第26話:無力

「陽太がFに堕ちた」

 梓の意識が浮上して最初に聞いた言葉はそれだった。

 意味を理解できないまま顔を声がした方向に向けると、見知った後姿達が何やら言い合いをしているのが見える。そしてその奥の鏡に映った人影に背筋が凍った。Fだ、と一瞬で理解できた。梓は一度森の中で襲われたことがあるので雰囲気はよく知っていた。鏡に映ったソレは紛れもなくその時のFと雰囲気が酷似している。そして先ほどの言葉を頭の中で反芻して、やっとその人物が誰であるのかを理解した。

「陽太…?」

 その声に紅哉は振り向き、月玄はごめんと一言呟いて飛び出していった。梓はゆっくりと身体を起こし、目の前の鏡に映る光景を指さした。

「紅哉さん……それ、もしかして陽太?」

「あぁ、たった今陽太がFに堕ちた」

 苦悶の表情で告げる紅哉に、梓は息をのむしかできなかった。その表情が今から彼が何をなすのかを物語っていて、二の句が継げない。

 紅哉がこの街でどういう役割を果たしているのかは梓だって理解していた。彼の仕事はかつて同族だったFを屠る事。相手の家族に恨まれ、泣き叫ばれることだってあるだろう事は想像に難くない。

 それでも誰かがしないといけない事。それを彼は今までやってきているのだ。だからきっと彼の弟だって、彼にとっては例外にはなりえない。

「行ってくる。お前はここで大人しくしていろ」

 頭を撫でる手は優しいのに、どこか強張った表情の紅哉の腕を取る。その手はわずかに震えているように思えて梓は泣きそうになりながら紅哉に叫んだ。

「行っちゃだめだよ! 行ったら、だって紅哉さん、陽太の事……」

「これが俺の役割だ。今までFに堕ちた同族を散々屠ってきておいて、親類縁者だけ特別というわけにはいかない」

「だって、陽太君は紅哉さんの弟だよ!」

「……だからだ。他の奴にやらせるわけにはいかないだろう。それにこのまま野放しにしておいて人を襲う事の方が陽太は望まない」

 硬い声色はどこか自分に言い聞かせているようで、薄氷の上に立つ決意なのだろうと梓にも見て取れた。もうひと押しで紅哉は考え直してくれるのかもしれない。ならばと言い募ろうとして、その声に遮られた。

「紅哉。こんなところに居たのか」

「……当主」

 保健室の扉の前に居たのは紅哉と同じ黒髪の男。前に一度だけ会った事もあるし、この街に居るのなら噂はいくらでも聞く紅哉の父親。赤の当主、百目鬼丹が紅哉に歩み寄った。

「弟の所へ来ていたら陽太が急変したと如月家から報告があった。お前は把握しているか?」

 弟というのはこの学校の校長の事だろう。たまたま学校に来ていて報告を受けたらしい。紅哉は丹から視線を逸らすと、唸るような声で言った。

「……陽太はFに堕ちた」

「そうか。……ならば紅哉、お前がするべきことはわかっているな?」

「あぁ」

「紅哉さんっ!」

 悲鳴を上げるように叫ぶが、紅哉はもう耳を貸してはくれない。務めて冷静な表情で丹に状況を説明していた。

「対象は現在こちらに向かっている。街中では危ないから校庭を借りたい。許可を」

「わかった。私の権限で許可しよう。生徒たちはすぐに帰らせるか?」

「いや、途中で対象に会う方がまずい。校舎内から出ないように通達をしといてくれ。あとは俺が何とかする」

「話を通しておこう。念のため不知火家の兄妹には連絡をしといたからすぐに来ると思う」

「……あぁ」

 先ほどまで“陽太”と呼んでいた人を急に“対象”と置き換えて話すのは、きっと紅哉の決意の表れと、どうしようもない心痛からだろう。

 一通り話し終えるまで梓は口を噤むしかなく、保健室を出る紅哉の後姿に声をかけることもできなかった。


「梓さん、君もみんなと一緒に校舎の方へ行ってなさい。紅哉の事だからすぐにかたを付けると思うけど、危険だから近づいたらいけないよ」

 紅哉が去ったあと、柔和な表情を浮かべて丹がそう言った。その何とも思っていないような顔に梓は非難の声を上げる。

「丹さんは何とも思わなんですか? 殺すのも殺されるのも自分の息子なんでしょう!?」

「……何とも思わないと本気で思っているかい? 私だって悲しい。けど、誰かがしないといけないんだ。仕方ないだろう? 陽太もあんな化け物に成り下がって誰かを傷つけるより、慕っていた兄に殺される方が良いはずだ」

「そうかもしれないけど! 紅哉さんだってあんなに慕ってくれてた弟を殺したくなんてないはずです! それに、こんな衆目が集まる中で紅哉さんがまた兄弟を殺したりしたら、紅哉さん、きっとまた酷い扱いを受けると思うんです! 何とかならないんですか!」

「何とかなるのなら、もうとっくに何とかしてるさ」

 その声は少し怒ってるように聞こえて梓は肩を強張らせる。柔和な表情はそのままに丹は話を続けた。

「それに、他の人に頼んだら頼んだで、紅哉はそれを良しとはしないだろう。あんなに仲の良かった弟だから自分で最後は始末をつけたいはずだ。私にはわかるよ。アイツがあの役目を引き継ぐまで、あの役目は私が担っていたのだから……」

「丹さんが……?」

「そうだよ。そして私はFに堕ちた私の妻をその手で殺した」

「――っ!」

 とんでもない告白に梓が思わず息をのむと、また丹は優しく笑った。

「もう過去の事だよ。でもわかっただろう? よそ者の君が口出しできる話じゃないんだ。君は大人しく校舎に隠れていなさい。先ほど眷属を放った。もうすぐ危ないからみんな屋上に集まるようにと放送があるはずだ。一階や二階はとばっちりが飛んで来たらいけないからね」

 その言葉の後にすぐその内容と同じ放送がかかる。ただ、なぜ屋上に避難するのかは何も告げられていなかったけれど。


「君は何もできない。恨むなら君自身の無力さを恨むことだ」


 最後にそう告げる丹の顔はやはり少し微笑みを湛えていた。



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