第3話

 穴の中の勾配を降りきると、今度は少しだけ上り坂になった。時々足を滑らせそうになりながらも何とか上りきると、視界がパッと明るくなった。

 明るくなったと言っても、時間は夜。目を細めなければならないほどの光量は無い。

 だが、それでも今まで真っ暗闇の中にいた幸多にとっては充分過ぎるほどだったらしい。幸多はほんの少しだけ、うっそりと目を細めた。

「幸多! 何をぐずぐずしておる! 早く出ぬか! 後がつかえておるのじゃぞ!」

 先ほどよりも俄然強気になったように思える華欠左衛門の声を聞き流しながら、幸多は穴から這い出した。

 見渡せばそこは森か林の中らしく、沢山の木が生えている。陽はとうに暮れたらしく、辺りは一面真っ暗だ。辛うじて月の光が差し込んでいるのが、妙に嬉しい。

「ここは……?」

 幸多は、誰かが答えてくれるのを期待してかしないでか、呟いた。

 その呟きに、この場で唯一喋る事のできる存在、華欠左衛門が思い出させるように言う。

「覚えておらぬか、幸多? 一度通ったであろう? ここは、精霊王様を祀る社に面した、あの林じゃ」

 社に面した林……じゃあここは、あのいかにも何かが出そうで、実際にどこからともなく幽かな笑い声が聞こえてきた、あの林か。

 あの不気味な感じを思い出し、幸多ははぁーっと深い溜息をついた。

 その幸多の様子を嘲笑うかのように、またもやどこからともなく幽かな笑い声が聞こえてくる。

 しかも、今度は笑い声だけではない。

「あずさちゃん。ほらほら、見て! あの男の子、真っ青になっちゃってるわよ」

「情け無い事この上ないな。全く……あのような軟弱な子供に、精霊王の水晶を守る事なぞできるのか? それから……お前は笑い過ぎだ。そのように品無く笑ってばかりいては、妖怪としての質を問われるぞ」

 コロコロと笑う鈴のような声と、ぴんと張り詰めた弓の弦のような声。二色の声を聞いた華欠左衛門はどちらの声にも聞き覚えがあるのか、顔を顰めると辺りを見渡しながら叫んだ。

「その声は玉藻に玉梓じゃな! 何をコソコソとしておるか! 姿を現せ!」

 その叫び声が終わるや否や、幸多の目の前でドロンと言う音と共に何かが弾け煙が舞った。いや、煙と言うよりは水蒸気と言った方が良いのかもしれない。何しろ、目に入っても焚き火や蚊取り線香の煙のように目に染みたりしないのだから。

 煙のような水蒸気のような白いもやの中から出てきたのは、二人の女性。どちらも見た感じでは十代後半くらいだろうか? 女性と言うよりは、娘と言った方が的確かもしれない。共にかなりの美人で、腰まである黒髪は艶がかかっている。違う点はと言えば、片方は肌が白く幼い顔をしており、近頃流行の裾丈の短い浴衣のような着物を着ている。もう片方は肌が小麦色に焼け大人びた顔をして、括袴を穿いているといったところだろうか。

 色の白い方の娘が、高い澄んだ声で言う。

「お久しぶりね、華欠のおじ様! 相変わらずのおじ様ぶりで嬉しいわ!」

「おぬしも、相変わらずの不躾ぶりじゃな。言っておくが、それがしはおぬしが相変わらずで気が滅入っておるぞ、玉藻!」

 華欠左衛門にそう言われて、玉藻と呼ばれた色の白い娘はぺろりと舌を出して見せた。

「本当に、おじ様は真面目ね~。良いじゃないの、これくらいの方が愛嬌があって!」

 玉藻の言葉に顔を引き攣らせると、華欠左衛門は首をめぐらせてもう一人の娘に言った。

「玉梓! 玉藻のこの性格はどうにかならんのか? 国を傾けた悪女仲間じゃろうが?」

 言われて、肌の焼けた娘――玉梓は困ったように眦を吊り上げると、娘にしては少々低い声で言った。

「私に言われても困る。大体、悪女仲間と言っても私と玉藻では種族が違う。この際だから言わせて貰うが、私をこんな軽薄な狐と一緒にしないでほしい」

「狐とか言わないでよ~。そんな事言ったら、あずさちゃんだって犬じゃないの~」

「元は人間だと、何度言ったらわかるんだ!」

 頬を子供っぽくぷぅっと膨らませながら玉藻が抗議すると、玉梓は語尾を荒げて腰に手を当てた。見れば、玉梓の腰には細身の剣が一振りかかっている。物騒な事、この上ない。

「やめぬか! 今は争っている場合ではないのじゃぞ! わかっておろう?」

 華欠左衛門が頭から湯気を出しそうなほどに怒鳴ると、玉梓はじろりと華欠左衛門を睨め付けた。鋭い目が、更に鋭くなっている。

 しかし、逆ギレをする事は無いままに玉梓はフゥッと溜息をつくと言う。

「確かにな……精霊水晶を運ぶ事で何か問題が起こるだろうとは危惧していたが、まさか八岐大蛇が現れるとは……。おまけにこんな何処の馬の骨とも知れない軟弱な子供に精霊水晶運搬を手伝わせるなどと……気でも狂ったか、華欠左衛門?」

 言いながら、玉梓は幸多をちらりと見た。当の幸多は既に話についていけなくなっており、萎縮してその場に座っている事しかできなくなっていた。

 玉梓に見られてビクリと緊張した幸多を見て、玉藻が「あらあら」とでも言い出しそうな顔で玉梓に言った。

「あずさちゃん、そんなに睨んだら可哀想よ。ほら、この子怖がってるじゃない? それに、何だか話についてけてないみたい。せっかくだから、順を追って説明してあげましょうよ」

「そんな子供に私達の事情を話したところで、何になる? 時間の無駄だ」

 吐き捨てるように、玉梓が言った。その顔は、明らかに面倒臭そうだ。

 しかし、そんな玉梓をたしなめるように響いてきた声があった。

「いや、話しておいた方が良いんじゃねぇか? その坊主がいつ何の役に立つかもわからねぇんだしな」

 少々乱暴だが、温かみのある声。低くて野太い……以前幸多の家の近所で仕事をしていた、大工のおじさんのような声。

 唾嫌の声だ。

「……無事だったんだ……」

 ホッとしながら、幸多は声のした方に振り向いた。唾嫌が助かった事もそうだが、少々険悪になりつつあったこの場に第三者が入ってきてくれた事がこの上なく嬉しい。

 だが、その安堵の想いも唾嫌の姿を見た途端に掻き消えた。

 忘れていたが、幸多はまだはっきりと唾嫌の姿を見た事は無い。ただ、大きいという事しか知らない。けど、声の感じからおじさんのような姿だと想像していた。

 が。

 実際の唾嫌の姿は、声以外はおじさんとは程遠かった。

 黒くてかてかと光り、いくつもの節に分かれた小山ほどもある身体。毒を持っていそうな口元。そして、数え切れないほどの足。

 むかでだ。

 唾嫌の正体は、巨大な百足だったのだ。

「うわ……あ……」

 幸多は、恐怖のあまり言葉が出てこない。こんなに大きなむかでを見たのは、生まれて初めてだ。それでなくても、普通のむかでだってあんまり近付きたくないと言うのに……。

 そんな幸多の様子を眺めながら、唾嫌は楽しそうに笑った。

「がっはっはっはっは! ワシの姿が怖いのか、坊主? 構わん、構わん。それが人間の正しい反応だからな。全ての人間が藤原秀郷みたいじゃ、面白くねぇや」

 唾嫌は豪快に笑うと、今度は玉藻達の方を向いて言う。

「おう、玉藻嬢ちゃんに玉梓嬢ちゃんも元気そうだな!」

「勿論よ! アタシはいつだって元気元気! 心身ともに健康であるのが、美しさの一番の秘訣なんだもの!」

「その性格を持ってして、心が健康などとぬかすのか、お前は」

「あずさちゃんには言われたくな~い!」

 玉藻達のやり取りを見ていた唾嫌は、更に機嫌良く笑った。

「二人とも、相変わらずみてぇだな。結構、結構。ところで、玉梓嬢ちゃんよ。さっきも言ったが、そこの坊主がいつ何時ワシらの役に立つかは例え精霊王様でもきっとわからねぇ。だから、ここらでちょちょいっと事のあらましを説明してやってくれねぇか?」

「何故私が話さねばならん? 言いだしっぺのお前が話せば良いだろう?」

 そう言って、玉梓は眉を顰めた。

「ワシは頭が悪いからな。事をまとめて、わかりやすく話すって事が下手なんだ。ワシが説明役を引き受けたりしたら、この坊主が今起こっている事を理解するのにまる一日はかかっちまう」

 唾嫌にそう言われて、玉梓はやれやれと言わんばかりに溜息をついた。そして、相変わらず幸多を睨むような目付きで見ると、凄みのある声で言い聞かせた。

「説明は一度だけだ。それで理解できなければ、事が済むまで動かず、静かにしていろ。でなくば、足手まといだ」

 幸多は、コクコクと必死で首を縦に振る。

 その必死の形相を見て、玉梓は仕方ない、と言わんばかりの顔で語り始めた。

「途中でいらない口を挟むな」と言い置いて。



 まず……何度も聞いただろうが、ここは妖界。妖怪や精霊、時には神と、人ではない者が住まう世界だ。

 これだけでわかると思うが、世界とはお前達人間が住む人界だけではない。人界とこの妖界の他にも、神々が住まう世界……俗に天国だの高天原だの極楽だのと呼ばれる神界や、黄泉国だの地獄だのと呼ばれる死者の世界……冥界など、様々な世界が存在している。

 存在位置は、冥界と人界が横並びになっており、その上に妖界、更にその上に神界があるという具合だな。

 基本的に、上に住む者は下の世界に行けるが、下の世界の者は上には行けない。また、人界と冥界は隣同士だが行き来はできない。だから神はどの世界にも行けるが、人間と死者は他の世界に行く事ができないんだ。

 勿論、例外はある。お前のように神界や妖界の者に招かれた者、連れて来られた者だ。その世界の許可があれば人間だって妖界に来れるし、場合によっては神界にだって行ける。

 あとは、死に損なって冥界から追い返された者、修行を積んだ人界の霊能力者に呼ばれた者はその時限りで人界と冥界を行き来できる。それと、毎年盆の時期になると冥界の者は一時的に人界に行けるようになるな。

 ここまではわかったか? 一応言っておくが、ここで理解しなければならないのは「世界はお前達が住む人界だけではない」という事だけだぞ? ……わかったようだな。ならば、続きを話すぞ。

 次に、精霊王の事だが……。精霊王とは、この世界……妖界を治める長の事だ。やっている事は基本的にお前達人界の王と何ら変わらん。普段は皆に異変が無いよう心を砕き、何か変事があれば解決に尽力する。人界の王と違う点と言えば、税を取らないという事と、不死の存在である為世襲の必要が無いという事くらいか。

 何だ? 口を挟むなと言った筈だぞ?

 ……何? 税を貰わずに皆の平和を守っているのでは、割りに合わないのではないのか、だと?

 必要は無い。

 そもそも、税とは王が皆を守る為に使う資金だろう? 精霊王は守る為の資金など必要としない。精霊だから、食費も必要無い。つまり、税を納めさせる意味が無い。

 精霊王が皆を守る。代わりに皆は精霊王の命令に従う。それで全てが丸く収まっている。

 良いか? 折角だから、これだけは覚えておけ。王だから偉いのだとか、王だから皆が従うのは当然だとか思っている愚物が世の中には随分といるようだが、別に王だから偉くて皆が従っているわけではないぞ。王が守っているから皆王に従っているんだ。

 王が民を守りもしないで椅子でふんぞり返っているのは、統治ではなくただの支配だ。民が王に従いもせずに守る事ばかりを王に求めるのは、ただの我儘だ。

 ……おい、何を笑っている? 特にそこの狐! 腹を抱えて爆笑するな! 百足と烏も笑い過ぎだ! 私が民と王の在り方について話すのがそんなに可笑しいか!

 ……確かに私は昔、かの地の領主をたぶらかして贅沢三昧をしていたが……だからこそわかる事もあるだろう?

 ……だから、笑うな! ……ええいっ! もう良い!

 話が逸れてしまったが、精霊王は妖界だけではなく、冥界や人界に異変が起こってもそれを解決する為に尽力している。冥界や人界は、妖界に住まう者にとって絶好の遊び場だからな。冥界や人界を守る事が、延いては妖界の者の為になるんだ。

 だから精霊王は、六十年以上昔に人界が戦争で焼け野原になった時も立ち上がった。持てるだけの神通力を駆使して、一刻も早く人界が元の姿を取り戻せるよう、力を尽くしたんだ。だからこそ、今のお前達がある。精霊王がいなければ、人界は未だに貧しく木も生えない土地だったんだ。有り難く思う事だな。

 だが、流石に草木も生えなくなるほど荒廃した大地を甦らせるのは精霊王にも酷だったらしい。力を使い果たし、精霊王は半永久的な眠りについてしまった。

 その精霊王が、数十年ぶりに目覚めようとしている。お前達の運んできた、精霊水晶がその証拠だ。

 精霊水晶は、精霊王の力が弱まった時、その力を補助する為に自然界の力が結集してできる神秘の水晶だ。ここ数十年、精霊王だけでなく自然も弱っていた為にその存在を確認できないでいたが、今年になってから人界よりその力の波動が感じられた。この精霊水晶を取り込めば、精霊王はその永き眠りから覚める事ができる。そうなれば、人界も妖界も安泰だ。だから、華欠左衛門が人界まで探しに行ったんだ。

 ……何? 何故華欠左衛門だけが探しに行ったのか……だと? ……ここだけの話だが、精霊水晶で力を得る事ができるのは、精霊王だけではない。私達のような雑魚妖怪でも、精霊水晶を取り込めば相当な力を得る。だからこそ、精霊王の元へ運ばず自らの物としようとする者も少なくない。だが、華欠左衛門はかなりの責任感を持つ、生真面目な妖怪だからな。おまけに、他の者には真似ができないほどに精霊王を尊敬し、崇拝している。持ち逃げするなど、まず有り得ないだろう。

 だからこそ、私達は敢えて華欠左衛門を一人で行かせた。下手に信用できない者を何人も行かせるよりは、信用できる者を一人だけ行かせる。そして残った者達は互いを監視して万が一にも精霊水晶が盗まれないようにした。

 ……いや、確かに直接人界まで行って華欠左衛門の護衛をするという案もあったんだがな……戦闘能力があり 尚且つ信用できる者がいなかったんだ。

 私か? ……私は無理だ。護衛以前の問題で、私は人界へ行く事ができないからな。私だけじゃない。玉藻や唾嫌も、人界に行く事はできない。

 何故? 知れた事だ。昔、人界で悪さをし過ぎた。私や玉藻は時の権力者を惑わし、国に不吉をもたらした。唾嫌は山に籠もり、旅人を襲った。そしてその結果、皆人界で人間に滅ぼされ、封印された。それ以来、私達は人界へ入る事ができん。つまりは、出入り禁止を喰らったというわけだ。

 とにかく、そういう訳だから華欠左衛門は一人で精霊水晶を回収しに人界へ向かった。そして、その帰り道にお前と出会ったという訳だ。

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