第17話:昴が行く
突然訪れた月玄の野郎との休戦協定も見事締結し(実際は情報交換の約束な上に口約束なので、こちらとしては警戒を怠るつもりはないのだが)、不知火家で任されている仕事も一段落したその日、俺は久々に梓ちゃんの居る屋敷に顔を出した。梓ちゃんが紅哉の部屋にお泊りする事件があった日から来てないので、もう結構な日数が経っている気がする。
屋敷に泊まり込んでいる壱に早く会いたかったので、訪れたのは結構な早朝だった。時刻は五時半。屋敷の鍵を回し、ゆっくりと扉を開ける。流石にまだ誰も起きてないだろうと高を括っていたのだが、予想は良い方向へ裏切られた。
開けたロビーの奥に見える廊下、そこに彼女が居た。いつもきっちり結わえてある髪が揺れているのは少し早歩きをしているからだろう。早朝なのに背筋がピンと伸びている様はいつだって見惚れる。
その姿を見止めて俺は思わず声をかけていた。
「
そう呼びかければ、一つに纏めた黒髪をたなびかせて、彼女が振り返った。手に持っているのは卵か? そして、なぜエプロン姿?
「昴? 本名で呼ばないでくださいと何度も言ってるはずじゃないですか」
「悪い、悪い。でも今は二人っきりみたいなんだし、いいじゃないか。今日も可愛いね」
にっこりとそう笑うと、最愛の彼女は仕方ない人だ、と笑い返す。
かわいい。いつも大人びてる彼女なのに笑うと少し幼く見えるのがまたいい。
「まぁ、そうですが、
義妹であることが本当に悔やまれる。
俺、不知火 昴は
それこそ、俺が不知火家に来ることになった日から…。
「壱、今日は早いね。それとも、最近はいつもこの時間なの?」
彼女に嘘はつきたくないので、本命云々をはぐらかしてそう聞いた。手に持った卵も気になる。
「そうですね。最近は梓と一緒に朝食を作ってるので、大体このぐらいの時間です」
「壱が?」
「昴、失礼ですね。今、私に料理はできないと考えたでしょう? まぁ、あってますが、最近はまだまともになったと思いますよ。梓の教え方が上手いんです」
「いいね。いい奥さんになれそうだ。今度俺の朝食も作ってもらおうかな?」
「昴にだったらいつでも作りますよ。あ、今日も食べていきますか? 今なら人数増えても大丈夫だと思いますよ」
嬉々としてそう言ってくれるので、お願いするよ、と笑うと、壱は嬉しそうに踵を返した。
その後ろ姿についていく。エプロン姿の壱も可愛いなぁ、と呑気な事を考えていた俺の目の前に、突然その光景は現れた。
親友があーんされている。
突然の事に思考が固まった。扉を開けた先の厨房で、梓ちゃんがコウにあーんしていた。あーんというのはあれだ。食べさせあいこの事だ。この場合は一方的なので、あいこ、ではないのだろうが、身を屈めたコウが梓ちゃんの手から焼き菓子のようなものをぱくりと食べたところで本人と目が合った。今指先まで食べなかったか?
「おはようございます」
衝撃で思わず敬語になった。
コウはいつもの仏頂面のまま、来たのか、と一言だけ発した。なぜそんなに驚かれているのかわからないといった具合にも見える。
「梓っ!」
今の光景を見て堪らず壱が注意をした。
「それは食後のデザートでしょう? あんまり紅哉さんにあげてると前みたいに無くなりますよ!」
「大丈夫! 最近では紅哉さん用に多めに作ってるの」
「そうなんですか? 紅哉さんもつまみ食いばかりしてないで手伝うか、手伝わないなら昴のところに行っておいてください!」
斜め上の注意だった。そうか、“前”って事は何回かこの光景は繰り返されてるってことで…
そこまで考えて、また思考が止まった。コウが梓ちゃんにそっと耳打ちをしたのだ。
『コ ン バ ン イ イ カ ?』
はいアウトー!
梓ちゃんも恥ずかしそうに頷いて了承しているし、もうこれは何かあった! 絶対何かあった! どうしよう二人が一線超えてたら! どうしようもないけど!
壱に促されるままこちらに来たコウの胸ぐらをつかむ。別に喧嘩を売りたいわけじゃなかったのだが、目撃したものの衝撃で自然とそうなった。
「お話があります」
「は?」
「俺の部屋に行こう。たまには親友らしく語り合おう」
「何を? 此処で言えばいい」
「ここはちょーとダメかなぁ!」
有無を言わさずコウを引っ張り、自室に連れ込んだ。納得のいっていない顔をしているコウをソファーに座らせる。そして、少し、声を潜めるようにしてこう切り出した。
「何があったの?」
「意味が分からない。わかるように話せ」
「梓ちゃんと何があったんですか?」
「……」
「……」
「……何もない」
「そこは即答しよう! 嘘つくのが下手ってレベルじゃないから! 何アレ、お前があーんされてるとか白昼夢かと思ったわ! 『コンバンイイカ?』って、今晩何するつもりだお前! まさか一線超えてないだろうなぁ!」
「お前が心配することは何もない」
「信じるぞ! 信じていいんだな! 確かに前、冗談で『恋か?』とか聞いちゃったけど、そういう感情はないって思っててもいいんだよなぁ!」
「…………ない」
「即答してくれよ! 嘘が苦手か!」
ぜぇぜぇと肩で息をして、俺はソファーに深く腰掛けた。なんとなく、内容はつかめた…気がする。
つまりあれだ、恋らしい。やっぱりな、としか思えない。
遅かれ早かれこうなるような気がしてた俺としては、幸せになってくれと願うばかりだ。幸せを手放すことばかりうまい奴だ。幸せになってくれるなら、幸せになりたいと願えるなら、それは俺にとっても嬉しい事だった。
「んで、耳打ちの意味は?」
「……」
「答えないなら、本気で夜這いって意味でとるからな!」
「……」
「おーい」
「…血をもらってる」
「へ?」
「だから、血をもらってると言ったんだ」
苛立ったようにそう言われて、やっと意味を理解した。そして、思わず出た最初の一言が
「よかったな」
だった。
友人になってしばらく経ったころ、聞いたことがある。『なぜ血を飲まないのか?』と。コウは苦笑いしながら『飲めないんだ』と言った。それから、少し過去の話をし、最後には『定期的に襲われる渇きに何年と耐えてたら、もう渇く事さえ無くなった』と笑った。
それは、死期を早める行為だ。本能的にわかる。吸血鬼が血を飲まないなんて自殺行為もいいところだ。
誰よりも強くて、誰からも恐れられる彼は、きっと誰よりも長いはずの寿命を食いつぶしている。それを本人も受け入れている様で『早く死ぬならそれもいい』と笑っていた。
手放してもいないが、執着してもいない。そんな生の在り様に、コウを殴りつけたのは一度や二度じゃない。怒鳴りつけようが、殴ろうが、それは変わらなかった。『飲めないから仕方ない』の一言で済まされる悔しさを何度も味わった。
月玄との戦いの後、梓ちゃんの血を飲んだと聞いた時に考えたのは、彼女をコウの契約者にするという事だった。勿論、護衛のしやすさから誰かの契約者になってもらおうとは思っていたのだが、心の中でなんとなくコウは除外していた。しかし実際に飲んだとなれば、話は別だ。彼女にも匂わすように発言をして、契約は成った。しかし、コウは結局血を飲むという選択はしなかった。
俺もその姿を見て、ようやく本気で諦めた。無理強いはできない。
コウが生に執着できるほど、彼の人生は優しくなかったという事なのだろう。
そう諦めた矢先にこれだ。これなのだ。
思わずコウの頭を殴りつける。いつも彼が自分にしてるみたいにそうすれば、どこか不満げな顔で、痛い、と唸った。
「よかったな」
「……あぁ」
小さくうなずく頭をぐりぐりと撫でつけて、そして、はたと気付いた。
「お前、暴走しないんだな? 梓ちゃんの血を最初に飲んだ時暴走しただろう? ちゃんと加減して飲んでるって事か?」
そう問えば緩くコウは首を振る
「多分、今のアイツの血で暴走することはない。あの時飲んだ血とは全くの別物だ」
「別物って、じゃぁ研究所にあった別の奴の血を飲んだって事か?」
「違う。月玄と戦った時とも違う感じがした。味は変わらないが性質が違うって感じだ」
「状況と場合によって性質が違うって事? それはちょっととてつもない話になってきたね。流石真祖の血って感じだ」
「昴、わかってると思うが…」
「わかってるよ、報告はしない。今第三勢力として一番有力なのが上層部の貴族だ。下手な真似はしない」
それを聞いてコウが胸を撫でおろしたのは、多分梓ちゃんの事があるからだろう。彼女が危険な目に会う確率を極度に減らそうとしているのが見て取れて、少し意地悪したい気持ちになる。
「じゃぁ、今度は恋バナしようか、コウ?」
そう笑うと、心底嫌そうな顔で殴られた。
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