ジュリエット

猫屋梵天堂本舗

第1話 上陸

 水上から見下ろすヴェローナの街は美しい。

 色鮮やかな尖塔が建ち並ぶ街並。狭くて入り組み、いくつもの階段の見える石畳の道。古くて小ぢんまりとはしているが趣のあるバロック建築の教会からは、鐘楼の銀の鐘が清らかな音で正午の訪れを知らせている。その中央には、古代ローマ帝国の大いなる遺産である円形闘技場と並んで、異国趣味の赤と金で塗られた荘厳な屋根を持つヴェローナ大公の屋敷が偉容を誇っている。

 それから石造りの港。木製の艀は新しく架け替えられたもののようだ。小さな木造船から遠大な航海に耐えうる大型船までが、整然と配列されている。たたまれた白い帆、赤い天鵞絨の旗、つくろいかけの漁師の網は塗った蝋のせいで青緑に鈍く光る。捨てられた雑魚を漁りに、いかにも図太そうな面構えの黒猫が、商売敵の烏に睨みを利かせている。

 ヴェローナは色彩の街だ。それらが、川面に無数に輝く波頭に彩られて横たわっているのを眺めるのは、船乗りだけの特権だ。

 彼は舳先の天使の飾りの翼に片肘をつきながら、笑顔でこの愛しき故郷を見下ろしていた。

 実際、彼は上機嫌だった。

「船長、もう着きますよ」

「んなこたあいちいち報告すんなバーカ、見りゃあ分かる」

 船員の報告に答える声は、これでも普段に比べればよほど穏やかだ。そして、毒づかれた方の船員も、何やらそわそわと落ち着かぬ様子で、にやつきながら甲板を駆けていく。

 陸に住んでいる人々は、海に近づくと潮の香りがするという。

 だが、長いこと船乗りとして生きている人間は、陸の臭いを感じるのだ。

 大海から内湾へ、それから河口、やがてアディージェ川を遡っていくうちに、ゆっくりと、しかし確実にそのにおいが強くなる。

 街のにおい。真新しい水のにおい。商売女たちの化粧のにおい。あたたかい食い物のにおい。

 何より、あのはるかアルプスから吹いてくる、冷たくて乾いた風のにおい。

 どんなに海を愛している男であろうと、この誘惑に勝てはしない。

「入港、入港します」

 航海士のバロテッリの声が弾んでいる。もしかしたら彼はもう、出迎えの人の中に家族の姿でも見いだしていたのかもしれない。

 河川に沿うように縦長に作られたヴェローナの港は、下手な海辺や海上都市のそれよりもずっと立派だ。

 内陸にあるとはいえ、ガルダ湖とアディージェ川に挟まれた立地は、水運業にはうってつけだった。その上、ヴェローナは土地が貧しかった。オリーブと葡萄の他にはろくな作物も穫れやしない辺境の地にとって、小麦の輸入は最大の課題だった。

 それを、一大商業都市にまで押し上げたのは船の力だ。

 水運に目をつけた先代のヴェローナ大公エスカラスが、一介の船乗りにすぎなかったマルコとジェイロムのロザルド兄弟に見いだしたのは、偶然だったのか、大公ならではの情報網の結果か、はたまた単なる大博打だったのか、今となっては知る由もないが。

 先代大公はこのロザルド兄弟に独自の出資をし、商会を作らせ、彼らのためにわざわざこの港までをも作り上げた。当所は小さな港だったものが、立派な港湾都市となったことを見届けてから、先代大公は息を引き取ったという。

 ともあれ、今のヴェローナの発展があるのは、この三人の野心的な男たちの業績だと言い切っていい。

 手始めに作られたのが二隻の船と小さな港、三つの倉庫からなる『ロザルド兄弟水運商会』だった。弟のジェイロムは家屋敷を含む全財産を売り払って、イタリア中から腕のいい測量士と地図・海図の職人をかき集めた。ジェイロムは彼らにヨーロッパから無限に続くと思われる海と陸地の詳細な図面を作らせ、新しい航路を次々と開拓した。

 兄のマルコはいい船乗りだった。人柄が豪快で、また人好きのする人相だったらしい。彼を船長に押し立てても、異論を唱える乗組員はいなかった。

 マルコはまずは小麦を、続いて木綿と羊毛を輸入し、弟がそれを安値で一気に売っては買い戻して、とどのつまり空売りで大儲けした。ロザルド兄弟はヴェローナの市場相場を崩壊させ、新しい相場を自分たちで決めて、莫大な利益を上げた。その利益の三割が、出資者である先代大公の懐に収まった。

 金が動くところには人が集まる。ヴェローナはただの内陸の貧しい村から、たった二十年でイタリア有数の都市にまで発展し、ヴェローナ大公エスカラスとロザルド兄弟はその中心としてのし上がった。

 もちろん、急激な発展に異を唱えるものもいたし、発展に乗じて勢力を伸ばそうとしたものもいた。この混乱に乗じて、神聖ローマ帝国がヴェローナにも拠点を作り、由緒正しきローマ法皇派と皇帝派との争いは激化した。名門同士が結婚の絆によって同盟を結び、そして簡単に裏切り合った。成金が名家の名前を買って乗し上り、互いの勢力を食い合おうと争い、運河に死体が浮かんでは沈んだ。

 だが、それはもう過去の話だ。

 今のヴェローナは平穏で、にぎやかで、華やかな商業都市だ。

「碇を下ろせ! 艫綱を結べ、早くしろ!」

 威勢のいい船員たちの声が響くよりも早く、入港してきた外洋向けの大型船のために、港に停泊していた船は場所を空けてくれる。ぶつけられたら自前の小舟が沈むのはもちろんだが、この大型船が誰の持ち物だか、知らぬ者は無いからだ。たとえ知らなかったとしても、堂々と掲げられた深紅の旗に描かれているのが『ロザルド兄弟海運』の狼と鷲の紋章だと気づかぬわけはない。

「おかえりー、おかえりなさい、あんた!」

「お父さん、お兄ちゃん、おかえり!」

 女子供の出迎えの声で、港は一気に華やいだ雰囲気になる。

 他のどんな船より出迎えの数が多いのも当たり前の話だろう、水運業から海運業に手を広げてからは社名が変わった今でも、ロザルド兄弟海運は、このヴェローナで最も巨大な貿易会社であり、中でもたった今入港してきたばかりの『リュコス・アルギュロス(銀の狼)』号は、ロザルド海運の末息子、ウィレム・ロザルドが金と権力にものを言わせて作り上げた、ヴェローナで、いや、イタリアで最高の船だ。

「あんた、ほら早く来てよ、あんたの倅だよ!」

 艀の先まで駆け寄ってきて赤ん坊を高く差し上げているのは、航海士の妻だ。

 首まで真っ赤になって力のかぎり泣いている赤ん坊に、船長は思わず笑みを浮かべて航海士を振り返った。

「おいバロテッリ、お前親父になったのか」

「へい、どうもひとつ、そうらしいんで」

「出航の前にもう腹ぱんぱんだったもんなあ。よく一人でお産みんさったよ、おかみさんも」

「ありがとうごぜえやす、神のご加護でさ」

 酒と日に焼けた無精髭だらけのあごを、航海士は気恥ずかしげに掻いた。

「なら、俺からの祝いだ。積み荷にベニスの織物があったろ、あれの中から好きなの持ってけ。倅の洗礼式の晴れ着にな」

「いいんですか、船長」

「一枚だけだぞ。あんまり高いのはやめとけよ」

 航海士は頷くと、満面の笑顔で縄梯子を滑り降りていく。

 水夫の中には、そのまま水面に飛び込んで、しぶきを上げながら港へと泳ぐ者さえいた。

「おい野郎ども、はしゃぐのは荷を下ろしてからだ!」

「輸送船まだか、商会の倉庫に全部運べ」

「そっちの箱は丁寧に扱え、高級品だ」

 甲板には、あちらこちらから怒号が轟いている。

 雇われ人夫と言えば聞こえはいいが、こうした大型船の最下層の水夫連中は、言うなれば奴隷と同じだ。少しでも地位が上の船員に追い立てられるように、休む間もなく立ち働いている。

 とにかく喧噪だ。積み荷の上げ下ろし、運搬船や馬車の手配の遅れに苛立つ上級水夫の罵声、家族との再会を喜ぶものたち、そして長い航海のうちに命を落とした不幸な水夫の身内の、悲痛な泣き声もとぎれとぎれに混ざる。

「さあて、こんなものかな」

 その様子をひとしきり舳先の飾りに身を任せて眺めながら、ようやく「船長」と呼ばれた男……すなわちウィレム・ロザルドは背を伸ばした。

 地模様の織ってある白いシャツを、細身のズボンの腰にゆったりと裾だけ入れて、緩くベルトと剣吊り革をぶら下げている。足下のブーツの折り返しが灰色でふわふわした毛皮なのは、北海航路の名残だろうか。伸び放題の髪を後ろに束ねているのが、いかにも船乗りと言った風情だ。

「荷下ろしと倉庫への移動は完了しました。後は、船長の部屋の物だけです」

「ああ、そいつあ俺が手前でやるからいい。大した量じゃねえし、公爵殿下への献上品もある」

「はい、了解しました!」

 若い、ほとんど少年と呼んでもいいような水夫を、船長は軽く呼び止めた。

「おい、ダニエル。俺の船室に入った奴はいるか」

「いないと思いますが」

「ならいい。お前もせいぜいお袋さんに甘えて来い。お袋さんに土産は買ったか?」

「はい! ローマで、マリア様の像を買いました!」

 それが銅貨四枚の安物でも、きっと少年の母は涙を流して喜ぶだろう。ダニエルにとって、これは見習い水夫として初の長距離航海だったのだから。

「そりゃいいもんだな。はしゃいですっ転んで割るなよ。よし、行け」

「はい!」

 少年が日焼けしたそばかすだらけの顔に笑みを浮かべて駆け去るのを横目で眺めてから、船長はゆったりとした足取りで船室の方へと下りていく。仕草はくつろいでいるようだが、灰色の目だけは油断無く船内を観察している。

 狭い通路に誰もいないことを確認してから、彼は自分の船室へと入る。後ろ手に扉を閉め、わざわざ引き錠を下ろした。

 船長の私室とは言え、船内のことだからそう広くはない。平らなチェストに分厚い毛皮を敷き、毛布を乗せてベッドとして使っているようだ。

 彼はもう一度、用心深く扉の外に耳を澄ませてから、毛布を船倉の床に投げ捨てた。

 毛皮をわざわざ裏返しているのは、何かを包むつもりだろうか。

 そして、慎重な手つきでチェストの蓋を押し上げる。

 古めかしい木製の箱から現れたいくつかの品々を詳細に見分して、彼は灰色の瞳を満足げに細めた。

「よし、上々上々」

 独り言をつぶやいてから、彼はチェストの中の品々……丁寧に梱包された大小の荷物を、書き物机の横に置かれた革のトランクに詰め始めた。

 革のトランクはそれほど大きなものではなく、ちょっとした旅行でも不便があるほどのサイズに見えるが、何かコツのようなものがあるのか、何かのパズルか組木細工でも作るように、彼はびっしりと隙間なく荷物を詰め込み、チェストの中身をほぼ空にした。その手際は見事なもので、十分とかかってはいないだろう。

「まあ、こんなものだろ」

 彼はまた独り言をぐちてから、満足げな顔で、チェストの底に最後に残った長い布包みを眺め下ろした。

「これはこっち、あれはあっち、何にでもふさわしい場所ってものがあらあな」

 その棒状の包みを、彼は敷いておいた毛皮で丁寧にくるむと、そらにその上から毛布を巻き付けてベルトで止めた。そうしてしまうと、ただの分厚い毛布がトランクに吊られているようにしか見えなくなった。

「上々」

 彼はもう一度呟いてから、シャツの胸ポケットから葉巻を取り出し、小さな黒塗りの箱……明国あたりの細工だろうか、奇妙な形の火口箱を器用に操って、葉巻の先に火を点けた。

「ふうーうう」

 うまそうに一息ついてから、彼はさらにもう一度、自分に語りかける。

「さあて、ようやく辿り着いた我が愛しい故郷ヴェローナだ。ふるさとをちょっとくらい楽しんでも、神様はお許しくださるよな?」

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