第8話 船長の物語
奥方の細く白い手を取って、パリスはことさら明るい声を作って笑った。
「そうだ、きっと、ビルのお土産を見たらもっと元気が出るよ。さっき船が港に着いたから、君のところへ飛んできてくれたんだ」
「是非ともお見舞いの品をお持ちしないとと思いましてね」
ウィレムも如才なく微笑み返す。
何しろ、相手は貴婦人の中の貴婦人だ。そこいらの港町で出会うような女とは、種類が全く違う生き物と言ってもいい。
しかも相手はこのパリスの妻だ。笑い方ひとつ、眼差しひとつ、声の調子や仕草のひとつひとつにまで注意を払わなくては、本当にこちらの命を取られる羽目に陥るだろう。
「まあ。そんなお心遣いまで……ありがとうございます」
こちらの内心など知る由もない姫君は、天使のように愛らしい横顔にただ感謝と驚きの入り交じった表情でこちをを見上げる。
パリスはそんな妻の様子に、また満足そうな笑みを浮かべてから、こちらへと水を向けた。
「じゃあ、早速そのお見舞いの品物ってやつを見せてもらおうかな、と言いたいところだけれど。品物よりも僕のお姫様が楽しみにしてるのはきっと、ビルの素敵なお話だよ。さあ、どうやってその贈り物を手に入れたのか、海賊さんの冒険譚をひとつ聞かせてもらおうじゃないか」
黄金の瞳の、少女のようにあどけない輝きが、いっそう強くなる。
「さすが大公殿下の宮廷で鍛えられているだけのことはある、パリスはなかなかの話術だな。いい前振りに感謝するぜ。では……」
と、それを受けたウィレムは、軽く咳払いをしてから語り始めた。
「この美しいヴェローナの港から出港して、我々はアディージェ川を下り、大海へ出ました。今回の旅の目的は、ヨーロッパの北側をぐるりと回って、イングランドの海賊たちの間をすり抜け、ドイツの忌々しい皇帝派の連中の目をかいくぐり、デンマーク=ノルウェー連合王国まで行くことでした。これが北海航路といわれる海の道です。デンマークは、姫様はご存じかな? バイキングの国ですよ」
「バイキング!」
「わあ、すごいね!」
パリスと夫人は顔を見合わせて歓声を上げた。
北方で権勢を誇る真の海洋民族として、そして高貴なる野蛮人として、バイキングは内陸の知識階級にとっては憧れというより、理想化された存在だった。
どうやら姫君は、自分の身の回りのことは全て忘れてしまったが、社会常識的なものはいくらか記憶に残っているらしい。あるいはこの半年の間、ベッドの上でそんな子供向きの本を読むより外に楽しみがなかっただけかもしれないが。
パリスも興味ありげに身を乗り出して訊ねる。
「ねえ、あいつら本当に頭に角のついた兜を冠って、ぶっとい剣や棍棒を持ってるの?」
「ああ。戦斧を持ってる奴もいる。それに、ちょうど魚の鱗や鳥の羽みたいに、小さな銅板を連ねた妙ちきりんな鎧を着てて、柔らかいのに強い。お前さんがた騎士が着る鎖帷子みたいなもんだが、あの鱗鎧はちょっとした鉛玉くらいなら跳ね返すんじゃねえかな」
「すごいね」
「本当ですわ」
「それから、こんなまん丸い形の、馬鹿でかいコインみたいな盾を持ってる。とんでもない大男ばっかりで、ひげもじゃで、どいつもこいつもとてつもねえ力持ちだ。あとまあ、これはちょっとばかり悔しいんだが、あいつらの船は、速さだけなら世界一だ。さすがの俺の船も、追いかけっこになったら逃げるのがせいぜいってところだな」
ウィレムはわざとらしく軽口を織り交ぜながら、まずは遠い異国への想像をかき立てていく。
「ともあれ、そのデンマーク王国で近頃作り始められたという新しい陶器を仕入れて、どの程度の出来か見極めるのが俺の役目でした。カオリンっていい陶土が出るんでね。それとチーズが名物で、塩辛いのから果物みたいな味のまでよりどりみどり、特にエスロムって軽い塩味のやつが一番人気。帰りの航路でオランダやフランスにわざわざ寄って売るんですが、これが結構いい儲けになりましてね……と、ああ、まあそんなこたあ、今はどうでもいいか」
「そのチーズ、僕まだ食べてないけど」
「分かった、明日の朝一番に届けさせる。金はもらうぞ」
パリスの茶々に、ウィレムは苦笑して軽く手を振った。実際、デンマーク王国のチーズは、今ロザルド水運の中でも、最も人気のある商品のひとつだった。
それから彼は姫君の方に向き直り、真面目な顔で十字すら切って見せた。
「幸いなことに、今回は天候がよかったので、旅はとても順調でした。嵐には一度しか遭わなかったし、追い風もだいぶ吹いてくれた。神のご加護です」
「それでも、とても長い旅ですのね」
「ええ。半年ほどかかりました」
その答えに、パリスがさらに身をこちらに寄せて、少し皮肉らしい言い方で訊ねた。
「それで、その帰りにサー・アーサーの船とすれ下がったんだね?」
「そう。バレなくてよかった。命拾いしたわ」
ウィレムは軽く肩をすくめてから、できるかぎり紳士的な微笑をこしらえた。
「まあ、その話はまたにしましょうか。そろそろ、贈り物についてお話ししなくては、姫君も飽きてしまわれるでしょうから」
「わたくし、飽きたりなんて少しも。ずっと聞いていたいですわ、船長様のお話」
「そう言っていただけると、実に光栄だ」
姫君は瞳の大きな目をうっとりとこちらへ向けて、すっかり話に聞き入っている様子だ。
ならば、十分に前置きは成功したということだろう。そろそろ本題に入ってもいい頃だ。
「さて、長い航海になると、どうしても新鮮な真水と食料を補給しなくてはなりません。船は海に囲まれていますが、海水を飲むのは自ら死を望むことになる。それで俺の船は、フランスに三日ほど停泊しました」
さあ、ここからだ。
献上品の価値を上げるのも落とすのも、この先の語り口ひとつで決まる。
ウィレムは言葉を選びつつも、それを悟られないように極力滑らかな口調で物語を続ける。
「その、フランスのカペー王国に、アヴィニョンという街がありましてね。そこに、アマル通りという小さな路地がある。暗くて細い、曲がりくねった石畳の、両側を高い壁に囲まれた路地で、狭くて険しい階段がえんえんと迷路みてえに続きます。昼でもカンテラがないと歩けないくらいの場所なんだが、その先に、小さな真鍮の扉のついた小さな小さな家がある。ドアノッカーのない小さな扉で、合い言葉を言わないと入れないんです」
「なんだかわくわくしますわ」
姫君の目がきらきらと輝いている。
パリスはと言えば、既に話の内容などより、物語に引き込まれている妻の美しい横顔を眺めるのに夢中のようだったが。
「合い言葉は、まあこれは内緒なんですがね、それを言うと、扉の奥から爺さんが出てくる……、ひどく背中の曲がった、斜視でしわだらけの、骸骨に皮を張り付けたみてえにがりがりに痩せ細ってて、白髪も半分はげ上がった、もう二百年は生きてるんじゃねえかっていう、まるで魔法使いみてえな爺でね、ご丁寧に、漆黒のワタリガラスをペットに飼ってる」
「まあ。そのおじいさんが魔法の杖を持っていますの?」
姫君の愛らしい問いかけに、ウィレムはわずかに首を振って微笑んだ。
「いや。そいつが持ってるのは、魔法の杖じゃなく魔法の鏨と魔法の炉と魔法の鏝なんですよ。奴は、バンジャマンって名前の彫金師です。その老人に会うためでなくては、わざわざアヴィニヨンなんぞに立ち寄ったりはしません。彼はヨーロッパで最高の銀細工師だ」
その言葉に嘘はなかった。少なくともウィレムの知るかぎり、彼以上の銀細工師はヨーロッパにはいない。
「その家と場所は、夜になると虫の羽音も聞こえないくらい静まり返るんで、それが彫金をやるのには集中できていいと言うんです。ただでさえ人気がない通りだ、日が暮れて誰もいなくなると、まるで音のない、光のない世界がやってきます。するとようやく、そのバンジャマンが仕事を始める」
ウィレムはその時のことを詳細に思い出すために、瞼を閉じて目元を手で覆った。
「俺はその家の柱になる……つまり、微動だにせず息を殺して何時間でも立ってるって条件付きで、爺さんの仕事場を見せてもらったんです」
「へえ、さすが船長ってのはすごいもんだね」
パリスの賛辞に軽く笑い返してから、ウィレムは思い出話を再開する。
「静まりかえって、何の光もない真っ暗な部屋の中で、その爺さんは何もかも見えているみたいに炉へと……そう、魔法のかかった炉に近づいた。入っているのは薪でも炭でもなくて、オランダ産の最高の石炭だ。爺さんはそこにちょっとばかり木屑を乗せると、昔ながらの黒曜石の火打石を両手で持って、カチンカチンと打ち鳴らして火を点けるんです。それが炉の中で燃え上がるのに、そう、どのくらい時間がかかったかな。その石炭は、とにかくゆっくりと燃え上がるんです。それでようやく、室内はいくらか明るくなった。そのとき、ワタリガラスが一声鳴いたのをよく覚えています」
自分でも、本当に魔法使いの扱う魔術の説明をしているような気分なった。
「爺さんはその炉に、鉄の鏝をひょいと乗せる。まるで適当に置いたみたいにね。だが、それが一番いい火の回り具合のところだって、爺さんにはちゃんと分かってるんだ。それで、仕事の準備が整った」
と、ウィレムはいつもの癖でトランクから葉巻を取り出しかけ、ここが貴婦人の寝室だと思い出して、それを自分のポケットへ収めた。
もちろん、そんなことはもう、聞き手の二人は気づきもしないだろう。ウィレムはもう十分に、彼と彼女の心をつかんだ。
「爺さんの仕事っぷりはたいしたもんでしてね。銀の糸と針金と、芥子粒みてえな銀の珠が、爺さんが鏝と鉄箸をちょちょいと振ったりやっとこをくるりと一捻りするだけで、本当に魔法みたいに飾り物の形へと組み上がっていく。そりゃあ見事な手並みでした。で、ね。おおまかな形が見えてきたかな、って俺が思ったときでした」
ここからが一番の聞かせどころだ、彼はわざと目を見開いて、美しい夫婦の顔を眺めながら言った。
「爺さんがペットのワタリガラスを呼ぶんです。そう……確かあいつはピートって名だった。爺さんが呼ぶんだ、ピート、おいピート、お前の宝物を少し分けておくれ、ってね」
にわかには信じがたいような話だ。
だが、ウィレムの話には、実際にその目で見た者の臨場感が溢れている。
「すると、そのワタリガラスが、高い戸棚の上にあるそいつの巣……何かの金物と真鍮の針金で出来た要塞みたいな鳥の巣なんですがね、そこから小さな袋をくわえて、爺さんの肩に飛んでくる」
それに、本当に信じられないのは、本当の魔法の時間はこれからだ。
ウィレムはそれを、よく分かっていた。
「で、ワタリガラスのピートは、長い嘴と足の爪を器用に使って、黒のなめし革の巾着袋を開けるんです。そして、爺さんの掌の上にね、ザラザラ音を立てて、大小の宝石を山ほどぶちまけたんですよ。ダイヤモンドにルビー、エメラルドにサファイヤ、トパーズ、ガーネット、珊瑚に真珠、それからどうやって手に入れたのか知らねえが、バルト海の青琥珀まであった」
「まあ!」
奥方の驚きの溜息が漏れる。
パリスの方はと言えば、親友の語る話がいささか大袈裟に脚色されているのを思い出したのか、先ほどよりは冷静に戻った目をしていたが。
その落ち着きを吹き飛ばしてやろう。ウィレムは口元だけに皮肉っぽい笑みを浮かべると、身振りがてらに、奥方のデザートとして持ち込まれた木苺の砂糖漬けをつまみ上げて、高く投げてからぱくりと口に入れた。
「バンジャマン爺さんは、その中から、まるで酒の肴でもつまむみたいにひょいひょいっとね、ひときわ美しい宝石をいくつか選んで、残りを革袋に戻した。ピートはまたそれを、自分の嘴と爪で閉じて、手前の要塞みてえな巣へと運んで飛んで行きましてね。あれだけの宝石の入った袋だ、どれほどにか重いだろうに、音もなくすうっと飛んで、それがほんの一瞬でした。で、俺がそのワタリガラスの飛行に見とれている間に、もう選び抜かれた宝石が、銀細工の枠に綺麗に嵌ってた」
「それは……本当に魔法だな」
「ねえ、なんて不思議なお話かしら!」
パリスと奥方は互いの手を握り合って、聞いたばかりの物語の余韻に浸っているようだ。
想像だけでも、それは十分すぎるほど不可思議で魅力的な光景だろう。
しかし。
「そうして作ってもらったのが、本日俺がお持ちしたこちらのお見舞いの品です」
ウィレムは切り札をついに取り出し、黒天鵞絨の包みを解いた。
「まあ……綺麗……」
「すっごい!」
夫婦の口から、それぞれに賛嘆の声が漏れた。
細い銀線と宝石で作られた髪飾り、すなわち髪を結い上げた女性が、その正面に飾るティアラ(略式冠)だ。
トランクの一番底に、決して傷つかないよう竹細工の小箱に入れ、丁重に包んで運んできた品だった。
「ルビーもダイヤモンドも、本物のインドのものだそうです。英国王の王冠についてるのと同じでさ」
バンジャマン、ヨーロッパ最高の銀細工師が作り上げたのは、事実最高の宝飾品だった。
ティアラの全面は、扇のように広がった五枚の銀線細工の装飾部によって構成されている。その中央に、親指の爪ほどもありそうな大粒のルビーで作られた苺の実がきららかに輝き、その周辺を銀を透かし彫りにした萼と枝が彩っていた。さらにその左右へと広がるのは、幾輪もの美しい苺の花とその今にも開きそうな蕾、まだ熟していない果実、複雑な形の葉や茎だ。そのすべて、何もかもが生き生きと形作られている。
そして、その花や葉を飾るのは、純白に輝く最高のダイヤモンドだ。春に最初に実った苺の一枝に振るやさしい朝露を、彼は金属と鉱物によって実物以上に表現したのだ。
「なんて素晴らしいの……」
「品物に関しては保証します。何しろ、俺の船の天使の像を造ったのも、このバンジャマンって爺さんでね。衝角にくっつけてんのに、羽根一枚曲がったことがねえ。大した職人ですよ」
姫君の言葉に、ウィレムは自信ありげな頷いた。
このルビーだけで、ちょっとした爵位が買えるだけの価値がある。そんなものを鳥に任せているなんて、本当に夢物語でなければ信じようもない。
それにようやく気づいたのか、パリスが顔を上げて訊ねた。
「あ、もしかして、僕の帽子のピンとお揃いになるように作ってくれたのかい?」
「そりゃそうよ、これでも目利きのアレックスの倅だぜ」
パリス自身がというよりも、エスカラス公爵家がルビーを愛しているのを承知しているのだ。ルビーは聖なる血の色だ。教皇猊下のためにいつでも命を捨てる覚悟を持つべき教皇派の人間にとって、ルビーとは、ただの宝石とは一線を画す価値があった。
だが、何もかも忘れてしまっているお姫様には、そんなことは分からない。
ただ、その髪飾りの見事さ、美しさに魅了されて、同時にこれほどのものを捧げてきたウィレムに、いささかの疑念すら抱いたかもしれない。
「ありがとうございます。なんて美しいのかしら。こんなに素晴らしいお品物、わたくしが頂戴してよろしいのですか、船長様?」
「いささかばかりでもお気に召していただけたなら、身に余る光栄でございますよ」
ウィレムは笑顔を作り、もう一度床に身を下ろして、最敬礼の臣従の姿勢を取った。
「下々の者からのご献上の品は、快くお受けになるのが貴種のたしなみでございます。どうぞご笑納ください、実際、これほどのお品物が似合うのは、あなた様以外にはおられません」
「僕もそう思うよ。君ならきっと似合う」
と、そのとき。
何もかも計算し尽くしていたような絶妙の間合いで、パリスが献上品の銀細工の内側に目を留めた。
「ほら。ご覧。ここに君の名前が入ってる」
略式冠の内側に、それを使う者の名を入れるのは一般的な風習で、さほど珍しくはない。
しかし、彼女の場合にだけは、それは特別な意味を持っていた。
「まあ……。わたくしの、名前」
彼女は両手で略式冠をそっと支えると、その内側に刻まれた文字を、微笑みを浮かべたまま読み上げた。
「ジュリエット。ジュリエット・キャピュレット・エスカラス・ヴェローニア」
「そう。君は僕の大事なお姫様だよ、ジュリエット」
彼の言葉は、果たして届いていただろうか。
彼女はただ、遠くを……ステンドグラスの窓のさらに先、肉眼では見えるはずのない夜空を見るような目で、かすかにつぶやいた。
「ジュリエット」
黄金色の瞳が、星のように瞬いた。
「わたしの、なまえ」
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