第16話:所有の証

 ピリピリとした雰囲気から一転、梓に訪れたのは穏やかなお茶の時間だった。

 円卓に着いているのは陽太と梓の二人だけで、彼女が作ってきたチーズケーキに二人は舌鼓を打っていた。ちなみに残りのメンバーは秘密の作戦会議があるらしく、陽太の屋敷の誰も使っていない部屋に籠っているらしい。嫌々ながらも付いていった月玄の事を思い出し、このまま仲良くなれればいいなと本気で思った。最初の出会いこそ最悪だったが、クラスメイトとして接する彼は本当に優しくて、親切で、少しお調子者だ。そんな彼を無視し続けるのは相当気苦労が居る作業だった。最近では無視する度に悪いことをしている気分になり、自己嫌悪に陥る毎日だったのだ。

 流石にいきなり仲がいい友達になれる気はしないが、単なるクラスメイトとしてなら十分なれそうだった。


「そういえば、斉藤さん、首どうしたの? 怪我?」

 陽太が梓の首にあるガーゼを指しながらそう質問した。手のひら大のガーゼはそれなりに大きい。シャツでうまく首元を隠せてはいるが、どうしてもその存在感に陽太は目を止めたようだ。

 梓はその質問に少し顔を赤くして、目を泳がせた。

「別に吸血鬼の皆さんには普通なんだから隠す必要は無いって思ったんだけど、私がなんか恥ずかしいし、一応ね。……紅哉さん痕消し忘れちゃったみたいで」

「痕?」

「痕」

「え? 噛んだ痕?」

「あ、はい」

 驚愕の表情で固まってる陽太に梓は首を傾げた。吸血鬼の間で、吸血行動は別に恥ずかしい事でも何でもないと梓は記憶していた。しかし、見る見るうちに陽太の顔は赤くなっていく。

「陽太?」

「もう何から言ったらいいのかわからないけど、兄さんがムッツリなんだってことは理解できた。弟として謝っておきます。ごめんなさい」

「え?」

「兄さんが長らく血を吸ってないことは知ってたけど、最低限のルールは守ってよねー。なんで弟にこんなこと謝らせるんだよー。でも、百パーセント確信犯だってわかってるあたりが一番辛い。それで、その意味を斉藤さんが絶対分からないって、わかっててその行動に移ってるのが恥ずかしい。そもそも兄さんいつの間に血飲むようにになってるのー」

「んん? 吸血って別にみんなしてるよね? 恥ずかしい事じゃないよね?」

 頭を抱えてしまった陽太に梓は狼狽える。吸血はこの種族の人たちの間では恥ずかしくもない、単なる食事だ。なのになんでそんなに顔を赤くしているのかよくわからない。

「斉藤さん」

「はい」

「確かに、吸血行為自体は別に恥ずかしい事でも何でもないです。問題はその痕を残したままって事です」

「何か問題でも…?」

「それは所謂『所有印』ってやつで、『これは自分のだから手を出すな』って意味で…。もうやだ。何言ってるの僕!」

「所有…印?」

「正式に決まってるわけじゃないけど、暗黙の了解みたいな感じ。キスマークと意味は一緒だよ」

「へ? きききききキスマーク!?」

 その一言で茹で上がった蛸のように真っ赤になった梓に、慌てて陽太はフォローに入る。

「あぁ、でも兄さんは久々に血とか飲むし、たまたま消し忘れたんじゃないのかなぁ!」

(十中八九、確信犯だと思うけど…)

「そ、そうなのか。びっくりした! じゃぁ、紅哉さんに消してもらわないとね!」

「そうだねー」

(信じるんだー)

 熱くなったのか手のひらで顔を仰ぐようにしている梓を見ながら、陽太はだんだん呆れ顔になってくる。呆れてるのは目の前の梓にではなく、今この場に居ない自分の腹違いの兄に対してだ。

 どこか誰に対しても一線を画する態度の兄だ。出会った時も、割とコミュニケーションを取るように今も、彼の心に触れたと思える時はなかった。しかし、今こんな形で兄の心に触れる日がこようとは…。

 その痕があるだろう場所を見て、彼女が大切なんだな、と思うのと同時に、それを彼女に悟らせないようにしている様に呆れた。どうして幸せになろうと思わないのだろうか。彼女の態度を見れば、彼女も兄の事を憎からず思っているのは明白なのに、手を出せる距離にある気持ちに手を出さないのは贅沢な選択のような気がしてならなかった。

(僕は手を伸ばしても届かない気持ちに、必死に手を伸ばしているっていうのに…)

 思い出すのは凛としたたたずまいの壱の姿。彼女の事を想っていても、隣に並ぶのはいつもあの昴とかいう男だ。今日だって招待したのは壱の方だけだったのに、何の了解もなくついてきたあの男を何度返そうと思ったことか。しかしそれをすると、結局彼女にも逃げられてしまう。なのでいつもしょうがなく了承してしまうのだ。

 そうして落ち込みかけた思考をかぶりを振って元に戻す。

 改めて、梓の方を見てみると、おいしそうにケーキをほおばっていた。どうやら彼女の中であの“所有印”は、単なる消し忘れで処理されたらしい。

「ねぇ、斉藤さん。その痕、ちょっと見せてもらってもいい?」

「え? いいけど、別に面白くもなんともないよ?」

 梓は何の躊躇いもなく、べりっとそのガーゼを外した。そしてそれを見た陽太は再び固まった。そして片手で顔を押さえて、『兄さんは馬鹿だ』と赤い顔で唸る。

「どうしたの?」

「いや、何でもないけど。兄さんも忘れてるだろうし、その痕は自然に消えるのを待った方が良いんじゃない? あと、もしそれ消してもらっても、ガーゼはしばらく取らない方が良いんじゃないかな?」

「え? なんで?」

「…なんでって…罠が二段構えだったから?」

「へ?」

「なんでも! とりあえず一週間はガーゼ有りで過ごした方が良い。傷を消してもらってもね。お願い!」

「う、うん」

 しぶしぶ頷く梓にほっと胸を撫でおろす陽太。そして先ほど見た光景を思い出す。

 梓が取ったガーゼの下には二つの穴のような傷跡。その下には、赤いくっきりとした、それこそ本当にキスマークが残っていた。多分、梓が紅哉に傷を治せと言ってきても、傷は治してキスマークはきっとそのままだ。見るからに男性経験がなさそうな彼女はきっとその赤い痕をキスマークだと認識できてない。そしてそれを紅哉もわかってる。なんとしても自分のものだという証を付けたい思いと、それでも彼女に何も言わない様がなんだか悲しく思えた。

 それはまるで手に入らないと最初から諦めている様だった。

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