第7話 公爵夫人の塔(後編)
しばらくそうしていただろうか。
「ありがとうございます、旦那様。お優しいお心遣いで、だいぶ落ち着けました」
パリスの胸から顔を上げると、彼女の目元はうっすらと赤く滲んでいて、それがまたひどく愛らしく、魅力的に見えた。容貌が清らかで無邪気なせいで、むしろその涙は一種の艶かしささえ感じさせる。もちろん彼女自身はそんなことには気付きもしないだろうが、その潤んだ瞳は、男にとっては最高の媚態だ。
「でも、まだ手は握っていていいかな? これは君のためじゃなくて、僕がそうしたいからなんだけど」
「わたくしも」
彼女の方からも、そっと夫の手を握る力を込めた。たったそれだけのことで、パリスがどれほど有頂天になっているかは、長い付き合いのウィレムにはよく分かる。それこそ手に取るように。
「実に仲睦まじくておいでだ。安心しましたよ」
ウィレムの言葉が皮肉であることになど気づくはずもない彼女は、天使のような顔にいかにも申し訳なさそうな表情を浮かべて、軽く頭を下げる。
「船長様。取り乱したところをお見せしてお恥ずかしゅうございます。お許し下さい」
「大丈夫だよ、ビルは僕たちの、もっとひどい騒ぎも知ってるんだからさ。そうだろ、相棒?」
「まあな。それに、お前さんがたが並んで座っているのをこうして間近で見られるだけで、目の肥やしになる」
実際、教会のフレスコ画から抜け出してきたような美男美女だ。身分の釣り合いだけではなく、年齢も容貌も何もかもが互いにとってふさわしい、似合いの相手だった。無学な最下層の下民風情あたりなら、この二人が寄り添っている姿を見たら、本物の天使だと信じ込んでも不思議はないだろう。
だからこそ、ウィレムの言葉はあからさまな世辞へつらいに聞こえない。パリスは親しげな笑顔で、部屋の傍らにある鏡台の、背もたれのない椅子を指し示して言った。
「そう言ってくれると気が楽になるよ。でもビル、すまなかったね。椅子も勧めずに。そこの鏡台の椅子で良ければ腰掛けてくれ。いいよね、お姫様?」
「わたくしの椅子でよろしければ、どうぞ、船長様」
「俺が座って壊れなけりゃあいいが。こんなに華奢な椅子に座るのは生まれて初めてだ」
白塗りの上に薔薇の彩色彫刻のある、猫足の可愛らしい椅子だ。書き物机兼用の鏡台と揃いの一品で、鏡の大きさ、デスク部の高さ、チェストの引き出しの数、全て奥方の華奢な体格に合わせて、ミラノの名門中の名門エンリコ・ブレネン工房の最高の家具職人に特別に作らせたものだ。当然ながら、金を出したのはエスカラス公爵家だが、手配も配送も設置もしたのは我がロザルド商会である。
だから、その椅子にどっかり腰掛けて足を組んだところで猫足が折れてひっくり返る心配などないことは百も承知していたが、ウィレムはわざとらしく、怖々といった様子で座って見せた。それから、遠慮がちを装って、椅子ごと寝台の方へ近づく。ほどほどの親しさを演出しつつ、なおかつ失礼にならない程度の距離感は難しいが、ここは重要だ。
しかし、いたいけな姫君の前では、ウィレムの芝居など全く杞憂に過ぎなかった。彼女は疑うことを知らない目で、まだ涙のうっすらと残る眼差しを微笑ませる。
「では、船長様は、わたくしと親しくしていただいていた方ですのね? お覚えがないのが心苦しくてなりません」
「ああ、そこのところは、どうかお気になさいますな。こちとら一年のほとんどは海の上なもんで、家族にだって顔を忘れられっちまう。奥方様だけのこっちゃありませんや」
と、ウィレムは軽く肩をすくめて、自らの豪奢な衣装をことさら強調して見せた。
「それに、いつもの俺は、こんなに小綺麗な格好してねえから。見違えるのも無理はねえ」
その軽口を待ちかねていたように、パリスが最高の間合いで口を挟んでくる。
「僕たちの結婚式のとき以来だよね、君がそんな礼服着るの。似合わないったらありゃしない」
「やかましい、自分でも分かってるわい。文句はうちの執事に言え」
「君ん家の執事に異議申し立てをするのだけは遠慮する。絶対に嫌だ」
「いや、お前のことは殺さないと思うぞ。多分。多分な」
「僕の命を書面で保証して教皇庁に提出してくれなけりゃあ絶対に信じられないよ、もちろん君のお兄さんたち二人の署名入りでね」
物騒な冗談の応酬だったが、それがかえって打ち解けた雰囲気を醸し出したのだろう。奥方は愛らしい顔にうっすらと笑みを浮かべて、二人の様子を眺めてから訊ねた。
「船長様は、わたくしたちの結婚式にも来てくださったのですか?」
「もちろん。結婚式だけじゃなくて、もっとずっと前から友達さ」
パリスは妻の方に身を寄せて、いかにも楽しげに、友人の素性について語りはじめた。
「ビルは僕の以前の屋敷にもしょっちゅう出入りしてたし、ここに来てからも私邸の方にはよく遊びにきてくれてる。まあ、よくって言っても、彼は十五の歳から船乗りになっちゃって、十八で船長なんて大役についたから、海の上にいる方が長いんだ。ここ数年は、陸に上がっている時だけだけど、その間は誰よりも僕たちと仲良くしてくれているよ」
彼の紹介に嘘はなかった。
ウィレムが初めて船に乗ったのは母に抱かれた赤ん坊の時分だが、はいはいの頃から船の甲板が遊び場で、自ら望んで水夫を選んだのは十五の時だった。
それからたった三年で自分の船を持つまでになったのは、無論二人の兄、そしてロザルド水運の威光があったとはいえ、彼は実にうまくやったと言っていい。一度陸を離れてしまえば、その扱いは身分や生まれ育ちではなく経験で決まるのだから。
生まれながらの船乗り、荒くれ者の頭領というヴェローナ大公殿下の言葉も、あながち世辞だけではなかった。
「彼のお兄さんたち、カイルとジル……カイラス・ロザルドとジルベルト・ロザルド両氏も、君のことはよく知ってる。まあ、君はジル兄者のことは怖がってたみたいだけどね」
「ジル兄貴のことはみんな怖がってるから気にすんな。むしろ俺が一番怖がってる」
ウィレムが笑っても、ベッドの上の貴婦人は不安げに視線をそらして、膝のあたりにかけられていた毛布を引き寄せた。まるで、それだけが自分を守る聖衣であるかのように。
パリスはそんな彼女のおどおどした様子に、驚いた顔で言葉を続ける。
「思い出さない? 婚約中に、僕たちは彼の父上の隠居館に招かれて、兄さんたちやその奥方たち、子供たちに祝ってもらった。ほら、あそこにかかっているシャンデリアは、アレックスおじさまに頂いたんだよ……ビルの父上のアレサンドロ氏のことは、僕も君も、アレックスおじさまって呼んでる。君は、あれがすごく気に入って……」
いかにも楽しげに思い出を語ろうとしたパリスに、ついに耐えきれなくなったのか、奥方は枕の方へと顔を伏せて泣き出した。
「ごめんなさい。わたくし、本当に何も……」
「ああ、ごめん、そんな、君を困らせるつもりじゃなかったんだ」
彼女を抱き起こし、優しく胸に抱いて、パリスは落ち着かせようとその背をさすった。
ウィレムは苦笑いを浮かべて、そんな二人の様子を眺めている。
「俺のこんな面見たくらいで、そんなに急にいろいろ思い出すもんじゃねえよ、パリス。まったく、すぐ急かすのがお前の悪い癖だ」
「そうだね、すまない。ごめんね」
パリスが彼女の手を取って謝罪する。すると、その手に自らの小さな白い手を重ねて、彼女は可憐な微笑みを浮かべながら、二人の男たちを交互に見遣った。
「思い出すことは出来ませんけれど、お二人が本当に仲がおよろしいのはよく分かりましたわ。それだけでも、わたくし……なんだか嬉しいような気が致します」
その言い方があまりに健気で、ウィレムはつい本音を漏らす。
「そいつあよかった。いやあまったく、相変わらずいい姫様だなあ」
「いいだろう。本当に優しいんだよ、僕の妻は」
パリスは自慢げに鼻で笑った。それが厭味にならないのは、彼のいかにも貴公子然とした容貌のせいもあるだろうが、心から妻を愛しているのが伝わってくるせいだったろう。
こういう時は、引き立て役に回る方がいい。ウィレムはそう教育されていた。
「ああ、いい奥方をお持ちで実に羨ましい。ああ俺も嫁さん欲しいわ、すげえ欲しいわー」
「それジル兄者とシャンに伝えとく」
「やめろ。マジやめろバカ。本当に結婚させられたらどうしてくれる」
わざと道化役に回ってやったのは、おそらくパリスも承知の上だ。
だが、それだけしてのけるだけの価値があった。
「うふふ」
薄紅色の口元を押さえて、姫君のかすかな笑い声が響いたのだ。
「あ、笑った」
それを聞いたパリスは、心の底から嬉しそうだった。
「まあ、はしたのうございました。申し訳ございません」
「いいんだよ。ねえ、もっと笑って。君は僕たちの前では、いつも声を出して笑ってた」
かつてを懐かしむように青い目を細めた彼の姿は、本当に絵画のように美しかった。
「世の中の連中は、教皇派だの皇帝派だの、貴族だの平民だの、金持ちだの貧乏人だの、年寄りだの若者だの、白いの色付きだのって、何にでもやたらと区切りをつけようとするけど。君は、そういう下らない区別なんて、最初から気にしない人だった。君は子供の頃からそうだ、本当に優しい人だった。僕らは二人とも、それをよく知ってる。だからね、僕たちの前で、気取ったり気をつかったりすることなんてないんだよ」
パリスの声は、どこか過ぎ去った昔への郷愁の念すら感じさせた。彼がまだ公爵家の養子ではなく、彼女がまだ幼い少女であった頃。ウィレムが船乗りとして生きる決意を固める前の、あの幸福そのものだった時代。
「ビルは僕たちの親友だよ。子供の頃からのね」
彼らはいつも一緒だった。その時がやがて過ぎ去り、二度と戻らないことなど、思いつきもしなかった。
だが、運命の女神は冷酷に糸を切る。一度動き出した歯車は、もはや止まることなどない。
パリスは義父に呼び寄せられて、郊外の屋敷からこのヴェローナ大公公邸に住むことになり、彼女はその妻となることを大公と両親によって容赦なく決められ、それらと関わりのないところで、ウィレムは海の上を選んだ。
「ビルはね、僕たちのために、いつも世界中から珍しいものや、綺麗な花や宝石を探してきてくれるんだ。君は、彼の冒険談を聞くのが大好き。ビルは話が巧いから、自分の活躍をちょっとかさ上げしてあるけどね」
「そうでしたの」
彼女は潤んだ目元を恥ずかしげに拭ってから、心を許した様子でかすかに笑った。
「わたくしは、船長様のことをどのようにお呼びしていましたの?」
その問いには、本人より先にパリスが答えた。
「ウィレム、かな? 僕だけじゃないかな、ビルって呼ぶの」
「親父とお前だけだな。そう、それから、貴女は俺のことを、海賊さんとも呼んでた」
ウィレムもまた、いささか過去への思いを巡らせつつ、それを押し殺して、軽快に言った。
「そんな失礼なことを?」
彼女はびっくりした様子で大きな目をさらに見開いたが、パリスは端正な顔に、いささか気取った笑みを刻む。
「だから、僕らはそれだけ親しかったんだよ。ビルはもどきの海賊だから、君に海賊さんって呼ばれると照れるんだよね。でも本当は喜んでるだから」
「パリス。お前はいつも一言余計だバーカ」
と、ウィレムはわざらしい渋面を作り、下唇を突き出して悪態をついた。
「お前だって姫様に旦那様って呼ばれて照れてんじゃねえかよ、畜生め」
「それは嬉しいに決まってるでしょ、愛妻から夫って呼ばれるんだもの」
「あー羨ましいわー、結婚してえわー俺も結婚してえわー」
「君ん家の執事によく伝えておくね、書面にして。何なら義父から署名を貰うよ」
「やめろ。おい、もうこのネタは無しだ」
冗談で済みそうなうちに打ち切ろうとすると、不意に寝台の方から、黄金細工の鈴でも鳴らすような笑い声が響いた。
「うふふ……あはは」
その笑顔だけで、二人の男たちは満足だった。
「大丈夫、まだウケてる」
「もうやらん。本当に結婚させられそうな気がしてきた」
それでも一応釘を刺したのは、パリスが本気で縁談を……すなわち、親友のビルではなく、ロザルド水運の三男としての自分にふさわしい結婚相手を捜すように、家の者に進言しそうな気がしたからだ。
ウィレム自身は、パリスより二歳上だし、もうとっくに妻帯してもいい年齢なのだ。自由を満喫していられるのはいつになるかは分からないが、その時が来るまでは好きにしていたい。
そんな思いを全く知らぬ公爵令息夫人は、不思議そうな顔で訊ねた。
「船長様……ウィレム様、は、ご結婚はまだですの?」
「生憎と、貴女のような美女にはいまだ出会っておりませぬゆえ」
「僕の妻を口説いたら本当に殺すから」
世辞のつもりだったが、パリスは先ほど手に入れたばかりのサーベルの束に軽く手を乗せて言い放った。
もちろん本気ではないことくらい分かっているが、その手並みも知り尽くしている。ウィレムは大げさに身震いすると、いつもの皮肉っぽいを浮かべた。
「もう俺、本当に命がいくつあっても足りやしねえよ。船の上が一番安全だわ」
「船長様は、船がお好きですのね」
「そりゃあもう。俺の自慢の船だ。帆が分厚い絹なんで、風さえ読み間違えなければイタリア一速い。ついでに、これは内緒なんですがね、ヨーロッパ一上等の羅針盤がついてるんです。うちの執事は明国につてがあって、最新の羅針盤が手に入ったんだ。英国の軍艦にだって、あればっかりはまだ装備されていないはずですよ。それから舳先には銀の天使の像と、こーんなにでっかい衝角もあるしね」
と、ウィレムは両手を思いっきり広げてみせた。特大の衝角、白兵戦の花形武器は、実際彼の何よりの自慢なのだ。
だが、姫君にはその有様が想像できなかったらしい。パリスが如才なく語りかけているのを、小首をかしげながら聞いている。
「ああ、衝角っていうのはね、敵船の横っ面をひっぱたくための武器なんだって。すごいよ、なんていうか、すごく大きな鉄の剣先みたいなのがね、船の舳先から飛び出すようになってるんだ。ねえ、今度、一緒に見に行こうよ。『銀の狼』はビルの城さ、いっぱい自慢してもらおう」
「本当に? 楽しみですわ」
「もう少し元気になったら、一緒に行こうね」
「はい」
彼女は何の屈託もない表情でにっこりと笑った。
衝角戦の血なまぐささなど及びもつかないのに違いない。ただ彼女にとっては、大きな船に見たこともない不思議なものがたくさんあって、その話を聞くことを思うだけで楽しみが広がるのだろう。
それがどんなに現実からかけ離れていたとしても、ウィレムは気にしなかった。むしろ、彼女が今の状態であることに心から安堵した。
「いや、でも、思っていたより奥方がお元気そうで何よりだよ。俺が航海に出ている間に、またスペイン風邪が流行ったって聞いて、これでも実は心配してたんだが」
「実際ひどいものだったよ。キャピュレットの義父上……妻の父も、僕の義母も亡くなったからね」
パリスが声を沈めて言うと、奥方はまた悲しげな瞳に戻って、溢れかける涙をレースのハンカチで抑えた。
「わたくしは、父の葬儀にも出られませんでした……」
「仕方がないよ。そのとき君はまだ眠っていたんだから。二ヶ月もの間、よく頑張ってくれたね。君の命があるのは神様のお導きだ、嘆かないで、幸福だと思おう」
パリスの言う通りだ。
全くが順調。以て幸運だった。
パリスの妻の実家であるキャピュレット家の当主、すなわち彼女の父親アントニー・キャピュレット男爵も、現教皇グレゴリウス九世の妹である大公殿下の奥方も、まとめて病魔の手によって命を刈り取られた。
結果、後継者のいなかったキャピュレット家は、一人娘に一代爵の準男爵を与えられた。ヴェローナ大公の未来の妻としては申し分のない肩書きを手に入れたのだ。
だが、そんな計算高いところはおくびにも出さずに、パリスは妻の手を握ったまま微笑む。
「お父上と義母上が見守ってくださってる。きっとよくなるよ、大丈夫」
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