第3話 大公家の夜会(前編)

 その夕刻、ウィレム・ロザルドはヴェローナ大公の屋敷にいた。

 供の者は馬の轡取り一人で、厩で待たせてある。片側に丸めた毛皮と毛布を括り付けた大きなトランクは、ウィレムが自ら手に担いで、大公家の従僕が荷物持ちを申し出ても断った。

「いや、これは俺が運ぶ」

「畏まりました、ロザルド様」

 その一言で従僕が大人しく引き下がったのは、その中身が相当な貴重品で、何か粗相をしでかしたら自分の首が飛ぶだけでは済まないことを一瞬にして悟ったからだろう。

 ついでに、ウィレムの服装が、下船した時よりはずっとましに……知らぬ者ならば、おそらく見違えるほど上等になっていたのも影響したかもしれない。

 ヴェローナの支配者の館に招かれたのだから当然とはいえ、外洋大型船の船長にして大商会の御曹司らしい豪華さだ。無精髭はきちんと剃り、旅の汚れも垢も海綿とオリーブ石鹸の効果で綺麗に洗い落とされている。特にジャスミンの香水は最高だ。

 船乗りらしく伸ばした髪を美しく束ねているのはベルベットのリボンだったし、同じく黒いベルベットの上着は、襟と袖と前合わせに金モールの刺繍とガラスのビーズが施された高級なものだ。胸元には、ロザルド海運の家紋である鷲が狼の背にとまっている図柄と、『銀の狼』号の旗印の、牙を剥いた狼の頭に操舵輪の図柄という、二つの徽章が縫い付けられている。

 腰の剣吊り革と黒塗りのサーベルの鞘は船の上でと同じだが、急なダンスに誘われてもいいように、と、長靴ではなく編み上げ紐付きの靴に履き替えている。山羊革の手袋はわざと外して、トランクの持ち手にさりげなくかけておく。船乗り独特の無骨な手……もやい引きや操舵輪でできた胼胝、ちょっとした縫い傷の痕や火ぶくれの白班などは、陸暮らしの人間からはたいそう雄々しく、ある種の好みの女性からは魅力的にすら見えるものらしい。そこを強調するために、わざと太い銀の指輪を親指だけに嵌めるようにいわれた。

 公式の謁見ではなく内々の夜会という触れ込みだから、派手すぎても、しかし粗野でもいけない。何より、異国情緒好みの大公のことを考慮すれば、洗練されすぎていては興ざめだろう。そのあたりを踏まえに踏まえて、執事のアインが細部にまで抜かりなく選んでくれた衣装だった。

「水夫の格好に比べたら着心地も居心地も悪いだろうが、馬子にも何とやらというだろう。愚弟よ、ここが我慢のしどころだ」

「居心地はともかく着心地は最高なはずです、ロシアから届いたベルベットですよ。採寸は私が代役を務めましたが、肩幅と背丈はウィレム若様にぴったりになるよう、仕立てはローマから縫製師を呼んだのですから」

「もう嫌だ、もう行きたくない」

「わがままを言うな」

「ああ、若様! 仕付け糸を取るまでは動かないでくださいまし!」

 と、次兄と執事に代わる代わる小言を言われながら着替えるのは、ウィレムにはちょっとした拷問だったが。それでも、次兄のジルベルトと長年仕えてくれている執事のアインが自分のために心を砕いてくれているのを感じるのは、陸に上がっている間だけの贅沢でもあった。

「俺の馬は元気か」

「はい。『星の海』号も、『白百合の蕾』号も、十分に調教を。ですが、今宵は『星の海』にお乗り下さいませ」

「ああ。こんな黒ずくめで葦毛の白馬じゃあ、暗闇ではいい標的だ」

 ロザルド家の執事アイン・シャンは、本当に気が利く、あるいは如才がないという言葉がぴったりの男だ。

 アインはイタリアの生まれだが、両親は明国の生まれ育ち、生粋の明国人だ。それも、シャン家は明国の宮廷に参内を許され、皇帝の後宮に何人もの女を差し出しているほどの名家だった。アイン・シャンがいかなる理由でこんな異郷の地で執事の身分に甘んじているのか、それを知る者はほぼいないのだろう。ウィレムも、そこだけはあえて訊ねないようにしていた。


 正門から大公家に乗り付けるのは久しぶりだった。

 青毛の馬を轡取りの侍従に渡しながら、ウィレムは青銅の巨大な正門が重々しい音を響かせながら開くのを仰ぎ見た。

「ヴェローナ大公のお屋敷に、ようこそおいで下さいました、ウィレム・ロザルド第一外洋船舶船長閣下」

 門の向こうから、薄ら禿を髪の分け目で誤摩化したエスカラス家の執事が、完璧な作り笑いで言った。

「本日はまた、素晴らしい馬をお連れですね」

 執事の注意深い目は、ウィレムの馬どころか、外見も身だしなみも、一瞬のうちに判断したに違いない。

「ああ、気に入りの馬だ」

「ではこちらへ。若君様もお待ちかねでございます」

 執事は木鼠のようにせわしなく周囲に気を配りながら言った。

 だが、ウィレムが予想したよりも容易く、彼は屋敷の中へと足を踏み入れることが出来た。ジルとシャンの策略が功を奏したというところだろう。何より、執事がウィレムの髪型……きちんと油で整えられた長髪を見逃さなかったことに、彼は兄たちに感謝した。

「晩餐のお仕度が整うまで、こちらでお待ち下さいませ」

 長い大理石のアプローチの先、分厚いマホガニーとステンドグラスで飾られた両開きの扉を通って招き入れられたのは、大公としての公式な謁見室ではなく、エスカラス公爵の私邸部分にある広間だった。

 折々の舞踏会や近隣の有力者を集めた宴に使われるのは謁見用の大広間だが、この部屋はそこまでは広くない。せいぜい十人かそこらがダンスをし、美酒と軽食を楽しむ程度の規模だ。部屋の隅に、調度品の一部のように寄り添いながら伴奏曲を奏でているのは、ほぼ楽器と一帯になっているほど自らの存在を消したチェレスタ奏者と竪琴弾きの二人だけだ。

 それ以外に動いているものは、銀の盆に酒と肴を給餌して回る数名の召し使いだけで、それらの差配は大公付きの事務官ではなく、エスカラス公爵家に献身的に代々仕えている、先ほどのすだれ頭の執事だ。

 そのあたりをざっと観察するだけでも、公爵なりの、今宵の来客に特別に気を許しているという演出なのだろうことは分かった。

 広い室内の床と壁全体は、白地に黒の蜘蛛の巣模様が美しい、ギリシャ・ペントリコン産の最高級の大理石で張り巡らされている。エナメル彩色の美しい天井からは、大振りな三つのシャンデリアが下がり、吊るされている複雑なカットのベネチアングラスの飾りビーズが、蜜蝋の蝋燭のはかなげに揺れる炎を反射し散乱させ、きらびやかな光を放っている。

 部屋の奥には豪華な飾り棚付きの暖炉がある。ピンクの花崗岩で作られた暖炉には、何年もかけて脂抜きをした松が薪としてくべられ、安定した火の力で、快適なあたたかさを提供し続けている。

 四方の壁沿いには、壁の白さと対比するかのように、真っ赤な分厚いペルシャ絨毯の上にビーズ刺繍の見事なモロッコ風の革のソファーが置かれ、その傍らにはそれぞれ高さと意匠の異なる小さなティーテーブルが添えられている。

 なんとまあ。卓上にあるのは、ありきたりのガラスの杯などではなく、本物の宝石……エメラルドやサファイヤをくりぬいて作られた、最高に贅沢なリキュールグラスだ。また別のテーブルには、わざわざ東欧から取り寄せさせたと見える切り子ガラスに金彩の植物文様をあしらったワインセット、また別の卓には砂糖菓子が彫刻のように盛られた銀の足付き皿、そして作り物のように磨き上げられた果物の盛り合わせ。 ナプキン代わりに銀の台に置かれているのは明朝のシルクレースだ。

 まったく、こんな糞田舎のヴェローナ大公程度の立場でこれだ。いくら現教皇の義弟にあたる公爵とは言え、豪奢を通り過ぎて統一感がない。偉大なるローマやヴェニス、そしてローマ法王猊下そのお方となったら、どれほどの暮らしをしていなさるものか。一年のほとんどを海上で過ごすウィレム・ロザルドには、想像もつかない世界だった。

「どうぞ、船長様」

「ああ、ありがとう」

 歓迎の杯は古来からの来客への礼儀だ。召し使いの女に差し出されるまま、ウィレムは銀の盆から小さなリキュールグラスを取り上げた。軽く嗅ぐと、ベリー系の中に少し刺激的な香りがした。おそらくは甘くてすっきりと口当たりのいい、何杯でも飲めるような、それでいて酒精度だけはやたらに高い泥酔向けの酒だろう。一気に重ねれば酔いつぶれる。食前酒にしては強すぎる。

 ウィレムは広間を見渡しつつ歩き回っているように装いながら、隙を見て、グラスの中の酒を暖炉で燃えている薪の上に捨て、ごく小さなリキュールグラスをソファーのクッションの陰に押し込んだ。

 真冬でもないのに惜しげもなくくべられた最高級の薪の燃え盛る暖炉は、向き合った二頭の獅子の真鍮細工の飾りで囲われている。火かき棒も真鍮で、持ち手に獅子の頭があしらわれている揃いの品だ。

 暖炉の両側には、小柄な女性の身長ほどはありそうな高さの東洋の陶磁器の壷が、やはり対称を保って飾られており、暖炉の前を彩る巨大な虎の毛皮を引き立てている。虎のガラス玉の目が自分を睨んでいるような気がして、ウィレムは皮肉っぽい笑いを虎の頭に向けた。これは彼自身が、数年前に明国の猟師市場から仕入れてきたものだ。

 虎の毛皮の上には、極上の紫檀で作られた揺り椅子が置かれている。座面にはダマスク織のクッションが張られている。そこが特別席なのは、誰の目にも明らかだった。

 暖炉から見て左手前には、二階から続く階段が設けられている。床に近づくにつれて、踏み板の幅が次第に広くなり、手すりが次第に高さを増していく様式は、ここ数年のローマやヴェニスでの流行だった。早速それを取り入れているあたり、さすがヴェローナ大公というところか。

 私邸でこの豪華絢爛さだ。ローマ教皇の妹を妻に持っていたという立場を最大限に利用して、エスカラス公爵は自らの異国趣味を満喫している。もちろん、その収集癖はどれだけの資産があっても満たされるものではないだろうから、ロザルド兄弟にとっては、彼がヴェローナ大公でいてくれるのは実に都合が良かった。

「やあ、よくぞ参ったな、ウィレム」

 と、階段の壇上から、響きのいいバリトンが呼びかけてきた。

 ヴェローナ大公殿下、エスカラス・ヴェローニアス公爵の登場だった。

「それに、よく戻った。北海航路までとは、実に大層な冒険だったことであろうな。そんな長旅の疲れもあるだろうに、早速顔を見せにきてくれて嬉しいぞ」

 大公はあごあたりまで伸ばした茶金の髪に、大公にのみ許された略式の冠をかぶり、黒貂の縁取りのある深紅のローブに、金銀宝石の飾りのついた太いベルトを締めている。手首には何本も重ねた金の腕輪がチャラチャラと軽やかな音を立てている。

 その中指に、大公家の後脚立像獅子柄紋章(ライオン・ランパント)が彫刻された金貨並みに大きな指輪がなければ、いや、彼が明らかな北イタリア人の風貌でなければ、その格好ならばトルコかモロッコあたりの太守か、どこぞの大物の山賊大将だと名乗っても違和感はなかっただろう。

「晩餐の支度が少し遅れているようでな、少し待たせてしまいそうじゃ。せっかく来てくれたのに済まぬのう。厨房の者どもが、賓客のために最高の晩餐でもてなしたいと思っているようなのじゃよ」

 その言い草が少しも言い訳がましく聞こえないのは、それが大公の口から出たからか、それとも音楽のように響くバリトンのせいだろうか。

 ウィレムは段上の大公の姿を見上げる。

 琥珀色に近い金髪と同じ色の燕髭は、いかにも伊達男らしく、見事な形に跳ね上げられてある。髭の下の唇が薄いところと、すっきり整った切れ長の目元は、やはり親戚筋というだけあって、養子のパリスとよく似ていた。今でも若かりし日の美貌の名残が、いや、むしろ年齢を重ねたが故の重厚さが、大公の笑顔をたいそう魅力的に見せている。その表情には、権力者特有の尊大さが隠すつもりもなく表れていたが。

「私も先ほど帰港したばかりです、どうぞお気遣いなく」

 ウィレムは如才なく言ってから、やおら膝を折り……何の敷物もない冷えきった大理石の床に直接片膝をつき、深々と頭を垂れて、臣従の最敬礼の姿勢を取った。

「お久しゅうございます。こうしてまたお目にかかれて、心から光栄です。大公殿下」

 その挨拶に、エスカラス公爵は打ち解けた表情でウィレムに近寄り、彼の肩に軽く触れた。

「いやいや、立ちたまえ。そういう畏まったことは、謁見室でだけにしようではないか。お前は我が父の友人の孫であり、わしの友人の息子であり、我が息子の友人でもある」

 その言葉に、ウィレムは再び深く頭を垂れ、最敬礼を取ってから立ち上がった。

「いらっしゃい、ビル」

 彼が立ち姿でざっと身繕いを整えるのを見届けてから、パリスが友人の方へと近づいて、横から軽妙な口調でくちばしを挟んだ。

「よう、パリス。おっと、殿下と呼ばなくていけませんかな」

「いつもどおりでいいじゃない、大公殿下……お義父上様もお気になどなさらないよ」

 屈託なく笑うパリスは、昼間よりもさらに美しく繊細な衣装を身に着けていた。金襴錦(ブロッカート)は、天鵞絨に比べて鮮やかな模様や色柄が作り出せる。彼は今、淡い金茶の地に、図案化された花々や果実がピンクや黄色で浪漫的に描かれたブロッカートの長衣をまとい、義父の異国趣味を意識してか、水色の絹の太帯(サッシェ)に黄金の大きなバックルで腰の細さを強調している。何にせよ、絵に描いたような美男子ぶりに変わりはない。

「ついでに、彼のロザルド兄弟海運は、我が一族の最高の商売相手でもある。そうでしょう、義父上?」

 パリスは少しでも場を和ませようとしたのだろうが、大公は鷹揚に頷き返すだけだ。

「そうだな。わしはこれでも上客のつもりでおるが、今はヴェローナの他の貴族家のみならず、ローマ、ベネチア、ナポリ、その他の市の貴族や富豪も、ロザルド海運の顧客名簿には漏れなく載っていることであろうな」

「恐れ乍ら、大公殿下はほかのお客樣方とは違います。特別なお方、我が父祖の代からの恩人であらせられますよ。大公殿下とエスカラス様のご一族からは、我らが父祖の代から勿体ないご厚遇を頂いております。そもそも公爵家のご援助がなければ、我が祖父が海運商会を興すことは愚か、我が大叔父は外洋に航海に出ることすらかないませんでした」

 エスカラス公爵の青い目を臆することなく真っ向から見て、ウィレムは過去に起きたこと、すなわち事実だけを淡々と語った。過去であるが故に否定が出来ない、完璧な切り札だ。

 さらに彼は、現在の権力者であるエスカラス公爵への世辞も忘れなかった。

「またエスカラス殿下は、我が父アレサンドロと、我が二人の兄の親しいご友人でもあらせられる。くれぐれも丁重に接するよう、私めは父と兄たちから、それはそれはきつく申し付けられているのですよ。ただ……」

 と、ウィレムは媚び諂いのために使った長広舌を、子供のようにぺろりと出して、わざらしく笑ってみせた。

「生憎と、私めは船乗りが天職でしてね。海の上での暮らしが長いもので、宮廷の作法には疎いのです。ご無礼ご失態がございましても、どうぞご容赦を」

「分かっているとも。君は兄さんたち……カイラスやジルベルトとは違う。君は荒くれ者の頭領だ、ウィレム」

「ビルのことは、船長と呼んであげると喜びますよ、義父上」

「ああそうか、そうだな、船長殿だった」

 ウィレムとパリスの言葉に、公爵は愉快そうな笑い声を上げた。

「ウィレムで結構ですとも、殿下」

「いやあ、いかんいかん、船長殿だ。いくら赤ん坊の頃からよく知った仲とは言え、こんな一人前の男を、いつまでも子供扱いはしておけんよ、なあ、パリス」

 その言葉に、一瞬だけパリスの形のいい眉が動いた。

 公爵はそれに気づいていなかったのかもしれないし、気づいていながら見て見ぬ振りをしているのかもしれない。

 パリスはエスカラス公爵家の傍流の出であり、産みの母の身分も低い。赤ん坊の頃はおろか、少年時代すら、義父とは直接に顔を合わせたことすらなかったのである。もともと交流がある家柄同士とはいえ、赤の他人の、しかも貴族でもない人間に幼少期から差をつけられていると見せつけるのは、公爵の新しい養子に対する牽制か? それとも単なる思い過ごしだろうか。

「ああ、そうだ、殿下、ちょっと失礼をば」

 ごくわずかだが冷たくなりかけた空気を一掃するために、ウィレムは一度立ち上がったものを再び大理石の上に直接尻を落として、東洋風の胡坐を組んで座った。それから、従者任せにせずに手ずから持ってきた、大きな革トランクを膝の前に起き直す。トランクにしつらえられた脇ポケットには細い鉛管が入るようになっていて、彼はそこから吸いさしの葉巻を取り出すと、火口を切って気分良さそうに煙を吐いた。

「ああ、やっとこれで俺も落ち着きます。殿下にお久しぶりにお目にかかれたのが嬉しくて、うっかり忘れてしまうところでしたよ……いや、万一忘れたら、俺はカイル兄にぶん殴られるか、ジル兄に半日ばかり説教をくらうんでね。思い出せてよかった」

 葉巻の紫煙が漂って薄い幕を作る。彼はそれを、商売人特有の損得勘定が表情に出るのを隠すのに巧妙に用いた。

「我が商会から、エスカラス殿下に献上させていただきたい品がございましてね。どうかお心に沿えば良いのですが」

 会話の中身はもちろんだが、わざと野蛮人らしい振る舞いをすることで、大公の興味をうまく反らすのに成功した。

「次兄ジルベルトと父アレサンドロの二重の鑑定ですから間違いありません。本物の伊万里です、ジパングの」

「ほう、見せてくれるかね」

「もちろんですとも。どうぞ、しばしお待ちを」

 と、ウィレムは革のトランクから、ぼろ布を外側に、内は高価な羊革で何重にも覆った荷物を取り出して、その包装をゆっくりと解いていく。

 その薄皮一枚が剥がれるごとに、エスカラス公爵が生壷を飲み込む音が聞こえた。

「さあ、こちらです」

 さんざんじらしてから、彼は一枚の大皿を大公の胸元に向かって捧げ持った。

「傷一つありません。最高の皿ですよ。マントルピースの上に飾ったら、きっと映える」

「おお……! これは実に素晴らしい、素晴らしいではないか」

 エスカラス公爵は一目で気に入った様子だった。

 それは、日本人ならば八寸皿と呼ぶ大皿で、乳白色よりもまだ白い、抜けるような純白にも関わらず、それでいてどこかぬくもりを感じさせる地肌に、深く濃く青い唐草模様が、全体を額内額のように見せている。中央には小枝に止まった小鳥が、今にも皿そのものから飛び出さんとするかのように翼を羽ばたかせている。そして、その鳥の周囲を彩る控えめな花の数輪だけが。

 目の覚めるような赤。

「これはいい……実にいい」

 公爵がため息混じりにつぶやくと、ウィレムとパリスはどちらからともなく目配せしあった。

 ジパングの焼き物は、当時のヨーロッパの貴族階級を席巻していた。宗国の白磁や青磁に熱狂していた富裕層が、伊万里の伝来によって一気に彩色陶芸の美に魅了された。繊細な絵つけと色合い、絵柄の異国情緒、何よりもその奇跡的な薄さ。

 その美しさに、彼ら彼女らは際限なく金を払った。難破船から打ち上げられた欠片すら、黄金で座金をこしらえて宝飾品として身につけたがった。ベルギー、ドイツ、フランス、イタリア、イングランド、そして帝政ロシア……いくつもの列強の王家が、何とかしてこの芸術品を再現しようと陶器職人を集め、レンガ職人を拉致同然に連れてきては竃をこしらえさせ、錬金術師どもに粘土や釉薬の研究をさせた。そのほとんどが無駄になったが。

 だからこそ、これほどまでに見事な絵皿、元来が異国趣味の傾向が強いエスカラス公爵のことだ、気に入らないはずはなかった。

「うむ、これを買おう。値はいかほどかのう?」

「いえ、これは我がロザルド商会からのご献上のお品です。どうぞ、快くお受けいただければ、父も兄たちも喜びます」

「そうか、そうか。ならば、父御と兄上たちにもよく礼を伝えてくれ、ウィレム。わしが……いや、ヴェローナ大公の余、エスカラス・ヴェローニアスが実に喜んでおったとな」

「勿体ないお言葉です」

 実際、その言葉だけで、賄賂としては十分すぎる効果だった。

 ウィレムが恭しい態度で一礼すると、エスカラス公爵はさらに満足げに繰り返し頷き、何度も皿の向きを変えては眺めた。そして不意に、例のいささか酷薄げな笑みを浮かべて訊ねる。

「それで、これはどうやって手に入れたのかね?」

「ポルトガル船を六隻ばかり沈め……いえ、ポルトガルの交易船といい商いが出来たんですよ」

 ウィレムのわざとらしい言い間違いに、大公の表情は苦笑いへと変わった。

「それは、いい儲けになっただろう。何よりじゃな」

「はい、それはもう」

「ただ、その手の商いはほどほどにしておくようにの。我らはあの忌々しい野蛮なイングランドの海賊民族どもとは違うのじゃからのう」

「承知しております。もちろん、ほどほどに」

 と、ウィレムは言いおいてから、片目を瞑って付け足した。

「それに、そのあたりはご安心を。商売相手には英国の貨幣を代金がわりにばらまいておきましたから。我らが疑われる心配は、あまりないでしょう」

「ならばなおのこと結構じゃ。せいぜい商いに励め」

 この時代、海軍と海賊と海運業の垣根はほとんどなかったと言ってもいい。国が立場を保証している海賊が海軍、金で権力を買っているのが彼らロザルド海運という程度の違いだ。そして、ほぼ全ての船乗りが、英国は国家そのものが海賊だと、あるいはイングランドが島の形をした海賊船だと思っていた。当のイングランド人でさえも、だ。

 自分より強そうな相手からは逃げるか、金を払って見逃してもらう。弱そうな相手がいれば襲って洗いざらい巻き上げる。同じくらいの立場の相手となら、対等な取引を試みる。それが海の上では当たり前の道理だった。公平な交易を行う確率が比較的高い分、ロザルド海運はまともな方だ。

 ポルトガル船は、他国の船から常に狙われている。ジパングからの輸入品を満載しているせいだ。ジパング王は、どういうわけだかポルトガルと明国としか貿易をしない方針を貫いていて、ポルトガル王国はジパングの最高級の陶器や漆器をヨーロッパ中で売りさばいて大儲けしている。金持ちなら誰でも、明国やジパングの細工物を欲しがる。

 ポルトガル船の方でもそれは分かっているから、その装備は貿易船というより軍艦並だった。だが、ポルトガル人は死ぬまで戦うということをしない。どんなにいい武器を揃えていても、水夫が兵士になり切っていないから、白兵戦に持ち込んで操舵室を制圧すれば、たいていは降伏する。そこで全ての船を沈めずに、わざと残した一隻に降伏した連中を押し込めて生き延びさせてやるのがウィレムのやり方だ。ついでに数ペンスの銅貨を叩き付けながら、『神は英国をお救い給う』を英国語で声高に歌って。どうせ連中には、こちらの英国語がひどい北イタリア訛りだなど分かりはしない。そんな判断が出来ないくらいには震え上がらせておくのがコツだ。

「だけどビル。君はロザルド海運の御曹司だよ。立派な船長様なんだし。白兵戦で切り込み役なんてやるのは、もうやめるべきだよ」

「それが一番楽しいんじゃねえか、バーカ」

 パリスは心から案じている様子で忠告したが、ウィレムは軽く笑い飛ばす。

「衝角(ラム)戦ってのは、相手の横っ面ぶん殴るようなもんだ。あれは最高に気分がいい」

 そのために『銀の狼』号の舳先には、銀細工の天使の像のついた強大な鉄の衝角が取り付けてある。目標にした船に最高速で近づき、その船体に横から衝角を突き刺す。横から殴るというより、頭突きか体当たりと表現した方が分かりやすかったかもしれないな、とウィレムは思った。

 横から高速で衝角を当てられたら、並の船ならそれだけで転覆する。だが、ポルトガル船くらいになると、その衝撃に耐えることが往々にしてある。穴の空いた船体でも、海水が流れ込まないように銅板が張り巡らされていることもある。

 だが、それでも船の動きを止めることは出来る。突き刺した衝角を伝って敵船に乗り込み、一番近くにいる人間、そして動くものなら何でも斬り倒して走り回るのだ。たいていの船は、そういう切り込み役を任せる専門の傭兵を雇っているものだが、ウィレムは自分が一番先に敵船に上がらないと気が済まない。そういう性分なのだ。

「君は命が惜しくないのかい、まったく」

「命は惜しいが、金と命を秤にかけるなら金を取る。つまり、白兵戦は俺の趣味みてえなものだ。諦めてくれ」

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