第5話 エスカラス家の晩餐
ヴェローナ大公主催の晩餐は、私的なものとはいえ、やはりというべきか、かなりの豪華さだった。
ゼリーで固めたモザイクのような色とりどりの野菜の前菜、綺麗に澄んだ葱と鶏出汁の琥珀色のスープ、柔らかくて白いパンには、リグーリのオリーブオイルとシチリア島の海塩が添えられている。よく肥えたルーアン産の鴨の丸焼きには、新大陸から齎された香辛料、胡椒と唐辛子がふんだんに使われていた。
わざわざトスカーナの赤ワインとピエモンテの白ワインが饗されたあたりは、同じくワイン大国であるフランス王国への対抗心といおうか、ヴェローナ大公のイタリア人としての気概が感じられて、ウィレムは好感を持った。
「フランスなんぞ、野蛮人の国じゃ。メディチ家のカタリナ王女が嫁ぐまで、食事の作法はおろか、ナイフとフォークすらもなかったと言うではないか」
「全くです。奴らの美食家気取りは笑わせてくれる」
パリスが適当な相づちを打ったが、エスカラス公爵はかなり酒が回っているようだ。大公は憤怒にも近い激情と酩酊のために顔を赤くしながら喚き散らした。
「何が神聖ローマ帝国じゃ、あのゲルマンの田舎者どもめらが! あんな連中にしっぽを振る裏切り者は皆殺しじゃ、皇帝派は全員処刑じゃ! 円形闘技場に吊るして晒せ、モンタギューの小僧と同じにな! 世界の中心はローマじゃ、我が愛するイタリアじゃ! カエサルの時代から、パクス・ロマーナの時代から!」
と、大公がテーブルに両手を力いっぱい叩き付けたときには、既に大皿の類が片付けられてはいたとはいえ、ちょうど反対の席に座っているウィレムのグラスまでが軽く震えたほどだ。晩餐室の大テーブルは分厚い紫檀の一枚板なのだが。
「ごもっともです、義父上。全ての道はローマに通ず、これは永遠に変わらぬ真理です。かのパルマ公も教皇猊下にお近づきになりたいと親書を送ってこられました。近いうちに、一度パルマ公と義父上の会見の席を設けましょう」
パリスが取りなすように優しく語りかけると、エスカラス公爵はそれまでの剣幕が嘘のように、目を潤ませ、声を震わせて養子の肩を抱いた。
「うむ。うむ。そうじゃな。まったくわしはよい倅を持った。お前が跡継ぎで本当によかったと思っているぞ、パリス」
パリスは視線だけで執事を近くまで呼び寄せると、穏やかな口調で、しかし断固として命令する。
「義父上はいささかきこしめしておられるようだ。寝室へお連れしろ」
「畏まりました」
執事はせかせかとした歩き方で大公の後ろに回ると、その腕を取り、失礼にならない程度に力強く手を引いて晩餐室を後にした。
「デザートはいかがいたしましょうか」
「僕はいらないけど、君は……いらないよね、ビル」
「ああ、甘いものはもういい。腹がはち切れそうだ。ただ、もう一杯ワインを」
「はい、畏まりました」
「ああ、デザートに木苺の砂糖漬けがあったね、あれを何か器に入れて。妻のところへ届けるから、可愛らしくね」
「畏まりました」
召し使いたちがめいめいに自分の仕事をこなしていくのを横目で眺めながら、ウィレムは口元だけで笑った。
「なかなか巧く仕切ってるじゃないか。いいものを見せてもらった、未来の大公殿下の貫禄十分ってところだな」
「そうでもない。僕なんてまだまだだよ」
と、パリスは軽く目を伏せて謙遜してから、いかにも悲しげな顔を作って、軽く首を振った。
「さっきは、義父が見苦しいところを見せてしまってすまない。義母が亡くなってから、酒が過ぎることがよくあるんだ」
「そりゃあ仕方ねえさ。女房に先立たれりゃあ誰でもああなる」
「そうだね」
そこで二人はまた目を見交わして、一瞬だけ奇妙な微笑を浮かべあった。
ウィレムは皮肉めいたような、パリスは冷淡な。
もちろん、二人の貴公子の表情になど気づく下僕はいなかった。エスカラス家に長年仕えた執事がいれば別だったかもしれないが、彼は公爵の寝室まで付き添っている。
「それに、大公殿下の演説は悪くなかった。さすがご立派だよ。イタリア人たる者、ああでなきゃいけねえ」
ウィレムがわざわざそう口に出さなくとも、エスカラス公爵の人心掌握の力は本物だと、誰もが認めるところだろう。そうでなければ、ヴェローナ大公が勤まるわけがない。ついでに、ウィレムの二人の兄たち……特にあの計算高い次兄ジルベルトが、こうまで公爵家とのつながりを重んじるわけもなかった。
「ヴェローナ大公と言えばエスカラス公爵だもの。義父には長生きしてもらわないとね」
確かに自身が認める通り、演説のやり方、威厳の演出、政治的な判断など、あらゆる面でいまだパリスは未熟だ。まだ義父から学ぶべきことはたくさんある。
「ああ、ワインが来た」
「美味いな」
召し使いの差し出したグラスを片手に、ウィレムは不意に真顔になって言った。
「ところで、晩餐の前室で、俺に食前酒を勧めた女中がいた」
彼は注意深い眼差しで晩餐室を眺め、前室へと続く扉へと視線を移した。
「ヴォトカか何かにベリーを漬けたような、かなり強い酒だった。アマレットじゃない。俺でも四杯かそこらで潰れるくらいの」
「念のため言っておくけど、僕の差し金じゃないよ。君に晩餐で恥をかかせるのは、僕にとっても損だ」
「ああ、分かってる。お前は俺に一服盛るほど馬鹿じゃない」
と、口元をゆがめるいつもの皮肉めいた笑みに戻って、ウィレムはさらりと言ってのけた。
「あの女は多分、俺に惚れてる」
「おやおや。自信家だね」
「そこそこ酔わせて、この屋敷に泊まらせたかったんだろうさ」
「へえ、そのくらいで君を口説き落とせるつもりだったのかな。船乗り相手に、一夜の情事で何を期待するって言うんだろうね。女の浅知恵ってやつかな」
パリスも軽く苦笑した。
屋敷に一泊させてベッドに潜り込んだ程度で、この男がその気になるはずがない。下手をすれば、ベッドに辿り着く前に女が死ぬ。うまくいっても、せいぜい慰みものにされて明け方には部屋から叩き出されるのが落ちだろう。女性に対する貞操観念については、ウィレム・ロザルドは敬虔なカトリックとはとても言えなかった。
晩餐室にその女がいないことを確かめるためか、ウィレムはもう一度室内を見回し、それから正確に記憶を導き出す。
「髪は栗色で編み込み、目は茶色で、取り立てて美人じゃあないが、胸はまあまあ形がいい。背は、そうだな、俺の肩くらいあるかないかの小柄で、腰はコルセットだな、かなり絞ってた。尻は小さい。ああ、それから左手の甲に小さな痣があった。どの女か分かるか」
彼の詳細な描写に、パリスはすぐにその女が誰か分かった。
「ハンナだな。ハンナ・レスポワ。義父に仕える下級騎士の養女で、生まれは土地持ちのオリーブ農家だ。行儀見習いでうちの召し使いになった」
海賊もどきが職業とは言え、グラスを差し出された間にそれだけ観察するとは大したものだ。しかもまあ胸だの腰だの、どこから順に記憶しているのやら。いささか舌を巻き、同時にいささか飽きれつつも、パリスは細い眉をしかめて渋面を作った。
「僕の客に無礼を働くなんてね。今すぐ実家(さと)へ帰すよ」
パリスは従僕の非礼を大目に見るほど寛大ではない。主人としては厳格で、むしろ気難しい方だ。傍流の出が養子になった成り上がり者、下級騎士の倅の分際がいい気になって、と陰口を叩かれるのを承知で、平素からあえて使用人には厳しく当たっている。軽んじられるよりは、恐れられる方がずっといい。
今にもその女を呼びつけようとしたパリスを、しかしウィレムは底意地の悪い笑いとともに止めた。
「いや、そいつはやめておけ」
そして、思いもつかないことを口にした。
「その女を、奥方の侍女にしろ」
「どういうこと? 君を嵌めようとした女だろ? 首を刎ねてもいいくらいだ、そんな女を妻の侍女になんて、正気の沙汰とは思えないけど」
「自分に惚れてる女ほど、うまく使えば勝手のいい道具はねえぞ」
不審そうに顔をしかめていたパリスだったが、友人の目の底にある計算高い悪意に気づいて口をつぐんだ。
「奥方が大事なんだろ、パリス? だがお前は、四六時中奥方に寄り添っているわけにはいかない。お前には公爵継息閣下としての仕事があるものな。だが侍女なら、一日中奥方の傍に仕えて、何もかもを知ることができる」
ウィレムは不自然にならない程度に声を潜めて、にこやかな笑みさえ交えて語る。これなら重要な話をしているようにはとても見えない。行き交う召し使いたちには、まるで世間話でもしているように聞こえるだろう。
「その侍女に、奥方が何をして過ごしたか、いつ起きて何を食べ、いつ眠っていつ湯浴みしたか、何の本を読み誰と話したか、一日の全ての行動を報告させろ。全てだ、水一滴漏らさずに。どんな医者の見立てより、間近で仕える侍女の言い分の方が、俺たちにとっては役に立つ」
「確かに、君の言う通りかもしれない。でも、ハンナを侍女にしたとして、それを僕に報告するかな?」
「それは任せろ。全部お前に伝わるように、俺が口説き落とす」
ウィレムはそこで自信ありげに、片頬だけでニヤリと笑った。
「お前、つまりパリス・エスカラスは俺の無二の親友で、パリスとその奥方様のためになることならば、どんな些細なことでも俺は喜ぶ。ついでに、パリス夫妻のためになることを俺が頼んだってことはパリスも知ってる。パリスは俺に恩義を感じ、俺への友情は増すし、ますます俺の家の商売はやりやすくなるし、俺は金持ちになる。金のある男と付き合うってことは、女も金持ちになるってことだ。と、まあ、そう信じさせれば、おっぱいの形がいいだけの農家の小娘なんぞちょろいもんだぜ」
確かに筋書きとしては上出来に思えた。
妻の動向の一挙一投足まで知り尽くせれば、パリスにとってこんなに安心なことはない。
しかし、侍女を妻の見張り役にするなどという計画が、そんなにうまく運ぶだろうか? そもそも、どうやって侍女となるべき女を懐柔するつもりなのか。
「付き合うって、まさかあんな女と婚約するつもり?」
「おいおい。俺は、あのハンナとかいう娘と結婚するだなんて一度も、一言も言わない。指一本触れるつもりもないさ、絶対にな。それなら神様のお言葉にゃあ反しないだろう。だいたい、俺はあんなの好みじゃあない」
「そうなの?」
パリスは、その程度の付き合いで女に重大な役割を担わせられるものか疑念に思って訊ねたのだが、ウィレムの答えは全く的外れだった。
「女は顔でも胸でもケツでもねえ。声だよ声。声のいい女は、あのときの声もいい」
その言葉に、パリスはつい吹き出す。
「君って本当に最低だよね。まったく、白兵戦より先に女に刺されて死ぬんじゃないの」
「それもいいな。だができれば、ヤッてる最中に絞め殺されたいね。あれは最高にいいらしいぞ」
「もう、本っ当に最低」
「気持ちよくて自分が死んだことにも気づかないなんて幸せじゃねえか。明国じゃあよくある暗殺の手なんだとよ」
「うっわ。君ん家の執事怖すぎ」
「おい、それは今さらすぎるだろ」
ウィレムの言葉に、二人は顔を見合わせて、とうとう堪えきれずに笑い合った。
本来ならば大貴族の若君の耳には絶対に入らないような下品で猥雑な話題も、ウィレムは幼なじみの気安さで、平気で口にする。
それが他の連中、パリスが公爵家の養子になってからもみ手すり手で近づいてきた有象無象とは違うところだ。
だからこそウィレムにだけは、安心して彼の策に乗れるし、安心して悪巧みの相談もできる。
「やっぱり、君は僕らとは考え方が違うよ。やっぱり君は、ロザルド家の血筋だ」
「あの兄貴たちとあの執事に鍛えられてるんだぜ、このくらい大したことじゃねえよ。お前の苦労に比べたら」
何事もないように笑うウィレムだったが、やはり彼なりに、旧友の身の振り方を案じているのだろう。単なる共犯者意識以上の親しみを共有している自覚が、この二人には確かにあった。
「本当に君は、僕と妻のことを考えてくれているんだね。そんな面倒を引き受けてくれるなんて、正直思わなかったよ。心から礼を言う」
「バーカ、当たり前だろ。お前はポルトガル船の次くらいにうちの商会のお得意様だ」
冗談めかして言ってから、ウィレムはワインのデキャンターを逆さに振って、軽く腰を上げた。
「ああ、もうワインも切れちまったな。そろそろ帰るぜ」
「まだ時刻は早いよ。もう少しゆっくりして行けばいいのに」
時計の針は八時半を示したところだった。退出の時間としては、そう早すぎる時刻でもない。
「いや、お前と奥方の過ごす時間を削りたくない」
ウィレムは珍しく裏のない顔で笑ってから、手元に置いて放さなかったトランクから、最後の一箱を取り出した。
「それで、パリス。最後になって悪いんだが、実は奥方にもお見舞いの品をお持ちしたんだ。ああ、もちろん、ちゃんとフランスのカペー王国で買ったものだ。アヴィニョンには腕のいい銀細工師がいてね……ついでに言うが、カペー家は教皇派だ。俺は皇帝派に銭を落とすような裏切り者じゃないぞ、粛正しないでくれよ」
「しないよ。君って本当にそつがないよね、そういうところ」
パリスは軽く苦笑してから、そのほぼ完璧な美貌を輝くばかりの微笑へと変える。
「もちろん、それなら喜んで。ちょうど宴も終わったことだし、妻の部屋に案内するよ。まだ寝室から出られなくてね、今宵の晩餐にも、本来なら同席すべきだったのだけれど」
「そりゃあ、ご病気なんだから、ご無理させちゃあいけねえよ」
と、彼にしては珍しく常識的なことを口にしてから、ウィレムはいささか申し訳なさそうに、手にした小さな宝石箱を差し出す。
「それに、さすがの俺も、公爵継息閣下の奥方様のご寝室に入るのは遠慮したいね。見舞いの品はお前からお渡ししてくれ」
「いや、それはよくない。やはり収集品の解説は、専門家である君がするべきだ。それに……君の顔を見たら、妻も何か思い出すかもしれないしね」
パリスが告げた最後の一言にある含みを意図的に無視して、ウィレムはいつもの皮肉めいた笑みを浮かべて頷いた。
「そういうことなら、まあ、いいか。お供しましょう、閣下」
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