第11話 真・聖セバスティヌス教会

 聖セバスティアヌス教会の聖堂を出ると、広い庭から裏に回る飛び石の通路がある。

 そのまま進むと、寺男が生活するための、質素だが清潔な小屋が見えてくる。水色の屋根に白い壁板。ちょっとした小窓もあった。さすがにここまで教会本館を壮麗にしてしまうと、侍者の家もあまりにみすぼらしくては見栄えに関わると思ったのだろう。つつましやかではあるが煙突があり、外からでも室内には暖炉か薪ストーブの一つもあるのが分かる。

 薄い木板を白く塗っただけの扉だが、取っ手とドアノッカーがあるだけでも並の庶民の家よりよほどましだ。質素な鉄の輪のドアノッカーを、ウィレムは三回、二回、三回と、一定の間隔をあけて鳴らした。

 すると。

「やあやあ、船長様にパリス閣下、ようこそおいで下さいました」

 現れたのは、寺男として鐘撞き番をするだけでは勿体ないような、知的な顔をした青年だった。当時としては比較的貴重品の、金属縁の丸眼鏡が印象的だ。やけに色の薄い髪にほとんど陽に当たっていないような青白い皮膚、眼鏡の奥の瞳もガラス玉かなにかのようにほとんど色がないように見える。白子というほどではないが、色素に以上があるのは一目瞭然だ。いささか不気味な印象すら与える容貌で、逞しい美丈夫からはかけ離れているが、この手の男が好みの女が一定数はいることもウィレムはよく知っている。

「約束のものは無事に届いたか」

「ええ、それはもう。全てが完璧ですよ、さすがはロザルド商会だ」

 愛想を述べながら、寺男は二人を室内へと招き入れ、二度ほど外を確認してから扉を閉めた。

「ウィレムの旦那、だいぶんに髪が伸びましたねえ。半年でそんなに伸びますかね。公爵継息閣下は、そりゃあ眉だのおぐしの方にもお気をつかっておいででしょうけどもさ」

 などと、下らないことを言いながら、愛想笑いを浮かべて、若い寺男は当たり前のように鍵束を取り出した。

 扉の内側には、外からは想像もつかないほど立派な鉄の鍵がいくつもついており、彼はそれをひとつひとつ厳重に施錠してから言った。

「さて。ようこそおいでなさいました」

 室内は小さな暖炉に揺り椅子、書き物机に小さなベッド、風呂と台所兼用の大きな盥という、庶民としてはごくありふれた家具ばかりだったが、貧乏人相手に医者の真似事をしているというだけあって、木の棚には干した薬草や粉薬の瓶、いくつかの薬壷、包帯や清潔そうな布などが置かれている。真新しい小さな蒸留器と煮沸器は、先日届けたばかりの品だ。

 だが、この男の本当の仕事場がここではないことは、ウィレムもパリスも百も承知だ。

「ようこそ、我が穴蔵へ」

 男が白い腕で天井から吊り下げられたランプをつかみ、そのガラスの一枚を動かすと、ランプを吊るしていた鎖がするすると伸びて、さらにその先にはもっと太くて頑丈そうな、まさに船の錨でも吊るすような鉄の鎖がつながっていた。

 男が細い腕でそれをつかみ、非力そうな全身の力を込めて引っ張ると、小さなベッドが勝手にずるずると動きだし、その下の床から掛けがねの外れるピンという金属音がして、床板がベッドの背板に添うように立ち上がった。

 初めて見たときにはパリスも心底驚いたものだが、今ではもう見慣れてしまって何の感慨も起きない。

「さすがにいい仕掛けで、今まで一度も壊れた試しがございませんよ、旦那」

「当たり前だバーカ。うちの職人舐めんなよ」

 もともとは、男が最初に言ったようにただの穴蔵だった。貧相な扉がついているだけで、野菜の倉庫だと言い張っていたのだが、教会の改修の折りに侍者の家も建て替える段になって、ロザルド商会が……というより、例の食わせ者の執事が、お抱えの船大工の中でも信用の出来る者を何人か潜り込ませて、この仕掛けを作らせた。船倉の最下部には荷物と船との重さを整えるための錘水(バラスト)を入れておく機構があるのだが、そのちょっとした応用だ。

 跳ね上げ扉の下には、暗い石段が続いている。

 ここから先は、もとの穴蔵のままだ。

 跳ね上げ扉を下ろして掛けがねを嵌めると、鎖が巻き上げられていく音が板越しに聞こえた。扉を閉めてしまうと、地上からは少しの光も漏れてこない。

 しかし、地下の奥の奥からは、かすかな明かりがゆらゆらと幻のように揺れて流れ出してきていた。ごくわずかな光だから、足下に気をつけていないと石段をそのまま転がり落ちてしまうだろう。天井も低く、背の高いパリスはほとんど腰を折るようにして屈まないと進めないほどだ。

 曲がりくねった石段は、本当はそう長くはないはずなのだが、揺れる光と踊る影のせいで、まるで地獄の底にまで続いているかのような錯覚を覚えさせる。

「妻の薬は?」

「ちょうど今、こしらえているところでございますよ」

 パリスが問いかけたとき、ようやく彼らは目的の場所へと着いた。

 突如として開けた広大な空間は、ほとんど煤のでない上等の松の松明で真昼のように明々と照らされている。ほぼ卵形に近い楕円形で、もともと流れていた地下水を巧く導いたのだろう、片側に石組みの水路が作られている。ドーム状の高い天井からシャンデリアのようにぶら下がるのは、ガラスではなく乳白色の鍾乳石だ。

 ここは天然の洞窟であり、そして。

「やあやあ! お二人とも、この天才フランチェスコの錬金術の館へようこそ!」

 眼鏡の若者は高らかに叫んだ。

 そう。この眼鏡で白子の痩せた男が、表向きは聖セバスティアヌス教会の寺男にして慈善医師、真の顔は天才を自任する錬金術師、フランチェスコ・マルディーニだった。

 彼の背後では、鋳鉄の竃に良質の石炭が燃やされ、その上の大鍋では奇怪な臭いを発する液体が、ごぼごぼと不気味な音を立てて煮え続けている。

 石の粉で平らにならした床には長いテーブルが置かれ、ガラス製の蒸留器だの上皿天秤だの、フラスコにガラス皿、乳鉢と乳棒、無数の薬瓶、なんだか訳の分からない動物の死体とおぼしきものが液体とともに詰められた瓶、ぞっとするような虫の幼虫の標本の入った筒、アルコールランプ、小さくて鋭利な刃物の数々などなど、見るからにいかがわしい品々が所狭しと並べられている。

 いかにも気鬱げに頭を振ったパリスに、若者は狂気に満ちた陽気さで笑った。

「いい加減見慣れなさいな、もっともっと増えますよ、かわいい蛆虫ちゃんやかわいい蛭ちゃんが」

 言いながら、フランチェスコは長いガラスの棒を一本手に取ると、大鍋の中で煮えている不気味な液体を自慢げにかき混ぜはじめた。

「さて、エジプトの黒コブラの毒、カリブ海の河豚の胆、スペインのカンタレラ蜘蛛の卵、英国の夜盗蛾の羽、明国の阿片と鶏冠石に毒朝顔、オランダの麦角に黒レース模様の茸、クレタ島の燐と水仙の球根、ギリシャの毒ニンジンを少しばかり。それからこの、輝く琥珀色の液体をほんの一滴だけ」

 まるで歌でも歌うようにフランチェスコは言いながら、テーブルの上の小瓶の中からひときわ小さな一瓶をつまみ上げると、目薬でも落とす程度にぽとりと、一滴を鍋に加えた。すると、しゅわっと音を立てて白い泡が上がり、続いて一嗅ぎするだけで頭の奥がくらくらするような臭気が立ちこめた。

「まずはこちらを一度冷やしましてから、再び温めながら、焼いたワインに溶かし込んで、オレンジの皮の油と混ぜる。これで、奥方様の幸福をお約束する魔法の薬が完成いたします。どうです、簡単なものでしょう? さすが、船長様の集めてくれた素材は完璧だ、何の滞りもございません」

「錬金術か黒魔術か分からないな」

 パリスは口と鼻のあたりを絹のスカーフで覆っていたが、それでも彼が苦笑いを浮かべているのだけは分かった。

「分からなくていいんですよ、旦那樣方はね」

 フランチェスコは眼鏡の奥の目を口渇そうに細めながら、訳知り顔で頷く。

「特に、パリス様は……そうです、公爵継息閣下。あなた様は、ただご病気の奥方様がお心安らかに、お幸せにお過ごしになられるようにお望みなだけで、私のところへ薬を求めにいらしているのですから。これはただの、お心を休めるためのお薬です。そうですよね?」

「ああ、そうだ」

「ならば何の問題もございませんとも。然様でございましょう?」

「そうだ」

 パリスは今度こそ完全な無表情になって答えた。

「無垢なる者こそ幸福」

 神父から聞かされたばかりの聖句をつぶやいた彼の声は、氷のように冷たかった。

 並の者なら、あの美男壮麗な騎士の中の騎士パリス・エスカラスがこんな顔をすることも、こんな声を出すことも、想像だにできなかっただろう。だがここにいる連中だけは、これもまた彼の素顔の一つであることは百も承知だった。

 そのせいもあってか、フランチェスコはいつもと同じく一流気取りの態度で、鍋の中身の温度を何度も確かめながら、にこやかな口調で言う。

「それにしても船長様、今回も完璧な素材をありがとうございます。さすがは『銀の狼』の支配者、七つの海の王者でいらっしゃる」

「ぶち殺すぞフランチェスコ」

 ついさっき家を出る直前に、英国海軍提督から虚仮にされたのを突然思い出して、ウィレムは錬金術師を睨みつけた。

「今日ははらわたが煮えくり返ることばっかりだ、まったく」

「まあまあ、そう仰らず。次こそは是非とも、賢者の石を見つけ出してきていただけると助かります」

「ふん、そんなもの見つけたら自分で使うわバーカ」

「おやおや。使い方などご存じないでしょうに」

「世界に錬金術師がお前一人だと思うなよ、フランチェスコ」

 その言葉に、フランチェスコは眼鏡を押し上げながら、何の疑いもない声で答えた。

「残念ながら、私より腕のいい錬金術師は、ヨーロッパ中どころか世界中を探しても一人もおりません」

「自信家ほど早死にするぜ」

「それは気をつけましょう、お互いにね、船長様」

 フランチェスコはケラケラと耳障りな笑い声を上げた。

 それで我にかえったのか、パリスもスカーフを口元から下ろして、例のいささか冷たく見える微笑を浮かべる。

「ならば僕も気をつけるとするよ」

 だが、その言葉はウィレムが即座に打ち消した。

「そいつあ心配ねえ。自信家は死ぬが、傲慢な奴は長生きする」

「僕はそんなに傲慢かい? 心外だな」

「お前が傲慢じゃないってんなら、俺は大パルマ聖堂騎士団の提督程度に清廉潔白だね」

「ひっどいなあ」

「褒めてんだよバーカ。そのくらい傲慢でなくて、どうしてヴェローナの大公が勤まる」

 皮肉混じりではあったが、それは本心だった。

「傲慢ってえのは、小さいことにゃあ目をつぶる度量があるってことだ。ついでに、見逃してやってもいいことと、必ず始末をつけなきゃならねえことの分別がつく……そこを手前で見極められるのが器量ってやつだ。その器量がなけりゃあ、そいつは傲慢じゃねえ、ただの暗君だ」

 十五の年から世界中の国を見てきたからこそ言える。馬鹿な君主のせいで滅んだ国がどれだけあるか、謙虚さが単なる弱みにしか過ぎなくなる瞬間がどれほどあるか。

「お前にはその器量がある。お前が大公になれば、ヴェローナはこれからも安泰だ。義父上はいい跡継ぎを選んだ」

 ウィレムは心からそう思っていた。パリス・エスカラス・ヴェローニアスは歴史に名を残す人物になるだろう、とすら。

 だが、パリスはいつもの軽快な口調と眼差しに戻って、にこりと彼を見た。

「ビル。そのあたりのことは、やっぱり君は分かっていないね。長い航海の弊害かな?」

 そういう言い方をしても、少しも厭味にならないのがパリスの独特な可愛げだった。

 そしてふと真面目な顔つきになり、彼のまた別の顔……政治貴族としての表情を見せる。

「教皇派と皇帝派の争いはこれからも続くよ、ビル。ローマ教皇猊下は厳格な方だし、神聖ローマ皇帝は大ゲルマンという無尽蔵の後ろ盾がある。今はただ、この小さなヴェローナという街の中でだけ、教皇猊下のご威光を盾に、義父が皇帝派を黙らせているだけだ。いや、このヴェローナの中にだって、火種はいくらでも残ってる。あっちこっちにね」

 皇帝派の残党は力を失ったとはいえ、壊滅したわけではない。ヨーロッパの中のイタリア一国だけを取ってみても、教皇派の都市、皇帝派の街、それぞれが入り乱れて紛争が続いている地域とばらばらだ。そして、どの勢力も、いつ相手に寝返ってもいいように画策している。

「僕には、まだその火種を踏みつぶすだけの力はない。だから、僕が大公になったら、また戦争になるだろう」

 政治家としてのパリスは冷静だった。大局を見ている。そして、自分の実力も正しく評価できているとウィレムは感じ、この友人の聡明な頭脳に改めて感心した。

「だからまだ、僕が大公になるのは早いのさ。義父上に、もう少し皇帝派の力を削いでもらってからでないとね」

「なるほど」

 納得して頷いてみせると、パリスも満足そうに微笑み返してきた。

 身分は違えど、本音や頭の中で考えていることを素直にさらけ出せる相手がいるというのは幸運なことだと、彼自身が一番よく分かっているのだろう。

「なら、何もかも準備が整ったその時には、またこいつに薬を用立てさせるとするか」

「そうだね」

 その会話が何を意味しているのか、理解しているのか。そもそも二人の会話を聞いていたのか、いないのか。白子の錬金術師は、素知らぬ顔でこちらへと向き直った。

「さあ、いい具合に鍋が冷めましたので、仕上げにかかりますよ。またスカーフをご用意なさった方がよろしいかと」

 言い終えるより先にパリスはスカーフで口元を覆い、もっとひどい臭気に慣れているウィレムは軽く顔を背けるにとどめた。

 フランチェスコは鍋の中身をごく小さな柄杓で掬い上げると、煮詰められて腐った血のように赤黒くなったワインの入った別の鍋へと慎重な手つきで移し替えた。

 さすがに仕上げの作業をしている時の顔つきは真剣だった。ガラスの棒で平鍋をゆっくりと掻き混ぜ、何度か火にかけたり下ろしたり、ガラス棒で絡めとって粘度を計ったりした。そしてようやく満足げな目になってから、彼は平鍋の中の液体を、大きなガラスの器に注ぐ。そこにはオレンジの皮から絞られた貴重な油がリキュールグラスに二杯分ほども入っていた。

 それらが透明な器の中でよじれるように混じり合うと、ぞっとするような腐臭が嘘のように消え、オレンジの強い香りに甘い柔らかさの加わった液体が出来上がった。上質の石榴石のような、透明で鮮やかな紅色をしている。

「はい、完成でございます。毎食後に一滴ずつ、夜お休み前には三滴をお召し上がりになりますように。また、ひどくお加減の優れないときにも一滴。ただし、絶対に一日につき七滴を越えないこと。よろしいですね」

 そう説明する様子は、まるでごく普通の医者だ。ただし、眼鏡の奥の目が無色に輝いている以外は。

 透明な明国の水晶を刳り貫いて作られた美しい彫刻細工の瓶に、銀の小さな漏斗を用いて、フランチェスコは器用な手つきでその液体を流し入れた。ちょっと見たところでは、たいそう高級な香水か化粧水のように見える。

「では、お持ち下さいませ。奥方様におかれましては、くれぐれもお大事に」

「礼金だ」

「ありがとうございます」

 パリスが投げ渡した代価は、最高級のラベンナの薔薇の香水の十倍近い額の金貨だったが、フランチェスコは驚いた顔も見せずにそれを受け取ると、そのうち二枚を投げ返してきた。

「薬瓶のお代は結構ですよ、前に頂戴しましたから」

「妙なところで職人気質な奴だな」

 石段を上がりながら、パリスが苦笑いを浮かべたのも無理はないだろう。

 錬金術師は入ってきた時と全く逆の操作を跳ね上げ扉に施し、二人の客人を自室へと、すなわち地上の世界へと連れ戻した。ベッドが羽目板の上へと滑っていくのを見届けてから、彼は客たちを自分の家から見送る。

 あたかも信心深い寺男そのものであるかのように、フランチェスコは深々と頭を下げて、二人の背中が消え去るまで微動だにしなかった。

 その理由は明白だ。

 彼らが侍者の家を出るとすぐに、飛び石の道の先の前庭に立っている人影が見えた。

 マティアス神父だ。

 神父は待ち構えていたように、面長の顔に笑みを浮かべて、慇懃な態度で一礼してから訊ねてきた。

「フランチェスコとのお話は終わりましたか」

「ええ、神父様。おかげさまで、妻のための薬を購えました」

「それは何よりでございました」

 彼はわざとらしく大きく頷いてから、芝居がかった仕草で首を振って同情の意を示す。

「お気の毒に、奥方様は今、ご病気なのだとお伺いしました。無垢な生まれたての子羊のようなものでございましょう。閣下のような羊飼いがお傍におられるのは、幸いなことですねえ」

「いえ、僕が子羊そのものですよ。僕の舌からは、妻への愛の言葉しか出ませんからね」

 パリスは皮肉のつもりで言ったのかもしれないが、この男が言うと、どうも本気のようにしか聞こえない。神父もそう受け取ったのだろう、今度はウィレムの方へと水を向けた。

「では、船長様が羊飼いの役目を?」

「いや。俺は、何の役にも立たない。そこらの葉っぱにくっついてる虫けらみたいなもんでさ」

 ウィレムは軽く自分を卑下して話題を打ち切ろうとしたが、マティアスは柔和そのものの作り笑顔のまま言った。

「流れる木の葉に乗って、川面を伝い、大海に出る。いかにも船長様というだけあって、船乗りらしい素晴らしいお考えですねえ。いやあ、感銘を受けました。私も、航海のご無事を心よりお祈りしておりますよ」

「感謝します」

 慇懃無礼とはまさにこれだな、と思いつつも、ウィレムはただ静かに頭を垂れて感謝の意を表した。ここで一発ぶん殴ったところで、こちらが絞首台に上がるだけ、いや、下手をすれば兄たちに迷惑がかかる。そう思えば、この程度の我慢など何ほどのこともない。


 教会を出て馬車に乗り、二人きりになったところで、ようやくウィレムは重い口を開いた。

「なあ、パリス」

「なに?」

「お前はあれをいい神父だと言ったがさ」

 彼は葉巻に火をつけながら、本当に毒薬でも噛み締めているかのような渋面を作って言い捨てた。

「俺、あの神父すっげえ嫌いだわ」

「おや偶然。僕もだよ」

 パリスはにっこり笑って頷く。

「やっぱり僕たち、気が合うね」

「そうか、やっぱりな」

「だよねえ」

「あっはは……はは」

 パリスは背当てにのけぞりながら、ウィレムに至っては座席に転がって、馬鹿な子供のように腹を抱えて笑った。

 高貴なご身分の方が声を出して笑うなど無作法の極みという時代だ。馬車の中から若者二人の大笑いの声が聞こえてきたのだから、御者もさぞかし驚いたことだろう。

 ひとしきり笑ってから、吸わないうちに消えてしまった葉巻をもう一度手に取って、ウィレムはいかにも意地の悪い調子で片目を瞑った。

「じゃ、枢機卿になる前に、デンマークの牡蠣に新しい賛美歌を教えていただくお役目に就いて頂くことにしよう」

 そして、やおら高らかに歌いはじめた。

「歓喜の歌よ今こそ響け、主は来ませり、まことの主は来ませり」

 聖なる子羊、イエス・キリストの生誕を祝い讃えるための賛美歌だった。

 いかにも船乗りらしく、酒焼けと煙草のせいでひどい声だったが、音程と歌詞とラテン語の発音は完璧だった。あの厭味な神父の前で披露していたら、彼の学識が上辺だけではないことを証明できたかもしれない。

「主を讃えよ、まことの主を讃えよ。主は全てのものに微笑み給ふ、等しく微笑み給ふ。星の床のはるか下の我らにも」

 だが、彼は最後の一節を、即興で替え歌にした。

「昏い水底に横たわる我らにも」

 それを聞いたパリスは、一瞬ぎょっとした顔になってから、性質の悪い冗談だと気づいて苦笑いを浮かべた。

「北海航路の牡蠣たちのための賛美歌、とでも名付ける? それ」

「いいな、流行らせるか」

「やめてよ、僕もう一生牡蠣食べられなくなりそう」

「え? 北海産の牡蠣が一番美味いじゃん。お前、牡蠣であたる体質だったっけ?」

「そういう意味じゃない!」

 そう真顔で言い合ってから、二人は再び馬車の中で笑い転げた。

 愚かな子供のように。罪を知らぬ子羊のように。

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