第2話

 そこは、何となく懐かしい気分になれる場所だった。

 薄暗い夕暮れ。舗装されていない、砂利道ですらない凸凹道。辺りには草が生い茂り、道の横を流れる小川の上では蜻蛉が杭に留まり、ちらほらと蛍が飛んでいる。見渡せばぽつ、ぽつ、と小屋なのか家なのかわからない建物が建っていて、水車小屋からはギッコンバッタンという音が一定のリズムで聞こえた。

 幸多自身は、今までこんな土地に来た事は無い。だけどその風景は、社会の教科書に載っていた幸多の父母……いや、下手したら祖父母の子供時代の生活風景を収めた写真にそっくりだった。

 まるで、昔にタイムスリップしたみたいだ。

 そう、幸多は思った。

 今ここで、小屋のどれかから着物を着た子供が飛び出してきたりでもしようものなら、ますますそう思った事だろう。

 だが、どの小屋からも子供は飛び出してこなかった。子供だけではない。大人も、一人も見当たらない。それどころか、夕暮れの夕飯時だというのに、どこからも夕飯の匂いは漂ってこず、ご飯を炊く時に出る湯気も昇っていない。それどころか、灯りが燈っている小屋すら一つも無いのだ。

 幸多と華欠左衛門、それにこおろぎとほたるを除くと動いているものは何一ついない。ここは妖怪の世界……妖界だというが、その妖怪すら全く見当たらない。

 そんな感想が幸多の顔に見えたのか、華欠左衛門は言う。

「今は夕刻。人間界と妖界を最も行き来しやすくなる時間帯じゃからな……多くの妖怪は人間界に遊びに行っておるのじゃろう」

 つまりは入れ違ってしまったのだという事実に少しガッカリし、少しホッとした幸多は華欠左衛門に訊ねた。

「ところでさ……もう、結構歩いたよね? まだ目的地に着かないの?」

歩き慣れない凸凹道を歩いた幸多の足は、既に悲鳴をあげ始めている。

 そんな幸多を華欠左衛門は呆れた目で見た。

「何と! もう疲れたと申すのか? まだ半刻も歩いておらぬと言うのに……いやはや、近頃の人間界に住まう童は軟弱じゃと聞いてはおったが、よもやここまでとは……」

 その言葉にムッとなった幸多は、疲れたのを隠すように反論した。

「別に疲れたわけじゃないよ! ただ、あんまり帰るのが遅くなるとお母さんに怒られるから……」

 その様子を見て、華欠左衛門は「うむ、疲れを厭わず親を想う。それでこそ、おのこじゃ!」と一人で勝手に納得し、頷いて見せた。

 そして、スッ、と右手を上げると、目の前を指した。

「ほれ、そこに林が見えるじゃろう? あの林を抜ければ、目的地はもう目と鼻の先じゃ」

 見れば、そこにはいかにも何かが出そうな、鬱蒼とした林が「おいでませ」と言わんばかりに佇んでいる。

「……」

 幸多は、思わず一歩退いた。

 先ほど「遅くなるとお母さんに怒られるから」と言ったばかりだというのに、何とか林を突っ切らずに遠回りしていく方法は無いものか、と思案している自分がいる。

 だが、そんな幸多の心境は露知らず。

「さぁさぁ、ご母堂を待たせるには忍びない。早く任を全うし、おぬしを元の世界に送り届けようではないか」

 華欠左衛門はそう言ってぐいぐいと幸多の背を押し、林の中に踏み込ませてしまった。こうなったら、覚悟を決めるしかない……。

 観念した幸多は大きく息を吸い、えいやっと言わんばかりに思い切って足を踏み出した。



 入るのを足踏みしたわりに、林の中は大した事はなかった。

 特に妖怪や追剥が出るわけでもなく、ただ単に暗くて凸凹していて歩き辛いだけだった。

 ただ、そこかしこに人がいるような気がしたり、どこからともなく、かすかな笑い声が聞こえてきた気がしたりしたのは、できる限り早く忘れようと思う。

 そんな林を抜けると、幸多の目の前には大きな鳥居がそびえ立ち、更にその背には気が遠くなるほど長い石段が控えていた。

「これを上りきれば目的地じゃぞ、幸多! あと少しじゃ!」

 興奮気味に華欠左衛門が幸多を鼓舞した。

 だが、当の幸多は石段を見上げ、そのあまりの高さに呆然としている。

 この気持ちはRPGのダンジョン内にて、回復アイテムも体力も底をついた状態でやっとお目見えできたラスボスのレベルが非常識なほど高かった時の絶望感に少々似ている。いや、リセットできる分、まだゲームの方がたちが良い。

 ……が、そんな事を考えても石段が減るわけではない。

 意を決して、石段を上り始める。

 一段、二段、三段……。

 先はまだまだ遠い。

 二十七段、二十八段、二十九段……。

 そろそろ足が重くなってきた。

 五十二段、五十三段、五十四段……。

 両手で抱えた水晶が重い。

 百六段、百七段……百八段。

 そこで、パッと視界が開けた。

 石段を上りきったのだ。それを認識すると、体が急に軽くなったような気がする。

 吸い込む空気も、これまでに吸ってきたどんな空気より清々しくて美味しい。

 石段を上りきったことに感動する幸多に、華欠左衛門もまた、感無量と言わんばかりの顔だ。

「さぁ、幸多。そこに御社があるじゃろう? あの中に、その水晶を安置する為の台座がある。そこに水晶を安置する事ができれば、おぬしの任務は完了じゃ」

 そう言って、幸多を促す。幸多は頷いて、歩を進めた。

 不思議な高揚感が、幸多を襲った。今自分は、とても大きな仕事を成し遂げようとしているんだという気分が胸いっぱいに広がった。

 何だか、とても偉くなったような気がする。社の背後にそびえる大きな山が小さく見えた。

 そして、さぁ後は御社の扉を開けて水晶を安置するだけだ、となった。

 華欠左衛門が、興奮を抑えきれぬ、という様子で言う。

「精霊王様! 不肖華欠左衛門、遂に精霊王様の精霊水晶をお持ちしましたぞ! さぁ、お受け取りくださいませ!」

 ……「精霊王」?

 その言葉に、幸多は胸がどきどきするのを感じた。

 そう言えば華欠左衛門は、現れた時にも精霊王がどうとか言っていた。

 精霊「王」というくらいなのだから、やっぱり精霊とか妖怪の王様なんだろうか?

 漫画やゲームの世界だけじゃなくて、本当にいるのか、そんなものが。

 そして、その精霊の王が今まさに自分の目の前に現れようとしているのか?

 幸多は期待に胸を膨らませ、水晶を安置すべき場所に近付けた。神経が研ぎ澄まされ、周りの空気がピリピリしているように感じる。そのピリピリした空気を伝って、幽かな声が幸多の耳元に届いた。

「大儀であった……水晶を置き、下がれ。ゆるりと休むが良い」

 低くて、重い声だ。

 まるで、ねっとりと体に絡みつくようで、聞いているだけで体が重くなりそうな……。

 これが、精霊王の声だと言うのだろうか?

 そうだ、と言うのであれば「下がれ」と言われるまでもなく、さっさと帰りたいと幸多は切実に思った。こんな重い空気の中に、いつまでもいたくないというのが正直な感想だ。

 その気持ちも手伝って、幸多の水晶を置こうとする手は益々速くなった。それに比例して、空気も更にピリピリを増している。

 まるで、精霊王が興奮しているような……そう幸多が感じた瞬間、ハッと顔色を変えた華欠左衛門が、弾かれたように叫んだ。

「幸多! 水晶を手放してはならぬ!!」

 その声に驚き、幸多は今まさに水晶を置こうとしていた手を思わず引っ込めた。

「何だよ、華欠左衛門!? 水晶をここに置けって言ったのはお前じゃないか。何で今更手放すな、とか言うんだよ!?」

 驚かされたことへの不満を募らせながら、幸多が抗議する。それでなくても、早く終わらせて帰りたいのに。なのに何故このカラス天狗はわざわざ用事が長引くような事をするのだろう。

 そもそも、華欠左衛門と自分は精霊王に水晶を届けに来たのではなかったか。それが何故、精霊王にお預けを食らわせるような事をしているのだろう?

 そして、彼は何故……先ほどとは打って変わった険しい顔つきをしているのだろう?

 納得できない感情を惜しげもなく顔中に表しながら、幸多は華欠左衛門を睨み付けた。

 そんな幸多に、華欠左衛門は説教でもするかのように言う。

「まだわからぬか、幸多! 精霊王様ともなれば、その気配は清く神々しいものである他に相違無い! このような禍々しい気配、邪気を纏ったような声が精霊王様のものである筈がなかろう! そ奴は精霊王様ではない……偽者じゃ!」

 華欠左衛門の言葉が終わらないかうちに、ズン! と激しい揺れが幸多を襲った。

 立っているのも難しい揺れに幸多が思わず尻餅をつくのとほぼ同時に、先ほどの声が響いた。

「おのれ……あと少しで労せず精霊水晶を我が手中に収められたと言うに……忌々しい精霊王狂いのカラス天狗めが……!」

 その声は、先ほどよりもずっと恐ろしい。さっきは幸多達を騙す為に抑えていましたと言わんばかりに、殺気垂れ流しである。

 その殺気に臆する事無く、華欠左衛門は怒鳴る。

「黙れ! 精霊王様は我ら妖界に住まう者は勿論、妖界以下この世の理全てを治める尊きお方ぞ! その精霊王様の名を騙り、挙句はその精霊水晶を奪わんとするとは……不届き千万! 姿を現せ、偽者め! それがしが成敗してくれる!」

 華欠左衛門の言葉が終わるや否や、辺りに地響きのような笑い声が響いた。

「フハハハハハハ!」という気味の悪い声に更に腹を立てたらしい華欠左衛門は目玉をひん剥いて怒鳴る。

「無礼者め! 何がおかしい!」

 しかし、笑い声は止まらない。笑い声を収めることの無いまま、声の主はおかしそうに言った。

「成敗するだと? ちっぽけなカラス天狗如きが、この私をか? ……面白い。やれるものならやってみろ!」

 その言葉が切れるのとほぼ同時に、今までとは比べ物にならないほどの地響きが起こった。見れば、社の背後にそびえていた山が動き出している。

 否、山じゃない。

 山の頂上が、まるで蛇が鎌首をもたげるように持ち上がった。

 ……いや、「ように」じゃない。

 持ち上がったのは、まさに蛇の首だった。

 しかも、一つじゃなかった。一つ首が持ち上がったかと思えば、また一つ、また一つ、と首がどんどん増えていく。

 そして最後には山から八本もの蛇の首が生えている形となった。首が生えている山自体もズズズと……動いているように見える。どうやらあれは山ではなく、胴体だったらしい。

 それを見て幸多は恐怖と驚きでぽかんと口を開け、華欠左衛門は「信じられない」とでも言わんばかりの顔つきで蛇を凝視した。

「か……華欠左衛門……何、あれ……?」

 幸多の口から何とか出た言葉は、それだけだった。

 その幸多の言葉に、華欠左衛門もやっと搾り出したような声と言葉で答える。

「……馬鹿な……八岐大蛇じゃと……!?」

 華欠左衛門の声音に満足したように山……

もとい八岐大蛇は頷いた。

「そう。神々の時代、憎き須佐之男命めの小細工に嵌り無念にも命を落とした強き蛇よ」

 蛇なのに八つの顔全てに邪悪な笑みを浮かべて、八岐大蛇は言葉を続ける。

「さて、カラス天狗……私を成敗するのだったな? さぁ、私は望み通り姿を現したぞ? 早く成敗したらどうだ?」

 八岐大蛇の言葉には余裕が満ちている。だが、華欠左衛門の顔にはそんな余裕は欠片も見えない。

「どうしたんだよ華欠左衛門! 成敗するんだろ!? 早く終わらせて帰ろうよ! ねぇ!」

 急かすように、幸多が言う。だが、華欠左衛門から肯定の言葉は出ない。

 代わりに出たのは、幸多にとっては絶望的な一言のみだった。

「無理じゃ……」

「え!?」

 思わず、聞き返す。華欠左衛門は弁解するように言った。

「それがしでは無理じゃ……八岐大蛇はその昔、神である須佐之男命が策を施し、隙を作った上で何とか討ち果たした化け物。神通力を用いたとしても、それがしのようなカラス天狗風情が勝てるような相手ではない……」

「じゃあ……じゃあ、どうするのさ!?」

 情けない声を出す幸多に、華欠左衛門は叱るように言う。

「情けない声を出すでない! おのこじゃろうが!」

 そう言う華欠左衛門にも、特に打開策は無い様で……苦りきった顔で八岐大蛇を睨み付けるのが精一杯の様子だ。

 八岐大蛇は悠然とこちらに向かってくる。このままではぷちっと踏み潰されて終わりだ。

 幸多は思わず目を閉じた。

 これが走馬灯というものだろうか。閉じた瞼の裏に、今までの人生が早送りのように浮かぶ。「すぐ返す」と言って友達の勇樹に借りた漫画をまだ返していない事を思い出して、後悔した。

 こんな事になるなら、早く返しておけば良かった……。そう心の中で詫びる幸多の耳に、突如鋭い声が飛んできた。

「華欠左衛門! 坊主! こっちだ! 早く来い!!」

 突然の事で、幸多は一瞬我が耳を疑った。

 しかし、華欠左衛門はこの声に聞き覚えがあるらしく、ガバッと声のした方に振り向くと、天の助けと言わんばかりに叫んだ。

唾嫌つばき殿! 来てくださったのか!」

 その声につられ、幸多もそちらを向いた。

 見れば、そこには何かがいる。パッと見た感じでは、そこにはこんもりとした茂みしか無い。だが、時折ガサガサと動いている。

 何かがいるが、何がいるのかわからない。果たして、行っても良いものか……。

 幸多がまごついていると、華欠左衛門は幸多の袖を引いて言う。

「幸多! 唾嫌殿の元へ走れ! 悔しいが、ここは一旦退却じゃ! 決して水晶を手放すでないぞ!」

 そう言う華欠左衛門の目には、先ほどよりも余裕が満ちている。その目を見て、幸多は力無く頷いた。

 自分に今この場で何かができるとは思わない。怖いし、早く帰りたい。けど、ここは妖界だ。どうすれば家に帰れるかもわからない。

 そうなると、幸多が頼れるのは一緒にここまで来た華欠左衛門だけだ。

 その華欠左衛門が「走れ」と言っているのだ。ここはもう、素直に従うしかなかった。

 のろのろと立ち上がって、茂みを……華欠左衛門の言う「唾嫌」の元へと走る。

 背後には八岐大蛇。

 恐らく、その気になれば一瞬で幸多達を殺せるのだろうに、助かろうと必死にもがく幸多達の姿を見ているのが面白いのかゆっくりと……それはもう、鼻っ面に蝿が止まりそうなスピードで迫ってくる。あぁ、趣味が悪い。

 そんな事を感じている余裕も無く、幸多はひたすらに走る。運動会の徒競走の時だって、こんなに必死に走った事は無い。心臓が、破れそうだ。

 けど、あと少しだ。あと少しであの茂みに……。

 そう感じた瞬間、幸多の視界が急に地に近くなった。次に、全身を強打したかのような痛みが襲う。

 幸多はここで初めて、自分は転んだのだという事に気が付いた。

 そう言えば、さっき足に何か石のような物が引っ掛かったような気がしたかもしれない。

 もう少しでゴールと考えた事で、気が緩んだのだろうか?まさか、こんな平坦な場所で転んでしまうだなんて。

 思いもよらない展開に、幸多はパニック状態に陥ってしまった。これから自分はどうすれば良い? ……と言うか、何をするべきだったんだっけ?

 冷静に考えれば、ただ立ち上がって再び走り出せば良いだけの事なのに……なのに、今の幸多にはそこまで考えが及ばない。

 パニック状態のまま半泣きになってしまっている間にも、八岐大蛇はどんどん迫ってくる。バキバキバキッ! メリメリメリッ! という八岐大蛇が木を踏み倒す音がどんどん大きくなって聞こえる。

 駄目だ、踏み潰される!

「お母さ……!」

 幸多は思わず両目を固く閉じ、母を呼びかけた。

 だが、結局呼ばずに言葉を途中で止めた。

 何故か?

 何故なら、幸多の目の前に突如巨大な黒い影が現れたから。

 巨大と言っても八岐大蛇ほど大きいわけではない。けど、幸多から見れば充分に大きい。八岐大蛇ほどではなくても、小山ほどはある。

 その巨大な影は、幸多が影の正体を知る前に荒々しく幸多を茂みの中に突き飛ばした。

 茂みに入ってすぐの場所にはこれまた巨大な穴があり、幸多は勢い余ってゴロンと穴の中に落ち込んだ。

 穴の中で幸多は、強く打ったお尻をさすりながら立ち上がろうとする。……が、すぐに頭上に華欠左衛門がドスンと落ちてきた為、立ち上がるのはワンテンポ遅れる事となった。

「……ったぁ~! いきなり落ちてこないでよ、華欠左衛門!」

 幸多が抗議をすると、華欠左衛門は翼をはばたかせて幸多の頭上から眼前に移動し、キーキーと叫んだ。

「そんな事を言っておる場合かっ! 折角唾嫌殿が退路を確保してくれたのじゃぞ! 早く逃げぬか!」

 そう言って華欠左衛門がバシッと指差した先には、高さが三mはあるであろう横穴が緩やかな降りの勾配と共にかなり奥深くまで続いている。当然の如く灯りは無いので、奥へ行けば行くほど闇は濃くなり何も見えなくなってしまっている。

「……ここを、歩くの?」

 幸多は顔を引き攣らせ、ズザッと一歩退いた。

 前に進めば深い闇。後に下がれば八岐大蛇。

 はっきり言って、どちらの選択肢も御免被りたい。

 そんな幸多の心境を察したかのように、穴の上……つまり地上から、先ほどの唾嫌の声が聞こえてきた。

「その穴はワシの移動専用通路だ。さほど大きくねぇから大蛇野郎は通れねぇし、危険な妖怪が住んでねぇ事も保証してやる! ワシもお前らが逃げた事を確認したらすぐに追うから、早く行け! ぐずぐずしてると、全員が奴の餌食になるぞ!」

 その声は、乱暴ではあるが温かみがある。

 それで少しだけ勇気を出した幸多は、一歩、前に足を出した。更にその肩を華欠左衛門が叩き、前進を促す。

 幸多はゴクリと唾を飲み込むと、一歩、また一歩と歩を進めだした。

 暗闇の中は怖かったが、意外にも少し、暖かかった。

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