第9話 ロザルド兄弟水運商会本館
ヴェローナの港から連なる白壁の倉庫街、数百という建物には、大扉にほぼ全て同じ文様が刻まれている。
狼の背に乗った鷲。すなわち、ロザルド兄弟水運商会の紋章だ。
倉庫の中には、全イタリアどころか世界中から集められたワインやシェリー、果実酒などの樽や瓶、小麦や大麦、燕麦などの穀物、干し肉や干し魚、干した果物やチーズの類、さらには羊毛、毛織物、そのままの綿花と木綿の糸や布、色鮮やかな絹布、毛皮になめし革、葉巻に煙草の葉、様々な薬草や鉱石、要するにありとあらゆる商品がぎっしり詰まっている。中にはかなりの高級品も入っている……もちろん、最も高価な種類の品物はロザルド水運本館の金庫に厳重に保管されているのだが。
壁が白いのは漆喰で塗り固められているためだ。漆喰は高価だが炎に強い。大河の沿岸に連なる倉庫群にとっては、強風で火事が広がるのは最も恐ろしい。
倉庫の横にはいくつもの荷車が置かれ、あるいは馬車につながれて出立の準備をしている。あたりを忙しく立ち働く人夫たちは、皆屈強で日焼けした男ばかりだ。汗と垢と煙草の臭いが立ちこめる、いかにも労働者の区域という雰囲気だった。
だが、ロザルド商会は人夫たちの間でも、最も評判がいい働き口だ。仕事はそれなりにきついが、何しろ金払いがいい。給金が滞ることはないし、今回のようにお宝を満載した外洋船が戻ってきたときには祝いの一時金も出る。夜番と昼番の交代制だが、それも半月ごとに入れ替えてくれるので、家族と過ごす時間がなくなるわけではない。家族を何よりも重んじるイタリア人の気質を、雇い主はよく理解している。
倉庫には衛兵という名目の用心棒もところどころに配置されていて、揉め事があれば仲裁もするし、昔のようにあちらこちらで宗派を巡って喧嘩になることもない。ロザルド水運の倉庫にわざわざ泥棒に入るような度胸のある奴も、今はもういない。そんな連中がどうなってきたか、ヴェローナの人間は誰でも知っている。
その巨大な倉庫街を網の目のようにつなぐ道はやがて一本の大きな通りとなり、片方はヴェローナの市街を貫く目抜き通りへ、そしてもう一方は、この倉庫の持ち主の屋敷へと続いている。
高く重厚な造りの門扉の先には、芝生と石畳が千鳥格子に配された広い庭。その先には、青い屋根に白壁、紺色の窓枠に鳥の翼模様の鎧戸が見事な屋敷が建っている。貴族の館とは違って平屋建てだが、並の商人の家ではないことくらい一目見れば分かった。
その重厚な門扉の上には、青銅で作られた狼と鷲の像が睨みをきかせ、扉の上部には金彩で堂々と『ロザルド兄弟水運商会本館』と書かれている。
その最奥の部屋、分厚い樫で作られた扉には、『商会長カイラス・ロザルド執務室』と書かれた銅版が据え付けられている。
壁一面には天井まである大きな本棚が作り付けになっており、その一段一段にはびっしりと革装丁の本や羊皮紙の束が詰め込まれている。本棚の横には、隣の副執務室との続き扉が、わざと目立たぬ色合いで設けられていた。
反対側の壁は、やはり壁一面の巨大な世界地図。そこにはまたひとつ真新しいインクで航路が書き加えられている。その上に、自らの家が作り上げたイタリアで最も豪華な外洋船、すなわち弟の愛船である『銀の狼』号の出航を、海洋画では当代一の名人と言われるカルル・ナンニーニに描かせた絵がかけられている。
色ガラスと無色のガラスを千鳥格子に嵌め込ませた大きな窓を背にする形で、重厚なマホガニーの仕事机と書類入れ、ティーテーブル付きのチェストなどが並んでいる。机の上にはベネチアンガラスのインク壷に鵞ペンとペン立て、文鎮代わりに使っているのは弟の土産だろうか、アルプス山脈産出が有名な透明度の高い煙水晶の塊である。
さて、それらのいかにも執務室らしい品々を前に、大きな背もたれの心地良さそうな椅子に腰掛けているのは、短く刈り込んだ前髪の一部だけが白髪になった中年男だ。高い鼻と太い眉が、いかにも意思の強そうな印象を与える。だが同時に、人当たりのいい柔和な笑い方をする人物でもあった。茶色い天鵞絨の上着に白い襟を少し出し、中にスカーフを入れ込んでいるのは、堅実な商人らしい雰囲気の演出だろう。
彼がカイラス・ロザルド、このロザルド水運の商会長にして、現在の一族の長、そしてウィレムの一番上の兄だ。
歳の離れた末の弟を随分と甘やかしているのだろう、ウィレムが自らの執務机の上に腰をかけていても、無作法だと咎めたりはしない。
今は二人とも葉巻とワイングラスをそれぞれ手にしながら、数枚の書面に目を通し、鵝ペンで何か書き込んだり、そこにすぐに線を引いて消したりを繰り返しているところだ。
「ならば『氷の雪』というのはどうだ」
「その名前はないだろ兄貴。センスねえわ。氷も雪も安直だろ、どっちも冷たいから意外性がねえ」
「だが、お前のつける名前は品がない。イタリア生まれだからといって、英国人どもに馬鹿にされるのは腹に据えかねる。もっとこう、品格と風情のある名でないといかん」
兄弟は実に真剣な様子でありながら、しかし家族ならではの親しげな調子で、何かの名付けについて話し合っているようだ。
「もっと単純でいいんだよ、その方が印象に残る。『白雪』と『揺炎』の仔なんだから、『白炎』でいいじゃねえか」
「いや、仔は恐らく父に似て赤毛だ。揺炎の父の月炎をなぞって『赤月』号というのはどうだ」
兄の言葉に、ウィレムは少し笑った。
「まあ、悪くはないかな。イングランディアじゃレッドムーンか」
「英国語なら、スカーレットムーンか、ロージームーンの方が響きがいいと思うよ」
と、声をかけられて、兄弟は不意に顔を上げた。
そこに立って軽く腕組みをしている人物に気づいて、ウィレムはいつもの皮肉らしい笑みを浮かべた。
「なんだ、パリス、来てたのか。声くらいかけろ」
「いや、なんだかそんな雰囲気じゃなかったから」
パリスは品のいい顔に少し困ったような苦笑いで答える。
彼は堪能というほどではなかったが、英語には多少の嗜みがあった。英国の詩も読むし、英国風の服装の流行にも敏感だ。ウィレムも全く理解できないわけではなかったが、こちらの場合はちょっとした単語の組み合わせ以外は、海洋用語専門である。
椅子から軽く腰を上げて、カイラス・ロザルドは人好きのする顔に穏やかな表情を浮かべて、来客に丁重に挨拶する。
「これはこれは、パリス閣下。わざわざお運び下さいますとは、何かご用命でしょうか?」
「いえ、悪友の顔を見に立ち寄っただけです。カイル兄上、どうぞおかまいなく。それと、閣下はやめてください、カイル兄上にそう言われるとくすぐったいったらありゃしない」
「そうですか、ではパリス殿とでもお呼びしますか。今では我が家の立派なお客様ですから、昔のようにパリス坊やと呼ぶのは差し障りがありますからな」
「ええ、そのくらいでちょうどいいでしょう。でももちろん、坊やでも構いません。カイル兄さんならね」
パリスの言葉は遠慮や謙遜というより、身分を越えた古い付き合いを大事にしたがっているように聞こえた。そのあたりの心情を汲むのが、カイラスは実に巧い。
それが、長兄が商売人として成功した秘訣だろう。金勘定がうまいだけでは商売にはならない。金のやり取りは人との付き合いを生む。本当に大切なのはその付き合いの方なのだ、という祖父の言葉を、カイラス・ロザルドは四十歳を過ぎた今でも忠実に守っている。
「だけど君、奥方選びより先に、もう子の名付けを考えているのかい? ちょっと気が早すぎるんじゃないかな」
「何だって?」
パリスが苦笑まじりに茶化すと、ウィレムは大真面目な顔で首をひねって答えた。
「いや、名前は早く決めないと間に合わん。イングランドの千ギニーに出す」
「何の話?」
今度はパリスが首をひねる番だった。
「馬だよ馬。カイル兄の牝馬が、これが『白雪』って名の、そりゃもう綺麗な葦毛なんだがな。いい仔を産んだ」
「なんだ、馬の話か」
パリスは苦笑を交えて肩をすくめたが、カイラスは大真面目だ。
「伝統あるレースに出すには、イングランドに厩舎を構える必要がある。厩舎株を買わねばならぬのですよ、パリス殿」
競馬は、英国では王侯貴族の遊びだ。由緒ある家柄の者なら誰でも厩舎を構え、名馬を所有し、自らの権勢の象徴とする。中でも千ギニーは、最も歴史と権威のあるレースのひとつだった。
そこにイタリア産の馬で勝利する。それはカイラスの悲願であり、金などいくらかけても構わないと思っているらしい。それこそが世界にロザルド海運の名を知らしめるための重要な布石だと彼は考えていた。ただイタリア一国の海運商社では終わらない。祖父と大叔父が作り出したロザルド海運を、世界でも有数の、いや最も巨大な冨を生み出す企業に育てたい。英国競馬への参戦はそのための重要な布石だった。
だが、ウィレムは兄のそうした野心にはあえて触れず、あくまで道化役に徹する。
「ジル兄は、そんな金があるならアハルテケを買って来いと言ってたが、アハルテケなんざ馬と同じ重さの黄金積んだって売ってくれねえんだよな」
「アハルテケって何?」
その聞き慣れない名と奇妙な語感に、パリスはきょとんと目を丸くした。
「殿がご存じないのも無理はございませんな」
それにはカイラスが年長者らしい如才ない態度で、にこやかに解説する。それが相手の無知を指摘しているように聞こえないのは、そのゆったりとした声と語り口のおかげでもあるだろう。
「アハルテケと申しますのは、黄金の馬でございますよ。ああ、これは明国の、さらにもっと北の方にいる遊牧民の持ち馬なのですが、全身が、鬣から毛並み、蹄に至るまですべて黄金色で輝いております。比喩ではなく、黄金の馬なのです。アラブやサラブレッドに比べるとかなり小柄ですからレース向きではございませんが、あれは生きた芸術品です。ジルベルトは、教皇猊下への献上品として考えていたようですが、生憎とこれが取引にしくじった」
と、兄に親指で示されて、ウィレムはわざとらしい渋面を作って舌を出した。
「俺のせいじゃねえよ、あいつらが売らねえんだよバーカ」
だが、黄金の馬という響きが気に入ったのか、カイラスの語った異国の物語に心をつかまれたのか、パリスは空色の瞳をさらに輝かせて言う。
「いいなあ、それ。僕も欲しいなあ」
するとカイラスは柔和な顔にことさら人を惹き付ける笑みを浮かべて、大きく頷いた。
「では、我らがパリス坊やがヴェローナ大公に就任された暁には、祝いの品として献上致しましょう」
「安請け合いすんなよバカ兄貴! 誰が持ってくると思ってるんだよ?」
「わあ、楽しみだなあ! ジュリエットも喜ぶよ、彼女、動物が好きなんだ」
「だから無理! 絶対無理!」
親しい間柄ならではのにぎやかなやり取りを、まるで氷水でもぶちまけるような冷たい声が遮った。
「これ、兄上、愚弟。パリス閣下に失礼だぞ。椅子もお勧めせずに」
続き扉から現れたのは、ロザルド兄弟水運の副商会長にして筆頭海図師、ジルベルト・ロザルドである。
「おお、ジル」
「うっわ一番怖いの来たよ」
「ごきげんよう、ジル兄上」
「ごきげんよう、パリス殿」
賓客に慇懃に挨拶する姿は、ロザルド三兄弟の中でもひときわ優れているのだが、どうにも人を寄せ付けないような雰囲気を持つ。兄弟の中で唯一母に似た黒髪と黒目の持ち主、しかも洒脱な燕髭のせいで、彼を妬む者からは『青髯』呼ばわりまでされるが、たとえそんな連中でも、ジルベルトこそが実はこのロザルド商会の心臓であり頭脳であることを否定はしないだろう。まさに『切れ者』という表現がふさわしい人物だ。
「誰ぞ、パリス殿にお飲物を。シェリーでよろしいかな」
「ええ、僕は何でも」
そんなジルベルトにも、パリスはいささかも臆する様子は見せない。にっこり笑って、運ばれてきた椅子に腰掛けた。
「よいシェリーが入りました。どうぞお味見なさってください。ヘレス・デラ・フロンテーラの正真正銘のシェリーです。いささか強い酒ではございますが、奥方様のお体を温めるのには、少量でしたらよろしいかと存じますよ」
「じゃあ、後で一瓶届けて」
「いつもご贔屓を頂きまして、誠にありがとうございます」
このあたりは、さすがジルベルト・ロザルド、一切のそつがない。本物のシェリーがパリスの手元に運ばれてくるよりも早く、金貨三枚の最高級品の酒を一瓶売り付けた。
シェリーのグラスを老いた侍女が持ってくると、ジルベルトは自らそれを受け取り、兄弟とパリスに配った。
「もう下がっていい、ヴィスコンティ夫人」
「はい」
いかにも長く仕えているという風情の召し使いへもこの扱いだ。いや、この次兄としてはこれが精一杯のねぎらいの言葉なのだということくらいは、老女には伝わっているだろう。何しろ彼は、信用していない者には声すらかけないのだから。
彼女に酒を届けさせたのは、おそらく執事の差し金だろう。召し抱えて数年程度の人間の持ってきた酒など、ジルベルトは床に捨てるか、まず持ってきた本人に最初に口をつけさせる。誰かの保証があってしっかり素性の知れている召し使いでも同じ扱いだ。
ジルベルトはシェリーのグラスでわずかに口を湿らせると、兄弟を順番に指差して、美しいが抑揚のほとんどない声で言った。
「しかし兄上、愚弟、何も分かっておらぬな。内陸の遊牧民にいくら黄金を積んだところで見向きをするものか。トラキア王国の昔からあの地域は金銀の国だ。もちろん有名な馬産地でもあるが」
と、言葉を切ってから、執務机の上の煙水晶の塊を取り上げて、その重みを計るような仕草をしながら続ける。
「次は、馬と同じ重さの塩……岩塩ではなく精製した真っ白な海塩を持っていけ。同じだけの量の白砂糖も。おまけに火薬の二樽もつけてやれ」
「貴重品ばっかりじゃねえか。大きく出たな、兄貴」
「それならば売る」
「だが、そこまでしてアハルテケが必要か? 黄金色とは言え所詮はお飾りにしかならん馬だぞ。採算は合うのか」
ウィレムの疑問に、ジルベルトは一切の迷いのない声で答えた。
「合わせる」
その言い方に……「合う」ではなく「合わせる」と言ったところに明らかな彼の意思を感じ取り、そこがいかにも次兄らしくて、ウィレムは思わず口元に笑みが浮かぶのを感じた。
弟の表情には気づいていながら無視しているのだろう、ジルベルトは相変わらず淡々とした口調で告げた。
「シャンの手の者に調べさせたのだが、内陸の遊牧民の有力者ボルジギン家は、また遊牧民族の統一を謀っているらしい」
「んなもん、そうやすやすと出来るわけねえだろ」
「他人は出来ないと思うことをやってのけるから意味があるのだ。彼らはいずれ、明国と戦を起こすぞ。あの元国の、いや、チンギス・ハーンの栄光を、ボルジギン家はまだ諦めてはいない。まずは明国を食い、ロシア大帝に喧嘩を売るところまで考えている。世界帝国よふたたび、だ」
並の人間が言ったら冗談にしか聞こえないか、芝居がかって聞こえるような台詞でも、この兄の口から出ると実に真実味がある。
「ほう。そいつあ面白そうだ」
「それは儲かりそうだ」
弟と兄が口々に笑い合うのを真正面から見て、ジルベルトは一切の笑みも浮かべずに言い切る。
「儲ける」
子供の頃から、そういう次兄が怖くて仕方がなかった。だがウィレムは、そういう兄が大好きでもあった。
「ヒュー。さすがジル兄」
弟の賛辞にも、笑いかけるどころか、そちらをちらりと見遣りすらしなかった。
こういう時はいつも、まるで講義を続ける学者のように、あるいは説教を行う司祭のように、ジルベルトは話す。いま彼の頭の中にあるのは、世界中の地図、海図、あらゆる物資の相場が書かれた表、そして世界各国の通貨だ。
しかし、目の前に兄弟や賓客がいることを忘れているわけではないことも、しっかりと証明してみせる。
「それから、英国の厩舎株の件だが、準男爵(セミ・バロン)のサー・ローリー・ホッチンズ殿が譲る気があるそうだ。スキプトン城塞の詳細な見取り図と交換ならば了承すると打診された」
これにはウィレムが異論を唱えた。
「うん? スキプトン城塞って英国領のど真ん中の城だろ? そんなもんどうして英国の貴族が欲しがるんだ」
「英国内だからこそ欲しいのだ。内部の詳細を知っていれば、城攻めは容易い。準男爵は一代限りの爵位だからな、子々孫々の代を考えたら、もう少し上の位へと欲が出たのだろう。他人の持ち物を奪うのは手っ取り早い。それが隣人ならなおのことだ」
「さすが海賊の国だな、欲しいものは奪い取るのが道理ってことか」
ウィレムは頷いたが、パリスはまだ不思議そうに首を傾げている。
「なるほど。で、どうしてそんな貴重な見取り図とやらがここにあるんです?」
だが、ジルベルトは当たり前のように答えた。
「私が作らせました」
「さすがジルベルト。お前ならば、厩の柱の数まで調べ上げたのだろうな。その見取り図とやら、私も欲しいくらいだ」
長兄カイラスも賛辞を惜しまない。もちろん、次兄はこれにも嬉しそうな顔どころか、眉ひとつ動かさなかった。
「イングランド人は裏切らないというのは事実。だが、金で買えないものはないというのもこれまた事実」
パリスはシェリーの味を確かめながら、また呆れたように肩をすくめる。
「本当にすごいもんだね。ジル兄さんは英国に諜者を何人入れてるのさ?」
「私個人では数名ですが、シャンの部下が二十人ほど入っております」
「ああ、英国の方が明人は溶け込みやすいかもしれないね。それにしても二十人は目立ちすぎない?」
英国は国王エドワード二世以来の方針で、長年中華王朝との交易に力を入れている。それは現在の明国が相手でも変わっていない。
そのため市街に明人が多少うろついていたところで見とがめられることはないだろうが、二十人の集団となるとどうだろうか。パリスが不審に思ったのも無理はないが、ジルベルトの答はやはり平然とした者だった。
「今はちょっとした茶屋の店構えで阿片宿を営ませているだけでございますゆえ、ご心配には及びませぬ。三、四十年も時をかければ華街ができ、立派な阿片窟になることでしょう。海賊どもに堕落の味を教えてやるのも、なかなかに儲かります」
最後の言葉に、パリスは少し眉をひそめて友人の方を見た。
「ねえ、君の家っていつもこんな怖い会話してるの」
「ん? いや、ジル兄がいる時にしては穏やかだわ。すげえ和やかな雰囲気よ、今」
ウィレムは当たり前のように、いつもの皮肉めいた笑いでおどけた。
「ああ、初めて君が兄上の小言を怖がる本当の理由が分かった」
「だろ?」
無意識に快活を装った友人の態度に、もしかしたら……、とパリスは想像する。この優秀な二人の兄の下に生まれたウィレムが上手く生き延びるには、道化に徹するしかなかったのではないかと。
それを二人の兄もよく分かっているから、なんだかんだで兄たちも彼を甘やかす。
そして、突然。
ウィレムの身に染み付いた道化ぶりを、自分が一番都合良く利用していることを、パリスは自覚した。
「ついでにここに執事が混ざると、ゆうに五倍は物騒でおっかねえ話になる。だから俺はとっとと海へ逃げるんだよ、パリス」
「得心した。うん。すごくよく分かった」
だが、彼が道化でいるかぎり、パリスとウィレムはうまくやれる。パリスもまた道化の自覚があるからだ。両親の前で、義父母の前で、民衆の前で、常に道化を演じてきた。
道化同士だから息が合う。特別なことが出来る。そう、奇しくも先ほど『切れ者』ジルベルト・ロザルドが言った通り、他人は出来ないと思うようなことが。
パリスは相棒に向かってにこりと笑いかけた。
「じゃあ、今日は僕と一緒に逃げない?」
「どこへ?」
「教会にお祈りに。新しい銀の鐘、近くで見たいでしょ?」
ウィレムが是非を答えるより先に、小さく頷いたのは長兄のカイラスだった。
「ほう」
何もかも見透かしたような目をしている。人が良さそうに見える分、実はカイラスの方が食えない男なのは、この一族に関わる人間なら誰でも知っていることだ。
「よかろう、行って来い。新しく着任された神父様に、よくご挨拶するように」
「ああ、分かったよ、カイル兄」
すると、何もかも打ち合わせが済んでいるかのような手際の良さで、ジルベルトが懐から小さな革袋を取り出した。
「ご寄進だ。これを神父様に」
黒い革袋は小さいが、ずっしりと重い。中に金貨が詰まっているのは一目瞭然だった。
「なあ。金じゃあ天国の門の鍵は買えないらしいぜ、ジル兄?」
「現世の利益は金でしか買えぬのだよ、愚弟」
皮肉めいたウィレムの台詞にも、ジルベルトは当たり前のように告げる。さらに、それを締めくくるかのように、長兄のカイラスが言葉を引き取った。
「それに、保険とは常にかけておくものだよ。たとえ相手が天にまします我らが神であろうともな」
やはり恐ろしい男たちだ。
そう思ってから、パリスは自分のしていることが神をも恐れぬ所行であることを思い出し、我知らず苦笑いを刻む。
と、そのとき。
「供回りは如何いたしますか」
いつの間に入ってきたのだろう? ウィレムのすぐ傍らに、ロザルド家執事のアイン・シャンが立ち、外出用の上着をその手にかけて、主人家の御曹司に袖を通させようとしていた。
「いらねえよ。こいつの馬車なら、大抵の奴は勝手に道を譲ってくれるし、それに」
ウィレムは執事が自分の腰に剣吊り革を嵌めるのを眺めながら、自信たっぷりに言ってのけた。
「わざわざ道にふさがって来る奴はぶった斬るから気にすんな、アイン」
「承知致しました」
執事はそれだけ言うと、よく撫で付けられた黒髪の頭を軽く下げて、滑るような動きでカイラスの執務机の後ろ側へと回り、そのまま不動の姿勢で待機した。革靴に黒服のはずなのに、足音どころか衣擦れの音ひとつさせない。
いささか軽妙さを欠きかけた執務室に明るさを取り戻したのは、商会長であるカイラス・ロザルドのおおらかで柔和な声だった。
「せっかくですから、パリス殿に我が愛馬のお名付け親になっていただくことに致しましょう。ロージームーン、『薔薇色の月』号とは、実に甘美な響きです。ありがとうございます、殿」
「そう言ってもらえると、僕も嬉しいな、カイル兄さん」
そう答えながら、パリスは……彼から『坊や』と呼ばれていた頃が、不意に懐かしいような気がした。
「じゃあ、また遊びにきますね」
「いつでも歓迎致しますよ。遠慮などご無用です。昔のようにおいで下さい、坊や」
やはり、何もかも見透かされている。
その優しい響きとは逆に、郷愁は吹き飛んだ。パリスは自らの背筋を冷たい汗が滴るのを感じた。
「では、これにて。行こう、ビル」
「ああ、そうそう。しばし待て、愚弟」
逃げるように立ち去ろうとしたところを、不意にジルベルトが呼び止める。その相手が自分ではなかったことに、パリスは内心ほっとしたものだったが。
「なんだジル兄?」
「英国海軍提督サー・アーサー・ラドクリフ伯爵が、お前によろしくと申されておられた。黒死病が全快されたようで何よりだとな」
振り返った弟にそう言った一瞬だけ、次兄の整った顔が微笑んだような気がした。
ウィレムの脳裏にはその現実の出来事が、そしてパリスにはウィレムの語った物語が、一瞬にして蘇る。
「……ちょっと。バレてるじゃない」
「逃げるぞ!」
執務室の扉を後ろ手に閉めて駆け出した二人の耳に、兄たちと執事の笑い声は、果たして聞こえていただろうか。
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