第28話:唸り声

 その青年は虚ろな目をして住宅街を歩いていた。その姿を目に留めた者は皆怯えたような顔になり、早々に家の中に引きこもる。そしてその青年がどこかへ行くのをじっと耐えるのだ。

 長く下りた髪の毛で顔の判別はできないが、水を吸ったかのような足取りと異様なまでの猫背が彼の異常さを表していた。

「まだですね」

 その様子を建物の上から眺める銀髪の男がいた。彼の顔には酷薄な笑みが張り付いており、その様子を心底楽しんでいる様が見て取れる。そんな男の背後に一人の青年が音もなく近づいた。

「シロ、お前が陽太を堕としたのか?」

 その声は地を這うように低く、そして燃え上がりそうなほどの熱量を孕んでいた。シロはその声に微笑みながら振り返る。そして慇懃な態度で頭を下げた。

「月玄様、お久しぶりです。数週間ぶりでしょうか。今まで顔を出しませんで本当に申し訳ありません」

「そんなことが聞きたいんじゃない。答えろ。お前なのか?」

「何を怒ってらっしゃるんですか?」

 飄々とそう言ってのけるシロの胸ぐらを月玄は掴んでコンクリートの床に押しつけた。その動きは素早く、シロは成す術もなく月玄に押さえつけられる。

「お前は人を堕とせる! 僕が忘れたとでも思ったのか!」

 月玄の脳裏に浮かぶのは梓を襲ったFの姿だった。梓を浚うまでの過程の全てはシロが独断でやったことだが、月玄もよく分からないまま一部始終を見ていたので覚えている。

「お前はあの男と同じ薬を陽太にも飲ませた。そして、お得意の虫でも使って操っている。違うか?」

「そこまで分かってらっしゃるのでしたら、私から説明することはございません。まだFに堕ちたばかりで理性が残っているのか無闇矢鱈に人は襲いませんが、そうなる前に私がコントロールしますので、ご心配には及びませんよ」

 薄気味悪い瞳が月玄に向けられる。その気味の悪さと怒りで、月玄はシロをこれでもかと押さえつけた。その瞬間、シロの後ろのコンクリートが音を立ててひび割れる。

 流石にシロも苦しそうに顔を歪めたが、抵抗する様子もなくなされるが儘になっている。

「陽太を戻せよ! お前にはできるんだろう!」

「残念ですが月玄様、それはできません。珈琲にミルクは溶かせても、ミルクが入った珈琲からミルクだけは取り除けないでしょう? それと一緒ですよ」

「ふざけるな!」

 月玄の拳がシロに振り下ろされる。人を殴ったとは思えないほどの音がして、シロの肩はコンクリートにめり込んだ。シロは苦痛に顔を歪め、唇を噛むようにして痛みをこらえる。

「じゃぁ、何を飲ませたのか吐け!」

「それを知っても何にもなりませんよ?」

「それを決めるのはお前じゃなくて僕だ! 吐かないならこの場で殺す」

 月玄が首に掛かる手に力を入れれば、シロの口から唾液が溢れる。苦しそうにもがくのを見て、月玄はゆっくり手の力を抜いた。

「お前は僕に勝てない。分かってる事だろう?」

「そう、ですね」

「言えよ」

「……血です」

「血?」

「斉藤梓さんの血ですよ。私が彼に飲ませたのはそれです」

「ーーーーっ!」

 月玄は瞠目し、息を飲んだ。その顔をシロは可笑しそうに見上げていた。

「どこでそれを手に入れた」

「……それは秘密です」

「お前、殺されたいのかっ!」

「貴方は私を甘く見すぎです。月玄様」

 シロは余裕綽々の笑みでそのままコンクリート床を叩いた。その瞬間に浮かび上がった光に月玄は慌てて飛び退く。立ち上がったシロを中心にして光の輪が広がった。直径は四メートルぐらいだろうか。シロがその中心で薄く笑い、足でもう一度その輪を叩いた。その瞬間に光の輪から溢れたのは無数の蝶。これでもかと睡眠作用のある鱗粉をまき散らしながら月玄に群がった。

「これは準備が整うまで時間を稼がないといけないのが難点なのですよ。そのせいで余計な事をしゃべってしまいましたが、上手くいってよかったです。……それでは月玄様。良い夢を」

「くそっ!」

 油断をしていなければこんな攻撃すぐにいなせたのだが、今日の月玄は余裕も無い上に周りが見えていなかった。どれだけ振り払っても焼き殺しても絶え間ない数の蝶が月玄を襲う。そしてとうとう月玄は膝を突いた。くらりと体が傾いて、床に四肢を投げ出す形になる。

「貴方は殺すなと言われてますからね。まだ殺しませんよ。ですが、先ほどのは少々痛かったので、これぐらいはさせてください」

 シロは薄ら寒い笑みを浮かべて、倒れている月玄の腹部を蹴り上げた。


◆◇◆


「来たよ、準備は良い?」


 校庭の真ん中で昴は左右の二人を見てそう言った。壱も紅哉も黙って首肯する。やはり戦力面ではマイナスに働いてしまう可能性が高い梓は、校庭の隅に隠れるようにしてその戦いを見守ることとなった。

「確認だよ。やむ終えない場合がない限り殺すことは禁止。手足はできるだけ残すこと。捕獲方法は、両足の健を切って動きを弱めたところで銀の糸を編み込んだで捕獲する。縄は学校のを借りたからこれを使うよ」

 学校は生徒たちの学び舎だが、何かあったときの避難所としても機能していた。なのでいろいろな物が取り揃えられている。その中の一つが不審者を縛っておくための銀の糸を編み込んだ縄だった。吸血鬼の街での不審者はやっぱり吸血鬼と言う場合が多い。その場合に普通の縄では対応ができないからと生み出された捕獲道具だった。

 校舎の上では生徒たちが何が起きるのか群がるように見つめている。

 そしてそのざわめきが一層大きくなった。悲鳴のような声も聞こえる。観衆の視線は校門の異様な青年へと向けられていた。紅哉を含めた三人もその姿に息を飲む。

「……陽太」

 小さくそう呟いたのは同じように息を詰めた梓だった。校庭からでも長く伸びた髪のせいで彼の顔を判別できない。校舎の屋上から見ている生徒たちにも彼が誰だか分からないだろう。それはある種の救いだった。

 陽太の顔がゆらりと持ち上がる。何かを探すように左右に動いて、紅哉たちに視線を止めた。

 それを合図に紅哉たち三人は散る。素早い動きで壱は刀で右の、紅哉が素手で左の健をそれぞれ断絶した。あっという間の出来事に梓は瞠目する。そしてひざを折った陽太に縄を掛けるのは昴だった。手足を縛って動けなくしたところで胴体にまで縄を巻く。陽太は終始苦しそうに唸っていたが、三人に押さえつけられ、なす術もなく捕獲されてしまった。わずか三十秒にも満たない時間で全てが決した。

「うん。良かった。被害ゼロだね」

 昴が安心したように息をついてそう言った。梓もその声に茂みから身を出す。出て良いかと視線で問えば、昴は苦笑いで頷いてくれた。許可を得た梓は陽太の近くまで寄った。そうして四人で陽太を取り囲む形になる。

「陽太」

 よだれを垂らしながら苦しそうに藻掻く陽太を見て梓がそう痛ましげに告げると、紅哉も同じような視線を陽太に送り、見ていられないとばかりに目を背けた。

「まぁ、捕獲は思いの外上手くいって良かったんだけど、どうしようか? とりあえず俺が連れて帰っておこうか? コウもこんな姿の弟君あんまり見たくないでしょ」

「……頼む」

「ん。まぁ、弟君の事はこれから考えるとして、もしどうにもなりそうになかったら弟君の始末は俺がつけるよ」

 昴のとんでもない発言に全員の視線が彼に集まった。昴はけろりとした顔で頷く。

「別にコウが絶対に殺さないといけないって話じゃないんだ。ただ実力的に一番無理がないのがコウってだけの話で、誰が手を下そうが最終的に処分できればいいんだよ。だから俺でも良いって事」

「お前が言いたいことも、俺を気遣ってくれてるのも分かるが、俺は……」

「まぁ、弟君の事はコウが自分でケリつけたいって気持ちも分かるけどな。でもまぁ、お前がふさぎ込むの見るのも俺的には辛いのよ。だから、もしもの時は、な?」

 昴は肩を叩いて紅哉に同意を促すが、紅哉は眉を寄せるばかりで首を縦に振ることはなかった。

「ま、じゃぁ、これも後で帰ってから考えるって事で。俺は弟君を先に連れて帰っておくよ。一応縛ってるし、銀製の檻に入れとくから逃げ出すことはないと思うけど、梓ちゃんは近づかないようにね」

「檻って、そんなものあったんですか?」

「あったんですよ。それが」

 梓が今まであの屋敷で暮らしていて、そんな物は見たことは無いのだが、あると言うならあるのだろう。なんの為にあるのかは聞かなかった。なぜなら、あそこは当初彼女を逃がさない為に用意された屋敷だったからだ。なんの為かは聞かなくても自ずと分かってくる。

 昴は、さて、と一息ついて陽太を持ち上げようと彼に手を伸ばす。そしてそのまま固まった。

「嘘だろ。おい……」

 その声に他三人も陽太に視線を向けて、次の瞬間飛び退いた。紅哉は梓を抱き上げるようにしてその場から距離をとる。

 荒々しく猛獣のように唸り声を上げている陽太はその体に巻かれた縄を自身の力で引きちぎろうとしていた。普通なら虚しい抵抗だけで終わるその行動で、陽太は本当に縄を引きちぎる一歩手前まで来ていたのだ。

 そして全員が飛び退いた瞬間、大きな力の奔流と共に陽太は縄を引きちぎる。荒々しい獣のような叫び声と共に彼は力を爆発させた。

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