卑弥呼奇譚

楠 薫

第1話

 凄まじい戦だった。

 千余いたはずの兵士は、今や百に満たず、敵はますます勢いを増し、分厚く押し寄せてくる。

 敵の咆哮と味方の断末魔の叫びが入り交じり、次第に敵の包囲が小さくなってくる。

 包囲網の中心の数は次第に減っていき、ついに2人となった。

 互いに血にまみれ、傷を負い、荒い息をしている。

「とうとう、2人だけになったようだな」

 背の高い、ガッチリとした体格の青年が額を拭いながら、ひとつ大きく肩で息をした。

「ああ。お前の剣は、まだ大丈夫か?」

 この場に似つかわしくない童顔の少年が、眼光鋭く、まるで青年の上官のような口調で訊いた。

(まだ、声変りのしていないところをみると、12~3歳か。残念ながら、今の俺はこの子を助けてやることはできない)

「あと数人は斬れる程度にはな」

 唇を噛みしめていた青年が苦々しい表情で答えた。

「前方、杉の木の下にいるのが、どうやらこの隊の指揮官のようだ。私が先に行って雑魚を倒し、道を作ってやる。お前の方が力はありそうだ。あいつを倒してくれ。そうすれば敵はいったん退く」

「これだけの囲みを突破してあの指揮官のもとまで辿り着くなんて、まず、不可能だな」

「不可能と思っている間は、何ごとも不可能だ。だが、わずかでもその可能性を信じるなら、そこから奇跡が生まれる」

 フッ、と青年は口元に笑みを浮かべた。

「お前と話していると、なんだか、その奇跡とやらを信じてみたくなった」

「奇跡は起こらないかもしれないと思って歩みを止めた者には、絶対に起こらない。そして奇跡を信じるのではなく、奇跡を起こそうとしている己の可能性を信じた者に奇跡は起きる」

 少年はいったん剣を鞘に収め、柄に手を掛けて前方に群がる敵兵を睨みつけた。

「己の可能性を信じて歩みを止めず、どんな逆境でも強い心を持ち続けて前進した者だけが手にすることができる果実、それが奇跡だ」

 ひとつ大きく呼吸をすると、少年は敵兵の集団の中へ突っ込んで行った。

 一閃、7人の兵士が首筋、胸、手首を斬られた。

 遅れて青年も飛び込んでいく。

 少年は倒れた兵士を踏み台にして宙を飛び、さらに5人を斃す。

(まるで、舞うように剣を振るうヤツだ)

 少年へ向けていっせいに矢が放たれた。

 少年の飛翔の姿に見惚れていた青年だったが、表情が険しくなった。

「飛んではだめだ。落ちる速さと方向がわかってしまうから、狙い撃ちにされるぞ」

 案の定、矢の数本が少年の脚と腕をかすめた。

 青年の意識が少年に向けられ、後ろから迫る兵士への注意を怠ってしまった。

 敵兵の剣先が背中にもうすぐ届こうかという時だった。

「後ろ!」

 少年はそう怒鳴ると、傍に斃れていた兵士の剣を抜き、青年の右耳をかすめるように投げた。

 目を貫いた剣の切っ先が後頭部へ抜け、悲鳴を上げて兵士が倒れる。

「すまん」

 言いざま、青竜刀で2人の首を刎ねた。

「今は敵に集中しろ。礼なら生き残ってから言え」

 再び背中合わせになった2人だが、まるで申し合わせたかのように同時に前後の位置を変えると、今度は少年が押し寄せる敵兵に向かっていく。

 一方、青年の方は、敵の指揮官とおぼしき人物と向き合う形となった。

「我は日本武尊やまとたけるのみことが一子、仲津彦なかつひこ。参る」

 高らかに名乗りを上げると、斬り込んだ。

 長さでは勝る青竜刀であったが、相手は出雲軍の指揮官だけあって腕っ節も強く、何層にも取り巻く敵兵を倒してようやくたどり着いた、息も上がり気味の経験不足の青年兵士とでは、地力に差がありすぎた。

 その様を一瞥した少年は振り向きざま、鞘を引き抜いて投げつけた。振り下ろした剣が鞘を真っぷたつにした。直後、仲津彦の青竜刀が真一文字に走って、首がごろりと足もとに転がった。

 出雲軍に動揺が走った。

「ひ、退けっ」

 声がして、出雲の兵士はここが潮時とばかりに、わらわらと退いて行った。

 杉の大木の根元に倒れ込むようにして背をもたれると、仲津彦は大きく肩で息を繰り返した。

 その脇をまったく呼吸の乱れをみせない少年がふたつに割られた鞘を拾い上げると、表情を和らげ、優しい視線を仲津彦に向けた。

「確かに、お前の言う通りだ。いったん飛んでしまうと落ちる方向を変えることはできない。ひとつ学んだ。ありがとう」

 そう言うと、まるで何ごともなかったかのような足取りで、森の方へと姿を消して行った。

 意識が半分遠のいて視力の定まらない瞳で少年の姿を追いながら、仲津彦は「俺も礼を……、言わねば」と呟いて、よろよろと立ち上がった。

 森のさらに奥の、茂みが腰を超えるところまで深くなった木陰で、屈んでいる人影があった。足音を耳にして、その人影はピクリと体を反応させたが、すぐには立ち上がれなかった。 

「腹でも壊していたのか。それにしてもお前、青っちろケツして……。ほんと、まだ子どもだな」

 反対向きに屈んだ姿勢から、まるで蛙のジャンプのように飛び上がると体を反転、剣の切っ先を仲津彦の喉元に突きつけた。

 同時に仲津彦の胸の鼓動が大きくなった。

 それは、喉元に突き付けられた剣のせいではなかった。

 少年と鼻が触れ合うほどの近さに、先ほどの目に焼き付いた、少年の美しい尻のラインが思い起こされたからである。

 さらに生毛の残る項と、きめ細かい肌が目元まで迫っていては、動揺が隠せないほど露わになっても、致し方ないことであった。

「い、今の動きといい、戦いの中でのあの剣さばきといい、本当に見事だ」

 喉を大きく鳴らして、ひとつ深呼吸をした。

「あれだけ激しい戦闘の中で、敵の動きを正確に把握し、俺みたいに剣を振り回さず、確実に致命傷を与えて倒すとは……。小さく身軽な体を逆手にとって、瞬発力を活かしたこういう戦い方もあるのだな」

 ゆっくり剣が下ろされ、少年の顔が離れると、仲津彦は安堵の吐息を漏らした。

「さっきはありがとよ。お前がいてくれて助かった。そういえば、まだ名前を訊いていなかったな」

息長おきなが……」

「おお、息長宿禰おきながすくね殿のご子息か。これは失礼をした。そして出雲では申し訳ないことをした」

「いや、父が騙し討ちに遭って、あんな無様な敗け方をしなければ、このような戦にはならなかった。一族の不始末は、必ず拭ってみせる」

「それならなおさらこの戦、負けられないな」

 少年は無言で小さくうなずいた。

「そうだ、まだ名乗っていなかったな。俺は……」

「仲津彦。父は日本武尊。そしてこの地、御座所の主」

 仲津彦は目を見張った。

(あの戦いの中で、俺の声を聞き分けたのか。あれだけの距離がありながら……。それにしても、俺を仲津彦と知っていてこの口のきき方、まったく変わらぬとは……)

 仲津彦の口元に笑みが浮かんだ。

(名前だけの日本武尊の息子よりも、出雲で敗れたとはいえ、息長宿禰の息子なら海神八部族を率いる長の直系。広く名も知れ渡り、人望も厚かろう)

 持ち上げるだけ持ち上げておいて、腫れ物に触るような接し方をする者や、媚びへつらう者が多い中、まったく媚びることなく接する姿を目にして、むしろ清々しい気分だった。

 ふたつに割られた鞘を腰に差し、剣を右手に持って森の中へ歩みを進めようとした少年の背中に仲津彦は声をかけた。

「ありがとう。お前は俺の命の恩人だ」

 歩みを止め、腰を捻って見返った少年の姿に、再び仲津彦の胸は高鳴った。振り返り方が、実に艶めかしかったからである。

「いや、礼を言うのはこちらの方だ。私の腕力では、あの出雲の指揮官は倒せなかっただろう。戦が長引けば多勢に無勢、我らも命はなかった。それに戦の場での体の使い方、戦い方は私よりも実践的で理にかなっている」

 そう言うと、表情を和らげた。

「さらにあの一瞬の敵の隙を逃さず首を落としたのは、さすがだ。私が見込んだだけのことはある」

 少し濡れた唇で笑みを浮かべた少年の口元に視線が吸い寄せられ、さらに仲津彦の胸は高鳴った。

(俺はそういう趣味はないぞ。いや、たぶんない、と思う)

 と、繰り返し自問自答していた。

       *

 少年は、森の奥に足を踏み入れた。

(水の音がする)

 音の方へ足を運んで、森が開けた所、眼前に広がる湖に、瞳を輝かせた。山から流れ落ちる水が小滝を作って流れ込み、とても透明度が高い。

(血と汗の臭い、早く拭いたい)

 周囲に目をこらし、耳を澄ませる。

(人の気配はない。鳥の鳴き声がするくらいで、獣が枯葉を踏みつける足音もない)

 少年は着ていた服を脱ぎ、胸に巻いていたさらしを解いた。

 さらしから解き放たれた胸は膨らみを取り戻し、月明かりの中、本来の起伏のあるシルエットを映し出した。

 美豆良を結んでいた麻紐を解くと、髪は膝裏まで垂れ下がり、硬く結んでいたため、ウェーブがかってはいるが、月明かりの中、見事な輝きをみせた。

 そう、少年とここまで書いてきたが、実は少女だったのである。

 息長彦ということになっていたが、正しくは息長足比売命、通称、息長姫。息長宿禰の娘である。弟の息長日子は病弱でその後も表舞台に出てくることはなく、実質上、息長氏直系のたったひとりの生き残りであった。

 出雲との戦が始まるまでは仲津彦の母方の大叔父、品陀王ほむだのみこのもとに身を寄せ、池にこもが群生している別名、薦宮こもみやと呼ばれる社で巫女をしていて、難を逃れたのである。

 品陀王は蛇頭族とも言われた海神八部衆の中でも息長に次ぐ地位と、八部衆の中でも長老として息長宿禰の参謀的役割を果たしていた。だが、酒宴に招待された息長宿禰に付き従って出雲まで出向いて命を落とし、息子の品陀若王ほむだのわかみこが跡を継いでいた。すでに男子2人に恵まれ、日本武尊の落とし種、仲津彦の叔父として、この地で重きを成していた。

 まだ若い族長の父親が出雲で敗れ、弟も体調が優れないと聞き、少年の姿に身をやつして仇を討つべく戦いに加わった息長姫より、ずいぶん恵まれていたと言えよう。

 血糊の付いた衣を水にさらし、湖畔に群生しているムクロジの実を手折って来てその果皮を石で叩いて細かくすると、息長姫は衣に塗りつけて丹念にほぐし洗いをした。さらに近くの岩場から石灰岩のかけらを拾ってきてこれを砕いて粉状にして衣にくるみ、足踏み洗いをする。石灰で洗うとくすんだ色が取れて白さが増すが、粉が残っていると乾燥後に硬くなるので、丹念に洗い落とす必要がある。

「灰汁があればいいのだが、まぁ、これでも綺麗になった方か」

 呟くと、風通しのよい木の枝に掛け、滝壺近くの砂混じりの泥を集めて臭いを嗅ぐ。

「花の香りがする。桔梗か……」

 ニッコリ微笑んで泥を体に塗りつけ、手で擦っていく。そして、少し水深のある滝壺に潜って髪をとかした。

 息長の一族は『息が長い』から『息長』だ言われるようになった、というくらい、潜水に長けていて、泳ぎも巧い。水中をまるで人魚のように泳ぐと、湖の中ほどの小島に上がって大きく伸びをした。

「まるで御澄池みすみいけ薦休こもやすめめのようだ」

 御澄池とは薦宮の奥に広がる広大な池で、現在の三角池のことである。

 裸だったことも忘れ、小枝を拾うと神剣代わりに嬉々として神舞を舞った。御澄池ではそれが日課だったので、舞わないと、どうも落ち着かなかったのである。

 体から滴り落ちる水滴が、月の光を受け、真珠のような輝きを放つ。

 飛び跳ねながら小島の5カ所を頂点に小枝で五芒星を描く。そしてその中央に片足立ちすると、大きく腕を振って、5つの頂点を結ぶように宙に円を描く。

 あまりにも気分が高揚していて、つい、いつもの神舞に創作を加えてしまったのである。

 祓川水系の聖水で身を清め、満月の光の中で世俗のものは何も身に纏わず、陰と陽を司る者、つまりこの世界を支配する者を表す神舞を舞ったことがどういう意味を持つのか、息長姫がそれを知るのは、後のことである。

 風が出てきたのか木々が梢を揺らし、鳥が飛び立つ羽音がした。

 その時であった。

 枯葉と小枝を踏む足音に驚いて振り向くと、岸辺に架けておいたさらしを手にする仲津彦の姿があった。

「汝は天女か。これは羽衣か?」

 仲津彦が天女の羽衣と思ったのは無理もない。通常、さらしは木綿で作るが、絹製だったからである。吸汗性は少ないが、軽くて丈夫、幾重かに巻くと、よほど鋭利な刃物でないと容易に切れない。従って、単なる胸を隠すためのさらしというより、防護の意味があった。

 当時、絹織物はまだ国内ではほとんど生産されていない。蚕や桑畑がなかったからである。生地は中国の呉からの献上品である。それを薦宮の巫女たちははたの者達に装束として仕立ててもらっていた。

 息長姫がさらし代わりに巻いていたのは、それを頒けてもらったもので、非常に貴重、通常は目にすることはない代物であった。

「その衣がなければ、ここから出ることができませぬ」

 いつもよりか細く高いトーンの自らの声音に、息長姫は少々自己嫌悪に陥ったが、さらしを取り戻すのに必死だった。加えて一糸まとわぬ素裸であったことを思い出し、さすがにはしたなく思って顔を赤らめ、広げていた腕を組んで胸元を隠し、膝を合わせた。

「ならば、この地に留まり、我が妻としてここで暮らすのだ」

 息長姫は仲津彦に自分のことがバレていないと確信した。

 仲津彦は月明かりを受けて顔がわかるが、息長姫は月を背に、シルエットしか見えていない。

「夜が明けるとこの地は再び大きな戦となります。その戦でこの地の主は命を落とすことになりましょう」

 仲津彦は驚いた。

(先ほどまで戦があったことをこの天女は知っている。しかも予言まで……)

「我がこの地の主なり。我が次の戦で勝利するにはいかにすべきか?」

「その衣を返していただければ、策をお教えしましょう」

 少し間があった。

「いや、この羽衣は返さぬ。戦に勝利し、そなたを我が妻として迎え入れた時、返そう」

 一歩間違えば、死亡フラグ立てまくりの台詞である。

「この羽衣は常に我とともにあり、我が命尽きる時、この羽衣も裁たれることになるであろう。ならば、そなたは我を守り、勝利に導くしかない」

「な、……(なんてことを)」

 息長姫は絶句したが、もはや後の祭りであった。仲津彦は息長姫のさらしを折りたたんで、ひょい、と肩にかけ、立ち去って行った。

 幸い別の所に掛けてあった布衣はそのままだったので、急いで身繕いをすると、仲津彦を追って、御座所に向かった。

 御座所の門をくぐろうとした息長姫だったが、衛士に遮られた。

 当然であろう。息長彦と名乗っても、取り次いでもくれない。男装をしているとはいえ、まだそれほどではないものの、胸元の膨らみを目にすれば、女であることは一目瞭然だったからである。

 それどころか、戦いに明け暮れ、いつ果てるともしれない身となれば、女が目の前に現れたとなると、男の本能が露わになってきても無理もないことであった。

 2人の衛士の目つきが変わった。

(ここで2人を倒すのはそれほど難しくはないが、騒ぎを起こしてはまずい)

 思わず、1歩下がったその背中を、ポンと叩く者がいた。

「姫、なぜあなたがここに?」

 声の主は兵5百を率いて加勢にきていた品陀若王ほむだのわかみこだった。

「若王、加勢に来てくれたか」

「仲津彦が危ないと聞いて、急ぎ馳せ参じたが、すでに戦は終わっていた。聞くと戦で兵士の大半を失ったが、ひとりの少年兵の活躍で仲津彦は敵の将を倒し、いったん出雲軍は川向こうに退却したとか。まさか、その少年とは……」

 若王の視線が息長姫に注がれる。

「そ、それは……。それに、今は女だ」

 若王の視線が息長姫の胸元に集中する。

 さらしが巻かれていないため、息長姫の微乳程度でもそこそこ胸の膨らみがわかるほどで、さすがの若王も、思わず唸ってしまった。

「う~む、春の巫女舞の時よりも、少し、成長なされたようだな」

「ああ」

 息長姫はため息をつくと同時に、自分の胸元を覗き込むように顔を近づけてきた若王の鼻っ柱に肘鉄を一発食らわした。

 鼻からしたたり落ちる血を拭いながら「何かお困りなことでも?」と、若王は訊いた。

 若王が軽く手を挙げて衛士に合図すると、2人の衛視は頭を垂れ、長槍を引いた。そして顔を見合わせた。

 さすが仲津彦の叔父ともなれば顔パスであるが、2人の衛士が顔を見合わせたのは、その仲津彦の叔父に肘鉄を食らわせたのが女であったからである。

 若王といえば、かの日本武尊すら一目置いた、その名も遠く大和まで届くほどの武勇伝にはことかかない猛者であった。息長姫はその若王を従者のように従え、御座所の建物の中へと足を踏み入れると、振り返って言った。

「それがな」

 息長姫は続けるのをちょっと躊躇し、小声で付け足した。

「仲津彦に胸のさらしを奪われた」

 事情を聞いて、若王は涙を流さんばかりに笑った。

 息長姫は横目でじろりと若王をにらみつけた。

「ものは相談だが、木綿のものでもよい。手持ちのさらしはないか?」

「あいにくさらしの持ち合わせはない。褌用ならあるが、すでに使っておるでな」

 と言うと、股間を示した。

 息長姫の侮蔑混じりの眼差しが鋭く光った。

 若王は慌てて「ほ、包帯ならある。まぁ、ものは試し。巻いてみてはいかがか?」と、提案した。

 包帯は幅が狭く、胸を覆うには何重にも巻かなくてはならない。必然、頂上を中心にその周りを中心に押しつけるようにするため、元々発育のいい胸の場合は、かえって胸元に明瞭に谷間が出来てしまう。それどころか、上方にせり上がって、胸元に見事なYラインを創ることになる。

 が、重力に抗して揺れる曲線美を魅せつけるよりは、まだマシというもの。

 息長姫の胸はそこまで発育がいいわけではないので、包帯でも用を足すといえば聞こえはいいが、少々残念な胸であることは、本人も自覚していた。

 再びため息をつきながら、息長姫は若王の従者から包帯を受け取り、一瞬、鋭い視線を若王に走らせたが、何も言わずにそのまま奥へと姿を消した。

 息長姫の後ろ姿を追いながら、安堵の溜息を漏らす若王だった。

       *

 作戦会議は白熱していた。

 もっとも若王は息長姫を恐れて、かなり離れた場所から2人が意見を交わすところを黙って見ているだけだったが。

 圧倒的にその場を支配していたのは、息長姫の方だった。

「出雲がこちらまで押し寄せているということは、長門は早々に出雲に降り、門司もんじはすでに落ちているとみてよいだろう。素盞嗚すさのおの子、五十良いそらがこちらに姿を見せないところをみると、志賀島しかのしまを落としに向かったのかもしれない」

 腕を組み、頤に手をやって仲津彦が口を開いた。

「そのような伸びきった兵站では、主力が志賀島に向かったとしても、志賀島側が持久戦に持ち込めば、自滅してしまうのではないか」

「いや、そうとも限らない。隣の伊都国いとこくには五十良の娘が嫁しているからな。あるいは内通しているとみるべきか。海神八部衆の首領衆が亡い今、拠点だった志賀島を落として伊都国一帯を支配するのは容易だろう。遠河おんが胸形むなかたからの音信が途絶えているところをみると、すでに蹂躙され、指揮系統が機能していないのではないか」

香春かはらはどうなんだ。すでに落ちているとは考えられないか?」

 息長姫は頭を振った。

「香春の敵には鷹羽たかはの者達が向かったようだが、長峡川ながおがわの川上から鷹羽の兵の具足が流れてこないところをみると、まだ戦いが始まっていないか、敗れてはいないのではないか。だとすれば、七曲峠を越えて敵の側面を突けば、勝機はあるかもしれない」

 仲津彦は舌を巻いた。

(子どものくせに、まるで10年このかた戦いの中に身を置いた軍師のように、冷静にこの戦を分析している。ひょっとしたら、よい策がすでにあるのかもしれない。ひとつ、かまを掛けてみるか)

「お前ならどう戦う」

「まずは川向こうの出雲軍の拠点を落とす。そして香春に向かう」

「出雲軍は2千だぞ。こちらは集まっても8百。とても……」

「夜陰に乗じて長峡川の少し川上、吉国で渡って回り込み、貴船社に駐留する出雲の幕屋に火を放てば、半数は叩ける。明日までは強めの南西の風が吹くから一気に燃え広がるだろう。しかも風上のこちら側に向かうには火力が強過ぎて、敵は風下に逃げるしかない。最低、明後日早朝までは足止めを食らうことになる。我々は深追いはせず反転、西に向かい、峠を越えて香春に駐留する出雲の側面を突く」

 仲津彦は唖然とした。

 まるで手に取るように状況を把握しているばかりか、兵の動かし方、戦い方、気象までをも熟知していたからである。

 加えて地形まで、この地に御座所を構える仲津彦よりも精通しているようであった。

 この地は北の長峡川、南の今川の間に広がる扇状地で、周囲は南の馬ヶ岳、北の貫山・平尾台、西は障子ヶ岳に囲まれていて、攻めにくく、守りやすい要害である。

 川を下って周防灘に出るのも容易で、西側後方にそびえ立つ障子ヶ岳と飯岳山間の七曲峠を越えた所には香春の銅山などもあって、資源にも恵まれている。

 それゆえ、この地に御座所が置かれたのであるが、そこに出雲軍が苅田と香春から挟撃を仕掛けてきたわけである。

 確かに御座所の背後を突く形で、香春から同時に仕掛けられていたら、ひとたまりもなかったであろう。海側の苅田からの攻撃ですら、しのぐのがやっとであったし、出雲軍の指揮官は倒したが、夜が明けたら、軍を立て直して再びやってくるのは明らかであった。

「長門の残った兵をまとめて、我が軍の残りの兵が明朝にはやってくる。そうすれば、こちらも2千近くの兵力となる。陣容を整えてから戦った方が勝算があるのではないか?」

 仲津彦はどうやら安全策をとりたいようだった。だが、息長姫はゆっくり頭を振った。

「戦いは数ではない。勝機を逃さないことも重要だ。敵の兵力の分散、各個撃破は、兵数で劣る場合、最も有力な戦術のひとつだ」

 そう言って、微笑んだ。

 品蛇若王も同様に口元に笑みを浮かべていた。もっとも、笑みの理由は息長姫とは別だった。

 かつて息長姫の父、宿禰が「我が娘がもし男だったら、息長の名は大陸にまで知れ渡ることになったであろう」と言って嘆息したという。

 幼き頃より、陸より船の上を好み、天候を読む才にかけては、大人たちの誰も及ばなかった。

「雲が西から東へ流れていますが、もうすぐ、こちら側は晴れます。胸形の方はまだ雨と向かい風の中。攻めるなら、あと半時内に」と、かつて志賀島に拠点を置く息長が胸形を攻めた際、決定的な判断を下す材料を提供したのである。

 それだけではなかった。

 幼いながらも陽光を背に船首に腕組みをして立ち、向かってくる胸形の兵士達を「比売神ひめかみさま」と畏れさせ、ほとんど戦闘もしないまま、従わせてしまったのである。

 息長宿禰は娘の行く末を案じ、娘が女として育つことを希望して、母方の親類でもある品蛇王のもとに6歳の時に巫女として預けた。

 その地で巫女としての才能も大いに開花したが、海神八部衆の知恵袋と言われた品蛇王の薫陶を受け、大陸の最新の兵法をはじめ、戦の駆け引きについては、さらに磨きがかかったのは言うまでもない。

「親爺殿のいちばん傍にいて、最もその教えを受け継いだのは、息長の娘だからな」

 そう呟いて、目を細めた。

 だが、この程度の見立てでは、若王は息長姫の実力を見誤っていたと言うべきだろう。

 教える側だった若王の父、品蛇王をして、

「天をその背に戦う姫さまを前にしては、我が戦術など児戯に等しい。人智を越えた戦い方は、戦略と片づけるのもおこがましい。まさに天啓、天の意志である」とまで言わしめた娘なのだから。

        *

 その夜、食事を済ませて御座所の庭から星空を見上げていた息長姫の周りに、夜陰に紛れて幾人もの足音が近づいてきた。

(しまった。囲まれたか)

 息長姫は手元に剣がないことを悔やんだ。

 みな、灰で染めた衣をまとい、顔は口元を隠して、背に木箱を背負っていたが、不思議と物音はしない。その格好は、忍者とも山伏とも言いがたく、黒子装束に近いものがある。

(10人以上か。この人数で一気に攻め入られたら、防ぎきれぬ。仲津彦が危ない)

 応援を呼ぶべく、声を上げようとしたその時だった。

「山の衆、総員12名、ここに参集致しました」

 リーダーらしい真ん中の屈強な男が頭を下げた。

(山の衆? 呼んだ?)

 息長姫は耳を疑った。

日之巫女ひのみこさまにおかれましては、ご健勝の由、祝着にございまする」

「もしやお前達は、安心院の者か?」

「ははっ、日子山の私をはじめ、安心院のこの者など12の山の主が集うておりまする」

 と言って、右手に控えるまるで忍者のような頭まで隠した、いかにも身軽そうな小柄な男を手で示した。同時にその男は機敏に頭を下げ、視線は落としたまま、顔を上げた。

(主ということは、他に手の者もいるのだろうか。それにしても日之巫女とは?)

「お前達を呼んだ覚えはないが」

 平伏しながら、日子山の山の衆のリーダーと思われる男が答えた。

「先ほど祓川での神事で五芒星と陽円をお描きになられ、陰と陽を結び、この地を統べる日之巫女さまであることをお示しくださいました」

 息長姫は「あっ」と小さく漏らした。

(見られていたのか。あれだけ慎重に周囲に人の気配がないか確認したのに。しかも五芒星と陽円を合わせて描くというのは、そういう意味があったのか)

「その後、大きく広げた腕を胸元に引き寄せ、組まれました。これは我らを日之巫女さまのもとへ集めるための所作」

(いや、あれは仲津彦に裸を見られたからなのだが・・・・・・)

 息長姫はさらに重大なことに気付いた。それは裸を仲津彦のみならず、彼らにも見られてしまっていたということである。逆光の仲津彦にはシルエットしか見せていないだろうが、彼らにはおそらく隈なく見られてしまっているだろう。

 さすがの息長姫も耳たぶまで朱に染めて言葉を失った。

「以後、山の衆は命に代えても日之巫女さまをお守りすることをお誓い申し上げます」

 リーダーの男が頭を下げると、他の11名の山の衆もさらに深々と頭を下げた。

だが、山の衆と聞いて、息長姫は目を輝かせた。

 山の衆は各地の山の民を統べる、いわば山の民の頭領達である。海神の八部衆のように海賊まがいの目立った行動はしないが、各山の比売神やその頂点に立つ日之巫女を祀り、山や森に溶け込んで暮らしていた。日本古来の先住民族である縄文人が大半を占めるが、彼らに道教の世界観、自然観を持ち込んだ渡来系弥生人が混血し、後の山伏による修験道に連なる教義が形作られたと考えられている。背が高く鼻の高い、いわゆる天狗の面のモデルは、ロシア系渡来人ではないかとも言われている。

 修験道が世に姿を現すことになるのは、継体天皇25年(西暦531年)に中国北魏の仏教僧、善正法師が日本に渡り、最初の修行の場としての日子山(後の英彦山)を開いてから、ということになっているがその原型は、すでにこの当時からできつつあったのである。

 表立った行動はしない山の衆であったため、その存在すらよく知られていない部分もあった。さらには、どうして山の衆が自分たちを助けてくれるのか、その理由が今ひとつ確かではなかったが、猫の手も借りたい状況であるには違いなかった。

 息長姫は一計を案じた。

 彼ら山の衆に密偵、伝令役を担ってもらうことにしたのである。間もなく二崎山に到着する長門の軍に挟撃の策を密かに伝えてもらうことにしたのである。

「さて、と」

 息長姫は大きく息を吸うと、喫緊の問題にとりかかることにした。それは言うまでもない、自分が胸に巻いていた絹布探しである。

(あれがないと、どうも落ち着かぬ)

 宝物庫はもちろん、神を祀り捧げ物を置く献台や仲津彦の居室もくまなく探したが、見つけ出すことはできなかった。

(あとはここしかないか)

 仲津彦が中にいないことを確認して寝所に足を踏み入れる。夜具の枕元に目をやった次の瞬間、息長姫は息を飲み、吐息を漏らした。

 ほぼ息長姫の等身大に畳まれた絹布が、枕元に寄り添うように敷かれてあったのである。

(まさか、あの仲津彦、この絹布を搔き抱いて寝ていたのではあるまいな)

 ほのかに桔梗の香りがする絹布に手をかけたその時、背後に足音がして、殺気が息長姫の体を貫いた。

「きさまも、その天女の羽衣を狙っていたのか」

 そう言うと、仲津彦は腰に帯びた剣を抜いた。

 息長姫はゆっくり振り向くと、ニヤリと笑みを浮かべた。

 仲津彦の後ろにやっと追いついた若王が姿を現し、

「仲津彦、待たれよ、これは・・・・・・」

 と制止しようとしたが、仲津彦はさらに1歩、踏み込んだ。

「これは天女の羽衣などではない。こういうふうに使うものだ」

 息長姫は手にした絹布の一方の端をつかんだまま、真上にポンと放り投げた。

「あっ」

 仲津彦と若王の視線が絹布に注がれる。

 次の瞬間、息長姫の衣と木綿の包帯も宙に舞い上がった。

 包帯が外れると、真っ直ぐに伸びた絹布の下端をグイと引っ張る。ほんの一瞬だが、息長姫の美しいが、まだ発達しきれていない乳房が露わになった。

 片足つま先立ちになって、自らまるでフィギュアスケートの回転のようにクルクルと回って胸に巻き付け、万歳の格好で両腕を上げた息長姫の体を、するりと落ちてきた衣が覆う。

 後世のアニメで魔法少女が変身するシーンがあるが、おそらくはこれが原点であろう。何もいったん裸にならなくてもいいのだが、局所を巧みに隠しつつ、視聴者への旺盛なサービス精神は1,800年を経て後の世まで脈々と受け継がれているようである。

 胸元に視線を移し、呆然と立ち尽くす仲津彦がポツリと言葉を発した。

「お、女?」

 言い淀んだ仲津彦に、息長姫は一瞬、ムッとした表情を見せた。

 仲津彦はハッとなって、続けた。

「まさか、おまえはあの時の天女か?」

 美豆良を解いた息長姫の長い髪が膝裏まで垂れる。そしてこれ見よがしに長い髪を掻き上げた。

「やっと気付いたか」

「そうか、だから戦のことも知っていたのだな。しかし、息長彦と名乗ったではないか?」

「妾は息長、としか名乗っていない。弟の息長日子と早合点したのは仲津彦の方だ。まぁ、その方が都合がよかったので今まで黙っていたのだが」

 驚きの眼のまま、仲津彦がにじり寄ってきて、息長姫の手を取った。

「ならば、湖での約束は忘れてはいまいな」

 今度は大きく目を見開いたのは息長姫の方だった。

(まさか・・・・・・)

「戦に勝利し、羽衣はそなたに返した。あとはそなたを妻と成せば、湖での約束はすべて果たしたことになる」

 そう言うと、仲津彦は息長姫を抱き寄せようとした。

「な・・・・・・(なんてことを)」

 言葉を発するよりも早く、息長姫は飛び退いた。

「待て、待ってくれ。その、なんだ、妾はまだ女にはなっていない。そう、まだ子供だ」

「別に構わんぞ。12の娘を抱いたこともある」

「それでは鬼畜ではないか」

「村の有力者がぜひに、と娘を差し出したのだ。むげには断れまい。(それにその娘は早熟で、すでに女になっておったからな)」

 1歩、また1歩と後ずさりする息長姫に、にじり寄る仲津彦だったが、さすがに見かねた若王が間に割って入った。

「仲津彦殿、もう間もなく出立の時刻。姫に妻問いするのは戦の後になさるがよかろう」

「戦の勝敗は時の運ということもある。明日は我が命、ながらえているかどうかもわからぬ。万が一ということもある。姫には我が命の灯火を引き継ぐ種を是非とも・・・・・・」

 再びにじり寄って息長姫の肩に手をかけた仲津彦に、姫は激しく頭を振った。

「巫女として戦勝祈願もせねばならぬ身なれば、戦を終えて戦勝祝賀の宴の場で皆にお披露目をしてから、ということでどうじゃ」

 戦勝祈願という言葉を耳にした仲津彦は息長姫の肩から静かに手をおろした。

「そうだな。戦勝祈願の神舞を舞うことが出来るのは、未通女おとめの巫女だけだからな」

 ほっ、と小さく安堵の吐息を漏らす息長姫であった。

 それでいて、ちょっと困ったことになったとも思っていた。

 と言うのも、戦勝祈願は太陽が昇り始める夜明けに行うものだからである。夜討ちをかける今回の戦は、夜明けには雌雄を決してしまっているのである。それに自分が戦勝祈願の神舞を舞うとなると、戦に加わることができない。

 息長姫は不安な眼差しを仲津彦に向けた。

「やはり、妾も行った方がよいのではないか?」

 と、ポンと肩を叩かれ、振り向くと若王が微笑んでいた。

「ご心配めさるな。それがしがついておりまする」

 どうやら若王は息長姫の不安な表情の理由がわかっているようであった。

「そうであったな。若王がついておれば安心だ」

「ああ。それに、女とわかったからには、戦の場にお前を連れて行くわけにはいかぬ」

 仲津彦が声を大にした。

「それはどういうことだ?」

 息長姫の鋭い視線に、一瞬、仲津彦が言い淀んだ。

「そ、それは、だな。お前は我が妻となる身だ。万一、怪我でもされたら困る。昼間の戦でも矢傷を負ったではないか」

「ああ、これか?」

 息長姫は太股を露わにして、傷を仲津彦の視線にさらした。

「こんなもの、唾でも付けておればすぐ治る。大事ない」

 股間が今にも見えそうな白く細いその太股に仲津彦ばかりか、若王までも喉を鳴らしてしまった。

 その視線に気付いた息長姫は「何を見ておる」と、若王のみぞおちに肘鉄を食らわし、肘を支点に拳を振り上げ、若王の鼻っ柱を拳で殴る。見事な連続技で、再び若王の鼻から血が滴り落ちた。

 仲津彦は目が点になった。

 それもそうだろう。若王と言えば仲津彦の父、日本武尊を助け、その武勇において畏敬の念から日本武尊の頭を垂れさせた英雄で、しかも仲津彦にとっては伯父にあたる人物でもあるのだから。

 息長姫は膝をついて身もだえ苦しむ若王を上から見下ろし言い放った。

「巫女の衣を持ってきておらぬ。この地の巫女の衣で構わぬ。借りてきてくれ。妾はこれから身を清めの沐浴をすることにしよう。決して覗くではないぞ」

 そして、すたすたと軽い足音を立てて部屋を出て行った。

    *

 木々も深い眠りにつく丑三つ時。夜陰に紛れて8百の兵が御座所から出発した。

「警護の兵はまことに不要なのか?」

 馬上から心配そうに仲津彦は息長姫に問うた。

「ああ。妾には山の衆がついているからな」

「山の衆?」

「詳しくは、戦から戻ってから話をするとしよう。それとも、我が身に難が及ぶような無様な負け方を仲津彦はするのか?」

「いや、そのようなことは決してない。姫を出雲の手に渡すようなことは、我が命に替えても決してさせない」

 息長姫は溜息をついた。

「命に替えてでも、などと口にするでない。それに、すでに策は授けてあるから、妾が行かなくとも、うまくゆくであろう」

「策とは?」

 少し間があった。

「仲津彦が首尾よく貴船社に駐留する出雲の幕屋に火を放つことができれば、この戦は勝ったも同然」

「しかし、半数を叩けたとして、完全勝利というわけではない」

 再び、少し間があった。

「だから、策を授けてあると言っておろうが」

 怪訝な顔をして仲津彦がくるりと若王の方へ振り向いた。

「若王はご存じか?」

「いや、儂も知らぬ」

 息長姫が笑いをこらえながら口を開いた。

「仲津彦は貴船社の相手に集中しろ。さすれば道は開ける」

 そう言うと、息長姫は笑顔で手を振って出立を促した。

 仲津彦と若王は馬首を皆と同じ北へ向けると、仲津彦が声を上げた。

「長峡川の吉国の瀬を渡り、貴船社の敵に夜襲をかける。全軍、出発」

 下弦の月の薄明かりの中、仲津彦と若王の姿をしばらく目で追っていた息長姫は、ひとつ大きく息を吸うと、「よし。まずは上々の滑り出しじゃ」と、小さくうなずいた。

 ちょうどその頃、全身、墨染めの衣を着用した不思議な出で立ちをした人物の姿が二崎山の麓に辿り着いたばかりの長門の兵の中にあった、

 竹簡を開き見た指揮官らしき人物が声を上げた。

「息長の姫さまと仲津彦殿はご無事だ。直筆のこれが証拠!」

 と、高々と竹簡を掲げた。

 おおっ、と声が上がる。それまで意気消沈していた兵達に生気が戻ってきた。

「しかも御座所を襲った敵将を討ち取り、さらには若王さまが加わり、明け方には貴船社の残りの敵の拠点を焼き討ちする故、逃れる敵兵を挟撃せよとのお言葉!」

 おおっ、と先ほどの数倍の声が上がる。

「汚名挽回の機会ぞ。必ずや勝利して、再び姫さまのお姿を拝そうではないか」

 まるですでに勝利したかのような勢いであった。

 一方、息長姫は、と言うと、巫女装束に着替え、山の衆を従者に、祓川沿いの湖に向かった。

(薦宮の袴はこんなくすんだ色ではなかった。もっと鮮やかな茜色なのに。しかも絹地ではなく、木綿とは・・・・・・)

 少し落胆したが、神聖な巫女装束があっただけでもよしとすべきと、自分に言い聞かせた。

 湖にはすでに小舟が浮かべてあった。

 山の衆が2人、先に乗り込んで、姫の手を引いた。そして1人は艪を手にすると湖の中に浮かぶ小島を目指して漕ぎ始めた。

 息長姫は驚いた。

 艪を操っていながら、波音がしないのである。しかも滑るように一直線に湖の中の小島、山の衆たちが言うところの浮島に到着したのである。

 船を降りながら息長姫は感心して漕ぎ手を見た。

「見事なものじゃな」

 こぎ手の山の衆の男が頭を下げた。

「お褒めいただき恐縮です」

 2人の山の衆は先に島に降り立つと、再び姫の手を取り、浮島へと導いた。さらには小さな社と祭壇を即席にこしらえた。 

 息長姫は祭壇に置かれた神の剣である銅の短剣を右手に、赤い実を付けたオガタマと幣を結い付けた小竹葉(笹の葉)を右手に取った。オガタマは招霊おきたま、あるいは、拝みたまふ、がその語源で、実を付けた枝を振ると鈍い鈴のような音色がする。余談だが、五色の鈴垂絹を垂らした神楽鈴を鳴らすようになったのは、平安朝以降である。

「もういいぞ。あとは妾の仕事じゃ」

「はっ」

 頭を下げると、2人は再び船に乗って岸へ戻っていった。

(もうそろそろ仲津彦たちは貴船社に着くころだろうか)

 息長姫は大きく息を吸ってみる。

 木々に囲まれた湖には、風に乗って焼き焦がれた臭いはまったく流れてくる気配がなかった。

(頼むぞ、仲津彦。お前が成功せねば、長門の者たちに託した策も無駄になるばかりか、我々は全滅することになる)

 不安が過ぎった。

(ま、あの若王がいるから、そのようなことはあるまい)

 少し安堵の表情になったが、わずかに明るんできた東の天空を見上げ、笹の葉を振った。

 コロン、カランと、乾いた音が響く。

 いつしか戦の不安を忘れ、舞いに身を委ねている内に息長姫は、自分の意思ではなく、まるで精霊が宿って舞っているかのような錯覚を覚えた。さらにはその舞っている自分の姿を、別の自分が観ているような錯覚を覚えた。

(妾の意識がこの肉体から解き放たれて、別の世界にいるようじゃ)

 だが、それは息長姫にとって、不快なものではなかった。むしろ何かに突き動かされているような衝動が心地よかった。

 漆黒の空が明るみを帯び、一筋の陽光が差し込んできて、水面に息長姫の姿が映し出される。

 そして一瞬、それは揺らいで、巫女の衣をまとった別の少女の姿に変わった。

 舞いながら、息長姫は目を見開き、その水面に手を伸ばした瞬間、まるで吸い込まれるように、浮島から姫の姿が消えた。

 そしてほとんど入れ替わるように、まるで水面から浮島へ放り上げられるように、息長姫とは別人の巫女装束の少女が浮島に姿を現した。

 その少女はしばらく呆然とした表情をしていたが、「どこよ、ここは・・・・・・。どこなのよ!」と、声を上げて泣き出した。


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