第2話 港にて

 水夫たちが積み荷を降ろし終えるのを見届けてから、彼はようやく、艀と船とを行き来するための小舟へと下りた。

「いい天気でようござんしたね、若船長さん」

 小舟の船頭が、皺だらけの顔に愛想のいい笑みを浮かべて話しかけてくる。

 引退したかつての船乗りが、今でもこうして通い船頭で櫂を操っているのは、昔の栄光が忘れられないからか。それとも、やはり水から離れては、魚は生きられないものなのだろうか。

「ああ、全くだな。今日はついてる」

「若船長さんの日頃の行いがいいんでしょうさ」

「おいおい。俺の日頃の行いは、知ってのとおりひでえもんだぞ」

 ウィレムは苦笑いを浮かべながら葉巻をくわえた。

 しかし、老人はそれを謙遜か、身分なりの慎み深さだと受け取ったらしい。

「そんなことおっしゃいやすが、若船長さんなんざまだまだ、大船長……いや、マルコお祖父様のやらかし加減に比べたら真っ当でございますよ」

「ああ、そうか、おやっさんも昔は外洋航路か」

 ふと、ウィレム・ロザルドは思う。

「へい、然様で。まあ、もう五十年も前の話でございますがね」

 そういえば、この船頭の老人の名前は何と言ったか……

 確か、祖父の使っていた水夫だったような気がする。口ぶりから察するに、そこのところは間違いないはずなのだが、どうしても老爺の名が思い出せない。

 思案に没入しかけたウィレムの意識を、名もなき老人の声が一気に意識の水面まで引き戻した。

「それに、ほら。若船長さんにゃあ、神様のありがてえお守りがござんすから」

「ああ、こいつか」

 ウィレムは指先で、首からぶら下げた金の十字架に触れた。小さく何の飾り気もない十字架は、彼の身なりからするといささか不釣り合いにも見える品だった。

「そういうのは縁起物でござんすからね。大事にしなさるといいよ、若船長さん」

「俺はそんなに信心深い方じゃないが、それでも、神様ってのはありがてえもんだよな」

「もちろんですとも。ご信心の深さのおかげで、お祖父様と大叔父上様、それにお父上様がどれだけ神のご加護を受けられたことか、お忘れになっちゃあいけやせん。お祈りは大切ですよ、若船長さん」

「そうだな、じゃあまあ、晩飯前のお祈りくらいはちゃんとやることにするさ。寝る前のお祈りは、どうしたって酔いつぶれて忘れっちまうからな」

 ウィレムの軽口にも、しわだらけの老爺……いや、この老いた船乗りは、大真面目な顔で頷いた。

「それがよござんすよ」

「ああ、ここでいい。ありがとよ、おやっさん」

 小舟から艀に飛び移ると、船長は軽く片手を振って老人に別れを告げた。

 年寄りの説教、特に宗教と家柄が絡んでくると何かと面倒くさい。それ以上世間話をするつもりはなかったし、老人も既に次の荷物か人か、あるいは海に捨てられないゴミを回収するために、再び小舟を巨大船へと漕ぎ出していた。

 靴裏に当たる石畳の感触は実にいい。

 これぞ陸だ、という気がした。

 そこを見計らったように、穏やかに声をかけてくる者がいる。

「よくお戻りになられました、ウィレム様……いえ、第一外洋船舶船長殿」

 黒髪に黒目、黄色い肌。見るからに異国の男が、いかにも仕立てのいい服……つやのある黒の上っ張りだけではなく、真珠色のシャツも細いスカーフも絹という、最高級の身なりをしているのが異様だが、その姿を見ても、ウィレムは少し笑っただけだ。

「よう、アイン。出迎えご苦労」

 彼こそは、ロザルド海運の実務取締役にして、次兄ジルベルトの最も信頼する執事であるアイン・シャンだ。

「お乗り物のお仕度が整っております。羽蓋車でも馬車でも神輿でも、すぐ港の外に控えさせておりますが」

 ファーストネームこそアインとイタリアらしく変えてはいるが、両親は明国の人間だ。彼自身はヴェネチアに生まれ、そのままこの国で育ったそうだが、外見的な特徴は隠しようがない。

 黄色い猿。彼のことを面と向かってそう呼ぶ度胸のあるものはいないが、イタリアにおいて、いや、ヨーロッパにおいて、アインは絶対的な被差別者であるのは確かだ。

 そんな「色付き」の彼を、兄は破格の待遇で雇い、ほとんど家族のように接している。

 実際有能な男だったし、何より、アインのおおもとの血筋であるシャン家と明国上層部とのつながりは、色付きを可愛がる好事家という噂話を差し引いてもお釣りがくるということだ。特に皇帝の後宮に侍る女たちとの太く強固な連携は、ロザルド家が明国との貿易で資産を生み出すための、金の卵といってもいい。

 しかし、母国では十分に尊敬と高貴な待遇を受けるのが当然のアイン・シャンだが、今はこうして遠い異国で、兄の執事の座に甘んじている。というより、西欧風の宮廷儀礼や料理、政治や謀略、些細なスキャンダルに至るまでを、実に忠実かつ楽しんで伝えいるように見えた。

 だからこそ、ウィレムもまた、彼にわがままを言いやすかった。

「馬車はうるさいし、羽蓋車なんてのは若くて綺麗な娘っこが乗るもんだ。乗騎の支度がないならそれでいい。俺は、俺の荷物を自分で運ぶし、自分の足で歩いて屋敷に戻る」

「畏まりました。そのように」

 恭しく頷く時のアインのかすかな笑みは、なぜかウィレムに奇妙な安心感を与えた。家に帰ってきたのだ、という実感が、改めて芽生えたのかもしれない。執事の仕事としては完璧と言っていいだろう。

 本当に有能な男だ。


 しかし、気持ちはどうあれ……艀から陸に上がっても、まだ地面がゆっくりと揺れているような気がする。こればかりは数日続く、長い航海には付き物の後遺症のようなものだ。常に揺れている状態に頭が慣れているから、ウィレム・ロザルドは、己の愚かな脳味噌はかえって揺れない地面が不思議に感じるのだろうと納得していた。

 いささかぼんやりした頭と、それでも決して不快ではないめまいを抱えながら、彼は港に立ち、陸の空気……冷たいアルプスからの風を杯一杯に吸い込んだ。

 そのとき。

「ビル!」

 突然声をかけられて、ウィレムは手にしていたトランクを反射的に握りしめた。

「やあ、ビル。お帰り。久しぶりだね」

 しかし、すぐに自分をそんなイングランディアかぶれの愛称で……ウィリアムの略称のビルと呼ぶ人間など、この世には一人しかいないことを思い出す。

「おお、これはこれは、パリス閣下。こいつあ驚きましたよ、まさか、ヴェローナ大公殿下じきじきのお出迎えだとは思いも寄らず、お待たせして申し訳ありませんでした」

 ウィレム・ロザルドは背後を振り返ると、わざわざ片手を腰の前で構え、深々と頭を垂れて、そこに立っている若者に対して、略式ではあるがしごく丁寧に儀礼的なお辞儀をした。

 それを見た青年は、軽く肩をすくめて、明るい口調で笑う。

「おい、厭味はやめてくれよ。知ってるんだろ。僕はまだ大公でも公爵でもない。ただ公爵家に養子に入っただけさ」

 品よく撫で付けられた長い金髪に、晴れ渡った空の色に近い印象的な青色の目。細いが短すぎない眉、手入れの行き届いた大理石の白肌、通った鼻筋、高い頬骨、痩せぎすではないが、すらりとした体つき。

 すなわち、絵画から抜け出してきたような美男子だ。

 その上、ベルベットの深紅のマントの下には絹織りの白い長衣、金糸の刺繍された太いベルトに、柔らかそうな仔山羊革の白い手袋と揃いのブーツ。斜めに冠ったゆったりした帽子には、マントに合わせたのか、ウズラの卵ほども大きなルビーのピンブローチが輝いている。

 身につけているものの何もかもが最高級品で、一目で彼がこの街でも最も裕福な人物の一人だと分かる。

「だが、将来の大公殿下の地位は間違いない」

 そう。この絵に描いたような美青年こそは、ヴェローナ大公エスカラス公爵の養子、唯一の公爵継息、パリス・エスカラス・ヴェローニアスその人だった。

 彼はほとんど完璧な容貌の中で、もしかしたら唯一酷薄に見えるかもしれない薄い唇を、にっこりと微笑ませて言う。

「どうだか。そんなに媚を売ってくれても、君には一文の得にもならないよ。よしんば僕が運良く大公になれたところで、君の兄上たちとは金銭の上でのお付き合いがあるのだろうけど、君はどうせいつだって海の上だろ」

 その言葉に、ウィレム・ロザルドは皮肉めいた笑いで答えた。

「そりゃあそうだな。だったらまあ、以前通りにパリスと呼んでいいかね」

「もちろんいいさ。君だって、僕が勿体付けて、『ロザルド海運商会第一外洋航路大船舶船長ウィレム・ロザルド殿』って呼んだら腹が立つだろう?」

「腹が立つ前にぶん殴る」

 トランクを持っていない方の手で、ウィレムはわざとらしく握り拳を作り……それを軽く挙げた友人の拳にとんと当てて、今度こそ、何の屈託もなく笑った。

 バリスも楽しげな笑い声を上げる。

「あはは、君っていつもそうだね」

「そうさ。俺はいつだって、気に入らない奴は力ずくで黙らせてきた。簡単に人なんざ変わらねえもんだぜ、パリス」

「だったら、僕も相変わらずってことだよ」

「はは、そう言われちまえばそうかもな」

「なんだかんだで、ちっちゃな子供の頃からの付き合いだもの。本当のところが変わっていないのは、君のその顔を見れば分かるよ」

「まったくお前にゃあ敵わねえな」

 二人はいかにも愉快そうに笑い合ってから、どちらともなく歩き始める。

 パリスは長いマントを華麗に翻しながら。ウィレムは自らの立場を慮ってか、半歩遅れてそれに並んだ。

 実際のところ、二人はまだ少年の時分からの友人だった。このヴェローナの街が本格的な発展を始めた頃に、二人はそれぞれ幼少期を過ごした。街が次第に、そして急速に華やいでいくのを横目で見ながら。

 今やにぎやかな交易都市としての地位を確立した故郷を軽く眺めてから、ウィレムは口を開く。

「にしても、人は変わらんとは言え、土地は変わるな。少し離れているうちに、すっかりヴェローナは穏やかになった」

「ああ。このあたりはもっぱら教皇派でね、静かなものさ。さすがは義父上、さすがはエスカラス大公殿下だね。うまくまとめあげたものだと、我が義父ながら感心するよ」

 パリスは軽く肩をすくめながら答える。

 実際、ヴェローナ大公エスカラス公爵の手腕は見事なものだった。

 当時のイタリアでは、ローマ教皇グレゴリウス九世を支持する『教皇派』と、神聖ローマ帝国の皇帝を名乗るフリードリヒ二世を支援する『皇帝派』に、全土が真っ二つに分裂していた。双方が主張を曲げることも、譲ることもなかった。内戦寸前の状態だったと言ってもいい。

 そんなときだ。

 パリスの義父であるエスカラス公爵は、皇帝派の血気盛んな若者が起こした小さな事件を、あたかもローマ教皇庁への反逆、いや、公然たる神への反乱であるかのように喧伝し、それに関わった人々を一族郎党まで断罪した。ほとんど言いがかり、捏造とでも言うべき事柄だったが、その厳格な処断によって、公爵は周囲の都市の有力貴族たちに圧倒的な恐怖を与えたのだ。

 すなわち、神聖ローマ皇帝に組するものは、教皇猊下の名のもとに、ヴェローナ大公が皆殺しにすると。

 その権威を、当のローマ教皇グレゴリウスが後押しした。処刑によって命を落としたものには神の恩恵は与えられない。死後であろうが命があるうちであろうが、神聖ローマ帝国に忠誠を誓う輩は全員破門する。そう正式に宣言したのだ。

「破門」

 これほど当時の厳格なカトリックに対して効果的な言葉があっただろうか。天国の門は永遠に閉ざされる。死後の安らぎはなく、その魂は永遠に地獄の業火に焼き尽される。この今行きている人生ですらこんなにも辛いのに、もっと恐ろしい罰が死後に待っている。

 ヴェローナの善良な人々は、みなローマ教皇にひれ伏した。

 かくして、ヴェローナは教皇派の支配する土地となり、教皇派と皇帝派の争いは、見かけ上は終結した。また、ヴェローナやローマ周辺の都市国家の元首たちも、次々にローマ教皇庁に忠誠を誓っている。

「なるほどな。まあ、俺ん家としちゃあ、教皇派と皇帝派の連中が派手にやり合ってくれてる方が良かったんだがねえ。なんせ、棺桶から墓石から武器から、大分に儲かった」

「なら、これからは、僕の義父の大公を通して、教皇庁に取り入るべきだね。ひとまず、僕と君の友情は別にしてさ」

「友情が聞いてあきれるぞ、この悪党め」

 ウィレムとパリスは、互いに気心の知れている者ならではの含み笑いを交わした。

 実際、この二人の男たちはそれぞれに自分の利益を知り尽くしているのだ。その相手が教皇派だろうが皇帝派だろうが、それはその段になって勝ち馬に乗ればいいと割り切っている。

 と、そのとき不意に、ウィレムが街の中心部へと視線を移した。

「ところで、さっき教会の鐘を聞いたが、銀に変えたのか。いい音色だったが、随分と豪勢だな」

「ああ。お察しのとおりだよ。うちの義父から、先日新しく着任された神父様へのご寄進でね。純銀の鐘に純銀の十字架、ついでに黄金伝説の彩色写本も」

「それ、うちの兄貴から買ってねえか? 何か、その写本とやらは身に覚えがある」

「もちろん、きみのロザルド海運から買ったよ。高かったんだからね」

「そいつあお得意様で。まいど有難いことでございます。しかし、そこまで投資してやるほどの人物なのか?」

「ああ。何しろ、ローマ教皇庁から直々にいらした有難い神父様だ。マティアス師というお名で、いずれは枢機卿を狙えるお立場らしいよ」

 それを聞いたウィレムは、皮肉っぽい笑みを口元に刻んだ。

「ああ、そいつは有難そうな神父様だな。前のロレンス神父も、そりゃあもうご熱心でご立派な方だったが」

「彼はどうした?」

 ロレンス神父の名を聞いた瞬間、わずかにパリスの眉が動いた。それを見逃さず、だがウィレムはいかにも軽快な口調で続ける。

「ああ、ロレンス様ってお方は、実に素晴らしい情熱をお持ちだね。無知蒙昧の連中に、神のお言葉を伝えるために未開の地へと伝導の旅へと赴かれた。そんな偉業のお手伝いが出来て、俺はとても光栄だぜ」

 と、ウィレムは新しくくわえた葉巻に、例の奇妙な火口箱で火をつけながら、実に底意地の悪そうな笑みを浮かべた。

「あの情熱なら、きっと海の底のイワシやフカやイソギンチャクにだって、神様の尊いお言葉を伝えられるさ」

 その台詞に、ようやく事の次第を理解したのだろう。パリスは耐えかねた様子で笑い出した。

「はは、は……ひっどい話」

「お元気にしていなさるといいなあ、何しろデンマーク沖の海は冷たいからなあ」

 まるでしらばっくれた態度の船長に、パリスは笑い転げながら抗議する。

「アハハ……もう止してよ、笑いが止まらない」

「おいおい、俺は本当に親切なんだぞ。お別れするときに、ちゃんとラテン語の聖句の彫られた石盤まで抱かせてやったんだから。丈夫な革紐で胸元と足下にくくってさ。来年あたりにゃあきっと、デンマークの牡蠣は賛美歌を歌うようになってるぜ」

「止めてったら、もうおなかが痛いよ」

 ひとしきり笑い転げてから、不意にパリスは真顔になって言った。

「ありがとう、ビル。感謝する」

「構わん。お前は金払いがいい。金をもらった分の仕事はきっちりやれってえのが、うちの祖父さんの代からの家訓だからな」

 答えるウィレムも、不敵な笑みのまま、眉一つ動かさない。

 軽快な言葉とは裏腹に、残虐な事実が海底に眠っていることを、二人は痛感していたことだろう。

 流れたのはごくわずかな沈黙だったが、パリスはくるりと相棒の方を向き直って、話題を変えた。

「ねえビル。もし君さえ時間があれば、これから我が家に来ないかい? 義父も君に会いたがっているし、ひとつお得意の冒険談でも披露してやってくれないかな」

 その空色の瞳は楽しげに輝いていて、ほんの数秒前の会話などすっかり忘れてしまったかのようだ。

「ついでに君も、義父上への献上品も持参できるだろうし」

「パリス、お前は本当に気が利くな。俺は、お前のそういうところが好きだ」

 ウィレムは喉の奥でかすかに笑った。

 それから、しばらくあごに手を当てて、何か思案するようなふりをする。

「なら、お前さん家の今夜の晩餐に招待してもらうっていうのはどうだ? 実は俺はこれからちょいと、兄貴たちのところに顔を出さなきゃあならねえんだよ。伝票と積み荷がきっかり合ってるか、仕入れ値と、水夫の給料だの飯代だの燃料費だの差し引いて、どれだけ利益と損益が出るのか、兄貴たちに全部目を通してもらわんとならん」

 その言葉に、パリスは意外そうに形のいい目を見開いた。

「船長殿にも苦労があるんだねえ」

「ああ、苦労苦労、苦労ぱっかりだよ。これからきっと、下の兄貴……ジルに長いこと説教されるのは間違いねえ。積み荷の伝票が合わねえってさ」

「少しくらいの齟齬は仕方がないんじゃないの? 未踏の海を進むのだから」

「ああ、うん。それなら文句は言われないんだがよう」

 彼の言葉に、ウィレムはいささか困ったような、あるいは人を煙に巻くような曖昧な笑みを浮かべた。

「さっき、うちの水夫……航海士に赤ん坊が生まれたってんで、祝いにベニスの毛織物をくれてやっちまった。そんで、その前には……どこだったかなあ、ローマかベニスか、でなきゃギリシャのどっかの港だったかもしれねえが、かわいい小娘がいてさ」

 美しい思い出を噛み締めるように目を閉じてから、ウィレムはいささかも悪気のない笑顔で言った。

「で、そいつに真珠の耳飾りをやった。後はそうだなあ……ああ、そうだ! 北海航路の帰りに、緑金髪で緑の目の、えらい美人に会ってな。そりゃあもう、思い出すだけでよだれが出るぜ。ありゃあ、天使か聖女様かサイレンの魔女かってくらいのいい女だったぜ。そいつにエメラルドの首飾りをくれてやったよ、あんまり似合うんでな。それから後は……」

 パリスは呆れ顔で片手を振り、話を遮った。

「もういいよ。どうせ立ち寄った港で出会った女のことなんていちいち覚えてないんでしょ。そりゃあジルベルト殿から叱られるよ、正しいお説教だ」

「だよなあ」

 と、ウィレムも心の底から同意したような表情をしてから、申し訳程度に肩をすくめて見せた。

「でもなあ。きれいな、可愛い女を見ると、俺はつい、何かしてやりたくなるんだよ」

「気持ちは分かるよ」

 どんなに美しい女でも、翌日には黒死病に取り憑かれるかもしれない世の中だ。風疹やはしか、流行病の蔓延はいつやってくるか分からないし、あるいはちょっとした風邪だって、こじらせれば死ぬ時は死ぬ。

 だからこそ、その生涯のたった一瞬、最高に美しい瞬間に出会えたときには、男は何をも惜しまないものだ。

 そういう生き方は、ウィレムのみならずパリスにとっても、ごく当たり前の日常だった。


 港を抜ける石段の上に、黒塗りの豪華な馬車が停まっている。扉には金で描かれた公爵家の紋章が燦然と輝いていた。

 黒と金の紐でつながれた二頭の白馬は手入れが行き届いており、正午すぎの太陽の下ではたてがみが真珠のようにきらめく。

 御者の身なりも、そのあたりをうろついている連中とは桁違いに立派だった。白いシャツに黒いベスト、派手さはないが実に品がいい。馬車の紋章を見なくとも、この男が名家の使用人なのは一目瞭然だ。

 彼は主人家の御曹司の姿を見つけると、すぐに御者台から下りて馬車の扉を開け、革張りの踏み台を差し出す。

「いい馬車だな」

「君の船ほどじゃないよ、ビル」

「当たり前だバーカ」

 軽口を交わしながら、パリスは軽く身を屈めて馬車へと乗り込む。

 扉からちらりと覗く内装は、天鵞絨と別珍で張られた四人乗りの座席、ステンドグラスをはめ込んだランプなど、どこか異国情緒を感じさせるもので、これはパリスの趣味というより、義父であるエスカラス公爵の好みなのだろう。

 馬車の扉が閉まると、その窓越しにウィレムは軽く片手を上げた。

「それじゃあ、俺は一丁、兄貴たちに説教されてくるぜ。また後でな、パリス」

「ああ、また後で」

 窓にカーテンが下ろされ、馬車が走り出す。

 規則的な八つの蹄の音と、大きな車輪の回る音、そして御者の手綱と鞭を操る音が調和して、まるで音楽のようだった。

 黒い馬車が大通りの角を曲がって公爵邸の方へと去っていくのを見送ってから、ウィレムは手にしたトランクを軽く肩に担ぎ直し、通りを逆の方角へと歩いて行った。

 懐かしい、そして何かが少しずつ記憶と違っている街並を眺めながら、それだけは変わらない石畳の上を。

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