第32話 いつしかの恩返し

 一瞬思考が停止したヨンだったが、すぐに我に返り、背後へ跳躍する。

 対するダグザは攻撃が止んだことにたった今気づいたようで、固めていたガードを下げた。

 ヨンの額に薄っすらと汗がにじむ。

 落ち着け、焦るなと彼は自身の懸念を深海へと沈めた。

 ダグザは依然として防御の姿勢をとり、警戒しているところを見るとこの異変・・には気づいていないらしかった。

 ヨンの足の裏が摩擦で焼ける、がもとよりマメだらけのため彼は顔色ひとつ変えることはない。

敏足びんた』を駆使したヨンの速さは恐らく連合でも随一だろう。それほどまでに彼は体術に勤しみ、また体術に愛されていた。やはりそれは、『心武拳』を使いこなす者としての特権なのかも知れない。

 反応など出来るはずはなかった。現にダグザは彼の動きを視認することはもちろん、横をすり抜けられたことさえ気がつかない。ただしそれは、体を鍛え、短期間とはいえ自己研鑽けんさんの日々を送って来た人として・・・・のダグザ=ヴェルターに限ってのことだったが。

 ノーガードの背中。普段なら迷わず打ち込んでいただろう。しかしヨンはダグザの小さな背に確かに臆していた。反応すらできず完全に意識外からの攻撃なのに何故だろうか、まるで難攻不落の要塞を目の前にしたかのような感覚を味わう。小さかったはずの背が高く、高くーーーー、


「…………『痛波』ぁぁっ!」


 渾身の一撃。

 部屋の中を爆音が反響する。衝撃に撃ち抜かれた身体が軽々と宙を舞う。

 

「…………っ!」


 ダグザは大きく背を反らせ、顔面を強打。下手すれば気絶していてもおかしくはなかった。いや、以前までの彼ならば恐らくしていたのだろう。しかし、そんな事は欠片もなくゆっくりと腰を押さえながら、ダグザは立ち上がる。

 この時初めて、彼自身が成した功績を悟る。


「身体は……ちゃんと覚えてるって……ことかな」


 呟くように言って、顔面蒼白のヨンを睨む。

 彼はダグザと視線が交わると怯えたように肩を震わせた。無理もない。確かな感触で吹き飛ばした相手が無傷なのだ。

 一度止まってしまった攻めは再び動き出す事はなく、一転してダグザが攻めの一手を繰り出す。

 流れるような一連の動きは、日々の鍛錬の濃密さがにじみ出ていた。

 全て正面で受け止めているはずなのに重い。ダグザの勢いが、不思議と速くなっている気がする。ヨンは次第に焦りを募らせていった。

 足払いと同時に右で腹を突く。間髪入れずに左手で展開した魔力弾を散らせた。


(八つも同時に……!)


 ヨンはやむなく後退する。

 まだだ。もっと速くなれる。もっと強くなれる。こんなもんじゃない。身を、心を、削れ。研ぎ澄ませ。

 ダグザの踵がヨンの横っ面に刺さる。


「ぐぬっ……っ!」


 体勢を立て直した頃には強烈なボディブローに嗚咽がこみ上げる。

 体が重いのは魔力を打ち込まれた所為だろう。焦りは次第に疲れとなり、次の判断を鈍らせる。


「ぐあっ……!」


 再び衝撃。体の芯の深いところに効く打撃だ。よろよろとおぼつかない足元に足払いが入り、ヨンはあっけなく尻餅をついた。


「…………こんなもの……だった?」


 ダグザが荒い息で見下ろしながら言った。

 体から立ち上る湯気が手合わせの激しさを表している。


「…………抜かせっ……!」


 腕の力をバネにして、回転。ヨンは上体を起こした。そして、再び、二人の拳が交わる。

 文字通り肉弾戦。それには読み合いや、小手先の技など存在せず、ただ力と力が交錯していた。

 ダグザの顔面を鋭い打撃が貫く。と同時にヨンの腰に蹴りが入る。お互いに一歩も引かず、拳と拳で語り合った。恐らく今までで一番分かり合えただろう。


「『痛波』ぁぁっ!」


 魔力のこもった高速の連弾。それを彼は肘で小突いて往なし、もう片方は体で受け『相反』でダメージを最小限まで抑えた。

 隙ができたヨンの腹にダグザの拳が刺さる。


「ぐっっふっ……!」


 よろける。もう一発。もう一発。もう一発。

 石のように圧縮した魔力を握り、内側で爆発させると同時に打撃を加える。ダグザが夜な夜な練習した魔力遊びだったが、威力は十分だ。


「ぐあっっ!」


 浮いた腰にまたもや猛追。下から、突き上げる。一瞬浮いた体に、渾身の回し蹴り。

 再び、ヨンは冷たい床と対面する。


「終わり……かよ……」


 もうダグザの煽りにすら、戦う意思は戻らない。それ程までに純然たる戦闘力の差が、如実に表れていた。

 そんなヨンに彼は追い討ちするように、手刀を突きつける。


「参った……ネ。負けたヨ。……驚いた…………短期間によくここまで仕上げたネ」


 ぐったりと肩を落としてヨンは言った。するとようやくダグザも荷が下りたように覇気を緩め、腰を下ろすと長くため息をついた。


「どうも……ありがとう。ヨン」


 そして一言。この労いの言葉を彼は満面の笑みで言った。

 それにヨンは不意をつかれたようで、次の瞬間には大声で笑いだした。彼は不思議そうに聞く。


「どうかした? 僕、変なこと言ったかな?」


 一瞬の間の後、ヨンは口を開く。


「ははっ……なんか……自分がアホらしくてネ。一族のために……なんて気負ってたせいかネ…………きっと、君はマーベルに追いつく。いや、追い抜くと思うヨ。僕も、負けないからネ」


 ヨンはそう言って彼に握手を求めた。彼は少し驚いた顔をした後、その手を握り返した。

 しばらくして、彼が去った後、ヨンは一人部屋の真ん中で沈む夕日を眺めていた。

 いつしか叩きのめした少年にまさか叩きのめされる日が来るとは、体の痛みの反面、彼は嬉しくもあった。


 ーーーーマーベルは下した相手を見下ろし、いつものように、冷徹な一言をーー、


「ありがとう」


「え……? 今何ネ?」


「だから……ありがとうと言ったのよ。おかしかったかしら?」


 ありがとう? つまらなかったわじゃなく? 一体何の風の吹き回しだろうか。それとも新手の皮肉なのだろうか。ヨンは収集つかなくなりその場を後にする彼女に何も声をかけられなかった。結局底なしの魔女の心に何があったのかは分からず、まさかこの時は異端児の少年に叩きのめされ、同じ言葉を投げかけられるとは思ってもみず、彼は先ほどのことを思い出すとまた腹が痛くなりそうだった。

 杞憂している暇などないのだ。












「狙った通り……良い刺激になったみたいだね。手合わせは」


「はい」


 グランノーデルの言葉に応じるダグザ。

 彼はまだ本当の苦労への道のりのスタート地点に立ったに過ぎずーーーー、


「じゃあ、気を取り直して魔力との対話……行ってみようか」


 師父の声に迷いなく眼を瞑る彼自身がそれを一番わかっていた。

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