第30話:覚醒

 迫り来る風を避けて火の玉は一斉に陽太に向かった。一度陽太の体に付いた炎は彼の産毛を燃やすように陽太を包み込む。直接体を燃やすわけではないけれど、至近距離の炎の熱は尋常じゃない熱さだ。陽太もその炎の熱に転げ回るようにして藻掻く。

 コントロールを失った鎌鼬の群が生徒達に向かうのを壱と昴がかき消して、紅哉は梓を連れたまま陽太の死角に回った。

 断末魔の叫びのような声を陽太が上げて、炎が霧散する。その瞬間、彼から力の奔流は止まり、周囲は一瞬静寂に包まれた。ゆらりと立ち上がった陽太は虚ろな目を周囲に向ける。なにも見ていないような目が月玄に向けられ獣のように唸った。

「悪いな。陽太」

 そしてその声と共に、両腕が切り落とされ、陽太の腹に大きな穴が開いた。水袋が地面に落ちるような音と共に陽太の体が地面に沈む。そしてその後ろに立っていたのは、梓を連れた紅哉だった。



「アカオニっ! 殺したんじゃないだろうな! 躊躇なく腕を切り落とすとかどうかしてる!」

 最初に怒鳴りながら駆け寄ってきたのは月玄で、次いで昴と壱が駆け寄ってくる。

「腕ぐらいならくっつくだろう。この場でまた抵抗されるとやっかいだったからな」

「お前は弟の腕を『やっかいだから』で切り落とすのかよ! だから冷酷、冷徹なんて噂が立つんだ!」

「うるさい」

「まぁまぁ、二人とも、喧嘩しないで」

 駆け寄ってきた昴が仲裁に入る。二人が剣呑に睨みあっている横で陽太は気を失っていた。何はともあれ作戦は成功したらしい。梓も安心したように紅哉の腕から離れ、息を付いた。

「『死なない程度』ってこういうことじゃないだろう! これは完璧に死ぬ一歩手前だ! やりすぎだ!」

「この程度で死ぬわけがないだろう。お前じゃあるまいし。以前にお前が俺に開けた穴の方が何倍もでかかっただろうが」

「アレは殺す気で開けたんだからいいんだよ! 何でもお前基準で考えるなよ! 陽太はお前なんかよりよっぽど繊細なんだからな! 死んだらどうするんだ!」

「ちょっと二人とも、喧嘩してる暇ないよー、撤収するよー」

「五月蝿い軟弱! 僕はアカオニと話をしてるんだ!」

「な、軟弱……。言わせておけば……」

「軟弱は軟弱だろうがっ……つーー」

 瞬間、月玄が横に吹っ飛ぶ。十メートルほど勢いよく飛ばされて、地面に打ち付けられた。皆が慌ててその方向を見ると、月玄は切られた陽太の腕に首を絞められていた。キリキリと閉まる腕に月玄は対抗しようと藻掻くが、それが陽太の腕だからか抵抗らしい抵抗が出来ないでいた。

 陽太の方を見ると彼は気を失っている。どうやら身の危険を察知して体が勝手に動いているようだった。もう一つの腕ももぞもぞと動き始めている。

「よう、た……」

 苦しそうに月玄がつぶやく。腕を掴み、引き離そうとしているが、月玄はその腕からこぼれる血に躊躇しているように見えた。月玄が本気を出せば、きっと抜け出すことは容易だ。しかしそれをしないのは、彼の腕を傷つけたくないからだろう。

 もう一つの腕もゆっくりと持ち上がる。風を纏って陽太を守るように浮かぶその腕を、紅哉は暗い瞳で見つめた。あぁ、もう手遅れなのだと深く息を吐く。

 通常の状態の吸血鬼が腕をもがれても、その腕がひとりでに動き出すことはない。それは脳や血液が強靱な体を支配しているからだ。こんな風に体がひとりでに動き出すという事は、もうこの体は脳にも血にも支配されず、本能のみで生きているという事。

 つまりこの行動は、彼の脳も血ももう生きてはいない、もしくは、支配できないほどに弱っているという事を指していた。

「陽太」

 紅哉は小さく弟の名を呼ぶ。勿論彼は反応しない。それがたまらなく苦しくて、悔しかった。

 腕を振り上げる。その行動に昴が何か叫んでいるようだったけれど、紅哉には聞こえていなかった。殺してやらなくては、その想いだけで動く。

 あんなに優しかった彼が望んでいるのは、こんな姿になる事じゃない。誰かを傷つける事じゃない。そう自分に言い聞かす。

「兄、さん……」

 不意に聞こえた声にそちらを向けば、気を失っていた陽太が顔を持ち上げて紅哉を見ていた。泣きそうな顔でこちらを見ている姿に紅哉も腕を降ろす。陽太はそんな紅哉に緩く首を振った。

「ころ、して」

 その言葉を最後に、彼はまた獣のような唸り声を上げる。一瞬だった。一瞬の邂逅だった。だけど紅哉の意志を固めるには十分すぎるほどの出来事で、紅哉は今度こそ躊躇わずに腕を上げて、その拳を彼の頭を潰すために放った。


「紅哉さんっ! だめっ!」


 紅哉と陽太の間に滑り込んできた影に、紅哉は息を飲む。そこには陽太を守るように両手を広げる梓の姿があった。彼女に当たる寸でで拳を止める。

「だめだよ! 紅哉さんが陽太君殺しちゃ……っ」

 その言葉を言い終える前に、梓は背中から衝撃を受けて血を吐いた。ゆるゆると視線を降ろすと、彼女の胸に陽太の腕が深々と突き刺さっていた。

「梓っ!!!」

 紅哉の腕に抱き留められて、梓は意識を手放した。


「梓っ!梓っ!」

 悲痛な叫びと共に紅哉は梓の体をゆする。彼女の心臓を貫いた陽太の腕は陽太を守るように、紅哉を威嚇するように、その場でゆらゆらと揺れ動いていた。これ以上近づくなという風にその腕は動く。

「コウっ! 下手に揺らすなっ! まずは止血しないと!」

 近づいてきた昴の腕を振り払い、紅哉は梓の頬を張る。

「梓っ! 起きろっ!」

「コウっ! とりあえずいったん此処から離れよう! このままじゃ助かるもんも助からないだろう。今壱が校長呼びに行ってる。あのおっさん回復魔法だけは得意だったはずだ。梓ちゃんは大丈夫だから、とりあえず落ち着け」

「昴……」

「なんて顔してんだよ」

 紅哉が昴に促されるように梓を抱えて立ち上がる。梓の顔から血の気は抜けていて、流れる血は止まるところを知らなかった。

 陽太はまだ唸っているが、動けないようで、その回りに二つの腕が彼の体を守るようにゆらゆらと揺れる。

 解放された月玄は息を飲んで梓達を伺っていた。小さく彼女の名を呼んで唇を噛みしめている。


 その時、一際大きな音で梓の心臓が鳴った気がした。


 その場にいる誰もが彼女の鼓動を聞いた気がして、梓に視線が集まる。それは屋上の生徒たちも同じようで、一同に彼女の姿を見つめていた。

「梓?」

 紅哉もその音に腕の中の梓を見つめるが、彼女の顔色は変わらないまま。しかし、確実に変化は起こっていた。彼女の髪の毛が一房白くなっていたのだ。それこそ白い絵の具を流したように真っ白になっていた。


 そして、もう一度鳴り響く鼓動音。


 それは耳に響くのではなく、皆の頭の中に直接響くような音。彼女からこぼれ落ちていた血液はいつの間にか止まっていて、傷もあり得ない早さで塞がりかけている。

「梓」

 呼ぶように紅哉がそう呼べば、彼女の瞳はゆっくりと開かれて紅哉をとらえた。しかし、それは彼が良く知る彼女の瞳の色ではなかった。

「白い……」

「ははっ」

 紅哉がそう呟くと、腕の中の梓がまるで面白いおもちゃを見つけたように笑った。そして紅哉の首に腕を回し、そっと体を持ち上げ自分の足で立ち上がった。その瞬間に彼女の髪の毛は全て白に塗り替えられる。

「ご苦労だった」

 梓の口からこぼれたのは確かに彼女の声だったが、しゃべり方が明らかに違った。

「お前は誰だ」

 とっさにそう言ったのは紅哉の隣にいる昴で、立ち上がった梓はそんな昴にゆったりと微笑んだ。

「私は梓だろう? 斉藤梓。それ以下でも、それ以上でもないよ」

「俺が知ってる彼女とお前は別人だろう? お前は誰だ? 真祖が蘇ったとでも言うのか?」

 肯定も否定もせずに梓は微笑んだ。そして、そのままの足取りでふらふらと陽太の方に歩いていく。

「近づくなっ!」

「黙っておれ」

 止めようとした紅哉はその言葉に動けなくなってしまう。体を動かそうとどれだけ藻掻いても、地に足が縫いつけられているように動かない。

「やはりお前は力が強いな」

「梓っ!」

「もう二度と私が出てこなくても良いように、お前が器を守れよ」

 そう言って梓はひらりと身を翻し、陽太の前に立った。陽太も動けないようで、唸りながら彼女を見上げるばかりだ。

「私が人が混じってしまったばかりに、辛い思いをさせてるな」

 宙に浮かぶ二つの腕を取り、梓はそれを陽太の体に付ける。すると、少し淡い光を発して陽太の腕はそれぞれ元通りにくっついた。

 元の体に戻っても陽太は梓に大して唸るばかりで、攻撃をしようとはしない。唸る陽太の口に、梓は自分の胸の辺りの血を一掬いして一滴垂らした。それを陽太がのどを鳴らして飲みこむのを見て、梓は胸に手を当て瞳を閉じる。

「願おう。君が在りたい姿でいることを……」

 その言葉はまるで呪文のように陽太を支配した。そして、急に陽太は喉を掻き毟り出す。まるで毒を飲んだかのような反応に誰もが動揺した。それでも誰も梓を止める気になれなかった。彼女はこの場において絶対君主の存在感を醸し出している。

 喉を掻き毟り、悶え、苦しんだ後に、陽太はパタリと動かなくなった。両手を空に向けたまま四肢を投げ出し、大の字で空を仰いでいる。

 そこにいる誰もが死んだのだと思った。彼は毒を飲まされて死んだのだと。

「早く治療をしてやれ。どうやら奴は人を選んだようだ」

 梓がそう言う声に昴が慌てて陽太の様子を見に行く。陽太は呼吸をしていた。瞳は堅く閉じられていたが、気絶と言うよりは寝ているというのが正しいその様子に、昴は腰を抜かした。

 梓はそのままの足取りで紅哉の目の前に近づいていき、その首に腕を回した。

 困惑したような、心配しているような、複雑でよくわからない表情の紅哉に梓は微笑みかける。

「少し疲れた。眠る」

「梓?」

「必ず起きるからそんな顔をするな。これからも器をよろしく頼むよ」

 瞳がゆっくりと閉じられ、それと同時に髪の毛も元の亜麻色が戻ってくる。重くなった体を抱えれば、彼女は深く呼吸を繰り返していた。

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