第13話 聖なる夜
「さあ、君のお城に着いたよ、お姫様」
故・公爵夫人のための塔にジュリエットを連れ帰ったパリスは、彼女が自分で歩けると言い張るのを笑顔でかわして、愛妻を横抱きにしたまま長い階段を上がり、彼女の部屋へと入った。
パリスは妻の外套を侍女に片付けさせると、ジュリエットを再び山羊の毛皮で包むようにベッドへと横たわらせ、いくつもの枕で柔らかな背もたれをこしらえてやった。本来ならば召し使いがやるような仕事だが、パリスはそれを許さなかった。
それから彼は、鏡台の上に置いてあるデキャンターから小さなリキュールグラスに水を点し、飾り引き出しから水晶細工の瓶を取り出して、そこから一滴、オレンジの甘い香りのする薬を落とした。
パリスはそのきららかなグラスを、妻の口元へと寄せる。
「さあ、これを飲めば楽になるから」
ジュリエットは何の疑いも持たずに従った。
彼女がその最後の一滴までを飲み干すのを見届け、グラスをデキャンターセットに戻してから、パリスは友人を大声で呼ぶ。
「さあビル、入れよ。もう、いちいち遠慮するの、面倒だからやめてくれない?」
「そうもいかんだろう。姫様、お疲れのところ、お邪魔をして申し訳ありません」
「いいんですの。わたくし、本当に少しめまいがしただけで……今、お薬を頂きましたら、もうすっかりよくなりましたわ」
「それは何より」
ジュリエットの顔色は、実際教会にいる時よりずっと良くなっていた。真っ白だった顔にはかすかな赤味がさし、瞳の金色の輝きも戻っている。
「軽食の支度を。スープと前菜、柔らかく煮込んだ肉か魚に、ちょっとしたパンがあればいい。それと、ロザルド海運からシェリーが届いているはずだ、それを一杯ずつ。付け合わせも前菜も、全て火が通ったものにしてくれ」
「畏まりました」
侍女は命じられるままに一礼し、本館にある厨房へと駆け出していった。
厨房で働く連中だけは、この後に予定されている大公主催の聖餐会の準備で大わらわ、てんてこ舞いで大昔の赤ん坊の誕生日など気にしていないはずだが、この命令は最優先で実行されるだろう。パリスは使用人に厳しいことでは、義父の大公以上だと恐れられている。特に奥方様に関することになると、それはもう悪魔だってあんな風には怒り狂いはしないと誰もが影で囁いているほどだ。
だが当のパリスは、厨房の状況など想像するつもりすらないのだろう。すっかりくつろいだ様子で、自分もマントと礼服の上着を脱ぎ、ブーツから室内履きに履き替えて、妻のベッドに軽く腰をかけた。
「じゃあ食事を待つ間に、ビルにバイキングの話でもしてもらおうか」
「まあ、素敵!」
「じゃあ、またバイキングの、そうだな、今日は変わった旅のやり方の話をしましょうか」
と、ウィレムはまた軽く咳払いをしてから語りはじめた。
実際、この姫君に自分の体験談を話すのは楽しかった。自分でも不思議なことに、ジュリエットに物語を迫られると嬉しい気持ちがどこかにあるのだ。
「バイキングってえのはご存じ置きの通り、何しろデンマーク=ノルウェー王国の立役者、北海の海の主役中の主役だ。だがやっぱり、北海っていうのはとにもかくにも雪と氷の国でしてね。奴らの住んでいるところは、やっぱり俺たちのところとは寒さそのものが違うからなんだろうが、なんと、海が凍っちまうんですよ。氷山なんてものじゃなくて、海一面が氷で覆われちまうんです。そこで奴らが、どうやってそこを移動するかっていうと、奴らは船長から下っ端の小僧まで全員で船を下りて、みんなで船を持ち上げて運ぶんです。氷の上が平らなところは橇みたいに滑らせられるが、どこもそういいところばかりじゃねえ。ちょっとしたでこぼこがあると、奴らはよっこいしょっと、あのでっかい船を担ぎ上げるんでさ」
「まあ、あんなに大きな船を?」
「それに、船乗りが船に乗らずに船を持って運ぶなんて、ちょっと滑稽だよね」
「はは、そうなんだよ。それで……」
などと、夫婦が目を輝かせて北方の冒険譚を聞いていると、ちょうど物語のきりのいいところで、銀の盆に乗せられた料理が運ばれてきた。
ふんだんに蝋燭が灯され、惜しげもなく火が燃やされていたとはいえ、ここは北イタリアだ。冷えた体にあたたかい食事は染み渡る。ジルベルトが売りつけたシェリーも、さすが次兄の勧めだけあって最高の味だった。
「美味しゅうございましたわ」
病のせいで随分と食が細くなっているようだが、ジュリエットもスープを飲み、いささかばかり蒸した魚を口にし、小さなグラスに半分ばかりのシェリーを飲んだ。
「でも、旦那様も船長様も、これだけでは足りないでしょうに」
「構いませんとも。こちとら真夜中にだって酒をしこたま食らいますからね」
「それは君だけだ」
ウィレムの冗談めかした口調に釘を刺してから、パリスはもう一度、例の水晶の小瓶を取り出した。
「さあ、食後のお薬を」
「はい」
確かに、彼女には夫を疑う理由など何一つないのだから、出された薬を大人しく飲むのは当たり前だろう。
それがいかにして作られたかを知っているウィレムは、コブラの毒を一気にあおる方がまだマシなような気がしていたが。
そんなことなど知る由もないジュリエットは、久しぶりの外出が楽しかったのか、それともわずかな酒に酔ったのか、例の薬のせいかは分からないが、どこか夢見るようなうっとりした目になって言った。
「いいおミサでしたわね。中座するのが勿体なかったくらいですわ」
「マティアス神父様は、本当に説法がお上手な方だね。心に染み入るよ」
「わたくしも、心が洗われるような気がしました。それに……」
と、夫の言葉に頷きながら、彼女は言葉を切り、薄い瞼をそっと閉じて、重大な秘密を打ち明ける人のように語りはじめた。
「それに、なんだかとても心が安らいだのです。無垢な子羊であることは幸せだというお言葉に、自らの身の上が重なりました。わたくしは何も分からない、覚えていない赤子のようなもので、それがいつも、とても心苦しかったのですけれど」
そのとき彼女の閉じられた瞼から流れ落ちた涙の、なんと清らかだったことだろう。
神父がしたり顔でまき散らす聖水の数千倍も、数万倍も、それは尊い一しずくに思えた。
「神父様の仰るとおり、この世には、辛いことや悲しいこともたくさんありましょう。それを知らずに、ただわたくし一人が旦那様にお守りいただいて、こうしていてもいいのかと」
ジュリエットはそのまま、倒れ伏すように夫の胸に身を投げ出し、何もかもをゆだねるように寄り添った。
「でも、神父様の有難いお言葉をお聞きして、今はただこうして、旦那様のお気持ちに甘えていてもいいのかと思えるようになりました」
「そうだよ、甘えておくれ。もっと甘えて。ね、僕のお姫様」
パリスは優しく彼女を抱きしめ、安心させるように、その白い額に口づけした。
若く美しい二人の姿を見ているうちに、ウィレムはふとひどく微笑ましい心持ちになり、同時に、あの糞神父をデンマーク沖に沈めるのは来年まで待ってやろうかな、と、そんなことを思ったりもした。
その美しい時間を邪魔するのは気が引けて、ウィレムは無言のうちに部屋を辞そうとした。
しかし、それをパリスが軽く片手で押しとどめ、もう一度妻の顔を見つめて問いかける。
「ジュリエット、こんな聖なる夜に話すことじゃないかもしれないけれど……僕の生まれのことはもう聞いた?」
「ごめんなさいパリス様、わたし本当に……」
「覚えていないのは分かってる。だけど、もう誰かから耳に入っているかと思って」
「何のことです?」
彼女は思いがけないことのように目を見開いて、愛くるしく首を傾げる。
パリスがこれから何を語ろうとしているか察しがついたウィレムは、再び訊ねた。
「やはり俺は席を外そうか」
「いや、君がいるときだから話そうと思い立ってね。それに、どうせ皆知っていることだ」
パリスは屈託のない笑い方をしてから、できるだけ落ち着いた口調で、妻の目を見た。
「ジュリエット。僕がエスカラス公爵の養子なのは知っているよね?」
「はい、そのようにお聞きしました」
「もともとは、僕は義父の親戚の子で、傍流も傍流、最下層の騎士の家の出なんだ。そんな僕が、どうしてヴェローナ大公の養子になんてなれたと思う?」
「お人柄が優れているからでしょう? パリス様はこんなにお優しい方ですもの」
「はは……君は本当に優しいね、ジュリエット。昔からそうだ。ずっと昔からそうだった」
何も覚えていない彼女の、空っぽの記憶の器に水を流し込むように。
パリスは声を上げて笑ってから、本当のことを打ち明けた。
「僕はね、ジュリエット。父の……エスカラス公爵の、実の息子なんだ。侍女に手をつけて生ませた庶子さ」
「えっ……」
ジュリエット夫人が思わず息をのんだのも無理はない。その理由は、パリス自身が一番良く知っている。
「公爵は僕の母を、僕がまだ母の腹の中にいるときに、親族で家臣の男に押し付けたのさ。決して父の命令に逆らえない立場の男にね。そして僕は、その男の息子として育てられた。知ってのとおり、教会は不貞も庶子も認めていないからね」
然様。
ローマ教皇派の大立て者であるヴェローナ大公エスカラス公爵、現教皇猊下の妹君を妻に娶っている大公殿下が、なんと庶子をもうけていた。それも平民の小娘を相手に。
大変な醜聞だ。
大公殿下はありとあらゆる手段を用いて、その事実を消し去ろうとした。養父や母ともども暗殺されなかっただけ、パリスは運がいいと言ってもいいくらいだ。
「でも、何となく、そんな話は耳に入ってしまうものさ。自分が公爵の庶子だと知って、僕はむしろ腑に落ちたんだよ。どうして父……育ての父が僕に冷たいのか。周囲の人たちが皆、僕を腫れ物でも触るみたいに扱うのか。そして、母が僕を見る目が恨みに満ちているのか」
いや。何も知らぬうちに殺されていた方が、パリスは善良な子羊のまま天に召されることができたのかもしれない。罪を知らぬうちにこの世を去った方が。
たった十五で大公に手篭めにされ、身ごもらされた揚句に捨てられ、その上、三十近く年上の男の妻にさせられた女の憎しみの対象は、元凶である公爵でも、愛のない夫にでもなく、最も手近にいる弱者に……すなわち、我が身を痛めて生んだ我が子へと向けられたのだ。
成長するに従って、次第にあのおぞましい行為を強要した男に似てくる。美しい金髪も、整った顔立ちも、何よりもあの澄み渡った青空のような瞳が、パリスは実の父にそっくりだった。そんな小さな我が子のことを、彼女は愛せなかったのだ。
パリスが公爵家の養子として迎えられるのが決まった翌日、母は何も言わず、一切れの書き置きすら残さず、自宅の台所の梁に首をくくって自死した。それが彼女にできた、唯一の抗議であり復讐だった。
それが分かっているからだろう。パリスの声は悲痛そのものだった。
「僕は生まれてきてはいけない子供なんだ。存在することが神様から許されていない人間なんだ。神ですら、僕を善良な、無垢な子羊だとは認めない。僕は罪の子だ」
彼が愛に固執するのは、自ら愛されたことがないせいだ。
「パリス様……生まれてきてはならない子など、この世にはおりませんわ」
「ジュリエット、君はいつも優しいね」
妻の言葉に、彼はようやく、かすかな笑みを取り戻した。その目元はわずかに赤らんでいたが、取り乱して泣きわめくほどではなかった。
「君は子供の頃から、ずっと僕に優しかった。ビルと君だけだよ、僕と平気で遊んでくれていたのはね」
再び自身について語りはじめたときには、パリスは既にいつもの軽妙な男に戻っていた。
「君のご両親は節度のある方だったから、君に僕の出生を教えなかったんだろう。でも、もし知っていたとしても、君はやっぱり僕に優しくしてくれたと思う。君はそういう人だから」
と、彼は古い友人を軽く振り返り、いつものわずかに冷たい笑みを浮かべる。
「ビルが僕と仲がいいのは、いまだにどうしてだか分からないんだけどね」
「実家が近いからに決まってるだろバーカ」
ウィレムもまた軽口で返してから、いつもの皮肉めいた、俗語混じりの態度で応じた。
「そりゃあお前、俺はお前みたいには辛い目にはあってねえよ。だから、お前の心持ちの全部が全部分かるわけじゃない。だがなあ、ひとつ考えても見てくれ。出来のいい兄貴が二人もいる末っ子っていうのは、結構辛いもんだぞ。いつでも出来過ぎの兄貴たちと比べられて、ぼんくらだの出来損ないだって言われ続けてりゃあ、同じ持て余し者の気持ちくらいは分かるようになるってもんよ」
何をしても母からは永遠に愛してもらえない人間と、何をやっても兄たちには永遠に追いつけない人間。
そんなはみ出しもの同士が、たまたまうまくつながったというだけの話だ。
「そりゃまあ、正直なところ、親父や兄貴たちが、俺がお前に近づくように仕組んだのもあるんだろうさ。庶子とは言え大公殿下の倅だ、お前にはいついい賽の目が転がってくるかは分からない。兄貴たちにしてみれば、いつ切り捨てても構わない持て余し者の俺をお前さんの保険にくっつけとくくらいのことは、普通に企んだだろうな」
無論当時はそんなことになど思いも及ばなかったし、ただ近くに住んでいる、少し年下の少年と、さらに幼い少女と一緒にいるのが楽しかっただけだ。
もう帰ってはこない黄金の日々。「また明日ね」の約束が永遠に破られることなく続くと、無邪気にも信じていたあの幸福な時代には、我々はもう二度と戻ることはない。
「実際、お前には一番いい賽の目が回ってきた。兄貴たちの賭けは大当たりさ」
そう。彼はエスカラス公爵家の後継者として指名され、ウィレムは船乗りになり、お互いにお互いのはらわたから甘い汁を吸い合う仲になってしまった。
「だから、損得抜きでパリスとまともに付き合ってたのは、貴女だけということですよ、姫様」
ウィレムの付けたした言葉に、ジュリエットは心底嬉しそうに、まさに真冬に咲くはずのない大輪の薔薇のように微笑んだ。
「船長様もお優しい方ですのね。そうやって、わたしを立ててくださって」
「いい嫁さんを貰った色男が羨ましいだけですよ」
ウィレムは謙遜と冗談をうまく混ぜ合わせて表面を塗固めたつもりだったが、まあ本音も半々なのはパリスにはお見通しだろう。
「そう。僕は本当にいい妻を持ったよ」
彼女は今度は泣かずに、ただ夫の手を優しく握り返して微笑んだ。
「だからわたくし、あの教会のことを……古い教会のことを、少しだけ思い出せたのかもしれませんわね。でも、もっとちゃんとあなたのことを分かって差し上げたいわ。あなたとの思い出を……あなたが優しい子だったと言ってくれた頃の、幼い自分の心を取り戻したいのです」
ジュリエット夫人の思いももっともなものだろう。
失われた過去が戻れば、もっと深く夫を理解し、今の形式的な夫婦ではなく、真に神の前で夫への愛を語ることができるようになると……真実の意味で夫を愛するようになれるのではないかと。
そんな彼女の思考を断ち切るように、パリスは再び彼女の細い体を抱きしめて言う。
「そんなことはどうでもいいんだ、ジュリエット。僕は本当に嬉しいんだよ。何より君を妻に迎えられたことが嬉しい。大公の跡継ぎに決まったことも、実の父に認めてもらえたことも、そんなことは本当にどうでもいいんだ」
それは、説き伏せるというより、訴えているようにすら聞こえた。
「僕は君がいてくれればそれでいい。何も思い出してくれなくていい。思い出なんて、これから二人でいくらでも作ればいいじゃないか。君は光だ。弱々しい子羊に過ぎない僕が、恐怖と暗闇の中で目指す、たったひとつの星だ」
「ありがとうございます、パリス様」
聞いたばかりの神父の説教のちりばめられた愛の言葉に、ジュリエットはミサの時に味わった感動をも思い起こした。
「ああ、日付が変わったね」
そのとき教会の鐘が鳴り響くのを聞いて、彼らは聖なる子羊がこの世にお生まれになった時が再び巡ってきたのを知った。
そして、口々に言い、静かに微笑み合った。
「クリスマスおめでとう、ジュリエット、ビル」
「おめでとう、パリス、姫様」
「メリークリスマス、旦那様、海賊さん」
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