第14話 薔薇色の月(前編)

「やあ、ビル。仕事中?」

 執事の案内も待たずに靴音高く室内に踏み込んで来たのは、エスカラス公爵家継息パリスだった。

 ロザルド水運商会本館ほどの屋敷になれば、護衛目的の私兵も番犬も抱えているし、商会長の執務室に至るまでにはそれなりの過程を踏まねばならぬものだが、パリスほどの付き合いになるとほとんど顔だけで通行証になる。身分だけの問題ではなく、付き合いの長さという保証があるということだ。

「これは、パリス殿。今お席とお飲物をご用意させましょう」

「いや、お気遣いは無用ですよ、ジル兄さん。今日は、悪友を遊びに誘いに来ただけですからね」

 次兄が召し使いの一人に如才なく命じたが、パリスは親しげな笑みを浮かべて断った。

 ジルベルト・ロザルド、ロザルド家の副商会長にして主任海図師。『切れ者』『冷血漢』『青髯』、そんな不気味な通り名を持つ男だ。おそらく彼を知るもののほとんどがジルベルトを恐れるというのに、どういうわけかパリスだけは、彼にも屈託のない態度で接するのが常だった。

「ああ、本当によかったのに。さすが、ジル兄さんの召し使いの躾は完璧ですね」

「滅相もございません」

 それでも、侍者は主人の命令を優先したのか、念のためを思ってか、パリスのために椅子と足置きを持って来た。ブーツのまま足置きに膝から下を投げ出しても無作法に見えないのは、彼の絢爛な衣装と美しい金髪、何より絵に描いたような容貌が、いささかの下品さも伴っていないからだろう。

 なお、パリスが礼を述べたのはジルベルトに対してだけだ。彼は、召し使いのことなど見てもいないし、声をかけることもない。公爵家の継息ともなると、ロザルド商会ですら平民で、さらにその下で召使われている者など、人間どころか生き物として認識しないように訓練されてしまうのだろう。召使いなど、つまりは人力で動く単なる家具だ。

「お口汚しでございますが」

 召し使いが差し出したのは湯気の立つ中国茶の小さな器だった。無言で受け取るパリスは、やはり相手の顔すら見なかった。

「本日は、シェリーはお出しできませぬよ」

 ジルベルトの言葉を、苛立ちまぎれのウィレムの声が遮る。

「ああ、酒なんざねえぞ。仕事中かどうかくらい見れば分かるだろ、説教の真っ最中だ」

「僕、それ見物しててもいいかな」

「やめとけ。お前がそこに座ったとして、兄貴の説教が俺だけで済むと思うのか? 絶対そっちに火の粉が行くぞ」

「あ、うん。やめとく」

 そう目を見開くパリスの表情は愛嬌たっぷりで、二十歳を過ぎた若者とは思えない可愛げがあった。

 ともあれ、ウィレムに対する次兄の説教の真っ最中だったのは確かのようだ。ジルベルトは特徴的な燕髭を指先でねじりながら、子供に言い聞かせるような口調で言った。そういうところは長兄の言い方に似ていた。

「まあいい、とにかく、だ。ウィレム、改めて念を押すが、特に貴金属の扱いは慎重にしてくれ。今回も、代わりのエメラルドの首飾りを入手し直すのにどれほど手間と金がかかったか。あれはドロレス・ディ・マリア子爵夫人からのご依頼の品物だったのだぞ。場末の女どもにお前が何をくれてやろうと構わぬが、相手と釣り合いの取れたものを選べ。くれぐれも、献上と取引の予定のある品にだけは手を付けてくれるな。損益を補填するのには、お前が思うよりずっと手数がかかるのだからな」

「分かった。分かったって、兄貴。俺が悪かったよ、謝る。ごめん」

 ウィレムは両手を胸の前で組んで、懇願の姿勢で笑った。

 これだけで許してもらえると知っているからこそだ。もし他の船員なら、とっくに首が飛んでいる。比喩ではなく、頭蓋骨が脊椎から外れているだろう。

 ジルベルトは恐ろしい男だったが、同時に誰よりも……両親より長兄より、ウィレムを甘やかしていた。ほとんど知られていない、というより外部には漏れないようにしていることだが、ジルベルトが普段執務に使っている副商会長室の壁には、ウィレムの初出航の日を描かせた絵画……この会長執務室の壁に飾られているのと全く同じものが掛けられているし、海図研究室には弟が辿った航路が綿密に記された海図が、もう何百枚と管理されている。

「次からは気をつけろ」

「分かったって。本当に悪かったと思ってるよ、兄貴」

 と、そのとき。

 兄弟の会話を黙って聞いていたパリスが、軽くウィレムの上着の袖を引っ張って訊ねた。

「ちょっとビル! 僕が頼んでおいた品は、まさかどこかの女にくれてやったりしていないよね?」

「ああ、それは安心しろ、あれは俺の今回の積み荷じゃない。ジル兄がいいのを見繕ってくれたんだ、これから金庫から出してもらおう。頼むぜ、兄貴」

 ウィレムが軽く肩をすくめると、今は不在である商会長の椅子の横に設けられた座所から、ジルベルトは音もなく立ち上がり、執務室の奥へと歩を進めた。

 そこには、重々しい青銅と鉄の組み合わせで作られた、見るからに重厚で頑丈そうな……マスケット銃の二、三十発なら容易くはじき返しそうな、金属の扉がある。

 波紋のように幾重にも重なった円形の文様、観音開きの扉の中央には、水面の上を表したものか、一枚の蓮の葉と、そこにちょこんと乗った蛙の金工細工があしらわれていた。黒々と光る扉は、どう見てもヨーロッパの文明の産物ではない。ロザルド商会が金にものを言わせて、明国から職人を連れて来て作り付けさせたものだとか。

 ジルベルトの長い指が、静かに小さな蛙の口元に触れる。

 すると、驚くべきことに。

 金属の蛙は、その閉じられていたはずの口をぱかりと開き、そこに鍵穴らしきものが現れた。

 次兄は懐から、三十はあろうかという鍵束を取り出すと、その一つを迷うことなく選び出し、まず一つめの鍵穴に入れた。

 すると、かちゃりと金属音がして、今度は蛙が乗っている蓮の葉が右へと移動する。

 蓮の葉が隠していた場所には、先よりさらに大きな鍵穴があり、ジルベルトはそれに合う鍵を、やはり迷わずに差し入れた。

 続いたのは、扉の内側から聞こえてくる複雑な金属音、いや、機械音だ。

 カチカチカチカチカチ……歯車の回る規則的な音。掛けがねが上がるピンという甲高い音。そして、何かのばね仕掛けだろうか、今までパリスが聞いたことのない、金属と金属がこすれ合う耳障りな音。だがそれが次第に協調していき、絡まり合い、まるで何かの音楽のように……オルゴールのように聞こえるてくる。

「すごいな」

「すげえだろ」

 頷くウィレムの声は、少し自慢げだった。

 実際、目の前の金庫の壮大な機構は、あの地下洞窟の研究室の仕掛けですら安っぽく思える。

 そして、水面の波紋のひとつに見えた一筋の金属が動いた。

 いや、動いたというより、浮かび上がった。

 この金属の巨大な一枚板全体が、金庫の扉ではなかったのだ。観音開きに見えたのは、ただのまやかしだ。

 真実の扉は小さく、円形で、まるで風車小屋の丸窓のように可愛らしくさえ見えた。

 ジルベルトはわざわざ絹の手袋にはめ代えてから、その金属の水面に手を差し伸べ、音もなく開く。

「どうぞ、パリス閣下。お申し付けのお品でございます」

 彼がそこから取り出したのは、一輪の美しい薔薇だった。

「すっごい……綺麗だ」

 パリスの口から、我知らず感嘆の声が漏れる。

 黒天鵞絨張りの台座に乗せられていたのは、黄金と宝石で形作られた、本物の薔薇と全く同じ大きさの薔薇の一枝だ。茎や萼、葉の縁は黄金細工で、緑の葉は精密なエナメル細工、丁寧に金線で葉脈までが描かれている。茎を覆う鋭い刺は、三角形にカットされたエメラルド。これならば貴婦人の指を傷つけることもないだろう。

 何より美しかったのは、やはりその先端に輝く薔薇の蕾だ。

 それはとある春の明け方、夜明けの光を浴びて開きかけた薔薇の蕾そのものの美しさを完璧に再現していた。

 幾重にも重ねられた薄紅色のエナメルの花びらは、やはり黄金で縁取られている。ふっくらと膨らんだその愛らしさ、その重なり合った花びらの中を覗くと、そこには薔薇の雄しべと雌しべを隠した本当の花房が、涙型をした真珠の一粒で表現されている。

 何の曇りもない、これ一つで十分に指輪や首飾りで来そうなほどの真珠を、わざわざエナメル細工で隠す。その技巧主義は、おそらく職人の、彼が職人であるが故の矜持であったろう。

「略奪品ではございませんからご安心を。こちらはパレルモ公も御用達の職人、ブルーノ・ラングストンの宝飾店から購入したものですから、ご入用ならば、取引の際の書類もすぐにご用意できます」

 ジルベルトは台座ごと、宝石でできた薔薇をパリスへと恭しく渡した。

 不思議なことに、彼が円形の扉を閉めると、それ以上一切手を触れないというのに、巨大な金庫は不思議な金属音を奏でながら扉を飲み込み、やがてはその音すらも消え失せて、いったいどの波紋の彫刻が動いたのかすら見分けがつかなくなった。ただ蓮の葉の上で、小さな蛙が無機質な目を見開いているだけだ。

「これは髪飾りなんだね。スカーフやマントの留め具にも使える。とても素敵だよ、ジル兄さん」

「お気に召しまして光栄でございます」

 ジルベルトはほとんど表情を変えぬまま、ただ恭しく一礼すると、金庫とは別方向の、作り付けの本棚の方へと足を向けて、そこから無造作に一冊の本を引き抜いた。

「それからこちらの書籍は、旧皇帝派の屋敷から没収された競売品です。どちらも、出所ははっきりしております」

 手渡された本は、もともとはそれなりに立派な革装丁だったのだろうが、今はだいぶ傷んでいる。繰り返し読まれたのか、本棚か倉庫に打ち捨てられて押し潰されたのかは分からない。だが、その表紙の金彩の文字は、かろうじて読み取ることができた。

 確認するようにそれを眺めてから、パリスはにっこりと笑う。

「それなら書類は必要ないよ。前金で足りなかった分だけ、請求書を回して」

「では、閣下の私邸の方に、私信の扱いでお送りさせて頂きます」

「いやあ、さすがジル兄さんだ。本当に隙がないよね」

「ああ、ああ。隙だらけで悪うござんした」

 ウィレムが大袈裟にそっぽを向いてみせたのは、次兄の見事な手腕を引き立たせたかったからかもしれない。道化が板についてしまうと、どうしても茶々を入れたくなるものだ。

「ねえねえ。そうへそを曲げるないでよ、ビル。この素敵な贈り物をこれから妻に渡すんだから。君も一緒に僕の館に来ておくれよ、ジュリエットも喜ぶよ」

 パリスのあからさまなご機嫌取りに、ウィレムはこちらも大袈裟に肩を竦めて見せた。

「そう言われてもこちとら困る。こんななりじゃあ、お前の屋敷にゃ入れやしねえよ」

「この間の、義父が主催の夜会みたいな改まったことはしないから大丈夫。そこのところは安心してよ、ちょっとくらい普段着らしい方が、妻も気を許すだろうし。それに、午餐にはいい頃合いだろう? また僕たち三人だけで、軽く昼食っていうのはどうかな。英国式にお茶会でもいいけど、あれはあんまり面白くないし。海賊さんのお話で盛り上げてよね」

「まあ、そういうことならお供するぜ」

 ウィレムが渋々を装って請け合うのを予測していたのだろう。

「では若様、失礼を」

 ぎょっとして振り返ると、いつの間にか、執事が美しい布の数枚を手に掛け真後ろに立っていた。

 ウィレムとパリスが口を挟むどころか、ただびっくりしている間に、この東洋人の執事は、ロザルド水運の末弟を、ちょっと身なりのいいならず者から小粋で品格のある青年へと変えてしまった。

「人前で着替えるとかねえわ」

「お召替えではございません。スカーフをお巻きしただけでございます」

 確かに彼のしたことは、たった一枚の布を首元に巻き、銀のピンで留めただけだ。ただ、それがブルーグレーに染められた明国自慢の最高級の絹レースであり、留めたピンがウィレムの大好きな狼の意匠なのが、何とも抜け目がない。

「それからどうぞ、こちらのマントを」

 渡されたのは、ここのところ流行の丈の短いマントだ。こちらも最高級の仔山羊革、実にしなやかで柔らかいせいで、執事の腕にかかっている時には布にしか見えなかった。スカーフよりは濃いグレーを選んだのは、ウィレムのブーツに合わせたのだろう。

 実際、いかにも貴族然とした長いマントより、船乗りにはこちらの方がよく似合う。それに、自慢のサーベルも見える。完璧な計算だ。

「そんじゃまあ、行くか」

「見違えるよね、そうやってると本当に御曹司だよ」

 パリスの軽口にわざとらしい渋面を作って見せると、不意に兄から呼び止められた。

「待て、ウィレム」

 と、ジルベルトは執務室の机やチェストの引き出しからいくつかの小箱を取り出し、手早くまとめて革鞄に入れた。

「エスカラス公爵邸に行くのなら、大公殿下、パリス殿、若奥様のそれぞれに献上品がある。きちんと渡すようにな」

 仕方がなさそうに鞄を受け取る弟に、さらに追い討ちをかけるように、兄は続けて小さな革袋を投げて寄越した。

「それは大公殿下の執事に渡せ。彼の妻の誕生日が来週だ、我が商会からの祝いの品だとはっきり伝えるのだぞ」

「うっわ、めんどくせ」

「大公殿下の回りに集まる連中に顔を売っておくのは、商売の上では大事だ」

「仕方ねえなあ」

 辟易した顔で言う弟に、ジルベルト・ロザルドは『冷血』の通り名そのものの台詞を、平然と吐いた。

「売れるものなら何もかも、悪魔に魂でも売れというのが、我がロザルド商会の面目だ。せいぜい媚びを売って来い」

「へいへい。分かったよ、兄貴」

 宗教者どころか、少し信心深いものならひっくり返るか火刑にしろと騒ぎ出すような言葉を平然と、冗談にすら聞こえない声音で口にするのだからこの兄は恐ろしい。実際、ジルベルトなら悪魔と魂の値段の交渉だろうと、堂々と渡り合いそうな気がした。

「兄貴の魂なら悪魔でも値切れねえな、むしろ吊り上げさせそうだ」

 それを、軽く肩をすくめて笑うだけで躱せるように育ってしまった弟も、幸いというべきか不幸というべきか。

「待て、ウィレム」

「まだ何かあんのかよ」

 と、再び同じ言葉で呼び止められて、むすっとした顔で振り向いた弟に向かって。

 ジルベルトは帽子掛けから、ひときわ大きな駝鳥の羽飾りのついた黒革の鍔広帽……兄の一番の気に入りの帽子を取ると、弟の頭にぐいと押し込んで、斜に冠らせた。

「これで完璧だ」

 兄のこんな満足げな微笑を見たのは、本当に久しぶりだった。

「へへ、ありがとな、兄貴」

 ウィレムは妙に照れくさくなって鼻を掻いた。短いマントに鍔広帽、長サーベルに羽飾り。これならどこからどう見ても立派で洒脱な、いや、「完璧」な船長様だ。兄の言葉が嬉しかった。

「いいなあ、仲が良くて」

「いいじゃねえか、お前はうちの四番目みたいなもんなんだから」

「そうだね」

「んじゃこれお前と、お前の義父上にな」

 と、革鞄をそのままパリスに手渡そうとした途端、次兄の怒号が飛んだ。

「ここで渡すな愚弟! 賄賂の意味がなかろうが!」

「ひゃあ、逃げろ!」

 悪魔でも逃げ出しそうな剣幕に、二人は慌てて執務室を飛び出した。声を上げて笑いながら駆ける姿は、全く手に負えない悪餓鬼どもそのものだった。

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