

 彼女が生まれたとき、ウィレムはまだ十七の小僧だった。そのあたりに気をつかって呼び方に配慮してくれたのだろうが、こちとらもういい歳だ。おにいちゃまはいい加減に恥ずかしい。

「じゃあ、二人だけの秘密の契約にしよう。二人っきりの時は、俺たちはビルとサムだ。他の人がいる時は、サマンサとウィレムおじさま、って呼ぶってのはどうだい?」

「そんならいいわ。人前でだけ、おじさまって呼んであげる」

「契約成立だ」

「内緒よ。本当に秘密ですからね」

 姪っ子のこましゃくれた受け答えがあんまり可愛くて、ウィレムは思わずまなじりを下げ、わざと紳士らしく一礼してから、彼女の差し出した封筒を受け取った。

 ロザルド水運商会第一外洋大船舶船長ウィレム・ロザルド殿。

 表書きの文字が見慣れた筆跡なことに、彼はかすかに笑みを浮かべる。

 血のように赤い封蝋がエスカラス公爵家の紋章なことにも、今更驚かなかった。

 ペーパーナイフではなく葉巻のカッターで封を切り、中に秘められた直筆の手紙を読み始める。

「どうぞ」

 すると、さりげなく隣に、執事が茶のお代わりを差し出しながら立っていた。

「これはこれは。パリスがわざわざ、新年の宴の招待状を送ってきましたよ」

 ウィレムはわざと周囲に聞こえるように言った。

「なんでも、大公殿下のお好みで、仮装舞踏会ってえのをするらしい。仮装、つまりいつもとは違う格好をしなきゃならんのだとさ。悪いが、兄貴たちも付き合ってくれ」

「構わぬ。それも商売のうちだ」

「昨今、ヴェネチアあたりでは流行だそうだぞ。誰もが仮面で顔も素性も隠して、一夜限り羽目を外すのが人気の理由だそうだ。早速、何軒か招待されていそうなお貴族様たちに探りを入れてみよう。ジルベルトや、明からの絹刺繍はまだたっぷりあるな? 大慌てでお衣装を揃えるなら、どうぞ我が商会にお問い合わせくださいとな」

 ジルベルトはあくまで冷静であり、カイラスの声は弾んでいる。兄たちの反応はいつも通りだった。

 手にした封筒を兄たちに向かって軽く振り、ウィレムは長兄に笑いかけた。

「ついでに私信が入っててな。パリスと、妻君のジュリエット様のご衣装の手配まで頼まれたよ。だいたいの希望はここに書いてあるんだが、カイル兄、任せてていいか?」

「もちろん」

 カイラスが当然のように頷いてから、チェス盤に視線を戻す。父も穏やかな口調で呟いた。

「この勝負が終わったら、年越しの祭り、新年の祝いの休みも一段落というわけだ」

 おそらく盤上では、やはり父が勝つのだろう。

「おじいさま、あたしにもチェスを教えてちょうだい。新人とチャンピオン対パパなら、いいゲームができると思うわ」

 サマンサの、なんともあどけない言葉の一つ一つに、一家の間には笑顔が溢れた。

 その中で、口元だけに笑みを浮かべながら。

 ウィレムは執事に小声で伝えた。

「アイン、仕事だ」

「承知」

 低く答えてから、まるで何事もなかったかのように、執事のアイン・シャンは両手で支えたジャスミンティーのポットを高く捧げて訊ねた。

「他にお茶のお代わりがお入り用な方はいらっしゃいませんか?」

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